カオナシとはどういった存在なのか。カオナシの正体とは何か、どういったものを象徴するのか。まずこの問いの立て方がまちがっている。

 

 

●何かの象徴ではない

 

よくある解釈では、カオナシは「欲望」を象徴するものだとか、匿名性ゆえの欲望の暴走が生じているだとか、あるいは、承認欲求がどうのとか、これらをひっくるめて「人間」を象徴するものだとか言われる。こうした解釈は、時代を先取りしすぎていることを抜きにしても、疑わしい。なぜか?

 

終盤では、カオナシが糸車で糸をつむぐシーンがある。カオナシはたぶん出て行けといわれないかぎり、ずっとあそこにいて、平気で糸車を回し続けるのではないか。退屈極まりないしごとでも、何百年も平気でやっていそうな気がする。もしカオナシが上記の人間的存在だとすれば、きっと耐えられないだろう。嫌になって自分から出ていくはずである。でも、カオナシにはそういうことがなさそうな気がしないだろうか?

 

じゃあ、なぜカオナシは物語の中盤で傍若無人な怪物に変化したのか。カオナシがもともと持っていた(内に秘めていた、押し殺していた)欲望が発露・暴走したものだと、通常考えられている。しかし、カオナシがもともと(デフォルトで)持っている性質などというものは、たぶん何もありはしないのである。

 

●デフォルトでは「空欄」の存在

 

カオナシが暴走したのは、周囲(従業員)が、かれを殿様扱いをしたからではないのか。カエルを吞み込んだことが契機となっているとしても、それは暴走の根拠ではない。周囲が「お客様は神様」的精神でわっしょいわっしょいみこしを担いだから、実際わがままな殿様のようになってしまったのである。周囲がそのように扱うから、そのようになった。そのように見られているから、その役を演じる。これは人間でも多かれ少なかれあることだけど、カオナシはそれが極端というか、カオナシにはそれしかない。

 

※ペルソナ(仮面)という概念は、顔があることを前提する。カオナシには仮面しかない。顔がないのであるから、それは「仮」面ではなく、実体なのである。

 

どういうものとして見るかによって、どうであるかが規定される存在が、カオナシであるといってよい。カオナシは、それ自体としては無規定な(無色透明な)存在である。カオナシには自我がない。(いや、正確には自我はあるのだが、)自我の性質がデフォルトでは空欄になっていると言うのが正しい。自我だけでなく、あらゆる性質が空欄、未設定なのである。カオナシがいかなる存在か、いかなる性質を持つかは、周囲がかれにいかなる情報を書き込むかにかかっている。

 

怖い人だなと思えば、実際怖い人になり、優しい人だと思えば、実際優しい人になる。この場合、「実はあまり怖くなかった」とかいうことはありえない。「実は…」は、認識と存在のズレを前提する。「実は」が指し示すのは、存在である。存在する性質が無いのが、無規定な存在の意味である。(ただし、「実はあまり怖くないんじゃないかと思えば、実はあまり怖くない。」ということはありうる。この場合の「実は」は、存在を指し示していない。)

 

そう思えば、そうなのである。そう「思う」ことが、そう「である」ことを規定する。この認識と存在、ノエシスとノエマの現象学的な同一性が、カオナシの本質である。そして、このカオナシ的構造は、実は『千と千尋』という物語の登場人物全般に見られる。さらに言えば、後期宮崎駿の特徴をなすものと見られる。

 

これがなぜそうなのかは、さらなる議論を必要とする。簡単に言えば、ノエシスとノエマの交差というカオナシ的構造は、ファンタジー的存在の本質をなすものなのである。fin.