【多々羅の口伝】~鳴門を渡る仕組み 《癒奏術・多々羅》 | 生命の「ゆらぎ」を癒す ~神人一致の癒奏術・Yuragi Therapy

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ボディセラピスト、ヒーラー、アロマブレンダーとして目指すヒューマンセラピーメソッド。
それが癒奏術・Yuragi Therapyです。
そして新たに備わった【龍を授ける】力で、多くの人を幸せに導きたいと思います。




最近は国常立の神さまが現れると、後々「頭痛」がする。

心身の歪みが修正(矯正)されるからだろうと思う。





ひふみ神示 五十黙示録 五葉之巻 第二帖

霊界に方位はない、人民は東西南北と申してゐるなれど、今に東の東が現れてくるぞ。霊界では光のさす方が北ぢゃ、その他の東西南北は皆南ぢゃ、北が元ぢゃ、北(基田)よくなるぞと申してあろうがな。鳴門の渦巻を渡る時はカヂをはなして、手放しで流れに任せると渡れるのであるぞ、カヂをとると同じ処をグルグルぢゃ。カヂをはなせる人民少ないのう。何んでも彼んでもカヂをとって自分の思ふ通りに舟を進めようとするから大変が起るのぢゃ、渦にまかせる時はまかさなければならんぞ、ナルトの仕組の一面であるぞ、大切ごとぞ。 





【癒奏術・多々羅】で槌打つ劔の柱は、鳴門の渦を渡るために必要な「柱」である。

帆を掲げ神風に乗り、悠々と手放しで【鳴門の渦】を渡ってゆく・・・

その微細な感覚は、直接の『口伝』でしか伝えられない。

理解を誤れば明後日の方へと向かうからである。


そのために様々な『武道』を学び直し、中でも「空手」の型まで実践することになったわけであるが・・・・





「魂の望み」というものを、ほとんどの人が履き違え、身欲を魂の望みへと転化して、それを追いかけてゆく。

だがそれは結局のところ『借銭』しているのである。

思い通りに「望み」が叶った・・・・

だがそれは『借銭』なのである。


誰が『貸して』いるのか?

それもわからないだろう。



『借銭』である限り、気付いて方向習性しようとしても、『借銭済まし』をしてからでないと戻れない。

それは『借銭』を始めた最初に戻って、そこから始めなければならないということである。

そんなことになっては大変である。



『望む方へ進む』

安易にこの言葉が多用され、ゆえに『魂の望み』とは正反対の方、明後日の方へと進んでゆく。

そして『望みが叶った』から『引き寄せた』となって有頂天になる。


だがそれが『借銭』であるかもしれない・・・ということである。



『魂の望み』

それを本当に掴めているのか?

その望みは本当に『魂の望み』なのか?



『魂の望み』を知るすべも知らぬままではないのか?


そもそも『魂』とは?

本当にわかっているのか?



言葉ばかりが先走りして、目闇めっぽうに突き進み、『借銭』をしていることに気付かずに、教える方も教えられる方も「知らないまま」雰囲気だけで突き進む危うさ。


人は得てして都合よく言葉を屁理屈で捻じ曲げる。

だから、言葉だけ伝えても「拾いたい言葉」だけを拾い、都合よく理屈されてはたまらない。

ゆえに『口伝』でしか教えられない。


『魂の望み』という言葉を言われて、では実際にその『望み』を知るすべは如何に?


その一番重要な、肝心要の部分を知らないままではないか?

それがどれほど「危うい」ことかも知らないだろう。




【魂】というものを、そして『魂の望み』というものをしっかりと掴めば、これから迎える「鳴門の大渦」を、手放しで神風に乗り渡ることが出来る。

身欲ではけっして渡れない。

『魂』が進むべく進む道でなければ、神風は作用しないのである。



時が時である。

『借銭』させるわけにはいかないのである。


それゆえの国常立の神さまの「直々のお達し」なのである。





ひふみ神示 地(九二)つ巻 第八帖

祓ひせよと申してあることは何もかも借銭なしにする事ぞ。借銭なしとはめぐりなくすることぞ、昔からの借銭は誰にもあるのざぞ、それはらってしまふまでは誰によらず苦しむのぞ、人ばかりでないぞ、家ばかりでないぞ、国には国の借銭あるぞ。世界中借銭なし、何しても大望であるぞ。今度の世界中の戦は世界の借銭なしぞ、世界の大祓ひぞ、神主お祓ひの祝詞あげても何にもならんぞ、お祓ひ祝詞は宣るのぞ、今の神主 宣ってないぞ、口先ばかりぞ、祝詞も抜けてゐるぞ。あなはち、しきまきや、くにつ罪、みな抜けて読んでゐるではないか、臣民の心にはきたなく映るであろうが、それは心の鏡くもってゐるからぞ。悪や学にだまされて肝心の祝詞まで骨抜きにしてゐるでないか、これでは世界はきよまらんぞ。祝詞はよむものではないぞ、神前で読めばそれでよいと思うてゐるが、それだけでは何にもならんぞ。宣るのざぞ、いのるのざぞ、なりきるのざぞ、とけきるのざぞ、神主ばかりでないぞ、皆心得ておけよ、神のことは神主に、仏は坊主にと申してゐること根本の大間違ひぞ。




大祓いの祝詞をしっかりと肝に入れてあれば、今が「天津罪」「国津罪」が湧き出しているということが手に取るようにわかる。

そして、自分の心にも沸き立つ様がわかり、即座に「掃除洗濯」出来るのである。




そもそも『神』や『霊』について大方の人は勘違いしている。

それは様々な『メディア(本・テレビ・映画)』による刷り込みで入れられた「誤解」が元となっている。

その「誤解」の檻の中でいくらもがいても、何も変わらないのである。


様々な「誤解」の中で、どうして『魂』を知り『魂の望み』を知り得るのか?

教える方も教えられる方も「誤解の檻」というMATRIXの中であり、その『外』を知らぬまま脱出しようとしても『堂々巡り』するしかない。



『魂』を、『魂の望み』を知るすべには、きちんとした『道理』がある。

その『道理』を知らずにたまたま掴めた人は幸いである。

導きにより掴めた人も幸いである。

そうした人は一切揺るがない「確たる信頼」をもって進めるだろう。



魂はけっして揺るがない。

だからこそ「鳴門の大渦」を手放しで渡れるのである。