ジャスト日本のプロレス考察日誌

ジャスト日本のプロレス考察日誌

プロレスやエンタメ関係の記事を執筆しているライターのブログ


 




 




ジャスト日本です。

 

 

 

 

「人間は考える葦(あし)である」

 

 

 

これは17世紀 フランスの哲学者・パスカルが遺した言葉です。 人間は、大きな宇宙から見たら1本の葦のようにか細く、少しの風にも簡単になびく弱いものですが、ただそれは「思考する」ことが出来る存在であり、偉大であるということを意味した言葉です。

 

 

プロレスについて考える葦は、葦の数だけ多種多様にタイプが違うもの。考える葦であるプロレス好きの皆さんがクロストークする場を私は立ち上げました。

 

 

 

 

さまざまなジャンルで活躍するプロレスを愛するゲストが集まり言葉のキャッチボールを展開し、それぞれ違う人生を歩んできた者たちがプロレス論とプロレスへの想いを熱く語る対談…それが「プロレス人間交差点」です。

 
 
 

 

これまで3度の刺激的対談が実現しました。

 

 

 

 

 

プロレス人間交差点 棚橋弘至☓木村光一 

 

 

前編「逸材VS闘魂作家」  

 

 

後編「神の悪戯」 

 

 

 

 

 

 

 

プロレス人間交差点 木村光一☓加藤弘士〜アントニオ猪木を語り継ごう!

 

前編「偉大な盗人」 

 

 

後編「闘魂連鎖」 

 

 

 

プロレス人間交差点  佐藤光留☓サイプレス上野 

 

前編「1980年生まれのプロレス者」 

 

 

 

 

後編「幸村ケンシロウを語る会」 

 

 

 

 

 

 

4回目となる今回は作曲家・鈴木修さんと作編曲家・安部潤さんのプロレステーマ曲の巨匠対談をお送りします。

 

 

 

 

 

 
 
 

 

(写真は本人提供)

 

 

鈴木修

作曲家、ギタリスト。1965年静岡県出身。

1986年よりTV番組や舞台音楽制作者として活動。三冠王者、IWGP、GHC、G1 チャンピオンなど多くの選手達に楽曲を提供。、プロレスファンの間では「ミスター・プロレステーマ曲」と呼ばれている。現在はプロレスや舞台の創作を中心に、放送関係出演、個人様御依頼の制作や演奏といった多岐に渡る音楽活動を行っている。

 

主な楽曲提供選手:遠藤哲哉、藤波辰爾、武藤敬司、橋本真也、蝶野正洋、船木誠勝、佐々木健介、小橋建太、越中詩郎、小島聡、秋山準、潮崎豪、ジェイク・リー、グレート・ムタ等。

 

X(Twitter)https://x.com/OTOSAKKA56

 

 

 

 
 

 

 

(写真は本人提供)

 

安部潤

3歳より、ピアノ講師である母のもとピアノを始める。92年より上京、作編曲家・サウンドプロデューサーとして、J pop、Jazz Fusionシーンにおいて数多くのレコーディング、ライブツアーに参加、また映画、イベント、またテレビやラジオのCM音楽など、多岐に渡るジャンルの音楽を幅広く手がけている。「初⾳ミク」のLA公演、タイのジャズフェスへの自己グループでの出演、中国の国民的アーティストの楽曲の編曲など、海外での活動もめざましい。LAやNYレコーディングを含むJazz Fusion系のソロアルバムを3枚リリースしている(最新作、「Walk Around」Sony Music)。昭和音楽大学非常勤講

 

オフィシャルウェブサイト

https://junabe.jp/

 

X(Twitter)https://x.com/JunAbe_JunAbe2

 

 

 

 

 

 

新日本プロレスの数々のオリジナルテーマ曲を世に生み出した「ミスタープロレステーマ曲」鈴木修さん。ウッドベル時代の新日本プロレスのオリジナルテーマ曲を制作された「インストゥルメンタル・アーティスト」安部潤さん。プロレステーマ曲の巨匠二人による対談はおおいに     

 お二人のテーマ曲との出逢い、テーマ曲の作り方、思い出のテーマ曲など対談は大いに盛り上がりました。

 

 

 

是非ご覧下さい!

 

プロレス人間交差点 鈴木修☓安部潤 前編「プロレステーマ曲の巨匠対談」 

 

 

 

 

 

プロレス人間交差点 

鈴木修☓安部潤

後編「コブラさんからの手紙」

 

 
 
 

 

 

 

 

 

 

グレート・ムタのテーマ曲『MUTA』誕生秘話

「色々なシチュエーションに融合していくのを最初からイメージして作ったのが『MUTA』」(鈴木さん)

 

 

 

 

──実は今回、昭和プロレステーマ曲研究家のコブラさんからお手紙を預かっているんですよ。

 

安部さん ちなみに大変失礼かもしれませんが、コブラさんはどういった方なんですか?

 

──昭和プロレステーマ曲研究家で、プロレステーマ曲に関しては多分日本でトップクラスで詳しい方なんですよ。

 

安部さん そうなんですね。

 

鈴木さん コブラさんや木原文人リングアナウンサーが揃ったらすべてのプロレステーマ曲は網羅できますよ。私は自分のテーマ曲のこともこの二人に聞きますから。どの日にどの会場で流れたとか。みんな教えていただいてますよ。あの域に達するのは本当にすごいと思います。

 

──コブラさんの著書『昭和プロレステーマ曲大事典』は尋常じゃないほどのマニアックな作品なんですよ。そのコブラさんの手紙には鈴木さんと安部さんへの質問がございましたので読ませていただきます。

 

「鈴木さん、ご無沙汰しております。昨年のGスピリッツのインタビューの際はお世話になりました。安部さん、初めまして。昭和プロレステーマ曲研究家のコブラと申します。今回はジャスト日本さんにお願いしまして、失礼ながらお二方に書面という形でご質問させていただきます。よろしくお願い致します」(コブラさんからの手紙より)

 

鈴木さん  よろしくお願いします。

 

安部さん よろしくお願いします。

 

 

 

──「一つ目の質問です。グレート・ムタについてお二方にお聞きします。まず鈴木さんへの質問です。別キャラの曲をアレンジするという手法は90年代のテーマ曲界において最大の発明であり快挙だと思っているのですが、最初に『HOLD OUT』を和風アレンジにするというアイデアは如何にして生み出されたのでしょうか?」(コブラさんからの手紙)

 

鈴木さん   ムタのテーマ曲を制作することになって、「ムタは忍者なので曲調は和風だよな」というイメージができてました。私が若い頃から色々な神社や仏閣巡りをしていて、そこから得たヒントも入れたり、あと歌舞伎や能楽の色々な楽器を使って、津軽三味線とかも全部自分の中でごちゃまぜにして、忍者と和風をイメージして『HOLD OUT』の旋律に乗せて作ったんですよ。『MUTA』のプロトタイプは音を一個ずつ流して繋げていって、シーケンサで最初のベースとドラムのテンポだけ作っておいて、あとは全部手で弾きました。「ムタ」「よぉー」という掛け声を自分でマイクに言って完成しました。制作時間が短くてあっという間にできたテーマ曲でした。

 

──冒頭の「ムタ」の掛け声は鈴木さんの声だったんですね!

 

鈴木さん マイクを持って掛け声するとメーターの針が左右に揺れまくったんですよ(笑)。CDのレコーディングの時にエフェクターの方からもっと叫ぶ感じでやろうとか色々なアイデアが出たんですけど、私はボソッと言った方がいいと思ったので、プロトタイプもCDでも掛け声は同じでしたね。

 

──それは正解ですね。あれで不気味さが増しましたから。

 

鈴木さん ありがとうございます。ムタがスーパー・ストロング・マシンとよみうりランド(1991年8月25日)で闘った時に月が出ている中で入場したりとか、色々なシチュエーションに融合していくのを最初からイメージして作ったのが『MUTA』でした。私も楽しく制作できたので本当に感謝しています。

 

 

 

──鈴木さんが制作した『MUTA』の次にムタのテーマ曲を担当されたのが安部さんです。コブラさんの手紙でも言及されているので読ませていただきます。

 

安部さん はい。

 

──「安部さんへの質問です。ムタの手法は『トライアンフ』に変わってからも受け継がれ、『愚零闘武多協奏曲』を安部さんが編曲という形で手がけられました。この曲の製作秘話のようなものがあれば是非お聞きしたいです」(コブラさんからの手紙)

 

安部さん 『愚零闘武多協奏曲』も鈴木敏さんからの指示でしたね。この曲も含めた7曲収録のイメージアルバムで出したんですが、ムタって悪役ではありますけど悲壮感もありますよね。そうしたものも出しつつ、劇判(映画やドラマなどのストーリー中に流れる音楽)のようなイメージで製作した記憶がありますね。

 

 

小島聡選手のテーマ曲『RUSH!!』誕生秘話

「小島さんは僕の中では正統派プロレスラーのイメージがあったので、ちょっと色を出すのは難しかったような記憶があるんですよ」(安部さん)

 

 

──ありがとうございます。ここからコブラさんの次の質問です。

「お二方への質問です。お二方両方とも作曲された数少ない選手の1人が小島聡選手なんですが、それぞれどういったイメージで作曲されたのでしょうか?(鈴木さんは『STYLUS』、安部さんは『RUSH!!』)」(コブラさんからの手紙)

 

 

 

鈴木さん 武藤全日本時代に木原文人リングアナウンサーからご依頼を受けて制作した小島選手のテーマ曲が『STYLUS』。武藤全日本において小島選手がチャンピオン、トップレスラーとしてやっていくというイメージで作りました。2021年に出したCD(『鈴木修ワークス 爆勝宣言』)の中に『STYLUS』が収録されていますが、これは現場で使われたものじゃないんです。現場で使われていたのはプロトタイプで、力強く音の輪郭の部分がうまく出せなくて、そこは残念だったなと思います。でも2021年発売のCDではうまく制作できたなと思っています。

 

──小島選手のテーマ曲に関しては鈴木さんよりも安部さんが制作した『RUSH!!』のイメージが強くなってしまうんですよね。

 

鈴木さん そうなんですよ。私は新日本担当を離れてから他団体も含めてあまりプロレスのテーマ曲を聞かなくなったんですよ。小橋さんの時の全日本やノアの時に比べるとそこまでガッツリ関わったわけではない時にご依頼を受けたので、その辺がテーマ曲制作においてちょっとピントが絞り切れていなったなという反省点がありますね。

 

──安部さんは小島選手のテーマ曲『RUSH!!』をどのようなイメージで制作されましたか?

 

安部さん 小島さんは僕の中では正統派プロレスラーのイメージがあったので、ちょっと色を出すのは難しかったような記憶があるんですよ。直線的なイメージで曲を作ったような感じです。

 

──『RUSH!!』は名曲で未だにこの曲がかかると自然発生的に「小島」コールが発生しますからね。

 

安部さん そうなんですね。余談ですけど、近くのカレー屋で偶然、小島夫妻にお会いしましてご挨拶させていただきまして、緊張しながら「小島さんのテーマ曲を制作させていただきました」とお伝えすると気を付けして深々とお礼して「ありがとうございます」と言ってくださり、本当にいい人でした。

 

──安部さんが制作されたテーマ曲の中でも『RUSH!!』はプロレスファンに愛されてる屈指の名曲だと思います。

 

安部さん ありがとうございます。

 

 

 

なぜ、藤原喜明選手は一時期『ダーティーハリー4 』をテーマ曲にしていたのか?

「この曲の件で藤原さんとお話はしてなくて、田中秀和リングアナウンサーから『UWFの匂いがしないものを』と言われたのは覚えています」(鈴木さん)

 

 

 

 

 

──コブラさんからの鈴木さんへの質問です。

 

「去年のGスピの取材で聞けなかった事なんですが、昭和63年に藤原喜明がドン・ナカヤ・ニールセンと異種格闘技戦を行なった時から『ダーティハリー4』に変わったのは、どういう経緯だったのでしょうか?あれだけ定着していたワルキューレから変えるのはかなりの決断だったと思います。自分としては、当時は前田らが新日を離れて新生UWFを立ち上げた頃なので、藤原からUWF色を払拭する狙いがあったのかなと予想していたのですが。あと、出来れば選曲理由もお聞かせ願えれば幸いです」(コブラさんからの手紙)

 

鈴木さん これは新日本からUWFの匂いを消すというようなことを依頼されまして、『ワールドプロレスリング』の中で関節や小物を折るSEをつけて『ダーティハリー4』を採用させていただきました。この曲の件で藤原さんとお話はしてなくて、田中秀和リングアナウンサーから「UWFの匂いがしないものを」と言われたのは覚えています。

 

 

 

『炎のファイター』オーケストラバージョン誕生秘話

「全然予算がなかったので、全部打ち込みでやりました。当時はソフトシンセとかなかったので、CDとかを駆使して頑張って作りました」(安部さん)

 

 

──ありがとうございます。コブラさんから安部さんへの質問です。

「『炎のファイター』をはじめ『パワーホール』や『燃えよ荒鷲』など過去の名曲のアレンジをご担当される事が多いですが、その際に心がけていた事はございますか?『トライアンフ』よりもさらに『古典』というべき曲ばかりなので、かなりのプレッシャーもおありだったかなと思いますが、そのあたりのご心境もお聞かせ願えれば幸いです」(コブラさんからの手紙)

 

安部さん どの曲も原曲がインパクトが強かったんです。音は昔の音源はあるけど、CDにするときに演奏の権利上できないときは完コピが多かったんですね。『燃えよ荒鷲』は結構大変でしたけど。『炎のファイター』も完コピバージョンも作ったことがありました。

 

──『炎のファイター』オーケストラバージョンに関しては後に藤田和之選手がPRIDE参戦時から使うようになりましたね。

 

安部さん あれは何も知らなかったですよ。藤田選手が好きでテレビでPRIDEを見ていたらいきなり流れてきたのでビックリしました(笑)。猪木さんが亡くなってからも色々なテレビ番組でもこの曲が使われているので完全に独り歩きしてますよ。『炎のファイター』オーケストラバージョンは全然予算がなかったので、全部打ち込みでやりました。当時は

ソフトシンセとかなかったので、CDとかを駆使して頑張って作りました。

 

──安部さんが手掛けたリアレンジがかなり古典の曲でしたが、こちらに関するプレッシャーはありましたか?

 

安部さん プレッシャーはもちろんありつつも、自分がそれに携われる喜びの方が強かったかもしれないですね。

 

──これでコブラさんから質問は以上です。手紙の最後に「鈴木修さん、安部潤さん両氏の今後一層のご活躍を期待しております」という一文で締めくくられておりました。

 

鈴木さん ありがとうございました。

 

安部さん ありがとうございました。

 

──では最後の質問をさせていただきます。お二人にとってプロレステーマ曲とは何でしょうか?

 

鈴木さん この質問はよくいただきますし、私も年々、言うことが変わっていっています。この年齢になって感じることですが、選手の人生と一緒に歩んでいけたり、自分の主観と客観、選手の主観と客観とかあらゆるものが交わる部分を担うのがプロレステーマ曲なのかなと思います。

 

──ファンと選手交わる分を接着する役目を果たしているということでしょうか?

 

鈴木さん そういう捉え方もできますし、選手にとってテーマ曲は人生の中の思い出のひとつになったり、自分を奮い立たせるものにもなりますし、それが何か色々なもので繋がっているような気がしますね。時々、選手と会場で会ってテーマ曲の話になって、ファイトスタイルとかプロレス観を聞くと色々なものがそこでクロスオーバーしているなと感じますね。

 

──ありがとうございます。安部さん、よろしくお願いいたします。

 

安部さん 鈴木さんに素晴らしいことを言われてしまい、その後言うのは恥ずかしいんですけど(笑)。映画音楽や昔のヒット曲を聴くと当時の自分を思い出したりするじゃないですか。プロレステーマ曲も昔のことを思い出させてくれる音楽のひとつだと思います。映画とかヒット曲よりも、もしかしたら人によってさらに深い音楽の一つかもしれません。

 

──確かにそうですよね。

 

安部さん プロレステーマ曲は背景音楽の中でもマニアックな世界観があって、人によっては人生の応援歌になっているのかなと思います。仕事に行く前にプロレステーマ曲を聴く人もいるでしょうから。

 

──鈴木さん、安部さん、これで対談は以上となります。ありがとうございました。お二人のご活躍を心からお祈りしております。

 

(プロレス人間交差点 鈴木修✕安部潤・完/後編終了)

 

 

 

 

 

 

 

 

【特別掲載】

鈴木修さんと安部潤さん主要テーマ曲リスト

(昭和プロレステーマ曲研究家・コブラさん作成)
※こちらに掲載している鈴木修さんと安部潤さんが作曲に携わったテーマ曲は主なものをピックアップしています。もし抜けがあったりした場合はコブラさんまでご一報よろしくお願いします!
 
昭和プロレステーマ曲研究家
コブラさんのX(Twitter)
https://x.com/kokontezangetsu
 
 
(鈴木修さん)

 

 
 
 
(安部潤さん)
 
 

 

 

 

 
 
 
 
 
 

 

 
 
 
 
 
 

 

 

 

 

 

 

 

ジャスト日本です。



「人間は考える葦(あし)である」



これは17世紀 フランスの哲学者・パスカルが遺した言葉です。 人間は、大きな宇宙から見たら1本の葦のようにか細く、少しの風にも簡単になびく弱いものですが、ただそれは「思考する」ことが出来る存在であり、偉大であるということを意味した言葉です。


プロレスについて考える葦は、葦の数だけ多種多様にタイプが違うもの。考える葦であるプロレス好きの皆さんがクロストークする場を私は立ち上げました。



 

さまざまなジャンルで活躍するプロレスを愛するゲストが集まり言葉のキャッチボールを展開し、それぞれ違う人生を歩んできた者たちがプロレス論とプロレスへの想いを熱く語る対談…それが「プロレス人間交差点」です。

 
 
 

 

これまで3度の刺激的対談が実現しました。




プロレス人間交差点 棚橋弘至☓木村光一 


前編「逸材VS闘魂作家」  

後編「神の悪戯」 



プロレス人間交差点 木村光一☓加藤弘士〜アントニオ猪木を語り継ごう!


前編「偉大な盗人」 


後編「闘魂連鎖」 


プロレス人間交差点  佐藤光留☓サイプレス上野 


前編「1980年生まれのプロレス者」 



後編「幸村ケンシロウを語る会」 





4回目となる今回は作曲家・鈴木修さんと作編曲家・安部潤さんのプロレステーマ曲の巨匠対談をお送りします。

 

 

 

 

 



(写真は本人提供)



鈴木修

作曲家、ギタリスト。1965年静岡県出身。

1986年よりTV番組や舞台音楽制作者として活動。三冠王者、IWGP、GHC、G1 チャンピオンなど多くの選手達に楽曲を提供。、プロレスファンの間では「ミスター・プロレステーマ曲」と呼ばれている。現在はプロレスや舞台の創作を中心に、放送関係出演、個人様御依頼の制作や演奏といった多岐に渡る音楽活動を行っている。


主な楽曲提供選手:遠藤哲哉、藤波辰爾、武藤敬司、橋本真也、蝶野正洋、船木誠勝、佐々木健介、小橋建太、越中詩郎、小島聡、秋山準、潮崎豪、ジェイク・リー、グレート・ムタ等。


X(Twitter)https://x.com/OTOSAKKA56



 




(写真は本人提供)


安部潤

3歳より、ピアノ講師である母のもとピアノを始める。92年より上京、作編曲家・サウンドプロデューサーとして、J pop、Jazz Fusionシーンにおいて数多くのレコーディング、ライブツアーに参加、また映画、イベント、またテレビやラジオのCM音楽など、多岐に渡るジャンルの音楽を幅広く手がけている。「初⾳ミク」のLA公演、タイのジャズフェスへの自己グループでの出演、中国の国民的アーティストの楽曲の編曲など、海外での活動もめざましい。LAやNYレコーディングを含むJazz Fusion系のソロアルバムを3枚リリースしている(最新作、「Walk Around」Sony Music)。昭和音楽大学非常勤講


オフィシャルウェブサイト

https://junabe.jp/


X(Twitter)https://x.com/JunAbe_JunAbe2





新日本プロレスの数々のオリジナルテーマ曲を世に生み出した「ミスタープロレステーマ曲」鈴木修さん。ウッドベル時代の新日本プロレスのオリジナルテーマ曲を制作された「インストゥルメンタル・アーティスト」安部潤さん。プロレステーマ曲の巨匠二人による対談はおおいに     

 お二人のテーマ曲との出逢い、テーマ曲の作り方、思い出のテーマ曲など対談は大いに盛り上がりました。


 

是非ご覧下さい!




