祝島で生まれ11歳まで育った私は、母が亡くなり 『昭和35年』 12歳で再婚した親父に引き取られ仕事先の対馬で3年間を暮らし16歳で兄を頼り東京に来て現在に至っているが、時折母が6歳上の姉に裁縫を教えながら竹の物差しで何か言いながら手の甲を叩いていた、ある時は光明寺に習いに行ってた生け花の練習でも母は姉の手を物差しで叩いていた、先日久しぶりに入院している姉の見舞いに兄と行き暫く話をしていると祝島に帰ってみたいと少し痴呆と思われる姉が泣きながら言った、可能ならば何とかして最後であろう希望をかなえてやりたいと思い兄と新葛西駅前で昼食をとりながら母が姉の手の甲を物差しで叩いていた話や家庭のら、貧しかったが何とか今日まで生きてきた人生と41歳で逝った母の思い出話で店を出て双方の電車に乗った、家につきビールを飲みながら物差しといえば、もしかして人はそれぞれの物差しを持って生きているのかも、この世には物差しの種類はどれだけあるのかと思いつつ眠りにつき夢を見た!私の物差しは着物姿の母が姉の甲を叩いていた竹で出来た物差しだ、人間はそれぞれの生い立ちの物差しを持って生きている、必ずしも同じ長さや?

面積?にはならない!だからもめ事が起きる”    上関原子力発電立地も当初のボタンの掛け違いではなく関係者の物差しの違いから来てるのでは”

 

そういえばもう直ぐ母の命日、私の物差しは紛れもなく母から受け継いだ物差しだ。

 

 

追伸: 昨日のアクセスが480 (@ ̄Д ̄@;) ビックリ 目  以前は受け付けていたコメントを再開してほしいとの電話が

     3件あり1人の方とは長い時間話し合った、やはり原発問題に絡む話が気になるようだった。