近くにいても 遠いなあ。おとうちゃん? | るるる de スピ・コチ!

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魔法のスピリチュアルコーチング

今日は父の祥月命日。




四天王寺に回向に行ってきました。

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あの日と同じ。


突き抜けるような晴れた青空。

咲き誇る桜。

暖かい日。


逝ったあの日と、

次の日に冷たくなっていたオヤジさんと対面した日を思い出します。

 

わたしは、魂はあると思っています。


どんな状態であろうとも
もう肉体はなくとも

おとうちゃんは、必ず居ると思ってます。



成仏できてないとか

わたしが引き止めいるとか


そんなんじゃないんです。


ただ…呼べば、いる。


それだけ。

逆に肉体という膜があるときは、
おとうちゃんにも感情や、カルマや、思考があって、

近くにいないと思っていただけ。


肉体がなくなった今は、ここにいる。


 
でもね。

やっぱり、声が聞きたいし、

話したいし、

怒りたいし、

笑いたいね。


わたしが肉体の中にいるかぎり…

おとうちゃんの魂とは隔たりがあるように感じてしまうもん。


四天王寺で観音様の前で手を合わし、

わたしや、妹たちや、オカンや、わたしの大切な人とかの報告をします。


しなくてもわかってるだろうけど、やっぱりします。


それは…


自分への区切りです。

 
わたしが死ぬまでわからない、
向こうにいる(と感じている)おとうちゃんへの会話を

観音様という大きな大きなメッセンジャー…というか、
向こうへの扉…というか…

扉の前で、報告すれば、声が少しでも届いていくような氣がして。


家のオヤジの遺影のまえでだってできるんだけど、

大きな扉を見守ってくれる存在を前にして伝える言葉は…

もっといつもより大きくおとうちゃんに届くような氣がするから…


わたしが生きてるのも、おとうちゃんのおかげ。


区切りをつけて話したいとき。
命日関係なく四天王寺に行くわたし。


今日は

おとうちゃんが心配してくれました。


『痛い思いさせてスマンカッタ』と。


この首の痛みのこと?



それなら大丈夫。

ちゃんと治るから。



そんな会話してきました。


生きているときに話せていないことが
なぜか今なら話せるし、
今ならおとうちゃんは答えてくれる。


でも、やっぱり。


生きてて欲しかった。

…な。


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