プロレス人間交差点 

鈴木修☓安部潤

前編「プロレステーマ曲の巨匠対談」









プロレステーマ曲巨匠二人の想い

「鈴木修さんが新日本で作られてきたテーマ曲を作り変えるという話がきて、そこで僕はテーマ曲制作に携わることになりました。僕も含めてプロレスファンには鈴木修さんの作品が根付きまくっていて、リニューアルすることには抵抗がありました」(安部さん)

「安部さんは音楽家として実績を残されているので、この対談でお話をお伺いして勉強させていただきます」(鈴木さん)




──鈴木さん、安部さん、「プロレス人間交差点」にご協力いただきありがとうございます!今回は数々の名プロレステーマ曲を作曲された音楽家対談を組ませていただきました。テーマ曲マニアにとっては夢のマッチメイクだと思います。よろしくお願いします!


鈴木さん よろしくお願いいたします!


安部さん よろしくお願いいたします!


──まずはお二人のプロレステーマ曲との出逢いについてお聞かせください。


鈴木さん やっぱりアントニオ猪木さんの『炎のファイター』ですね。あとアブドーラザブッチャーの『吹けよ風、呼べよ嵐』は素晴らしいですね。私がプロレスを見始めたのが新日本プロレスと全日本プロレスが旗揚げ当初だったので、アントニオ猪木VS大木金太郎の喧嘩マッチ、アントニオ猪木VSストロング小林での猪木さんのジャーマンとか鮮明に覚えています。テーマ曲がない時代からプロレスを見てますが、なんとなく自然にテーマ曲に馴染んていけましたね。


安部さん 猪木さんの『炎のファイター』は知らず知らずのうちに聴いていて、テーマ曲を意識して聴くようになったのはミル・マスカラスの『スカイ・ハイ』です。中学校の時に吹奏楽部にいて『スカイ・ハイ』をよく演奏していたんですよ。



──ちなみにお二人がお仕事でプロレステーマ曲と接点を持たれたのはいつ頃でしたか?


鈴木さん 新日本の1986年10月9日・両国国技館大会ですね。アントニオ猪木VSレオン・スピンクス、前田日明VSドン・中矢・ニールセンが行われた興行で、「お前、プロレス詳しいからやってみろ」と言われて、テーマ曲を現場で出す仕事に携わりました。本当に新人で機械の扱いは慣れてなかったので緊張したのを覚えています。


安部さん 僕の場合はウッドベルの鈴木敏さんから依頼がきたのがきっかけです。確か1997年くらいだったと思います。鈴木敏さんは若くして亡くなってしまい本当に残念です。



──ウッドベル代表でプロレステーマ曲のプロデューサーとして活躍された鈴木敏さんは2007年に54歳の若さで他界されました。



安部さん 鈴木修さんを前にして言うのは大変おこがましいのですが、長らく鈴木修さんが新日本で作られてきたテーマ曲を作り変えるという話がきて、そこで僕はテーマ曲制作に携わることになりました。僕も含めてプロレスファンには鈴木修さんの作品が根付きまくっていて、リニューアルすることには抵抗がありました。でもそこに挑んだので責任重大だったと記憶しています。


──鈴木修さんが手掛けたテーマ曲は定番であり、スタンダードになってましたよね。


安部さん そうですよ。僕も作り手ですけど、ファン心理がわかるので「いいのかな?」と思いながら制作しましたから、ちょっと心苦しかったですね。だから今回の対談でお会いできて本当に嬉しいんですよ。


鈴木さん 安部さんは音楽家として実績を残されているので、この対談でお話をお伺いして勉強させていただきますよ。



テレビ番組での選曲について

「例えば何かしらで闘う場面があった時に映画『ロッキー』のテーマ曲を使うのは、全国ネットの番組でそれは安易だから使えない。だからプロとしてこのフレーズを使っていないけどイメージに合う違う曲を探してくるという作業を日々、やってました」(鈴木さん)




──今回の対談はテーマ曲マニアからすると奇跡の遭遇ですよ。元々、鈴木さんはオリジナルテーマ曲を制作する以前は既存曲をテーマ曲として選曲されていたんですよね。



鈴木さん はい。当時私がいたTSP(東京サウンド・プロダクション)は代々、新日本プロレスの選曲に関わっていて、前任が引き継ぐ形で選曲するようになりました。これはなかなか説明にくいのですが、テレビの音響効果とか選曲はTSPがやっていて、新日本の選曲=テレビの選曲だったので、番組の担当者と一緒に選んでました。『ワールドプロレスリング』が1987年に「ギブUPまで待てない!」に改編してスポーツ局から編成局制作3部(主にバラエティー番組を手掛ける部門)に変わって、またスポーツ局に戻りかける過度期に番組の担当になって、選曲にも携わるようになりました。


──『ワールドプロレスリング』が放送時間や番組内容が変わったり、何かと混沌としていた時期ですね。


鈴木さん 番組の音響効果を2年くらいやりましたね。


──当時のテレビ番組ではシンプルな選曲をあまりしなかったという話を聞いたことがありまして、例えばタイガーを伝える話題に対して、タイガーという曲名が入ったものを使うとかはご法度だったとか。


鈴木さん そうですね。やっぱりテレビ番組は毎日色々なジャンルが放送されていて、例えば何かしらで闘う場面があった時に映画『ロッキー』のテーマ曲を使うのは、全国ネットの番組でそれは安易だから使えない。だからプロとしてこのフレーズを使っていないけどイメージに合う違う曲を探してくるという作業を日々、やってました。番組の選曲に関わった皆さんは探し当てる作業に苦労されていて、本当にプロフェッショナルなんですよ。



──最適な1曲を探すのに1日かけて行う場合もあると聞いたことがあります。


鈴木さん やっぱりそういう場合もあるし、とことんこだわる人もいましたね。私はそこまで時間をかける方ではなかったのですが、やはり慎重にやらなきゃいけないところがあって、その時はあの先輩から何度もダメ出しを食らってから選曲したこともありました。番組の選曲や音響効果に関わった皆さんは本当に苦しい想いをしてやってたので、なかなかその現場にいないと分からないかもしれません。  




ウッドベル時代のテーマ曲制作体制

「プロデューサーの鈴木敏さんとディレクター、作曲家の古本鉄也さん、そしてギタリストであり作曲家のVEN(戸谷勉)さんらとの3、4人のチームで制作しておりました。一人でいくつかのペンネームで書いてた作曲家もいたりしましたね」(安部さん)



──安部さんは元々ミュージシャンをされていて、既存曲ではなくオリジナル曲を制作する側として、テーマ曲に関わりますよね。


安部さん はい。前にいた事務所の人と鈴木敏さんが知り合いで、そこからテーマ曲制作に関わりました。プロデューサーの鈴木敏さんとディレクター、作曲家の古本鉄也さん、そしてギタリストであり作曲家のVEN(戸谷勉)さんらとの3、4人のチームで制作しておりました。一人でいくつかのペンネームで書いてた作曲家もいたりしましたね。


──ウッドベル時代のテーマ曲は平田淳嗣選手のテーマ曲『ミッドナイト・ロード~迷信~』や大谷晋二郎選手のテーマ曲『キャッチ・ザ・レインボー~流星~』は”N.J.P.UNIT”が演奏されています。それが安部さんや古本さんたちのチームだったわけですね。


安部さん そうです。テーマ曲のレコーディングに関わるエンジニアには後にMISIAやゴジラ、ウルトラマンの音楽に関わる川口昌浩さんが合流して、みんなで一緒にテーマ曲を作ってましたね。 



藤波辰爾選手のテーマ曲『RISING』誕生秘話

「これは藤波さんを鼓舞するような力強いテーマ曲を作らないといけないなと思いまして、最終的には『変わっていくんだ』と藤波さんと話ながら制作していったのが印象に残っています」(鈴木さん)




──数々のウッドベル時代の貴重な話をいただきありがとうございます。ちなみにお二人はどのようにしてプロレステーマ曲を制作していくのか、テーマ曲の作り方についてお聞きしたいです。


鈴木さん 元々私は自分のバンドがあって、既存曲を選びながらも作曲思考が強かったんですよ。私たちの周りにでは音楽制作に力を入れている人も多くて、当時在籍していたTSPの中でも「既存曲で行くのか、オリジナルで行くのか」というせめぎあいがありました。そこを最初は上から指示されたことをやりながら、テレビ朝日の番組の中に少しずつ許可を得ながらオリジナル曲を制作して使ったりしてました。テーマ曲の作り方について結論から言いますと、決まりとかないんです。自分で頭の中で思い描いたメロディーをずっと溜めて、それを何かの形で音にしたり、ギターを弾きながら「これ、いいな」とか、鍵盤を鳴らして「このフレーズに合った曲ができたからこうしよう」とかケースバイケースですよ。


──決まったパターンでテーマ曲は生まれていないということですね。


鈴木さん プロレスの場合は選手と一緒に同行することが多いので、テレビや試合以外の彼らと接してきたので、その関係性やコミュニケーションからヒントを得た部分もあったかもです。



──鈴木さんが初めて手掛けたオリジナルテーマ曲は藤波辰爾選手の『RISING』です。この曲はどのようにして誕生したのですか?


鈴木さん  メインのフレーズを当時色々なものを自分の中で蓄えてまして、あの頃の藤波さんがビッグバン・ベイダーとか怪物と相対していて、「もっと力強い試合をしなければいけない」とおっしゃっていた時期で、色々とお話をさせていただき、これは藤波さんを鼓舞するような力強いテーマ曲を作らないといけないなと思いまして、ビクターレコードさんからCDを出しましたが、最終的には「変わっていくんだ」と藤波さんと話ながら制作していったのが印象に残っています。


──『RISING』はこれまでの藤波選手のイメージを一変させたテーマ曲でしたよね。


鈴木さん 藤波さんのテーマ曲といえば『ドラゴン・スープレックス』が一番華やかですごく人気があったんですけど、『RISING』をやる時の年齢は立場や状況も変わってきていたので、それを踏まえて制作させていただきました。


──1988年12月9日・後楽園ホールで行われたケリー・フォン・エリック戦(IWGP&WCCWヘビー級ダブルタイトルマッチ)で『RISING』が初披露されました。


鈴木さん あの時はプロトタイプの『RISING』が会場に流れましたね。



ウッドベル時代の秘話公開

「(小川直也さんのテーマ曲)『S.T.O.』は最初は風の音だけ流れて、そこから宇宙戦艦ヤマトっぽい曲調で仕上げたあのテーマ曲は僕が制作したもので、橋本(真也)さん向けに作ったつもりが結果的に小川さんのテーマ曲になったんですよ」(安部さん)



──ありがとうございます。安部さんはどのような形でテーマ曲を作成していくのですか?


安部さん 自分からこんな感じを作るのではなく、ウッドベルの鈴木敏さんから「こういう感じで作ってほしい」という明確なビジョンを聞いてから制作してました。以前、橋本真也さんの新テーマ曲を制作したことがあったんです。橋本さんのテーマ曲といえば鈴木修さんが制作した『爆勝宣言』があまりにもハマっていたので、「やり変えていいのか」という葛藤があったのですが、作ってみると橋本さんよりも小川直也(当時、プロ格闘家として新日本に参戦)さんの方が合うということで小川さんのテーマ曲として採用されたことがありました。


──それが小川直也さんが主に新日本参戦時に使用していたテーマ曲『S.T.O.』だったんですね!


安部さん 『S.T.O.』は最初は風の音だけ流れて、そこから宇宙戦艦ヤマトっぽい曲調で仕上げたあのテーマ曲は僕が制作したもので、橋本さん向けに作ったつもりが結果的に小川さんのテーマ曲になったんですよ。テーマ曲は個性がはっきりわかる選手は作りやすいですよね。


──個人的には安部さんが制作された『S.T.O.』が小川さんに一番合ったテーマ曲だと思います。


安部さん ありがとうございます。あと長州力さんの『パワー・ホール』も作り直したことがあって、曲調は同じなんですけど、音とかを新しくしたんですよ。でも作業をしながら「これは原曲を超えるものにはならないな」と。頑張って作ったんですけど案の定、僕が作り直した『パワー・ホール』はあまり使われなかったですね。


──確立された原曲をリニューアルすることはなかなか難しいですよね。では今まで制作された曲の中で思い出に残っているテーマ曲についてお聞かせください。


鈴木さん 橋本さんの『爆勝宣言』、武藤敬司さんの『HOLD OUT』、蝶野正洋さんの『FANTASTIC CITY』、佐々木健介さんの『POWER』、越中詩郎さんの『SAMURAI』は特に印象に残っています。あと全日本で小橋健太(現・建太)さんのテーマ曲作成依頼を受けた時に、小橋さんからもかなりご指摘をいただき、意向を取り入れて『GRAND SWORD』という曲を作りました。作成に時間をかかりましたし、自分の中では初めての体験ができたテーマ曲でした。結果的に私が制作したテーマ曲の代表作になりましたので、小橋さんには本当に感謝しています。


──小橋さんの『GRAND SWORD』は素晴らしい名曲ですよね!


鈴木さん ありがとうございます。それから潮崎豪選手の『ENFONCER』、ジェイク・リー選手の『戴冠の定義』も印象に残っています。ジェイク選手に関してはサウンドからどんな風に作るのかということも確認しながら制作するという初めての手法でした。あと近年ではDDTの秋山準選手ご本人から直接ご依頼を受けて、テーマ曲『FINAL EXPLODER』を手掛けました。曲のベースにイントロとか最初の部分の激しさとかはすごくリクエストをいただいて、この部分を盛り上げていくのかという付け足す手法で挑みました。



新日本・テレビ朝日側にいたテーマ曲担当の本音

「日本テレビさんが手掛けた全日本のテーマ曲がクオリティーが素晴らしくて、当時テレビ朝日側にいた私は『完全に負けたな』と思ってました」(鈴木さん)




──鈴木さんは近年は全日本、プロレスリング・ノア、DDTといった団体の選手のテーマ曲制作に関わってます。以前、ジャイアント馬場さんのお別れ会(1999年4月17日・日本武道館)で馬場さんのテーマ曲『王者の魂』ギターバージョンを演奏されました。これはどういった経緯で決まったのですか?


鈴木さん これはお別れ会の2~3日前にご依頼をいただきまして、ベースだけ作っておいて、あとは本番で演奏させていただきました。実は私は猪木さんの30周年記念大会が横浜アリーナ(1990年9月30日)で開催されたときに猪木さんのかつてのライバルが登場したセレモニーがありまして『炎のファイター』スローバージョンの作成依頼が来まして、制作したことがありました。そのイメージがあったようで馬場さんのお別れ会の時に全日本からご依頼を受けたということです。



──猪木さんの『炎のファイター』スローバージョンを作られたことがあったんですね。


鈴木さん あとジャンボ鶴田さんのテーマ曲『J』スローバージョンにも関わりました。私はジャンボさんの『J』がプロレステーマ曲の中で一番好きなんですよ。とにかく日本テレビさんが手掛けた全日本のテーマ曲がクオリティーが素晴らしくて、当時テレビ朝日側にいた私は「完全に負けたな」と思ってました。だから『J』をカバーすることになった時は安部さんのように「私が触っていいのだろうか⁈」という葛藤はありました。



nWoJAPANテーマ曲誕生秘話

「あの前奏の『エヌ・ダブリュー・オー』は鈴木敏さんの声なんです」(安部さん)




──『J』スローバージョンは個人的に鶴田さんのレスラー人生に凄く合っていて、いい曲だと思います。安部さんは今まで作られた中で思い出のテーマ曲はありますか?


安部さん 小川さんの『S.T.O.』と後年、藤田和之さんが使っている猪木さんのテーマ曲『炎のファイター 』オーケストラ・バージョンですね。あと白使VSアンダーテイカー(みちのくプロレス1997年10月10日・両国国技館)で白使のテーマ曲を作るために新崎人生さんにイメージを聞きながら、一緒に付きっきりでテーマ曲制作したことは印象に残っています。人生さんは素晴らしい方で人格者でしたよ。



──安部さんはnWoジャパンのテーマ曲や前奏にも関わっているんですよね。


安部さん そうなんですよ。あの前奏の「エヌ・ダブリュー・オー」は鈴木敏さんの声なんです。プロレステーマ曲を制作させていただいて嬉しかったのはレスラーの皆さんの素顔を知れたことですね。蝶野さんや天山さんのヒロ斎藤さんに対するリスペクトとかザ・グレート・サスケさんがエレクトーン5級を持っていたとか、佐々木健介さんが息子さんを連れてレコーディング現場に来られたりとか、中西学さんはコスチュームに着替えて「こういうイメージなんです」と言われたときは面白かったです(笑)。



──ありがとうございます。ちなみに個人的にお聞きしたかったのが鈴木さんは後藤達俊さんのテーマ曲『Mr.B.D.』を制作されていますが、この曲はどういうイメージで作られたのですか?


鈴木さん 私はよく新日本の道場に行って、橋本さんと遊ぶことが多かったんですよ。テレビ解説でお世話になり可愛がっていただきました山本小鉄さんもよく道場に来られていて、小鉄さんが道場にいると緊張感が走るんですよ。隅っこにいると小鉄さんから「こっちに来なよ」と言われてセンターを座らせてもらうと、横から後藤さんの影が見えたんですよ。小鉄さんが退席された後に後藤さんから「俺の曲はまだなのか」と言われて、これがいつもの恒例みたいになってきてたんですよ(笑)。


──ハハハ(笑)。


鈴木さん 何度も「俺の曲はまだか」というのがいじりとかじゃなくて本当の「まだか」に気がついて急いで制作したのが『Mr.B.D.』なんです。


──この『Mr.B.D.』は基本的に同じメロディを繰り返すような構成をされています。後に中邑真輔選手の新日本時代のテーマ曲『Subconscious』が『Mr.B.D.』の曲調に似てまして、中邑選手自身がレイジング・スタッフが大好きで、「(レイジング・スタッフの選手のテーマ曲は)曲としては単調かもしれないけど、ベースがよくて、レスラーと相まって独特の味がしみ出てくる」と語っているので、後藤さんのテーマ曲から影響を受けていると思われます。


鈴木さん そうなんですね!ブロンド・アウトローズ(レイジング・スタッフの前身となるユニット)のテーマ曲『禿山の一夜』がイメージに合っていて素晴らしかったので、そこからの後藤さんの『Mr.B.D.』に繋がったと思います。    




二人の今後

「プロレスは以前に比べてファン目線に戻ってきていて、楽しく観戦しています。その辺をエッセンスとして取り入れて、今後もテーマ曲制作に携わりたいと思います」(鈴木さん)

「今後、あのようなイベント(『シンニチイズムミュージックフェス』)があれば参加したいですし、鈴木さんとも共演したいです」(安部さん)




──ありがとうございます。ではここからはお二人の今後の活動についてお聞きしたいと思います。


鈴木さん プロレスだけじゃなくてあまり知られてない部分だとかジャンルを問わずに活動しているので、これからも継続してやっていきたいですね。あとプロレスに関しては選手とか団体の関わりが近年大きく変わったと思います。若い世代の音楽家の皆さんとか感性の違う方々が今、すごくいい曲を制作されています。私も依頼を受けたテーマ曲はしっかりとやっていきます。あとプロレスは以前に比べてファン目線に戻ってきていて、楽しく観戦しています。その辺をエッセンスとして取り入れて、今後もテーマ曲制作に携わりたいと思います。


──鈴木さんのX(Twitter)を見ているとプロレス熱が戻ってきているなと強く感じますよ。


鈴木さん ありがとうございます。自分が少年時代にプロレスを見ていた時のように「やっぱりプロレスラーは凄いな」という見方が強くなってますね。


──プロレス熱が戻ってきた鈴木さんからまた名作が生まれるのではないかと期待しています。では安部さん、よろしくお願いします。


安部さん 僕はプロレステーマ曲に関しては20年くらい関わっていませんが、今までやってきた色々なアーティストのサポートや自分のライブとかを地道にやっていきたいと思います。でも現在でも唯一プロレスと接点があるのが、プロレスラーだけどバークリー音楽大学出身の矢口壹琅(雷神矢口)さんとすごく仲良くさせてもらっているんですよ。


──ええ!!そうなんですね!


