『千と千尋の神隠し』は、千尋の家出物語である。

 

もちろん実際に家出するわけではない。千尋はそんな度胸がある子供ではない。しかし、物語のモチーフとしては、『些細なことで家出した子供が、神隠しにあったように、ひと月も行方が分からなかった。その後、何事もなかったようにひょっこり戻ってきた。』というのが、原型である。

 

忙しい方々のために、最初にその根拠を挙げておくと、暴走したカオナシを千がいさめるシーンで、次のようなセリフがある。

 

「あなたはどこから来たの?私すぐ行かなきゃならないとこがあるの。あなたは来た所へ帰ったほうがいいよ。私が欲しいものはあなたには絶対出せない。お家はどこなの?お父さんやお母さんいるんでしょう?」

 

全体としては、まるで大人が家出した子供に家に帰るようにさとすかのような言い方である。確認するが、これは千がカオナシに言ったセリフだ。まずもって、カオナシに帰る家があるとは思えないし、「お父さんやお母さんいるんでしょう?」と問いかけるのも、明らかに変である。これは千尋が無意識に自分に向かって言ったことばなのである。

 

※そのようなものとして見ると「私が欲しいものはあなたには絶対出せない」というセリフだけ浮いてしまうのがわかる。カオナシが千に「何が欲しいか」と問うシーンなのであるから、カオナシに向かって言うセリフは、本来これだけでよかったのである。

 

カオナシは千の問いかけに「イヤだ…イヤだ…。寂しい…寂しい…」と答える。寂しいなら家に帰ればいいじゃないかと首をかしげる人は、このやりとりの意味がまったくわかっていない。そもそもなぜ家出をしたのかと言えば、それは家に居場所がないと思っているからなのである。

 

つまり、カオナシに向かって言っているように見えて、実は自分自身に向かって、「もう家出をやめて家に帰ったら?」とさとしているシーンなのである。そして、それに「いやだ、いやだ」と駄々をこねるのも、千尋自身である。千尋の内面の葛藤を、カオナシという無色透明な存在を介して表出しているのである。

 

ここまで書いたことを読んで、何の話か?と思う人は、物語の冒頭、車の後部座席で、友達からの手紙を抱いてふてくされている千尋を思い浮かべて見られたい。親は、自分の都合ばっかりで、わたしの気持ちなんて考えてくれないと、千尋は思っている。かなりわかりやすい描写だ。両親、とくに母親の態度は、誇張しすぎなほど冷たく描かれている。

 

『千と千尋の神隠し』とは、少女の家出物語の変形であり、自分のことを顧みない両親への不満の、たいへんわかりにくい表出である。それは、神の助けを得て行われる。つまり、現実には家出をするほど勇気のない少女に、神がこっそり手助けをして、幻想世界で少女を両親から引き離すことで、両親に懲罰を与え、家出の代用としているのである。

 

わかりやすく言えば、『となりのトトロ』と同じで、神が少女の願いを叶えるという物語なのである。

 

※千尋の成長物語にも見えるが、人間として成長することが千尋の願いなのではない。だから、物語の最後に、両親と再会し元の世界に戻るときには、千尋は母親にくっついて、最初に来た時とまるで同じような姿になる。

 

深読みすれば、娘が家出しているあいだ、両親はどうしていたかというと、豚になっていたという皮肉がある。あるいは、もともと両親は豚だと娘は思っており、家出することで、かれらを人間に戻そうとしているのだともとれる。いずれも強烈な皮肉であって、子供を顧みない親への、子供の側からの反逆なのである。

 

 

●神隠しをおこなった神

 

以上が解釈のアウトラインである。これを物語に沿うかたちで順を追って解説するとなると文量が膨大になってしまうため、ここでは行わない。代わりに、『千と千尋』における(というより宮崎アニメにおける)神の性格を考えることで、いくらか納得いくようにしたい。

 

※なお、有名な説として「ハク=千尋の兄」説がある。これは、一見したところもっともらしいが、実はかなり疑わしい。ここではその疑問を展開することはしないが、ジブリにまつわる都市伝説の類は、すぐに誰かを死んだことにしたがる悪い傾向があり、ハクの説もその例に漏れない。

 

そもそもタイトルにある「神隠し」であるが、『千と千尋』をめぐってたぶんほとんどの解説者が、この神隠しを行った、肝心の神とその性格というものを考えることを忘れている。

 

神域に自動車で入り込む罰当たりな行為が、端緒となっているのにはちがいないが、それによる神罰が、千尋たちをめぐる超常現象の本質だとする見方は、短絡的すぎる。だって両親は神様のお供え物を食べたじゃないかと言われるかもしれないが、その行動自体がもうすでに異常なのである。何かに憑かれているように見える。

 

さらに、ハクによると、この世界の食べ物を食べないと消えてしまうという(ハクは千尋が消えるのが分かっていて、丸薬を持ってきた。)とすると、千尋たちは、食べたら豚になるし、食べなければ消えてしまう運命だったということだ。どっちに転んでも、人生終了である。いかに神域に土足で立ち入ったとはいえ、これは罰としては重すぎる気がする。

 

神様ってそんなに心が狭かったっけ?と思う。ましてや、宮崎駿の描く神様は、

 


これですよ?

 

子供を守り、子供の望みをかなえる神こそ、宮崎駿アニメにはふさわしい。

 

※筆者の考えでは、この神隠しを行った神は、物語には登場しない。極端な話、湯屋とか湯婆婆とか、超自然的世界じたいが、ひとりの神が見せた幻想という解釈も成り立つ。

要するに、物語の核は、神罰ではないということが言いたいのである。千尋の神隠しは、罰というネガティブなものではなくて、まったく逆の性質をもったものだ。それは千尋の願いを叶えることである。そして、その実現が、まったく無害な仕方での家出であるということは、すでに述べたとおりである。

 

『千と千尋の神隠し』は、家出したいという少女の望みを、行きずりの神が、こっそりと、それとわからない仕方で叶えてやるという物語である。人知を超えた神の所業というべきか。千尋は異世界で千という別の人物となって、観客を巻き込んで「神隠し」にあい、観客とともに、千尋を取りまく現実から、一時目を背けるのである。fin.