安部さん 矢口さんがプロデュースしている怪獣プロレス(プロレスと怪獣と音楽が融合した総合エンターテイメント)で二回演奏する機会をいただきました。矢口さんは色々な団体と絡んでいてさまざまな経験をされていてお話もすごく面白いんですよ。先日私のライブに矢口さんに出ていただいたりもしました、とてもいい経験でした。


──素晴らしいです!


安部さん あと最近、松永光弘さんと仲良くさせていただいていて、松永さんと矢口さんが別々に出てるライブをち見に行ったりしましたよ。松永さんも謎の音楽活動をされてますよね(笑)。


──松永さんはオブジェなどを改造して作る自作楽器作りが趣味で、2019年のR-1ぐらんぷりアマチュア部門で古時計を改造した楽器で優勝しているんですよ。


安部さん 松永さんのライブを拝見しましたけど、何とも言えない凄いライブでしたよ。



──安部さんは著名なミュージシャンのアレンジに携わったり、作曲でご活躍されています。これは鈴木さんも出演された『シンニチイズムミュージックフェス』(2022年11月17日・国立代々木競技場第一体育館)という“奇跡のプロレス入場曲フェス”のようなイベントが今後開催されたら、安部さんは参加したいというお考えはありますか?


安部さん あれはちょっと悔しかったんですよ。親しくさせていただいている山本恭司さんや石黒彰さんが出ていたので、「残念だな」と思いながら見てました。だから今後、あのようなイベントがあれば参加したいですし、鈴木さんとも共演したいです。


──鈴木さんと安部さんの共演は見たいです!


安部さん 鈴木さん、よろしくお願いします!


鈴木さん 安部さん、こちらこそよろしくお願いします!


(前編終了)












ジャスト日本です。



「人間は考える葦(あし)である」



これは17世紀 フランスの哲学者・パスカルが遺した言葉です。 人間は、大きな宇宙から見たら1本の葦のようにか細く、少しの風にも簡単になびく弱いものですが、ただそれは「思考する」ことが出来る存在であり、偉大であるということを意味した言葉です。


プロレスについて考える葦は、葦の数だけ多種多様にタイプが違うもの。考える葦であるプロレス好きの皆さんがクロストークする場を私は立ち上げました。



 

さまざまなジャンルで活躍するプロレスを愛するゲストが集まり言葉のキャッチボールを展開し、それぞれ違う人生を歩んできた者たちがプロレス論とプロレスへの想いを熱く語る対談…それが「プロレス人間交差点」です。

 
 
 

 

これまで2度の刺激的対談が実現しました。




プロレス人間交差点 棚橋弘至☓木村光一 


前編「逸材VS闘魂作家」  

後編「神の悪戯」 

 




3回目となる今回はプロレスラー・佐藤光留選手とラッパーのサイプレス上野さんによる対談をお送りします。

 

 

 

 

 

(この写真は御本人提供です)




佐藤光留

 1980年7月8日生まれ。岡山県岡山市出身。173cm 93.10kg 

主要タイトル歴:世界ジュニア、アジアタッグ、IJシングル 

スポーツ歴 :レスリング、柔術、墓石麻雀5級 

得意技: 蹴り、関節技、北斗百裂アウトレイジ野球 趣味・特技:釣り、きもちく拳法 

好きな有名人: 来栖うさこ、岬恵麻、エロマンガパンチ 

好きな食べ物: sio

 会場使用テーマ曲: 「俺ら代表取締役辞任するだ」鳥羽周作


1999年にパンクラスに入門。総合格闘技で腕を磨き、2008年よりプロレス参戦。以後、DDTや全日本プロレスで活躍、 全日本ジュニアに強いこだわりを持ち絶対的な中心を自負する。ミスター・天龍プロジェクトの異名も取る。'23年3月開催のジュニアの祭典では田口隆祐&今成夢人と変態トリオを結成。8月の自主興行ではエル・デスペラードと一騎打ち。〝現在進行形のU〟と称される大会「ハードヒット」のプロデュースも行っている。 




 

 




(この写真は御本人提供です)

 


サイプレス上野


サイプレス上野とロベルト吉野のマイクロフォン担当。通称『サ上』。

2000年にあらゆる意味で横浜のハズレ地区である『横浜ドリームランド』出身の先輩と後輩で、サイプレス上野とロベルト吉野を結成。"HIP HOPミーツallグッド何か"を座右の銘に掲げ、"決してHIPHOPを薄めないエンターテイメント"と称されるライブパフォーマンスを武器に、大型フェスやロックイベントへの出演、バンドとの対バンなどジャンルレスな活動を繰り広げ、ヒップホップリスナー以外からも人気を集めている。


2020年にはサイプレス上野とロベルト吉野として結成20周年を迎え、2022年3月16日には漢a.k.a GAMI、鎮座DOPENESS、TARO SOUL、KEN THE 390、tofubeats 、STUTSらが参加する7枚目のオリジナルフルアルバム「Shuttle Loop」をリリース。


現在、サイプレス上野は、テレビ東京「流派-R SINCE2001」、FMヨコハマ「BAY DREAM」にレギュラー出演中の他、TVCMナレーションなど、越中詩郎級の『やってやるって!』の精神で多方面に進撃中。


公式HP  http://sauetoroyoshi.com/






佐藤選手、上野さん、進行を務めた私も1980年生まれのプロレス者同士です。お二人のプロレスとの出逢い、1990年代のプロレスについて、好きな名勝負、今後について…。最高にディープでマニアックで、最初から最後までずっとゲラゲラ笑いながらプロレスを語らう対談となりました。この記事を読んでストレス発散やフラストレーション解消になれば幸いです!


 

是非ご覧下さい!


プロレス人間交差点 佐藤光留☓サイプレス上野 前編「1980年生まれのプロレス者」 





プロレス人間交差点 

「変態レスラー」佐藤光留☓「LEGENDオブ伝説」サイプレス上野

後編「幸村ケンシロウを語る会」









「僕、ヒップホップが好きなんですよ。ラッパーさんは自分が生きてきた道を歌うじゃないですか。これはプロレスラーも同じ(中略)面白いプロレスはもちろん大事なんですが、面白い人間がやらないとプロレスって全く意味がないんです」(佐藤選手)





──1980年生まれのプロレス者対談、ディープに盛り上がっています。ここから後半戦に突入です。佐藤選手、上野さん、よろしくお願いいたします。


佐藤選手 よろしくお願いいたします!


上野さん よろしくお願いいたします!


佐藤選手 突然ですが、今回上野さんとじっくり話すことができるので、音楽とプロレスの共通点について考えてきたんですよ。


上野さん おお!それは気になります!


佐藤選手 実は僕、ヒップホップが好きなんですよ。ラッパーさんは自分が生きてきた道を歌うじゃないですか。これはプロレスラーも同じなんですけど、例えばムーンサルトプレスは誰でも使うけど、武藤敬司さんが自分の肉体の一部を引き換えにしながら打ってきたムーンサルトプレスと他の人のムーンサルトプレスとはどんなに形が綺麗でも違うと思うんですよ。ヒップホップもすごくいい歌があっても、その人以外の人が歌うと違うものなんですよ。僕はずっと興行を手掛けてますけど、面白いプロレスはもちろん大事なんですが、面白い人間がやらないとプロレスって全く意味がないんです。「コイツ、面白いな」「めちゃくちゃな生き方をしているな」とかプロレス界じゃないと見れない人間に僕は会いたいんですよ。アイアンメイデン以外が弾いているアイアンメイデンの曲は、アイアンメイデン感がないじゃないですか。


上野さん めちゃめちゃ分かります!ラッパーは、自分たちが生きてきたことをちゃんと楽曲として伝えなきゃいけないんですよ。俺たちみたいなちょっと歳を取った世代の人間でも若い世代に「これくらいはできるよ」と生き方を見せないといけないし、俺たちの先輩であるZeebraさん、スチャダラパーさん、RHYMESTERさんが歌ってることとか重みが違いますし、それは武藤さんのムーンサルトプレスのような年輪と重みと似ているのかなと思います。プロレスラーの方々は自分の身を削るようにリングに命を捧げて闘っています。ラッパーたちも、言ったことに責任が問われることが多いと思います。J-POPで恋愛の曲を歌うのは、歌手としてはそれでいいかもしれないし、俺もすごい好きです。でもラッパーは何かと「自分が言ったことにちゃんと責任を持てよ」と言われる文化なんですよ。




「ハッピーエンドもバッドエンドも意味の分からない終わり方があるのがエンターテインメントなんですよ」(上野さん)



──ヒップホップはその人の生き方が問われるジャンルですよね。


上野さん そうなんですよ。その部分がプロレスとヒップホップは似ていると思います。MCバトルは総合格闘技的な見方をされるんですけど、背負っているものが違うし、色々な闘い方があるんです。俺はMCバトルに、初期UFCに出ているプロレスラー代表というスタンスで関わりたいですね。


──「ザ・ビースト」ダニエル・スバーン的な感じですね。


上野さん ハハハ(笑)。UFCJAPANのトーナメントを優勝して「プロレスラーは本当は強いんです」と名言を残した桜庭和志選手をイメージしていたんですけど(笑)。正攻法で来る奴らがいる中で、頭に有刺鉄線をグルグル巻きにしてMCバトルで闘いたいわけですよ(笑)。


佐藤選手 ハハハ(笑)。いいじゃないですか!


──それは「ミスターデンジャー」松永光弘さんですね(笑)。


佐藤選手 最高ですよ。上野さんの心意気は好きですね!僕は映画が好きなんですけど、同じセリフでも俳優によって重みや説得力が違うじゃないですか。そういうところにも心をグッと掴まれることがありますね。今、全日本のエース・宮原健斗、新日本のエースで社長の棚橋弘至さんとか、お客さんに興行で満足してもらって笑顔で帰すエンターテインメントとか言っているけど、もちろんそれは大事。でもみんなが笑顔を帰って盛り上がるだけのエンターテインメントって凄く底が浅いような気がするんです。色々な価値観があるからこそエンターテインメントの奥深さが出るわけで。




──確かに!


佐藤選手 ヒップホップは友達が死んだ曲もあれば、友達が刑務所に入ったことを曲にしたり、自分の失恋話を曲にしたり、人生でなかなかうまくいかなかったことがあるから今があるというメッセージがあるじゃないですか。笑顔を帰すことがエンターテインメントみたいなことを言っているプロレスラーはインディーを見ていないと思いますよ(笑)。


上野さん 間違いないですね(笑)。ハッピーエンドもバッドエンドも意味の分からない終わり方があるのがエンターテインメントなんですよ。「今日はよかったな」だけじゃなくて、俺の友達も捕まって刑務所に行っていて、「そいつが帰ってくるまでは俺たちが曲とかライブで温めていくぜ」という気持ちで活動してますよ。


──ラジオに自分の音源を流すことで、刑務所にいる友達に届けるんだというラッパーさんもいますよね。


上野さん 全然いますよ。「少年院であなたの曲を聞いて元気が出ました」とか接してくれる人もいて嬉しいですよね。    

 



──プロレスラーもラッパーさんも色々な人の人生を変えてしまうほどの影響力があるんですね。


佐藤選手 そうですね。あとプロレスラーもラッパーさんも世間からの偏見と闘っていると思うんです。プロレスは「あんなの八百長じゃないか」、ヒップホップは「結局、ダジャレでしょ」とよく言われている。どんなものでも人の心が動くかどうかを主としていないのはプレイヤーだけで、外から見ると「あんなの」という世界なんですよ。




「自分が思った本音は人を動かす力があるんだなと田上VS川田で感じました」(佐藤選手)




──ありがとうございます。では次の話題に移ります。お二人が語ってみたいプロレス名勝負があればお聞かせください。


佐藤選手 これは名勝負かどうかは分かりませんが、色々と考えさせられたのが1991年1月15日全日本・後楽園ホールで行われた田上明VS川田利明(田上明・試練の七番勝負 番外編戦)です。この試合は深夜のリアルタイムで見ていて凄い面白い試合で、川田さんが勝つんですよ。田上さんが負けて「チクショー!」とかなっていて、試合後に握手とかノーサイドになるのかと思いきや、田上さんがヒザをついて倒れている川田さんの顔面を蹴り上げたんですよ。すると会場がとんでもない空気になって(笑)。


──ハハハ(笑)。


佐藤選手 これは空気が読めないということなのかもしれませんが、こんなに30年以上前の話なのに印象に残っている。自分が思った本音は人を動かす力があるんだなと田上VS川田で感じました。


──あの試合は異質でしたよね。また田上さんがファンからブーイングを浴びていた時期で、ダニー・スパイビーに6分で敗れたりとか。


上野さん めちゃくちゃ懐かしいですね!


佐藤選手 あの頃の田上さんは嫌われてましたね。「不屈のプリンス」ってどういう意味やねんと思ってました(笑)。


上野さん ハハハ(笑)。プリンス感が全然ない!


佐藤選手 ひと回り小さい馬場さんみたいだったんですよ。川田戦で田上さんのファンになって、四天王で三沢さん、川田さん、小橋さんには黄色い声援なんですけど、田上さんだけ野太い声援が多くて。


──田上さんのファンはほとんど男性だった記憶があります。


佐藤選手 和田京平さんが「田上が三冠王者になってから日本武道館大会のチケットが売れ残り始めた」と身も蓋もないことを言ってましたよ(笑)。


上野さん ハハハ(笑)。


佐藤選手 田上さんは本当についてない人でそういう立ち位置だったと思うんですけど、大人になってみると、田上さんの存在がひとりいるだけで全然違うんですよ。


──田上さんが投げっぱなしジャーマンをやると、みんな驚くじゃないですか。「田上がまさか!」となるわけで、そういうプロレスラーは必要ですよ。


佐藤選手 あの人、スープレックスする気がないですよ(笑)。上に放り投げているという感じですから。いわゆるいい試合はたくさんありますが、語るとなると何か消化しきれないものを口に入れてしまった感覚に陥る試合はどうも忘れられないんです.。



「俺は辻さんや福澤さんの実況を聞いて育ったので、叩かれる理由が分からないんですよ」(上野さん) 



──ありがとうございます。では上野さん、よろしくお願いいたします。


上野さん これはどうでもいいかしれませんけど、1990年4月13日東京ドームで行われた『日本レスリングサミット』の天龍源一郎VSランディ・サベージですね。「イカ天とはイカす天龍のことであります!」でおなじみの(笑)。


──若林健治アナウンサーの名実況ですね。


上野さん あれは大喜利みたいなあいうえお作文があるんだと(笑)。一年後にSWSで二人は再戦しているんです(1991年4月1日神戸ワールド記念ホール)。そこのテレビ中継でナレーターの木村匡也さんが「天龍の顔面キ~ック♪」と叫んでいて、「イカ天」も木村匡也さんのナレーションもどちらもトラウマみたいな感じになりましたね。兄貴は木村さんのナレーションにブチ切れてましたよ(笑)。


──ハハハ(笑)。木村匡也さんは『めちゃイケ』のナレーターとして有名ですけど、ちょっとあの時代のプロレス中継に関わるのは早かったかもしれませんね。


佐藤選手 僕らは古舘伊知郎さんの実況をほぼ聞いてなくて、福澤朗さんが「ジャストミート!」と言ったり、『プロレスニュース』をやったりして古参のプロレスファンから叩かれる意味が分からなかったんです。めちゃくちゃ面白かったじゃないですか。


上野さん 同感です!辻よしなりさんが実況で「ヒャッホー!」と叫んで一部から批判されていて、これも兄貴が「だからお前はダメなんだ!」とめちゃくちゃ怒ってました(笑)。


佐藤選手 ハハハ(笑)。


上野さん でも俺は辻さんや福澤さんの実況を聞いて育ったので、叩かれる理由が分からないんですよ。


──ちなみに辻さんは未だにSNSで叩かれてますよ。


上野さん ハハハ(笑)。ヒドいなぁ。


──辻さんは古舘さん以降の新日本テレビ史を支えた功労者だと思いますよ。物議を呼んだ実況も個人的にはありだなと思ってましたから。




佐藤選手 1990年代の新日本・東京ドーム大会は辻さんの実況がメインでしたから。だから猪木さんの引退試合の実況を古舘さんが担当することになって、「なんで辻さんじゃないんだ⁈」と思いましたよ。


上野さん 俺もそう思いましたよ。


佐藤選手 僕らの世代はスティングが登場して「カッコよすぎる!!アメリカしてる!」とという辻さんの実況が馴染んでいるんですよ。


上野さん そこで古舘さんに変わるというのが辻さん、可哀想ですよね。

 


  

「俺が主催している興行『ENTA DA STAGE』で今年もYOKOHAMA BAY HALLでやる予定なので、その大一番のために準備する一年になりそうです」(上野さん)

「僕は全日本とは年間契約、専属契約どころか、毎月『来月空いてますか?』と1試合ごとにオファーをもらっていて、これを15年続けているんです。未だに1試合ごとのファイトマネーでやってますよ」(佐藤選手)



──古舘さんが猪木さんの引退試合を実況したのは猪木さんの願いで、二人の約束だったという話は聞いたことがあります。ではお二人の今度についてお聞かせください。


上野さん 今年はアルバムを出すのでそれに向けて動いているのと、俺が主催している興行『ENTA DA STAGE』で今年もYOKOHAMA BAY HALLでやる予定なので、その大一番のために準備する一年になりそうです。


──今年も上野さんは興行師として勝負をされるんですね。


上野さん そうですね。俺はインディー団体をたくさん見てきたので、それこそガラガラの大日本プロレス・川崎市体育館大会で、見ているヤツが対面にいる人しかいないという記憶もあるんです。今はガラガラでも、インディー団体を見てきた人間からするとこれは伸びしろでしかないので、興行主として今年はYOKOHAMA BAY HALLを満員にしたいですね。


佐藤選手 僕は全日本プロレスを守るだけです(笑)。


──ハハハ(笑)。ちなみに佐藤選手は全日本とはフリー契約ということですか?


佐藤選手 僕は全日本とは年間契約、専属契約どころか、毎月「来月空いてますか?」と1試合ごとにオファーをもらっていて、これを15年続けているんです。未だに1試合ごとのファイトマネーでやってますよ。契約見直しの話し合いをもつこともなく(笑)。



対談延長戦!!〜プロレス者同士のフリートーク〜



──その契約形態の選手が全日本ジュニアの中心にいるんですよね。これで対談のお題は以上となりますが、ここから少しフリートークで行きましょう。私と佐藤選手は2022年11月に高円寺パンディットでトークイベントをさせていただきましたが、この時に佐藤選手が話してくださったリアルジャパンプロレス(現・ストロングスタイルプロレス)に参戦した経緯の話が最高に面白いので、この場で再びお聞かせいただいてもよろしいですか?


佐藤選手 あれはIGFに出た次の日に要町のパンクラス事務所に行って、帰りに駐車場に行こうと思ったら急に車が出てきて「危なねぇよ」と思っていたら、その車が僕と目が合った瞬間にバーっと走り出したんですよ。これは交通事故なので、車を停めて運転手を引きずり降ろして「ふざけんな!」と言ったら、向こうが「警察を呼んでくれ」と言うので、二人で目白警察署にいくことになったんです。


上野さん はい。


佐藤選手 警察に行って僕は「絶対にあいつを許さない」と12時間、籠城をしたんですよ。なかなか帰らない僕に警察の人が連絡して呼んできたのが新間寿さんだったんです。午前6時に新間さんが現れて「お前、佐藤光留だろ。IGFで見たぞ。もう帰るぞ」と言われて帰らさせられて、初めて会話する新間さんを軽自動車で家まで送ったんですよ(笑)。


上野さん ハハハ(笑)。


佐藤選手 それで新間さんから「次のプロレスの試合はいつだ?」と聞かれて、「DDTに出ます」と答えると「俺はあの団体は知らないから、お前、佐山(聡)の団体(リアルジャパンプロレス)に出ろ」と。そこから急にリアルジャパンの平井代表から電話がかかってきて、「新間会長から言われたので無理やり1試合ねじこむことになりました」と言われリアルジャパンに参戦することになったんです。


──こうして2009年9月11日後楽園ホール大会の和田城功戦でリアルジャパン初参戦を果たしたわけですね。


佐藤選手 リアルジャパンは和気あいあいとしていたDDTの控室とは違ってみんな怖いんですよ!あと乗り越えなきゃいけない問題があって、当時の僕はメイド服を着て入場していたんです。「本物のプロレスを取り返す」と謡っているリアルジャパンでメイド服で入場していいのかを当時の現場監督・折原昌夫さんに聞きに行くと「佐山先生に直接聞いてくれ」と言われたので、「佐山総統」と書かれた佐山先生の控室をにメイド服を着て行ったんですよ。


上野さん それは地獄だ!


佐藤選手 「失礼します」と控室に入ると、奥に佐山先生が立っていて、その後ろに桜木裕司と瓜田幸造がいて格闘技の話をしてました。僕の姿を見た桜木と瓜田は「えっ」という顔をして、佐山先生は全然驚いてないんです。僕は「佐藤光留と言います。今日、急遽出場することになりましたが、この恰好(メイド服)がこの団体に相応しいのか佐山先生に判断していただきたく控室に来ました」と言うと、佐山先生が二回頷いて、桜木と瓜田に「お前ら、これぞ武道だ!」と言ったんですよ(笑)。


上野さん ハハハ(笑)。


佐藤選手 言われた方も「これが武道じゃないだろ!」と思いながらも、佐山先生が「これは宮本武蔵の『五輪書』にもある何々の兵法で…」と語り出して、桜木と瓜田が「押忍」と敬礼して、そのまま僕は入場しましたよ。新間さんは僕がメイド服で登場して驚いたらしいですけど、試合はよかったので、そのままリアルジャパンにレギュラー参戦するようになりました。


上野さん スゲェ話ですね!!お客さんの反応はどうだったんですか?


佐藤選手 最初は「なんだこいつは⁈」という反応でしたが、試合をすると「なかなかやるじゃないか」と。基本的にリアルジャパンのファンはみんな上から目線なので(笑)。リアルジャパンは今のプロレス界では珍しいインディー感満載のエピソードがたくさんあって、話し出したら止まらないですよ(笑)。以前、リアルジャパンの控室で長州力さん、天龍源一郎さん、藤波辰爾さん、長井満也さんと一緒で、早々に長井さんは「こんな控室に居られないよ」と出て行って、僕はこの三人と同じ控室になんて一生に一回しかないなと思ったので残ったんです。


──一生の記念にはなりそうですね!


佐藤選手 長州さん、天龍さん、藤波さんは明らかに「なんでこいつがいるんだ」という顔をしながら、会話していてたんですけど、マジで3人共、何を言っているのか聞き取れな

かったんですよ(笑)。


上野さん ハハハ(笑)。


佐藤選手 三人と同じところで笑っているから会話は成立しているようなんですけど。


──テレパシーで会話しているんですよ。


上野さん 肉体言語ですよ(笑)。


──リアルジャパンのような団体があるからこそプロレスの多様性は示しているような気がしますよ。


佐藤選手 そうなんですよ。いいプロレスばっかり見て育ってもしょうがないんですよ。今のプロレス界は新日本と新日本を水で薄めた団体しかない。だってカナダ人のアブドーラ・ザ・ブッチャーとタイガー・ジェット・シンが「スーダン出身」「インド出身」と言われるのがプロレス界の素敵なところじゃないですか。でも今、スーダンもインドも含めて世界各国のプロレスはほとんどWWEが占めている。そう考えるとインターネットは必ずしもプロレスにプラスをもたらしているわけじゃないんだなと思いますね。プロレスはもっと自分が歩いてきた道や血筋を大事にしていくともっと面白くなるんですよ。今後、その価値観を戻していければいいですね。


──それを全日本で戻していってくださいよ。


佐藤選手 それは無理です(笑)。


──佐藤選手には全日本以外にもハードヒットという城がありますからね。


佐藤選手 そうですね。今年の川崎球場(富士通スタジアム)大会は構想では本当にヒドい内容になると思いますよ(笑)。


上野さん 白馬で入場とか見たいです(笑)。


佐藤選手 IWAジャパン川崎球場大会ですね!白馬に乗ったテリー・ファンク、かっこよかったんですよ!以前、天龍さんに来てもらったことがあって、リリーフカーに乗って登場してもらうために天龍プロジェクトで身体を張った試合をやってました(笑)。でもリリーフカーがなくて、川崎のトヨタが持っている西城秀樹さんが乗っていたオープンカーがあって、当日に車のナンバーを見ると「708」で僕の誕生日で、天龍さんの娘さんの紋奈さんの誕生日だったんです。それで紋奈さんが「これは私が運転するしかない」と運転して『サンダーストーム』に乗って天龍さんが入場したんです。30キロくらいのスピードでスタジアム内を2周してましたね(笑)。またこんな感じの無茶苦茶なトークイベントでいつか高円寺でやりましょうよ!


──いいですね!その時は上野さんも一緒にやりましょうよ!


上野さん いつでもお声掛けいただければ行きますよ!


佐藤選手 そのイベント名は「幸村ケンシロウを語る会」にしましょう(笑)。


──ハハハ(笑)。素晴らしい締めくくりになりました!佐藤選手、上野さん、本当にありがとうございました。お二人のご活躍を心からお祈りしております。


(プロレス人間交差点 佐藤光留✕サイプレス上野・完/後編終了)














ジャスト日本です。



「人間は考える葦(あし)である」



これは17世紀 フランスの哲学者・パスカルが遺した言葉です。 人間は、大きな宇宙から見たら1本の葦のようにか細く、少しの風にも簡単になびく弱いものですが、ただそれは「思考する」ことが出来る存在であり、偉大であるということを意味した言葉です。


プロレスについて考える葦は、葦の数だけ多種多様にタイプが違うもの。考える葦であるプロレス好きの皆さんがクロストークする場を私は立ち上げました。



 

さまざまなジャンルで活躍するプロレスを愛するゲストが集まり言葉のキャッチボールを展開し、それぞれ違う人生を歩んできた者たちがプロレス論とプロレスへの想いを熱く語る対談…それが「プロレス人間交差点」です。

 
 
 

 

これまで2度の刺激的対談が実現しました。




プロレス人間交差点 棚橋弘至☓木村光一 


前編「逸材VS闘魂作家」  

後編「神の悪戯」 

 




3回目となる今回はプロレスラー・佐藤光留選手とラッパーのサイプレス上野さんによる対談をお送りします。

 

 

 

 

 

(この写真は御本人提供です)




佐藤光留

 1980年7月8日生まれ。岡山県岡山市出身。173cm 93.10kg 

主要タイトル歴:世界ジュニア、アジアタッグ、IJシングル 

スポーツ歴 :レスリング、柔術、墓石麻雀5級 

得意技: 蹴り、関節技、北斗百裂アウトレイジ野球 趣味・特技:釣り、きもちく拳法 

好きな有名人: 来栖うさこ、岬恵麻、エロマンガパンチ 

好きな食べ物: sio

 会場使用テーマ曲: 「俺ら代表取締役辞任するだ」鳥羽周作


1999年にパンクラスに入門。総合格闘技で腕を磨き、2008年よりプロレス参戦。以後、DDTや全日本プロレスで活躍、 全日本ジュニアに強いこだわりを持ち絶対的な中心を自負する。ミスター・天龍プロジェクトの異名も取る。'23年3月開催のジュニアの祭典では田口隆祐&今成夢人と変態トリオを結成。8月の自主興行ではエル・デスペラードと一騎打ち。〝現在進行形のU〟と称される大会「ハードヒット」のプロデュースも行っている。 




 

 




(この写真は御本人提供です)

 


サイプレス上野


サイプレス上野とロベルト吉野のマイクロフォン担当。通称『サ上』。

2000年にあらゆる意味で横浜のハズレ地区である『横浜ドリームランド』出身の先輩と後輩で、サイプレス上野とロベルト吉野を結成。"HIP HOPミーツallグッド何か"を座右の銘に掲げ、"決してHIPHOPを薄めないエンターテイメント"と称されるライブパフォーマンスを武器に、大型フェスやロックイベントへの出演、バンドとの対バンなどジャンルレスな活動を繰り広げ、ヒップホップリスナー以外からも人気を集めている。


2020年にはサイプレス上野とロベルト吉野として結成20周年を迎え、2022年3月16日には漢a.k.a GAMI、鎮座DOPENESS、TARO SOUL、KEN THE 390、tofubeats 、STUTSらが参加する7枚目のオリジナルフルアルバム「Shuttle Loop」をリリース。


現在、サイプレス上野は、テレビ東京「流派-R SINCE2001」、FMヨコハマ「BAY DREAM」にレギュラー出演中の他、TVCMナレーションなど、越中詩郎級の『やってやるって!』の精神で多方面に進撃中。


公式HP  http://sauetoroyoshi.com/






佐藤選手、上野さん、進行を務めた私も1980年生まれのプロレス者同士です。お二人のプロレスとの出逢い、1990年代のプロレスについて、好きな名勝負、今後について…。最高にディープでマニアックで、最初から最後までずっとゲラゲラ笑いながらプロレスを語らう対談となりました。この記事を読んでストレス発散やフラストレーション解消になれば幸いです!


 

是非ご覧下さい!




プロレス人間交差点 

「変態レスラー」佐藤光留☓「LEGENDオブ伝説」サイプレス上野

前編「1980年生まれのプロレス者」









「子供の頃は新日本か全日本に入ってプロレスラーになろうと考えてました」(佐藤選手)




──佐藤選手、上野さん、「プロレス人間交差点」にご協力いただきありがとうございます!今回は進行の私も含めて1980年生まれのプロレス者3人でワイワイとプロレス談義で盛り上がりましょう!よろしくお願いします!


佐藤選手 よろしくお願いいたします!


上野さん よろしくお願いいたします!


──まずはお二人のプロレスとの出逢いについてお聞かせください。


佐藤選手 僕は保育園の卒業文集で「プロレスラーになりたい」と書いているんです。恐らく4~5歳から見ていて、2代目タイガーマスクが活躍していた時代の全日本プロレスの記憶がうっすらあるんですよ。プロレスを初めて見て、とにかくカッコよすぎて衝撃を受けました。その後、音楽やアイドルに衝撃を受けましたが、プロレスを超える衝撃はなかったです。


──幼少期からプロレスを見ているんですね。


佐藤選手 一時期、『機動警察パトレイバー』を見過ぎて警察官になろうと思ったことはありましたけど(笑)。それ以外はずっとプロレスラーになりたかったんです。最初はテレビで新日本と全日本を見ていたのですが、小学4年生の時に同じクラスにいたプロレスファンの子に「週刊プロレスという雑誌があるぞ」と言われて読むと、新日本と全日本以外の団体や女子プロレスを知りました。でも子供の頃は新日本か全日本に入ってプロレスラーになろうと考えてましたね。


──ということは佐藤選手はプロレスに出逢ってから40年近くになるんですね。


佐藤選手 そうですね。だから本当にいい人生を歩んでいるなと思いますよ。パンクラスの入門テストは一度落ちて、高校卒業してから5月に再度入門テストを受けて合格して6月に入門したんですよ。プロレスラーになれなかったらという不安はほとんどなくて、プロレスラーにはなるものだと考えてました。その勘違いがいい方向に行ったのかもしれません。あと僕は人との出逢いには恵まれましたね。


──それはどういうことですか?


佐藤選手 当時のパンクラスは道場が船木誠勝さんの東京と鈴木みのるさんの横浜に分かれていて、試験の内容はダントツだったんですけど、船木さんが「俺、あいつの目が嫌い」と言ったらしいんですよ(笑)。


上野さん  ハハハ(笑)。


佐藤選手 船木さんは強そうな人間をピックアップして鍛えたらパンクラスは強くなるという考えだったんですけど、鈴木さんは面白い人間を揃えないと商売として成立しないという考え方でした。船木さんから外された僕は鈴木さんから「俺が面倒見るよ」と拾われてからパンクラスには入れたんです。それがなかったら僕は、今プロレスをやってないですよ。その時点からその後も漫画みたいな出逢いがたくさんあるので。人との出逢いの運だけは僕は尋常じゃないですよ。


──パンクラスの道場も東京と横浜に分かれている時代だったからこそ、入門できたわけですからね。


佐藤選手 そうですね。練習生がみんな使えないヤツばかりで辞めていって僕一人だけになって、他の先輩が「大変だね。俺も手伝うから頑張って」と励ましてくれる中で鈴木さんだけ「よかったな、使えないヤツがいなくなって。これでお前に好きにできるな」と言うんですよ。こんな発想の人、いないじゃないですか(笑)。


上野さん スゲェっすね(笑)。


──鈴木選手「プロレスをやりたい」と相談した時に偶然、DDTの高木三四郎社長から鈴木選手に電話があったんですよね。


佐藤選手 「プロレスに参戦するならどこに電話しようかな」と車の中で鈴木さんと話していたら鈴木さんの携帯に高木さんから「今度、ハードヒットというUWFっぽいブランドを立ち上がるのですが、鈴木さんのところにいたメイド服を着た選手いましたよね。その選手、プロレスやりませんかね?」と電話があって、二人でサブイボが立ちましたよ。これは超常現象レベルですよ。


──そこからのご縁からプロレスラーとしての佐藤選手の活躍に繋がっているわけですね。


佐藤選手 全日本に出るときも、ジュニアリーグ戦をやっていて、ジミー・ヤンを呼んだんですけど、結構ギャラが高かったので予算がなかったそうなんです。「新顔で誰を呼ぶのか」という話になって、武藤敬司さん(当時全日本社長)が「あいつでいいじゃん、鈴木の横にいるヤツ」と言ったらしいんですよ。そこから全日本に参戦することになって、リーグ戦は決勝には行けませんでしたが、たまたま用事がなかった大和ヒロシがいて、あいつとお互いに顔面から血が出るほど殴りあってウケたんです。それが当時のマッチメーカーにツボにハマって二人の抗争を続けることになったんですよ。




「プロレスというよくわからなくて自分の中で嚙み砕くことができない魑魅魍魎な世界の動向を東京スポーツを読んで味わってました」(上野さん)




──そこからずっと佐藤選手は全日本に参戦を続けているわけですよね。では上野さん、よろしくお願いいたします。


上野さん 俺の兄貴2人がプロレスファンで幼稚園の頃からテレビの前に座らさせられてプロレスを見てましたよ。最初は「これが面白いんだぞ」と完全に言わされている感じで、「お前はプロレスを好きになるんだぞ」という洗脳を受けている感じでした。親はあまりプロレスを好きじゃなかったけど、兄貴2人の影響をモロに受けてずっとプロレスを見続けています。


──佐藤選手も上野さんも幼少期からずっとプロレスを見ているということですね。


上野さん 佐藤選手と完全に同じとこを見ているんですよ。2代目タイガーマスクの試合も見てますし、土曜夕方4時に放送していた新日本も見ていて、蝶野正洋選手のCM(日本文化センターのテレフォンショッピングでパワートレーナーというトレーニング機器を蝶野選手が紹介する内容)を流れていて「俺も鍛えなきゃいけない」と思ったりとか(笑)。あと兄貴の英才教育で、週刊プロレス、週刊ゴング、東京スポーツはずっと読んでました。



──おおお!それは猛者ですね!


上野さん プロレスというよくわからなくて自分の中で嚙み砕くことができない魑魅魍魎な世界の動向を東京スポーツを読んで味わってました。


佐藤さん 東京スポーツでは余裕でネッシーとか捕まってましたもんね(笑)。


上野さん ハハハ(笑)。


──東京スポーツのネッシーネタをワイドナショーが取り上げるんですよ(笑)。


上野さん UMAとネッシーの第一報は大体、東京スポーツなんですよ(笑)。


佐藤さん ハハハ(笑)。


上野さん これはプロレス絡みのインタビューで話してもなかなか乗せてくれないんですけど、亡くなった真ん中の兄貴が俺に寝床でやっていたのが「ハル薗田」というずっとゴロゴロ転がりながらやる謎の技をかけられたりとか(笑)。ヒップホップで言うディグ(ラッパー・DJなどが、過去のレコードを堀り探すことを意味するヒップホップ用語)みたいな感じで、オールドスクールなプロレスも掘っていかないといけないなと思って、兄貴たちが持っていたプロレス本や雑誌を読み漁ってましたよ。


──週刊プロレス、週刊ゴング、東京スポーツを買い揃えているのは相当なマニアですよ。


上野さん あと週刊ファイトも買ってましたよ(笑)。中学になって街に出ると誰よりも早く読みたいから自分で週刊ファイトを買うと、兄貴も週刊ファイトを買っていて、親父に「なんで同じ本が3冊もあるんだよ!」と怒られたりとか(笑)。プロレスを好きな友達には出逢わなかったんですけど、兄貴2人が凄すぎたので、この2人に勝たないという想いでプロレスを深く掘るようになりましたね。





──10代で週刊ファイトのI編集長の洗礼を受けたのは凄いですよ。


上野さん 戸塚のローソンで週刊ファイトを買って「やっぱりプロレスは底が丸見えの底なし沼」と思いながら読んでました。


佐藤選手 週刊ファイトはたまに本当のことがスクープであるんですよ。


上野さん そうなんですよ。さすがに大阪の新聞社はヤバいな、違うなと思ってましたよ!本当に絶妙なんですよね。


佐藤選手 カート・アングルのプロレス転向を日本で最初に報じたのは週刊ファイトだったと思いますよ。


上野さん えええ!そうなんですね!


佐藤選手 鈴木さんは「ファイトだもんな」と言ってましたね(笑)。


──ハハハ(笑)。


上野さん 全部飛ばし記事みたいな新聞がコンビニや駅で買えたのですから凄い時代ですよ(笑)。




「インディー団体の選手も『誰だよ、これ』と言いたくなる方が多くて、幸村ケンシロウという選手がいるんですけど。ここで話してお二人が頷いているのが本当に怖いですけど(笑)」(佐藤選手)




──確かに!佐藤選手も上野さんも思春期に見たプロレスは1990年代のプロレスだったと思います。この時代のプロレスについてお二人の想いをお聞かせください。まずは佐藤選手、お願いいたします。


佐藤選手 『G1 CLIMAX』が始まったりとか色々とあった1990年代ですが、僕も上野さんもジャストさんも『三年B組金八先生』世代じゃなくて、アントニオ猪木さんもセミリタイアしていた頃からプロレスにどハマりしているはずなんですよ。ジャイアント馬場さんは『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』に出ている印象が強いですし、アブドーラ・ザ・ブッチャーは本当に実在しているんだとか、闘魂三銃士が台頭して、ジャンボ鶴田さんはギリギリ全盛期は見れたかなという時代の変革期で、新しいことを始めていてプロレスに入りやすかったような気がします。


──同感です!


佐藤選手 これは漫画でもそうなんですけど、さっき上野さんがおっしゃった魑魅魍魎という言葉は、悪の四天王の下にいる雑魚キャラの中にもドラマがあるんだということを当時の泡沫インディー団体が教えてくれたんですよ。これが今の僕の人生に凄く大きな影響を受けているなと。生まれた時から実家がお金持ちでいい体験をたくさん積ませてもらっている人がいたとして、その人はいいものを10知っている。でも僕はいいものを5までしか知らないけど、0から下のマイナスを10知っている。そうなると僕の知識量は15なんですよ。悪いものを知っていても知識に含まれるわけで、いいものだけを知っているだけでは他には勝てない。これはインディー団体を見ていたからこそたどり着いた僕の結論なんですよ。プロレスそのものがまだ「なんでこんなものを見ているんだ」と世間から偏見の目で見られている時代にインディー団体が無限増殖していくわけですから(笑)。


上野さん 確かにそうですよね!


佐藤選手 「俺はこんなプロレスを知っているんだぞ」と。新しいレンタルビデオができたら、必ずプロレスコーナーに行って、まだ誰も見ていないドインク・ザ・クラウンが特集されているアメリカのビデオを借りたりとか(笑)。インディー団体の選手も「誰だよ、これ」と言いたくなる方が多くて、幸村ケンシロウという選手がいるんですけど。ここで話してお二人が頷いているのが本当に怖いですけど(笑)。


上野さん ハハハ(笑)。


佐藤選手 誰も知らないですよ(笑)。幸村ケンシロウが1998年に静岡で開催された柔術の大会に出ていて、僕も高校レスリングを卒業して、まだ実戦を積みたかったので親に許可を取って新幹線で移動してその大会に出たんですよ。この大会は北岡悟も出てたらしいんですよ。大会の出場選手名簿を見ると幸村ケンシロウがいるんですよ。あの幸村ケンシロウ

なのかと(笑)。恐らく自分がプロレスをやっていることを知っている人はいないと思ってエントリーしたはずなんですよ。でも幸村ケンシロウにやたらと熱視線を送る高校生がいたんですよ、それが僕ですよ(笑)。


──最高じゃないですか(笑)。


佐藤選手 地元に帰って「柔術の大会に幸村ケンシロウが出てたよ」と言っても誰も知らない(笑)。それが快感でした。


上野さん それはヤバい(笑)。


──幸村ケンシロウさんは西日本プロレスの印象が強いですね!


上野さん 確かに!


──当時の週刊プロレスや週刊ゴングが末端のインディー団体でも取り上げてくれたから知識量として幸村ケンシロウさんを知っている人はいるかもです。今のファンは幸村ケンシロウさんは確実に知らない人がほどんどでしょうね(笑)。


佐藤選手 ハハハ(笑)。


上野さん 知らないでしょう!多分日本だけじゃなくて世界で、今の時代に幸村ケンシロウの話をしているのはこの対談の場だけですよ(笑)。俺も何十年ぶりにその名前を聞きましたよ(笑)。


佐藤選手 1990年代だとメジャーでは長野さんがG1優勝したり、nWoTシャツが流行ってみんなで着てたりとか。でもメジャーだけを知っていてもプロレスファンを名乗っちゃいけないんだというある種の義務感はありましたね。


上野さん その気持ち、よく分かります!




「俺はメジャーもインディーも大好きで、学校とかで『プロレス知っているよ』とか言われると『お前に何が分かるんだよ』という反骨心を抱いてました」(上野さん)




──メジャーもインディーの双方を知っておくのは大事ですよね。佐藤選手から幸村ケンシロウさんという衝撃のパワーワードが飛び出しました(笑)。あとクラッシャー高橋さんとかもあの時代のインディーらしい選手ですよね。


上野さん ハハハ(笑)。


佐藤選手 クラッシャー高橋さんは一回、試合をしたことがありますよ。館山の自衛隊がやるお祭りでNOSAWA論外さんが「佐藤君、リングを運んでくれない?」と言われて、メインイベントの6人タッグに出ると対戦相手のひとりがクラッシャー高橋さんでした。凄いおとなしくて、クラシックなアメリカンプロレスをやる人で全然クラッシャーじゃなかったですよ(笑)。


──ハハハ(笑)。では上野さん、1990年代のプロレスについて語ってください。


上野さん 佐藤選手とは恐らく通っている道が一緒なのでインディーの話をすると尽きないと思うんですよ。


佐藤選手 マジですか!


上野さん 先ほど佐藤選手が話題にしましたけど、nWoが大ブームだった頃に、初めて組んだラップグループで「みんなでnWoTシャツを着てライブしよう」と提案して、六本木の闘魂ショップに買いにいったのをよく覚えていますよ。地図も読めなくてどこにあるのかも分からなくて、しかも真夏でめちゃくちゃ暑くて「コンクリートジャングルってこういうことだな」とか言いながら彷徨ってなんとか買えたんですよ。nWoTシャツは買えてライブに挑んだんですけど、それが散々な内容で終わって、最終的にライブ後にみんなで喧嘩になりました(笑)。


佐藤選手 ハハハ(笑)。


上野さん 俺はメジャーもインディーも大好きで、学校とかで「プロレス知っているよ」とか言われると「お前に何が分かるんだよ」という反骨心を抱いてました。ちょうどその頃は日本語ラップのUSヒップホップでもメジャーシーンに対してアンダーグラウンドヒップホップには対抗心があって、アンダーグラウンドにいるヤツらのレコードを持っている人間はヤバいという風潮があったので、プロレスと似ていて凄く居心地がよかったんですよ。インディープロレスもアンダーグラウンドヒップホップも好きだったので。プロレスもヒップホップも「お前らが知らない世界を俺は知っている!」と自分の酔っているところはありました(笑)。




「上野さんが自分に酔うという話をされていましたが、僕だったら冴夢来プロジェクトの岡山大会でミノワマンさんの試合を見たことがあって(笑)」(佐藤選手)



──プロレスとヒップホップも親和性があったんですね!


上野さん 高校を卒業してラッパーを目指そうと考えたのですが、なぜか大道塾の門を叩いていたんですよ。修斗と『THE WARS』で対抗戦をやっていた時で、修斗はメロコアのバンドとか例えばBRAHMANとかは佐藤ルミナ選手と仲が良かったんですけど、俺たちはそうじゃない。市原海樹という偉大な先輩がいるし、俺はこっちで喧嘩空手をやるしかないだろうと。でも大道塾で黒帯とかWARSに出場されていた強い方に当たってボコボコにされて、「これはもう無理だ。おとなしくラップやろう」と思いましたよ(笑)。


佐藤選手 全然、おとなしくないじゃないですか(笑)。


上野さん もうラップと格闘技の両立は無理だと(笑)。


佐藤選手 上野さんが自分に酔うという話をされていましたが、僕だったら冴夢来プロジェクトの岡山大会でミノワマンさんの試合を見たことがあって(笑)。


上野さん それはヤバい!


佐藤選手 そのメインイベントが剛竜馬&タイガー・ジェット・シンVSザ・グレート・センセイ&忌神だったんですよ(笑)。


上野さん ハハハ(笑)。


佐藤選手 岡山は新日本と全日本が年2回来て、全日本女子プロレスやFMWがたまに来る所なんですよ。冴夢来プロジェクトの興行はかなりガラガラだったんですけど、第1試合が菅沼修VS美濃輪育久(現・ミノワマンZ)だったんです。この試合で美濃輪さんに惚れちゃって、ファンになりました。ちなみに美濃輪さんがファンにした初めてのサインが僕なんですよ。


──ええええ!


佐藤選手 冴夢来プロジェクトのパンフレットを買うじゃないですか。それが半年前のもので、掲載している選手が出ていないとか。ダフ屋が束のようにチケットを持ってて、「有り金を全部出したら、入れてやるよ」って言われて、「高校生なんて500円しか持ってないです」と反社会勢力に僕は嘘ついたんすよ(笑)。向こうも気づいていたと思いますけど、入れてくれましたね。反社会勢力の人の優しさがなかったら僕はパンクラスに入ってないですから。


──確かにそうですよね。


佐藤選手 週刊プロレスで熱戦譜というプロレス興行の試合結果を伝えるコーナーがあって、そこで冴夢来プロジェクト岡山大会で出ていた美濃輪さんの名前を確認しました。格闘技通信と週刊プロレスを読むと、美濃輪さんはパンクラス・ネオブラッドトーナメントに出てその後パンクラスに入団しているので、僕もパンクラスに入りたいと思ったんですよ。


──冴夢来プロジェクトの存在は佐藤選手のレスラー人生において大きな分岐点になりましたか?


佐藤選手 そうですね。今いろんなところで菅沼修さんと会う度に周りに「僕がパンクラス入るきっかけとなった人です」と言うんですけど、「どういうこと?」と頭にくえっしょんマークがたくさん浮かぶわけです(笑)。



──ハハハ(笑)。


上野さん 話が変わりますけど、プロレスTシャツの作り方とかは非常に勉強になったんですよ。今の時代、プロレスも音楽のグッズもしっかりしたものを作って売らないとかなり文句を言われるじゃないですか。昔のTシャツはプエルトリコとかで作っているような代物なので、結構シワシワで(笑)。FREEDOMSとか来るメキシカンのレスラーが売っているTシャツを買うとあの頃に戻れて涙が出そうになるんです。「こんな粗末なもので、くるくる巻いても持ってきて売っているのか」と。俺もツアーとかに出るから気持ちが分かるし…。


佐藤選手 分かりますよ。


上野さん 特に後楽園ホールで買った剛竜馬選手のTシャツがあまりにもひどすぎて、後年自分だけのリメイクで作り直しましたよ(笑)。


佐藤選手 スゲェ!!


上野さん 本当にTシャツの素材がペラペラで、なんて言えばいいんだろう…。




──100均レベルですか?


上野さん 余裕で100均レベルです(笑)。


佐藤選手  ハハハ(笑)。


──今のTシャツの話は剛さんらしいですね(笑)。お金の汚さとか。


上野さん ハハハ(笑)。本当に現物を見せたいほどひどいんですよ(笑)。でも、あの時にプロレス界にしごいてもらったような気がしていて、Tシャツやグッズのクオリティーはどんどんよくなっていったのは嬉しかったのですよ。パンクラスとか凄いオシャレなグッズが出たりとか、あとW★INGのTシャツはマニアックでオシャレなヤツには響くアイテムが多

かったですね。ただプリントがどこの国でしているのか分からなくて匂いがヤバい(笑)。


──ハハハ(笑)。


佐藤選手 今は配信の時代でなんでも見れてしまうんですよ。簡単に見れて、見たらすぐに帰って「プロレスは面白い」だけで終わっている。それが案外、「このジャンルは大丈夫なのか⁈」と思う瞬間だったりするんです。グッズも粗雑なものを売るとSNSで批判されて、謝罪することになって「ちゃんとします」と交換商品が送られたりするじゃないですか。剛さんのTシャツのようなひどいものが今の時代に売られると「こんなものを買わせやがって!!」と批判の嵐になるでしょう。でもこのひどいTシャツをいいものにするにはどうすればいいのだろうという発想が今の時代では生まれにくいですよ。


上野さん 俺はそっちのほうに頭を使うのがプロレスだと思うんですよ。プロレスの受け身とか練習はしたことはないですけど、「今回は裏切られても次のTシャツの質はいいんじゃないか」とポジティブに考えたりしましたよ(笑)。


佐藤選手 僕はジャイアントサービスには恨みしかないですよ(笑)。


上野さん 馬場さんのTシャツもかなり素材が悪かったですから(笑)。


佐藤選手 どんなグッズを売店で買っても馬場さんがサインを入れちゃう(笑)。今振り返ると経験っていい経験ばかりが自分を強くするわけじゃないんですよね。「悔しい」「腹が立つ」といった経験の方が発見が多くて学べたりするんですよ。当時のプロレスに携わったときはいろんな経験をさせてもらって成長したなと思いますよね。


──あの時代にXとかSNSがあったらヤバかったでしょうね。


佐藤選手 もうアウトですよ(笑)。


上野さん 絶対アウトです(笑)。


(前編終了)













 ジャスト日本です。

 

プロレスの見方は多種多様、千差万別だと私は考えています。

 

 

かつて落語家・立川談志さんは「落語とは人間の業の肯定である」という名言を残しています。

 

プロレスもまた色々とあって人間の業を肯定してしまうジャンルなのかなとよく思うのです。

 

プロレスとは何か?

その答えは人間の指紋の数ほど違うものだと私は考えています。

 

そんなプロレスを愛する皆さんにスポットを当て、プロレスへの想いをお伺いして、記事としてまとめてみたいと思うようになりました。

 

有名無名問わず、さまざまな分野から私、ジャスト日本が「この人の話を聞きたい」と強く思う個人的に気になるプロレスファンの方に、プロレスをテーマに色々とお聞きするインタビュー企画。

 

それが「私とプロレス」です。

 

 

 

 今回のゲストは、「魂の絵師」連れてってくれ1000円さんです。

 

 
 
 
 
 
(画像は本人提供です) 

   

連れてってくれ1000円

小学生の頃にプロレスに心奪われ、中学生の頃に三沢光晴に命を救われたノアオタ。
イラストや動画などを通じてプロレスの面白さを伝えるべく活動中。
・X:https://twitter.com/shun064 

・YouTube:「あつまれのあのあファンチャンネル」https://youtube.com/@user-so8er3dx1e
 

 

 

私は連れてってくれ1000円さんが運営されているYouTubeチャンネル『あつまれのあのあファンチャンネル』にゲスト出演させていただきました。

 

 

 

 

 

また、私のXでのアイコンは連れてってくれ1000円さんが作成してくださいました。

 

 

 

何かとお世話になっている連れてってくれ1000円さんにロングインタビューをさせていただきました。

 

プロレスとの出逢い、初めてのプロレス観戦、好きなプロレス団体、好きなプロレスラー、YouTubeチャンネルを始めるきっかけ、好きな名勝負…。

 

そして、連れてってくれ1000円さんが長年、ファンとして追い続けているプロレスリングノアについてじっくり語ってくださいました。

 

 

 

 
是非ご覧ください!
 
 
私とプロレス 連れてってくれ1000円さんの場合
「第1回 三沢さんが生きる目標だった」
 
 
 
連れ1000さんがプロレスを好きになったきっかけ
 

 
──連れてってくれ1000円(以下・連れ1000)さん、このような企画にご協力いただきありがとうございます! 今回は「私とプロレス」というテーマで色々とお伺いしますので、よろしくお願いいたします。
 
連れ1000さん こちらこそよろしくお願いします!
 
──まずは連れ1000さんがプロレスを好きになるきっかけを教えてください。
 
連れ1000さん 最初は新日本プロレスですね。1981年頃だと記憶しています。毎週金曜夜8時にテレビ朝日系で放送されていた『ワールドプロレスリング』を見てまして、アントニオ猪木さん、長州力さん、初代タイガーマスクがいる中で藤波辰巳(現・辰爾)さんのファンになったんですよ。
 
──そうだったんですね!
 
連れ1000さん 当時、すごいムキムキでかっこよかったんです。過去を遡ってジュニア・ヘビー級時代の藤波さんのドラゴン・ロケットとドラゴン・スープレックスで完全に魅了されました。プロレスの入口は新日本だったんですけど、毎週土曜の夕方に日本テレビ系で『全日本プロレス中継』が放送されていて、最初に見た試合がテリー・ファンクVSスタン・ハンセンで、テリーが絞首刑されたんですよ。
 
──1982年4月14日の大阪府立体育会館大会ですね。
 
連れ1000さん 残酷なシーンが当時の全日本ではあったので、母親からは「全日本は見たらあかん」と言われましたけど、ダメと言われると見たくなるじゃないですか。だから親の目を盗んで全日本をちょこちょこ見てました。


初めてのプロレス会場観戦
 
──ちなみに初めてのプロレス会場観戦はいつ頃ですか?
 
連れ1000さん テリー・ファンクが引退する1983年8月26日・全日本『スーパーパワーシリーズ』後楽園ホール大会だったと記憶していて、初来日のテリー・ゴディがパワーボムを初公開した試合を見ているんですよ。(1983年8月26日後楽園ホール大会でスタン・ハンセン&テリー・ゴディVSジャンボ鶴田&天龍源一郎で、ゴディが天龍を相手にパワーボムを日本初公開している)
 
──そうだったんですね。天龍さんはその時期、パワーボムのような技ができないかなと試行錯誤していたんですよ。パイルドライバーの態勢からフェースバスターとかも使っていました。
 
連れ1000さん 確かにフェースバスターを使ってましたね。あと京都府立体育館に全日本が来たときはよく観戦しました。
 
──京都府立体育館は今の大阪府立体育会館よりも大箱という印象があります。
 
連れ1000さん デカいです。京都府立体育館は満員で1万人くらいは入りますよ。今はプロレス団体は京都ではKBSホールでしかやらないんですけど。



海外に対する憧れを植え付けてくれた全日本プロレスとハーリー・レイス


 
──ありがとうございます。ここからは連れ1000さんの好きなプロレス団体について語ってください。まずは全日本プロレスです。
 
連れ1000さん 当時(1980年代)の全日本を好きだった人の多くが語るかもしれませんが、全日本は外国人レスラーが魅力的だったんです。ジャイアント馬場さんのルートから来日してくる外国人レスラーが豪華で強豪が多くて好きでした。あとNWA世界ヘビー級王座に憧れましたね。ハーリー・レイスが巻いていた「レイスモデル」が特に好きで、ダンボールで作ったほどです(笑)。
 
──「レイスモデル」はいいですね。1994年に復活したNWA世界ヘビー級王座のデザインは「レイスモデル」だったんですよ。
 
連れ1000さん リック・フレアーが巻いていた「フレアーモデル」が日本では人気がありますが、僕は「レイスモデル」が好きなんです。中央に地球儀が描かれていて、NWAと赤文字で彫られていて、あの時代の権威そのものなんですよ。
 
──確かに!
 
連れ1000さん あと全日本プロレス中継の音楽センスがすごく良くて、「スターウォーズのテーマ曲」や「カクトウギのテーマ」とか。テレビ中継も含めて全日本はパッケージとして子供の頃に自分が世界に触れる体験ができたんですよ。最初に海外に対する憧れを植え付けてくれたのが全日本であり、ハーリー・レイスなんです。
 
──私もレイス、大好きです。
 
連れ1000さん 僕が見出した頃のレイスはベテランで、ニックネームが「ハンサム」「美獣」だったので、なんでやろうなと思ってました(笑)。
 
──レイスもフレアーも世界王者として世界各地でどんな対戦相手でも良さを引き出して、防衛戦を行って防衛をしてきた「負けないチャンピオン」ですね。
 
連れ1000さん 今はチャンピオンがコロコロと変わるじゃないですか。でもレイスやフレアーのような難攻不落なチャンピオンは必要ですよね。強さではなくうまさで、馬場さんしか勝てない、鶴田さんは何回挑戦しても勝てないとか。僕は鶴田さんのファンだったのでNWA世界王座に何度も挑戦して、追いつめても取れなくてめちゃくちゃ悔しかったですから。馬場さんは勝てる、鶴田さんはいい勝負をする、天龍さんだと敗退するという昔の全日本はすごく分かりやすく見れました。


一度プロレスから離れた僕を引き戻してくれた三沢光晴さん
 

──1990年代の全日本はどのようにご覧になってましたか?
 
連れ1000さん あの時代は一番熱かったですね。最初、新日本を好きになってから全日本を見るようになって、ジャンボ鶴田さんのスケールの大きいプロレスにハマってファンになったんですが…一回途切れているんです。
 
──それはどういうことですか?
 
連れ1000さん 当時の鶴田さんを僕はヒーローだと思ってました。でも世間では結構、辛辣に言われていて、あのオーバーリアクションも揶揄されることが多かったんです。新日本はストロングスタイル、全日本はショーマンという風潮もあって、また全日本の場合は一般の人にちょっと説明しづらい部分もあったんです。鶴田さんの痙攣とか。そこがなかなか受け入れらないのもあって挫折してしまって、次第に「プロレスを見ることはカッコ悪い」と思うようになって、プロレスを見なくなったんです。
 
──そうだったんですね。
 
連れ1000さん そこから思春期になって学校ですごくいじめられたんです。父が凄く厳格で、ちゃぶ台をひっくり返すような昔の頑固親父で、僕も精神のバランスが崩れて、学校でもチックが酷くなって、いじめられました。学校では毎日、全員から追いかけられたり、着ている服を脱がされたり、通りすがりにパンチをされるとか…。本当に毎日死にたいなと思っていたある日、深夜に『全日本プロレス中継』で三沢光晴さんが闘っていたんですよ。
 
──それはいつ頃ですか?
 
連れ1000さん 1990年で三沢さんがタイガーマスクの仮面を脱いだ試合を見ましたね(1990年5月14日東京体育館 タイガーマスク&川田利明VS谷津嘉章&サムソン冬木)。後日、三沢さんの6人タッグマッチを見た時に痺れて、僕の暗黒時代の苦しい状況と重ね合わせて見てしまって、そこから三沢さんのファンになりました。
 
──プロレスから離れていた連れ1000さんを引き戻してくれたのは三沢さんだったんですね。
 
連れ1000さん はい。鶴田さんは好きでも世間や外に説明できないというもどかしさを三沢さんが全部解決してくれたんです。誰に見せてもおかしくないプロレスの凄さが伝わる試合を三沢さんは見せ続けてくれた。プロレス的なるものに対する理屈とかじゃなくても命懸けで身体を張っている三沢さんのプロレスに当時の自分に勇気づけてくれました。僕は超世代軍が特に好きでした。学校でも友達と三沢さんの話になるぐらい当時の全日は流行ったんですよ。
 
──三沢さん、川田利明さん、小橋健太さん、菊地毅さんの超世代軍は絶大な人気がありましたよね。
 
連れ1000さん 毎日辛くて死にたい気持ちになっても、三沢さんの試合に出逢ってからは「来週は三沢VSゴディやな」となると続きが気になって死ねないんですよ。
 
──「三沢VSゴディが放送される日まで生きよう」という目標になるんですね。
 
連れ1000さん そうなんですよ。それを繰り返していくに連れて、いろんなことがクリアになっていったんです。生きるためにずっと夢中になって三沢さんの試合を追ってました。
 
──やっぱり三沢さんは凄いですね。
 
連れ1000さん 僕は三沢さんが全日本を退団してプロレスリングノアを旗揚げしてからも三沢さんとノアを応援しています。三沢さんがいなかったら僕はどうなっていたのだろうと思ってるので、未だにあの時の恩返しと言いますか、三沢さんへの感謝の想いはありますね。


闘龍門は衝撃だった
 
──ありがとうございます。では続いて好きなプロレス団体・闘龍門について語ってください。
 
連れ1000さん 闘龍門は衝撃でした。神戸が拠点で、僕が京都に住んでいるので行きやすいんですよ。特にCIMAさんは痺れました。
 
──やっぱり華がありますからね。
 
連れ1000さん クレイジーMAXとかカッコよかったですよ。チキンジョージで定期戦をやっていくよく観戦してました。チキンジョージに行ってから、リングソウルで飲みに行くのが闘龍門観戦の定番でしたね。闘龍門がプロレスの時代を変えたんじゃないかと思いますね。
 
──3ウェイの6人タッグとか革新的な試合も多かったですよね。
 
連れ1000さん チキンジョージという会場はライブハウスじゃないですか。今でこそ色々な会場で興行を行いますけど、ライブハウスでプロレスというのは新鮮な印象を受けました。全日本を中心に見ていた僕からするとプロレスを見る幅を広げてくれて、足りないものを埋めてくれたような気がします。
 

プロレスリング・ノアは天命として見届けている


──ありがとうございます。そして連れ1000さんの好きなプロレス団体であるプロレスリングノアについて語ってください。
 
連れ1000さん ノアは三沢さんの流れなので追い続けなければならない団体です。ここは理屈じゃないですね。これは持論ですけど、全日本時代からの三沢さんファンがそのままノアに移ってファンであり続けた人と、ノアになってからファンになった人とはまた違うんですよ。一概にノアファンといっても好きになった時代によってノアに対する感じ方が随分違うように思います。
 
──おっしゃっていることはよく分かります。
 
連れ1000さん ノアになってから三沢さんが神格化され過ぎてるなと感じる時があります。全日本だと三沢さんや小橋さんが駆け上がっていくところを見れたんですけど、ノアになると三沢さんと小橋さんは神になってしまったというか。
 
──団体のシンボルになった感じはしますよね。
 
連れ1000さん プロレスリングノアは今でも一番好きなプロレス団体です。今はそうでもないですけど、一時期「三沢さんや小橋さんを神格化するノアファンは怖い」と思われたりする時代もあって、よりノアを広めるためにもそういう認識は変えたいなと思ってて。そういうのも含めて天命として見届けているような感じですよ。
 
──2000年に三沢さんがノアを旗揚げしてから、2004年と2005年に東京ドーム大会を進出する頃は特に全盛期だったのかなと思います。この時期のノアについてどのようにご覧になってましたか?
 
連れ1000さん ぼくの中でノアの前期は小橋さんと秋山準さん、後期は潮崎豪さんなんです。最近だと拳王さんも好きですね。東京ドーム大会をやった頃がノアの絶頂時代ですけど、全日本の延長線のような感じがありました。三沢さん、小橋さん、秋山さんがバチバチやってもやっぱり全日本なんですよ。2007年の小橋さんが腎臓ガンから帰ってきた頃がノアにとって分岐点になっているような気がしていて、丸藤正道さんがノアの舵取りをしていた頃からが全日本ではなく、今に続くノアらしさなのかなと思います。
 
──その時期になると全日本の影はあまり見えなくなるんですね。
 
連れ1000さん 三沢さんが亡くなってから丸藤さん、杉浦貴さんがノアの中心に立って、そして潮崎さんや鈴木鼓太郎さんは完全なるノア生まれで、特に潮崎さんは三沢さんの最後のパートナーであり、三沢さんの事故が起こった最後の試合にも立ち会ってました。潮崎さんのファイトスタイルから三沢さんや小橋さんの技や息吹を感じますし、ずっと追い続けていきたいと思える存在ですね。
 
(第1回終了)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

ジャスト日本です。


ヘルスケアWEBマガジン「lala a live」さんで新日本プロレス・棚橋弘至選手のインタビュー記事を執筆担当させていただきました。





前編:棚橋弘至「体の変化に合わせて戦い方を変えていく」プロレス界を盛り上げるためにも、自ら学び続ける 



後編:「150歳まで生きて筋トレしたい」新日本プロレスリング株式会社社長兼エース・棚橋弘至が語る健康と老後 


今回、棚橋弘至選手のインタビューが実現した経緯やインタビューの感想について綴りたいと思います。

  


きっかけは10ヶ月くらい前だったでしょうか。


以前、執筆させていただく機会がいただいた「ニューアキンドセンター」というウェブメディアでお世話になった塚田さんという編集者さんが辞められて別のメディアを立ち上げるという話を御本人からお聞きしました。


塚田さんが関わる新メディア「lala a live」さんがいよいよ始動する際に誰をインタビューしようかという話になり、私が提案したのが棚橋選手でした。去年の夏頃だったと思います。


理由はライターとしてやっていく中で媒体で「プロレス界のエース」棚橋選手のインタビューに携わることは大きな目標のひとつであり、悲願。


そもそも棚橋選手は私にとってプロレス界で数少ない頻繁に連絡を取り合う唯一の知り合いでした。


思えば約8年前。棚橋選手が自身のブログで私が以前書いたブログ記事を紹介したのがすべてのきっかけであり、はじまりでした。


グラスニ個 



そこからX(旧Twitter)で相互フォローになってからの話はこちらの記事でまとめていますので、チェックしていただければありがたいです。



プロレス愛に満ちたアプローチ~棚橋弘至選手の全力プロモーション~ 


コロナ禍になっても、コロナが明けても私と棚橋選手は他愛のない会話をXでしていました。


「お疲れ様です!今日の試合、素晴らしかったですよ!」

「ありがとう!嬉しいよ!」


こんな感じのやりとりがメイン。ネガティブな会話はほとんどしませんでした。あとたまにプロレスマニアトークで盛り上がることもあります。とにかくポジティブなやり取りが多く、いつもこんな自分に関わっていただき恐悦至極と思いながら感謝の気持ちでいっぱいになるのです。やり取りをするようになってからより棚橋選手をリスペクトようになりましたし、親近感も増していきました。


そんな棚橋選手のインタビューをいつか自分の実力をつけてから実現させたいという想いは日に日に強くなりました。


電子書籍、単行本だけではなく、東洋経済オンラインさん、日刊SPAさんといったネット媒体での執筆も経験しました。今こそ棚橋選手のインタビューを世間に届けたい!!しかもきちんとポジティブな形で。


ところが思わぬ展開が待っていました。なんと媒体ではなく、私のブログで棚橋選手が対談に登場するという緊急事態が発生します。 


その経緯はこちらのnoteをご覧いただければ分かると思います。


「昔もいまもプロレスは面白えよ!」 


木村光一さんとの対談のきっかけも棚橋選手とのやり取りでした。


そして棚橋選手の対談記事が私のブログで公開され、大きな反響を呼びました。


【プロレス界のエースとアントニオ猪木を追い求めた孤高の闘魂作家による対談という名のシングルマッチ!】


プロレス人間交差点 棚橋弘至☓木村光一 


前編「逸材VS闘魂作家」  



後編「神の悪戯」 



でも私の本命は「lala a live」さんでの棚橋選手のインタビュー。健康メディアということを加味してテーマは「棚橋弘至選手の健康管理」ということで決定。池田園子さんの編集プロダクション「プレスラボ」さんご協力の元、編集者の野村さんが奔走してくださり棚橋選手のインタビューが実現しました。それが去年12月中旬です。実は棚橋選手が新日本社長になる数日前でした。


インタビューは70分くらいだったと思います。実に面白い現場でした。棚橋選手の面白い発言も次々と飛び出しました。あとインタビューの中で私と棚橋選手だからこその会話もありました。そのやり取りを堪能していただければありがたいです。プロレスとは無縁の健康メディアで、リッキー・スティムボートのアームドラッグで盛り上がるのですから(笑)


それから年齢とキャリアを重ねる中での棚橋選手の試合スタイルやトレーニング体調や古傷のヒザについても深堀りしています。さらにセカンドキャリアや老後についてもお聞きしています。



塚田さん、プレスラボの野村さんの素晴らしい編集もあり、興味深い記事に仕上がったと思います!


このインタビュー、私と「lala a live」さん、プレスラボさん、3者の自信作です。是非多くの皆さんにご覧いただければありがたいです!



今から10年前。「岩下の新生姜」の社長は、新生姜とつぶやいた投稿は必ずリツイートするという噂を聞き、確認したくてプロレス好きの田舎のド素人が始めたX(旧Twitter)。棚橋選手は早々にフォローさせていただきました。Xでつぶやいた投稿をまとめるためにブログを開設したもの10年前でした。まだあの時はライターでも、何者でもありませんでした。



あれから10年。媒体でプロレス界のエースと呼ばれる棚橋弘至選手のインタビューを担当することになるとは…。人生は不思議なものですね。実力ではなく、たまたまで、運によるものだと重々承知していますが、やはり感慨深いものがあります。


約8年前。棚橋選手が自身のブログで僕の記事を紹介してくださったのがすべてのきっかけでした。僕にとって棚橋選手は恩人であり、立場は違いますがプロレスを愛する心の同志だと思っています。


思えば棚橋選手には何度か「いつか棚橋選手にインタビューする場にたどり着きます」と言っていたことがあります。簡単にその目標が叶うとは到底思っていませんでした。一歩一歩階段を登るように実績を積み重ね、ようやく…あなたにたどり着きました。素晴らしい思い出になりました。


でもこれはひとつのゴールであり、新たなスタートなのかもしれません。


これからもライターの私とプロレスラーの棚橋選手はプロレス全力プロモーションしていく日々を生きていくのですから。


棚橋弘至選手、新日本プロレスさん、塚田さんを始めとした「lala a live」さん、プレスラボの編集者・野村さん、本当にありがとうございました。











恒例企画「プロレス本を読んで感じたおすすめポイント10コ」シリーズ。今回が65回目です。このシリーズはライターの池田園子さんが以前、「旅とプロレス 小倉でしてきた活動10コ」という記事を書かれていまして、池田さんがこの記事の書き方の参考にしたのがはあちゅうさんの「旅で私がした10のことシリーズ」という記事。つまり、このシリーズはサンプリングのサンプリング。私がおすすめプロレス本を読んで感じたおすすめポイント10コをご紹介したいと思います。


さて今回、皆さんにご紹介するプロレス本はこちらです。






【書籍内容】
かゆい所に手が届く猪木ヒストリーの決定版!
日本プロレス時代から新日本プロレス時代まで、不世出のプロレスラー・アントニオ猪木の戦い、一挙一動を超マニアックな視点で詳しく追う。プロレス史研究の第一人者である筆者が猪木について書き下ろす渾身の書。
第3巻には、ザ・モンスターマンと異種格闘技戦史上に残る死闘を繰り広げた1977年(昭和52年)から、80年代の新日本プロレス・ブーム、愛弟子たちとの世代対決を経て、政界進出を果たした1989年(平成元年)までを掲載。

【目次】
1977年(昭和52年)
猪木が即答で選んだ「我が心の名勝負・モンスターマン戦」
1978年(昭和53年)
バックランドと世代闘争、地獄のヨーロッパ初遠征
1979年(昭和54年)
プロレスラーとして絶頂を極めた「栄光の1970年代」に幕
1980年(昭和55年)
波乱万丈の猪木にとっては珍しい「凪(なぎ)」の1年
1981年(昭和56年)
輝けるNWF王者時代の終焉~猪木の転換点
1982年(昭和57年)
病気・ケガとの戦い…ささやかれ始めた「猪木限界説」
1983年(昭和58年)
失神、タイガー引退、クーデター…
ブームの頂点から一転、スキャンダルまみれに
1984年(昭和59年)
名勝負、暴動事件、選手大量離脱事件…さまざまな猪木らしさを発揮!?
1985年(昭和60年)
ブロディの出現で、衰えかけた闘魂が蘇生!
1986年(昭和61年)
UWFと丁々発止の駆け引きを繰り広げる
1987年(昭和62年)
暴動に始まり暴動に終わる。スキャンダルに明け暮れた1年
1988年(昭和63年)
藤波と生涯最後の60分フルタイム戦!
ソ連をプロレスに引き込むことに成功
1989年(昭和64年・平成元年)
ソ連、東京ドーム、国会議員…誰も足を踏み入れたことがない新天地を目指す


著者
流智美(ながれ・ともみ)
1957年11月16日、茨城県水戸市出身。80年、一橋大学経済学部卒。大学在学中にプロレス評論家の草分け、田鶴浜弘に弟子入りし、洋書翻訳の手伝いをしながら世界プロレス史の基本を習得。81年4月からベースボール・マガジン社のプロレス雑誌(『月刊プロレス』、『デラックス・プロレス』、『プロレス・アルバム』)にフリーライターとしてデビュー。以降、定期連載を持ちながらレトロ・プロレス関係のビデオ、DVDボックス監修&ナビゲーター、テレビ解説者、各種トークショー司会などで幅広く活躍。


今回は2023年にベースボールマガジン社さんから発売されました流智美さんの猪木戦記 第3巻 不滅の闘魂編』を紹介させていただきます。

流さんによるアントニオ猪木ヒストリー三部作、今回が最終章。過去の2作品もレビューさせていただきました。





流さんによるかゆい所に手が届く猪木ヒストリー最終章はザ・モンスターマンと異種格闘技戦史上に残る死闘を繰り広げた1977年(昭和52年)から、80年代の新日本プロレス・ブーム、愛弟子たちとの世代対決を経て、政界進出を果たした1989年(平成元年)までを掲載しています。今回も面白いです!そしてなぜ猪木さんが引退試合を行った1998年まで掲載していないのか?そこには流さんなりのこだわりがありました。

今回は『猪木戦記 第3巻 不滅の闘魂編』の魅力をプレゼンしていきたいと思います!


よろしくお願い致します!



★1.伝説の異種格闘技戦 アントニオ猪木VSザ・モンスターマン戦
【1977年(昭和52年)猪木が即答で選んだ「我が心の名勝負・モンスターマン戦」&1978年(昭和53年)バックランドと世代闘争、地獄のヨーロッパ初遠征】


猪木さんにとって異種格闘技戦の名勝負となると、モハメド・アリ戦以外だとアメリカプロ空手の猛者モンスターマンとの一戦が真っ先に浮かぶようです。
 
猪木VSモンスターマン実現の経緯、詳細な試合レポートについて流さんが細かくまとめています。これは必見です!!

ちなみに流さんはこの一線について記した一文「極端な史観かもしれないが、『グラップラー(組み技系格闘技選手)』と『ストライカー(打撃系格闘技選手)』のミックストマッチが成立(成功)し、『十分ビジネスとなる可能性を証明した』という点では1993年にアメリカで始まったUFC(アルティメット・ファイティング・チャンピオンシップ)の原型、あるいは現在のMMA(総合格闘技)の雛形と言っても過言ではなく、まさに歴史的一戦だったと思う」は同感です!





★2.ジャック・ブリスコ戦後の札束バラマキ事件
【1979年(昭和54年)プロレスラーとして絶頂を極めた「栄光の1970年代」に幕】


1979年の猪木さんヒストリーを読んで興味深かったのは、1979年5月10日福岡スポーツセンターで行われたジャック・ブリスコとのNWFヘビー級選手権試合。

この試合はブリスコの提案で1万ドル(当時の約200万円)が賭けられていたが、試合後猪木さんがリング上で手渡された札束をリング上に放り投げるパフォーマンスを展開。60万円分の1000円札がリングサイドのファンに手に渡ってしまったという。

猪木札束バラマキ事件に、怒っていたのが対戦相手のブリスコだけじゃなくて、スタン・ハンセンも怒っていたという。ハンセン曰く「団体のリーダーである彼が、なぜ、あのような馬鹿げた行動に出られたのだろうか?ニュージャパンにいた時代に、イノキに対する信頼が一気に崩れたとすれば、あのときだった」とのこと。

流さんは「何でもかんでも猪木さんがやったことを肯定する気にはなれない。あれはハンセン、ブリスコのみならず、自分の抱えていたレスラー、関係者、スタッフ一同に莫大なる不信感を与えた『経営者として最悪の衝動的ミステーク』だったと思う」と批判しています。

なぜあの時、猪木さんは札束をリング上でバラまいたのか?謎です。


★3.ハルク・ホーガンとポール・オーンドーフ
【1980年(昭和55年)波乱万丈の猪木にとっては珍しい「凪(なぎ)」の1年&1981年(昭和56年)輝けるNWF王者時代の終焉~猪木の転換点】

1980年の秋シリーズ。外国人レスラーの中に後に世界プロレス界のスーパースターとなるハルク・ホーガンと、WWFでホーガンのライバルとなるも日本での評価は芳しいポール・オーンドーフが猪木さんとシングルマッチで対戦している。

10月30日熊本大会で猪木VSオーンドーフが実現。11月3日蔵前国技館大会では猪木VSホーガンが実現。ふたりとも猪木さんに敗れるも扱い方は全然違ったそうです。

オーンドーフはアマレスの実力もあり、ルックスも筋骨隆々の肉体も素晴らしいプロレスラーだったが、どうも新日本では実力を発揮することはなく、「早い段階で将来のエースとなれる外国人レスラーの芽を摘む」犠牲者となったのかもしれません。対する巨体が売りで発展途上のホーガンに猪木さんは「うまく育てれば、大変な大物になるかもしれない」という確信があったとも流さんは綴っています。

その独特の感性もまた猪木さんらしさかもしれません。



 
★4.右膝半月板手術、糖尿病…コンディション不良に悩む闘魂に流さんは「猪木さんの裸を見るのが怖い」
【1982年(昭和57年)病気・ケガとの戦い…ささやかれ始めた「猪木限界説」&1983年(昭和58年)失神、タイガー引退、クーデター…ブームの頂点から一転、スキャンダルまみれに】

1982年。39歳になった猪木さんには両膝の負傷、糖尿病とコンディション不良に悩まされ、リングに上がっても精彩を欠く試合も続出します。試合を欠場して背広姿で放送席に座って解説する猪木さんの姿はやや上半身が萎んだ印象を受けた流さんは「裸を見るのが怖い」と感じていたそうです。

猪木さんの全盛期を少年時代に見届けた流さん。この頃になると大学を卒業して社会人となっていました。大人になるとそこには全盛期を過ぎた猪木さんがいたわけです。尊敬するカリスマ・猪木さんの衰え、限界を流さんは複雑な胸中で見届けていたのかもしれません。

さらに1983年には猪木舌出し事件、タイガーマスク引退、クーデターなど負の連鎖が相次ぐことにより、猪木さんの奇跡のような神通力や実力も限界に近づいていたのでしょうか。





★5.新日本正規軍VS維新軍 5対5勝ち抜き戦
1984年(昭和59年)名勝負、暴動事件、選手大量離脱事件…さまざまな猪木らしさを発揮!?】

暴動事件、選手大量離脱など事件が相次いだ1984年において大ヒットとなったのが1984年4月19日蔵前国技館で行われた新日本正規軍VS維新軍の5対5の勝ち抜き戦。これは名勝負でした!

流さんの筆も心地よくて、猪木VS長州の大将戦での猪木さん勝利に「久々に快心の勝利」と評したのは納得です!

ただし第2回IWGP優勝は、暴動事件に発展するほど茶番となり、猪木さんの優勝は誰にも祝福されませんでした。

ちなみに木村光一さんが以前おすすめしていたアントニオ猪木&藤波辰巳VSディック・マードック&アドリアン・アドレスについて流さんは「猪木、藤波組で戦ったタッグマッチの歴代ベストバウト」 絶賛していました。

そして激動の1984年を締めくくる写真として掲載されていたのが社員の慰安旅行で上半身裸ではしゃぐ猪木さん。団体がピンチでも限界説が流れても笑顔をキープしていたのがまた猪木さんらしいです。






★6. ディック・マードック戦のジャーマン・スープレックス・ホールド
【1985年(昭和60年)ブロディの出現で、衰えかけた闘魂が蘇生!&1986年(昭和61年)
UWFと丁々発止の駆け引きを繰り広げる】


「超獣」ブルーザー・ブロディの移籍、猪木VS藤波の名勝負、UWF来襲など団体のピンチでも神風が吹く新日本と猪木さんですが、1986年6月19日・両国国技館でのディック・マードック戦(IWGP決勝戦)は「猪木史上、最悪の春の本場所決勝戦だった」と酷評。フィニッシュ直前に放ったジャーマン・スープレックス・ホールドのブリッジが「グニャリ」と崩れた場面には流さんは「強靭なブリッジワークに裏打ちされた必殺技は、これ以上望むべくもない感じだった」と綴っています。

大の猪木ファンである流さんだが、きちんと忖度無しで猪木さんを是々非々で評している姿勢は素晴らしく、また当時の猪木さんに流さんが一喜一憂しながら、時には絶賛して、時には失望するという感情のゆらぎがあったのだなと感じました。




★7.流さんの猪木さんへのゆらぎ、さらに激しく…。
【1987年(昭和62年)暴動に始まり暴動に終わる。スキャンダルに明け暮れた1年】

暴動に始まり、暴動に終わるとんでもない悪夢の一年となった1987年。流さんの筆も舌鋒鋭くなり、猪木さんへの失望が表面化しています。

「(アントニオ猪木VSマサ斎藤)両国でリング・ロープを外し、自らの手首と斎藤の手首を手錠で繋いで狂乱ファイトを繰り広げた『デスマッチまがい』の試合には、ただただ焦燥感しか漂っていなかった」
「(アントニオ猪木VSマサ斎藤の巌流島決戦)16年間連れ添った美津子夫人との破局を忘れるための自暴自棄な戦いではあったが、これに『付き合った』マサ斎藤の男気も筆舌に尽くしがたい。(中略)正直、個人的には嫌いな試合であるが、『どんな方法を用いても、世間の注目を集めてやる。まだまだ藤波や長州に主役を取られてなるものか』という猪木の『ギラギラ部分』が健在だったことについてのみ、チョッピリ嬉しかった」

そして1987年12月27日両国国技館の暴動事件に関しては呆れ果てた流さんが妙に淡々と綴っていたのが、静かなる怒りを感じてしまいました…。

猪木さんに愛するが故に、愛で猪木さんに殺す!ということなのでしょうか…。

★8.  写真で語れ!映像で感じろ!藤波VS猪木!!
【1988年(昭和63年)藤波と生涯最後の60分フルタイム戦!ソ連をプロレスに引き込むことに成功】


昭和新日本最後の名勝負といえば藤波辰巳VSアントニオ猪木のIWGPヘビー級選手権試合。ここで流さんが詳細に書くのかと思いきや、案外あっさり書いています。実は流さんの文章よりも4ページに渡り藤波VS猪木の攻防が写真として掲載されています。これは流さんによる「藤波VS猪木は、俺の文章より、写真と感じて、映像を見てほしい!!」というメッセージなのかなと勝手に感じました。



★9.チョチョシビリ戦後、政界進出!!
【1989年(昭和64年・平成元年)ソ連、東京ドーム、国会議員…誰も足を踏み入れたことがない新天地を目指す】


猪木さんは1989年5月31日大阪城ホール大会で、プロレス界初の東京ドーム大会で敗れたショータ・チョチョシビリとのリターンマッチに勝利。新日本社長を辞任、参議院選挙に出馬して当選を果たして日本プロレス史上初の「プロレスラー国会議員」となりました。 

流さんはこの事実を受け止めて「日本のプロレス史上初の『プロレスラー国会議員』が誕生し、猪木は29年の長きに亘るプロレスラー人生に(ひとまず)区切りをつけた」と綴っています。

全盛の1970年代を経て、黄昏の1980年代の猪木さんに対する流さんの心象描写が自身の手で冷徹に文章表現されていて、この第三巻、めちゃくちゃ面白いんです!あと毒の使い方が流さん、抜群にうまく、後味がいい。SNSで散見する多くのディスや毒には読む価値があるのか。自己満足に過ぎないものも多い。


それに比べて流さんの皮肉、毒はレベルが違うのです。ちゃんと品もあって、読み心地がいい。これは長年、多くの書籍に携わってきて、流さんの人間力と経験値がなせる業かもしれません。

★10.そもそも◯も☓もなかった
【あとがき】



あとがきには、流さんはこの『猪木戦記』が1989年7月の「参議院当選」で終わったのかについて説明しています。流さんからすると1989年5月のショータ・チョチョシビリ戦が現役バリバリのプロレスラー・アントニオ猪木のラストマッチで、国会議員になった猪木さんはレスラー・アントニオ猪木ではないという想いがあったようです。

だから1990年代の猪木さんの試合はあくまでも本戦ではなく、延長戦なのだという考えがあるのかもしれません。

それでも流さんは1990年代の猪木さんについて簡潔に年表でまとめています。

ここからあとがきは流さんと猪木さんが接近したエピソードがかなり披露されています。これは面白いです!!

猪木さんを尊敬し、愛したひとりのプロレス少年がやがて大人になり、衰えていく猪木さんの姿、スキャンダルな仕掛けと事件に失望していきます。直接この本では「猪木さんに失望した」とは書いていないものの、1980年代中盤から後半に関しては論調は明らかに怒りと悲しみが目立ちました。しかし、正直に吐露した流さんの姿勢は素晴らしく、さらにリスペクトしました。

それでも流さんは猪木さんが好きで、色々あっても嫌いにはなれなかったのだと思います。だからこそ数多くの猪木さんのイベントや仕事に関わってきて、猪木さんの語り部であり続けたのではないでしょうか。

猪木さんが亡くなった2023年の年末にBS朝日で送された『ワールドプロレスリングリターンズ アントニオ猪木追悼3時間スペシャル』を監修したのは流さんでした。猪木さんへの郷愁、猪木さんへのリスペクト、猪木さんの歴史を3時間という制限時間内で伝えたいという想いが詰まった素晴らしい番組でした。

流さんはあとがきの中でこのように綴っています。

「半世紀近くプロレスの文章を書いてお金をいただいてきた私としては、『アントニオ猪木を後世に語り継ぐための手引き』くらいは残さないと、やっぱり悔いが残る。この『猪木戦記』シリーズはその『手引き』であり、私個人にとっては『猪木さんを見続けたあの日、あの時の答え合わせ』というテーマを念頭に置いて粛々と書き進めた。『答え合わせ』の結果が◯だったのか、☓だったのか。今となってはどうでもいいことかもしれない。アントニオ猪木という難解な、ぶ厚い問題集の解答欄には、『そもそも◯も☓もなかった』というのが、書き終わった今の結論である」 


もしこの深い愛に満ちた流さんの一文を天国の猪木さんがご覧になったら、おそらくいつも100万ドルの笑顔で、「ウフフ」と微笑んでいるのかもしれません。



 

 

素晴らしい本です!!!是非ご覧ください!



そして、なんとこの『猪木戦記』シリーズ、第0巻が製作中とのこと。プロレスラーとしてデビューした1960年から23歳の若さで東京プロレスを旗揚げして苦戦した1967年までの歴史をまとめた『猪木戦記 第0巻 立志編』、とても気になります!!


ジャスト日本です。



「人間は考える葦(あし)である」



これは17世紀 フランスの哲学者・パスカルが遺した言葉です。 人間は、大きな宇宙から見たら1本の葦のようにか細く、少しの風にも簡単になびく弱いものですが、ただそれは「思考する」ことが出来る存在であり、偉大であるということを意味した言葉です。


プロレスについて考える葦は、葦の数だけ多種多様にタイプが違うもの。考える葦であるプロレス好きの皆さんがクロストークする場を私は立ち上げました。



さまざまなジャンルで活躍するプロレスを愛するゲストが集まり言葉のキャッチボールを展開し、それぞれ違う人生を歩んできた者たちがプロレス論とプロレスへの想いを熱く語る対談…それが「プロレス人間交差点」です。

 
 
 

 

前回は新日本プロレスの棚橋弘至選手と作家・木村光一さんの「対談という名のシングルマッチ」をお送りしました。


プロレス人間交差点 棚橋弘至☓木村光一 


前編「逸材VS闘魂作家」  

後編「神の悪戯」 

 

第二弾となる今回は作家・木村光一さんとスポーツ報知の加藤弘士さんによる刺激的激論対談をお送りします。

 

 

 

 

 

(この写真は御本人提供です)

 

 

木村光一

1962年、福島県生まれ。東京造形大学デザイン学科映像専攻卒。広告企画制作会社勤務(デザイナー、プランナー、プロデューサー)を経て、'95年、書籍『闘魂転生〜激白 裏猪木史の真実』(KKベストセラーズ)企画を機に編集者・ライターへ転身。'98〜'00年、ルー出版、いれぶん出版編集長就任。プロレス、格闘技、芸能に関する多数の書籍・写真集の出版に携わる一方、猪木事務所のブレーンとしてU.F.O.(世界格闘技連盟)旗揚げにも協力。

企画・編著書に『闘魂戦記〜格闘家・猪木の真実』(KKベストセラーズ)、『アントニオ猪木の証明』(アートン)、『INOKI ROCK』(百瀬博教、村松友視、堀口マモル、木村光一共著/ソニーマガジンズ)、『INOKI アントニオ猪木引退記念公式写真集』(原悦生・全撮/ルー出版)、『ファイター 藤田和之自伝』(藤田和之・木村光一共著/文春ネスコ)、Numberにて連載された小説『ふたりのジョー』(梶原一騎・真樹日佐夫 原案、木村光一著/文春ネスコ)等がある

 

木村光一さんによる渾身の新作『格闘家 アントニオ猪木』(金風舎)が発売中!

 

格闘家 アントニオ猪木【木村光一/金風舎】

 

 

 

 

 

YouTubeチャンネル「男のロマンLIVE」木村光一さんとTERUさんの特別対談

 

https://youtu.be/XYMTUqLqK0U 

 

 

 

https://youtu.be/FLjGlvy_jes 

 

 

 

https://youtu.be/YRr2NkgiZZY 

 

 

 

https://youtu.be/Xro0-P4BVC8 

 

 

 



(この写真は御本人提供です)

 

加藤弘士(かとう・ひろし)1974年4月7日、茨城県水戸市生まれ。茨城中、水戸一高、慶應義塾大学法学部法律学科を卒業後、1997年に報知新聞社入社。6年間の広告営業を経て、2003年からアマチュア野球担当としてシダックス監督時代の野村克也氏を取材。2009年にはプロ野球楽天担当として再度、野村氏を取材。その後、アマチュア野球キャップ、巨人、西武などの担当記者、野球デスク、デジタル編集デスクを経て、現在はスポーツ報知編集委員として、再びアマチュア野球の現場で取材活動を展開している。スポーツ報知公式YouTube「報知プロ野球チャンネル」のメインMCも務める。


(画像は本人提供です)

『砂まみれの名将』(新潮社) 阪神の指揮官を退いた後、野村克也にはほとんど触れられていない「空白の3年間」があった。シダックス監督への転身、都市対抗野球での快進撃、「人生最大の後悔」と嘆いた采配ミス、球界再編の舞台裏、そして「あの頃が一番楽しかった」と語る理由。当時の番記者が関係者の証言を集め、プロ復帰までの日々に迫るノンフィクション。現在6刷とヒット中。




今回の対談のテーマは「アントニオ猪木を語り継ごう!」です。

2022年に逝去されたプロレス界のスーパースター「燃える闘魂」アントニオ猪木さんについて、数々の猪木本や昨年『格闘家 アントニオ猪木』(金風舎)が発売になり話題を呼んだ「孤高の闘魂作家」木村光一さんと、大ヒット野球ノンフィクション『砂まみれの名将』(新潮社)の著者で、猪木さんを愛するプロレスファンである「活字野球の仕事師」加藤弘士さんに、大いに語っていただける場をご用意しました。

 

 

木村さんと加藤さんの対談は、こちらの5つのテーマに絞って行いました。ちなみに私は進行役としてこの対談に立ち会いました。

 

1.アントニオ猪木さんの凄さとは?

2.アントニオ猪木さんの好きな技

3.アントニオ猪木さんのライバルとは?

4.アントニオ猪木さんの好きな名勝負

5.アントニオ猪木さんとは何者だったのか?

 

 

アントニオ猪木とは何か? 

その答えのヒントになる対談、是非ご覧下さい!



プロレス人間交差点 木村光一☓加藤弘士〜アントニオ猪木を語り継ごう!〜 前編「偉大な盗人」 




プロレス人間交差点 

「孤高の闘魂作家」木村光一☓「活字野球の仕事師」加藤弘士

〜アントニオ猪木を語り継ごう!〜

後編「闘魂連鎖」








猪木さんの好きな技とは?

「猪木さんのジャーマンは本当に美しくて、カール・ゴッチの流れを継ぐ大変誇りに満ちた芸術」(加藤さん)

「リバース・インディアン・デスロックは格闘家としてのアントニオ猪木とプロレスラー猪木が矛盾なく融合している」(木村さん)



──ここでお二人にはアントニオ猪木さんの好きな技について語っていただいてもよろしいでしょうか。まずは加藤さんからお願い致します。


加藤さん  二つあります。ひとつはジャーマン・スープレックス・ホールドです。ジャーマンはプロレスラーにとっての美しさの象徴であり、技使いの基準の一つとして考えています。猪木さんのジャーマンは本当に美しくて、カール・ゴッチの流れを継ぐ大変誇りに満ちた芸術ですよね。しかも滅多に出さないところも含めて大好物でした。


──猪木さんのジャーマンは多くの名勝負でフィニッシャーとなった芸術品ですよね。


加藤さん  そうですね。もう一つはリバース・インディアン・デスロックですね。見栄の切り方がたまらないんですよ(笑)。小学生の時に勝田市総合体育館で猪木さんのリバース・インディアン・デスロックを生で見たことがあって、足を固めてから「みんな俺を見ろ!」とお客さんを煽ってから後ろに倒れるじゃないですか。あれは痺れましたよ。会場のみんなが猪木さんの虜にさせるような僕の好きな技ですね。


──ちなみに猪木さんのジャーマンで印象に残っている試合はありますか?


加藤さん リアルタイムでは体感できませんでしたが、1974年3月19日、蔵前国技館でのストロング小林戦でフィニッシュホールドになったジャーマンは別格でしょう。勢い余って両足が宙に浮くシーンがたまりません。今でこそビデオで何度も見直せますが、当時は生観戦かテレビ中継における「聖なる一回性」だったことを考えると、名勝負として語り継がれるのは結びの芸術性と気迫…まさに「燃える闘魂」の象徴としてのジャーマンだったと言えるんじゃないでしょうか。見た者の人生を狂わせたジャーマンですよ。


──ありがとうございます。では木村さん、お願い致します。


木村さん 私が大好きな猪木さんの技も加藤さんと同じくリバース・インディアン・デスロックなんですよ。この技は格闘家としてのアントニオ猪木とプロレスラー猪木が矛盾なく融合している。というのも、相手を完全に制圧して反撃できない状態にした上で、そこではじめて猪木さんは観客に向けてたっぷりと間をとって見栄を切っていたわけです。パフォーマンスのタイミング的にも合理的で嘘がない。だから見ている側もあの瞬間は猪木の表情や身のこなしに全集中できるんだと思います。もちろん卍固めもコブラツイストも素晴らしいです。特にコブラツイストは、近年になって格闘技の技術として注目を集めていますが、私にとって千両役者アントニオ猪木の華をもっとも堪能できる技はなんといってもリバース・インディアン・デスロックなんです。


加藤さん ここで一致して嬉しいです(笑)。木村さんにお聞きしたいのですが、グラウンド・コブラあるじゃないですか。確か長州力戦の決まり手になりましたよね。


木村さん 長州選手のリキ・ラリアットをかわしてコブラツイストからのグラウンド・コブラで3カウントというフィニッシュでした。




──1984年8月2日・蔵前国技館での一騎打ちでした。


加藤さん このグラウンド・コブラがずっと気になっている技で、引退が近くなっていく晩年の猪木さんがウィリー・ウィリアムス戦、ドン・フライとの引退試合で、グラウンドコブラを用いてギブアップ勝ちしているじゃないですか。なぜ猪木さんが晩年になってグラウンドコブラを使うようになったと思われますか?


木村さん 私が初めて猪木さんのグラウンドコブラを見たのはモンスターマンとの再戦(1978年6月7日・福岡スポーツセンター/格闘技世界一決定戦)だったと記憶しています。あの時のグラウンドコブラは相手がレスラー体型でないせいなのかプロレス技とは違う形に決まった感じがしてとくに印象に残ったんです。が、猪木さんは1978年のモンスターマンとの異種格闘技戦でこの技をフィニッシュにして以来、1984年の長州戦までこの技は使っていなかったようにも記憶してます。


加藤さん 僕は1981年から『ワールドプロレスリング』を毎週見てますけど、猪木さんは長州戦で披露するまで多分グラウンドコブラを使ってないですね。



「グラウンドコブラは数千年前からレスリング、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンにある重要な技の一つだそうです。第二次UWFのロゴマークがあるじゃないですか。Wのアルファベットの下にあるレスリングのシルエットは、ここからグラウンドコブラに移行する体勢だそうです」(木村さん)



──猪木さん以外だと藤波選手がグラウンドコブラでピンフォールを取っている試合が多かったと思います。


木村さん グラウンドコブラはピンフォールも取れますけど、柔術関係者に聞いた話ですが、頚椎にダメージを与えるかなり危険な技らしいんですよ。


加藤さん ツイスターというんですよね。


──エディ・ブラボーという道着を着用しないグラップリングの世界で活躍したアメリカの柔術家がいまして、彼がグラップリングの試合でツイスターという名称でグラウンドコブラを持ち込んだんですよ。


木村さん 宮戸優光さんから伺ったのですが、グラウンドコブラは数千年前からレスリング、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンにある重要な技の一つだそうです。第二次UWFのロゴマークがあるじゃないですか。Wのアルファベットの下にあるレスリングのシルエットは、ここからグラウンドコブラに移行する体勢だそうです。


──えええ!そうなんですね!ビックリしました。


木村さん で、加藤さんの「なぜ猪木さんがレスラー生活の最晩年になってグラウンドコブラを使うようになったか」という質問の答えがまさにそれだったんです。


──どういうことですか? もう少し詳しく聞かせてください。


木村さん シューティング(修斗)を主宰していた頃の佐山聡さんに「格闘技でも使えるプロレス技はあるんですか?」と質問したことがあったのですが、即、「コブラツイストは格闘技の試合でもフィニッシュに使えます。グラウンドでね」という答えが返ってきました。その少し後にそれまで袂を分かっていた猪木さんと佐山さんが和解し、さきほど加藤さんが挙げたウイリー・ウイリアムスとの17年越しの決着戦が東京ドームで「決め技限定マッチ」(猪木はコブラツイスト、ウイリーは正拳突きでのみ勝敗が決まる特別ルール)として行われたんです(1997年1月4日)。これはアントニオ猪木と総合格闘技の先駆者である佐山聡からの「格闘技に対抗するためプロレス本来の強さを取り戻せ!」というメッセージだったんですが、残念ながら、当時、この一戦はノスタルジー色の強いエキシビションマッチとしか受け止められなかったんです。というのも、その頃のプロレスではすでにコブラはフィニッシュホールドでなくなっていたこともあって誰もピンと来なかったんですね。引退試合のドン・フライ戦もそうで、何十年ぶりかにプロレスを観たという私の親戚の叔母さんも「なんで卍固めじゃなかったの?」と不満気でした。私も「決め技限定マッチ」の意図を猪木さんから聞かなかったら理解できなかったと思います。そもそも、子供の頃にプロレスごっこをやっていた昭和のプロレスファンにとってコブラツイストって「どこが痛いの?」と疑問を持たれる技の代表でもありましたから。


加藤さん 昭和の小学生が休み時間に廊下でコブラツイストの掛け合いをしていましたよね。あれはいい時代でしたね(笑)。


木村さん 身体がまだ出来上がっていない子供同士だとふにゃふにゃしてコブラや卍固めは形にもなりませんでした(笑)。


加藤さん そこで僕らも色々なことに気がついていくわけで(笑)。あと卍固めというネーミングは本当に素晴らしい。そして、古舘伊知郎さんが実況することでより卍固めの特別感が増していったんですよね。


 


「猪木さんと馬場さんはビートルズのジョン・レノンとポール・マッカートニーのような関係だと思うんです」(加藤さん)




──ありがとうございます。次のテーマ「猪木さんのライバルとは?」について。猪木さんには数多くの名勝負と共に強豪やライバルが存在したと思います。お二人が考える猪木さんのライバルは誰ですか?まずは加藤さんからお願い致します。


加藤さん 難しい質問ですね…。これは新聞記者として大変凡庸な意見ですがやっぱりジャイアント馬場さんです。猪木さんと馬場さんはビートルズのジョン・レノンとポール・マッカートニーのような関係だと思うんです。


──素晴らしいです。分かりやすくて絶妙な例えです!


加藤さん レノンとマッカートニーが同時代に音楽の場で出逢ったように、猪木さんと馬場さんもプロレスの世界で遭遇するわけで、この二人は本来だったら出逢わないはずなんですよ。ジャイアント馬場さん、いや馬場正平さんはプロ野球・読売巨人軍のピッチャーであるべきで、後に色々と調べると馬場さんはそんなにのっそりとしたピッチャーではなく、結構な技巧派で優れたピッチャーだったんです。そこから馬場さんはさまざまな運命の悪戯で日本プロレスに入門して、同時期に地球の裏側から猪木さんが来て、同じ日にデビューするわけですから、本当に奇跡ですよ。


──その通りです。


加藤さん 常に猪木さんは馬場さんへのジェラシーなのか、ひょっとしたら愛情の裏返しだったのか…。なんとも言えない感情があって、この二人の関係性の中でプロレス界の物事が転がっていく様に我々は楽しむことができました。僕はこの二人の出逢いをプロレスの神様にただただ感謝したいです。


──力道山さんが急逝したことによって、日本プロレス界の灯が消えかかったところに馬場さんと猪木さんが台頭してきたことによって、さらに燃え上がったわけですから。二人の功績はあまりにも大きいですよね。


加藤さん  そうですね。また二人の方向性が全然違うので、馬場さんはNWA、猪木さんはカール・ゴッチなので僕らも享受できるプロレスの世界が自ずと広がりました。またこの二人のキャラクターが大変強烈だったことで色々な風景を見られたのはすごく幸せでしたね。


──猪木さんと馬場さんは互いにメインイベンターになってから長年、一騎打ちが熱望されていましたが、結果的に実現しませんでした。この件についていかがですか?


加藤さん 小学生の頃は「やればいいのに」とずっと思ってました。まだ東京ドームのない時代なので、国立競技場とかでやってほしかったなと。でも猪木さんと馬場さんの一騎打ちが実現しなかったという尊さがありますね。そこに二人に優劣や勝敗をつける必要はなかったんじゃないかなと思います。



「猪木さんが歩んだ道は力道山が歩むはずだった道とぴたりと重なる。というより、猪木さんは本来プロレス引退以降の人生で力道山を超えたかったのではないか」(木村さん)



──夢の対決は、実現せずに夢のままで終わったのもよかったのかもしれません。ありがとうございます。では木村さん、お願い致します。


木村さん 私は猪木さんにとって真のライバルは力道山だったのではないかと思っています。


加藤さん おおお!!これは詳しく聞きたいですよ!


──なぜ、猪木さんにとって最大のライバルは力道山さんなのでしょうか?


木村さん 猪木さんの生涯を俯瞰すれば一目瞭然です。実業家としての成功を夢見たり、政界に進んだりしたのは明らかに力道山の影響です。力道山は若くして亡くなりましたけど、生きていれば必ず政界入りしていたと言われています。それに、猪木さんが5歳のときに亡くなった父親も実業家で政界入りを目指していたそうですから資質としても受け継いでいたのではないでしょうか。その辺を踏まえて考えると、猪木さんが歩んだ道は力道山が歩むはずだった道とぴたりと重なる。というより、猪木さんは本来プロレス引退以降の人生で力道山を超えたかったのではないかと、私はそんなふうに感じていました。


──もし力道山さんが存命していて、猪木さんが台頭する頃までメインイベンターとしてリングに上がっていたとした場合、猪木VS力道山の新旧対決はあったと思いますか?


木村さん 力道山は新旧対決を行わず、国民的英雄のまま引退したと思います。そしてその後の日本プロレスを背負って立った主役も変わらなかったような気がします。


──力道山さんが急逝しても存命していても、猪木さんと馬場さんが日本プロレスを背負う運命だったということですね。


木村さん はい。


加藤さん 猪木さんが力道山さんと過ごした時間はそんなに長くなかったと思うんですよ。ただ一番感受性の豊かな時に、あんなに強烈な師匠に出逢って濃密な日々を過ごしたのは猪木さんの生涯にとてつもない影響を与えたんでしょうね。


木村さん 全くその通りです。猪木と力道山の師弟関係は3年8カ月。でもその短い間に猪木さんは裏社会も含めてあらゆる世界を見せられたんだと思うんですよ。表はスーパースターの世界で、特別な人間にしか味わえないものが確かにあった。でもそれと引き換えにとてつもない闇も見せられたと思うんです。その両方を10代の若さで経験してしまったわけですから影響を受けていないはずがない。きっと猪木さんは普通の人間が一生かけても経験できないことを経験したに違いありません。もうその時点で、ある種、プロレスラーを超えてしまったという気がするんです。あの独特な価値観、物事を俯瞰で見る視点はこの時期に培われたんじゃないでしょうか。



「1995年の北朝鮮興行を開催するときに猪木さんが『私の師匠の故郷だから』と収斂していくのも壮大な人間ドラマ」(加藤さん)



──猪木さんは技術も色々なところから吸収していって、帝王学に関しては力道山さんの下で培って、それが後の人生に繋がっているんですね。


加藤さん そこも愛憎がグシャグシャに絡まっていて、尊敬の念もあるけど、「なんで俺だけこんなひどい目に遭わないといけないのか!」という怒りと憎しみもあったのかなと。でもそれが後々に1995年の北朝鮮興行を開催するときに猪木さんが「私の師匠の故郷だから」と収斂していくのも壮大な人間ドラマですよね。 


  


──加藤さんは実際に1995年4月28日&29日メーデースタジアムで行われた北朝鮮平和の祭典を現地観戦してますよね。


木村さん 凄い! それは羨ましい限りです! いろいろ言われていますが、現地の雰囲気は本当のところどうだったんですか?


加藤さん 北朝鮮のあらゆる売店で猪木さんと力道山さんの銅像が並んで売っていて、あの光景をやっぱり思い出しますね。あと猪木さんは二日目(1995年4月29日)にリック・フレアーとメインイベントで闘って素晴らしい名勝負になりましたが、ひょっとしたらあのメーデースタジアムで自分の心の中では力道山さんと闘っていたのかもしれません。


──猪木さんはフレアーと闘いながら、力道山さんという残像と闘っていて、北朝鮮の国民は猪木さんの雄姿を見て、その奥に力道山さんを見たんでしょうね。


木村さん 私は北朝鮮でのリック・フレアー戦がアントニオ猪木の実質上の引退試合であり、力道山の悲願を達成して師匠超えを果たした瞬間だったと思ってます。残念ながらビデオ映像だとメーデースタジアムのスケールと客席の空気感がいまいち伝わってこなかったのですが、生で目撃した猪木・フレアー戦はいかがでした?


加藤さん 猪木VSフレアーは年齢やブランクとかを超越した素晴らしくて、色気のある大ベテランの達人同士の闘いでした。北朝鮮興行はそれまでの試合がほとんど沸かなかったんですけど、猪木さんのナックルパートに怒涛の如く沸いているわけですよ。あれは凄かった!猪木さんの歴史を共有していないであろう北朝鮮の皆さんを初見で大歓声を巻き起こす。これは格闘芸術としか言いようがない僕の中で忘れられない試合です。    





「猪木&藤波VSマードック&アドニスは新日本のストロングスタイルとアメリカンプロレスが最高レベルで融合した『プロレスの完成形』だと思ってるんです」(木村さん)     







──ありがとうございます。では次の話題に移ります。お二人がこの場で語ってみたい猪木さんの名勝負について教えてください。まずは加藤さんからお願い致します。


加藤さん 僕の世代は、猪木VSドリー・ファンク・ジュニア、猪木VSストロング小林、猪木VSビル・ロビンソンをリアルタイムで見られなかった悔しさが凄くあるんですよ。本当にひねくれた形で言うとリック・フレアー戦ですね。僕も木村さんがおっしゃる通り、フレアー戦が猪木さんの引退試合だったと思います。プロレスを知らない人たちに対して、初見で猪木さんは自身のプロレスで「さぁ、見やがれ!」と手玉に取ったあのパフォーマンス。そこには闘いがあったんじゃないかなと。今のような技が多彩でダイナミックなプロレスもいいんですけど、根底には「この野郎!」とフレアーをやっつける姿に北朝鮮の皆さんは沸いたと思うんです。



──猪木VSフレアーは、「INOKI FINAL COUNT DOWN」シリーズにも入っていないんですけど、今の加藤さんの発言は同感です。猪木さんは1994年からスタートした「INOKI FINAL COUNT DOWN」シリーズになると、モチベーションが上がっていないような微妙な試合が目立った印象があったので、フレアー戦がより名勝負として際立ったのかもしれません。それでは木村さん、お願い致します。


木村さん この前のインタビューの時にも言いましたが、アントニオ猪木には名勝負が多すぎて選べないので今回は語り継ぎたい特別なタッグマッチを挙げたいと思います(笑)。1984年12月5日大阪府立体育会館で行われた『第5回MSGタッグリーグ戦』優勝戦・猪木&藤波VSディック・マードック&アドリアン・アドニスというのはいかがでしょう。


加藤さん 素晴らしいです!!


木村さん ご賛同いただきありがとうございます!(笑) 私、この試合は新日本のストロングスタイルとアメリカンプロレスが最高レベルで融合した「プロレスの完成形」だと思ってるんです。


加藤さん 猪木さんのアメリカンプロレスのうまさがこれまた凄い高いレベルでファンをヒートさせるんですよ。


──マードック&アドニスというタッグチームが最高にいいんですよね!二人ともプロレスがうまくて、ガチンコに強い。アドニスに至ってはかつて強すぎて、賞金首になったこともあったんですから。


木村さん この試合を行った4人には強さというベースを持つ者同士にしかわからない信頼関係があり、相手へのリスペクトがプロレスという表現の自由度を高めている。こんなに高いレベルで強くて巧くて華があるレスラー4人が思う存分試合を楽しんで観客と一体化していた試合、ちょっと他には見当たりません。この日に行われた猪木&藤波VSマードック&アドニス戦こそ、まさにプロレスの完成形なんですよ。


加藤さん 『格闘家 アントニオ猪木』での北沢さんのインタビューで木村さんが「猪木さんは道場で普段やってるシュートの技術を試合ではどのくらい出してたんですか?」と伺うと、北沢さんが「試合ではほとんど出していない」と答えているのがものすごく好きで(笑)。要するに試合に出すとか出さないという話じゃないんですよね。でも強さを内蔵しているというのがプロレスラーとしての魅力に直結するところに、僕らが夢中になっていたプロレスの面白さがあるんじゃないでしょうか。あの北沢さんのインタビューが自分の中で大ウケでした。


木村さん 北沢さんのあの答えは最高でした。「全然ですよ。10%も出していない」と。逆説めいていますが、格闘家アントニオ猪木はプロレスのリングでは純粋にプロレスラーだったという真実を聞かされて、私、感動しましたね。


加藤さん 『ワールドプロレスリング』で一番視聴率が高かったのは猪木VS国際軍団とされていますよね。これが本当に面白くて最高なんです。猪木さんがラッシャー木村さん、アニマル浜口さん、寺西勇さんを相手にしている時が最も世間をヒートさせたし、古舘伊知郎さんもノリノリだったわけですから。


木村さん 私もとくにラッシャー木村戦(1981年11月5日・蔵前国技館/ランバージャック・デスマッチ)が大好きです。あの試合はアントニオ猪木が善悪を超越した怒りを全身全霊で表現してみせた一世一代ともいえる至極の舞台で、観客は一緒に感情を爆発させてそのカタルシスを味わえばいい。理屈抜き。猪木を観ているだけでいい、そういうプロレスだったんです。


加藤さん 今、JALに乗ると、オンデマンドで色々な動画が見れる中に猪木VS国際軍団があるんですよ。「あの頃の自分が見てよかったなと思う試合も、今見たらつまらないかもし

れない」と思って、見てみるとこれがもう楽しくて楽しくて(笑)。こんなものを毎週金曜夜8時に見ていたら、色々な人の人生が狂いますよ(笑)。



猪木さんとは何者なのか?

「シンプルに『燃える闘魂』だったんですよ。ずっと野球の取材をしてきた自分は猪木さんには一度も会えませんでした。でも一度きりの人生で、猪木さんを眺めて、憧れて、胸を熱くさせる人生を歩めました。こんな凄い巨星に出逢えたのは本当に幸せなことです」(加藤さん)

「ずっと考えていてフッと浮かんだのが『アントニオ猪木という存在がロマン』という答え。一言で言うならアントニオ猪木とは『肉体化した夢』でしょうか」(木村さん)  


          

──ありがとうございます。それでは最後の話題になります。お二人はアントニオ猪木さんとは何者だったと思われますか?まずは加藤さんからお願い致します。


加藤さん 猪木さんはあまりにも多面体過ぎるので、「ジャストさん、そんな質問は答えられないよ」と思ったりしますけど、シンプルに「燃える闘魂」だったんですよ。僕は新聞記者で、会社の先輩に猪木さんを何度もインタビューした尊敬する記者がいますが、ずっと野球の取材をしてきた自分は猪木さんには一度も会えませんでした。でも一度きりの人生で、猪木さんを眺めて、憧れて、胸を熱くさせる人生を歩めました。こんな凄い巨星に出逢えたのは本当に幸せなことです。今、ジャストさんや木村さんと猪木さんについて語っていると、猪木さんの存在が浮かび上がってくるんですよ。アントニオ猪木という燃える闘魂の灯は、消えないんじゃないかなと思うんですよね。


──ありがとうございます。では木村さん、お願い致します。


木村さん 本当に難しい質問ですよね…。書泉さんで開催していただいたトークショーでも同じ質問に「分からない」としか言えなかったんですが、そのあともずっと考えていてフッと浮かんだのが「アントニオ猪木という存在がロマン」という答え。一言で言うならアントニオ猪木とは「肉体化した夢」でしょうか。


──かつて女子プロレスラーのさくらえみ選手が飯伏幸太選手について「夢が人の形をしている」と表現したことがありました。猪木さんは夢やロマンが擬人化しているような感じなのかもしれませんね。


加藤さん 木村さん、モハメド・アリと闘うなんて、そんなのは夢でしかないわけじゃないですか。どう考えても「こんなのはあるわけないだろう」という話なんですよ。


木村さん 一瞬、思いついただけでも恥ずかしくなってしまう。普通ならそうです。



「猪木さんといえば、なぜかバーン・ガニアをリスペクトしているという謎が残っているんですよ。まだまだ猪木さんに関するミステリーは尽きませんね(笑)」(加藤さん)



──結果的に猪木さんはモハメド・アリが対戦した唯一の東洋人という事実は残りました。


加藤さん 猪木VSアリは近年、再評価されていて、当時「茶番」と報じたNHKが後年、猪木VSアリの特集を組むほど、今なお回転体として息をしている感じですよね。


──NHKの『アナザーストーリー』で取り上げられましたね。


加藤さん あと話が変わりますけど、猪木さんといえば、なぜかバーン・ガニアをリスペクトしているという謎が残っているんですよ。まだまだ猪木さんに関するミステリーは尽きませんね(笑)。


──猪木さんとAWAは接点ないですよね。


木村さん ええ。だから、なぜグレーテスト18クラブというベルトが制定されたとき、その発起人の中ににガニアの名が入っていたのか分からないんです。


──グレーテスト18クラブは1990年に猪木さんのレスラー生活30周年記念パーティーの席上で、ルー・テーズを発起人とした「過去に猪木と闘った」、プロレスラー及び格闘家によって構成された組織で、そこからタイトルが誕生して長州力さんが初代王者に認定されています。確か1990年2月10日東京ドーム大会でラリー・ズビズコVSマサ斎藤のAWA世界ヘビー級選手権試合が組まれていて、新日本とAWAの繋がりからガニアがメンバーに選ばれたとは考えられないでしょうか?


木村さん そもそもグレーテスト18クラブはアントニオ猪木と対戦したライバルたちによって創設されたタイトルであるというのが大前提でしたからその説には無理がありますよ。ガニアは猪木さんが所属していた日本プロレス、東京プロレス、新日本プロレスのいずれにも参戦しておらず、日本マットで一度も猪木と対戦してないわけですから。


──何かリング外で繋がりがあったのでしょうか?


木村さん アリ戦の前にアメリカで行われたプロモーションの際に接点があったようですが…。いまわかっているのはそれだけなんですよ。


──猪木さんに関するミステリーは今後、解き明かされるのかもしれませんね。では最後にお二人の今後についてお聞かせください。



加藤さん 今も日々、野球の現場をかけ回っています。猪木さんの「迷わず行けよ、行けばわかるさ」をいつも自分に唱えながら取材に行って頑張ってます。木村さんがおっしゃる通りで、猪木さんが色々な方の優れたところを吸収していって自分のものにする天才でした。僕も『格闘家 アントニオ猪木』からヒントを得て、色々なものに影響を受けていい書き手になりたいですね。


木村さん 私の次の目標は『格闘家アントニオ猪木』をプロデュースしてくれたTERUさんと共に立ち上げた「シン・INOKIプロジェクト」の第2弾として、現在、絶版になっている『アントニオ猪木の証明』に未収録の取材記録を加えた「完全版猪木インタビュー集」の出版です。実は私の手元には猪木さんとの1vs1インタビューを収録したカセットテープやビデオテープといった取材記録がまだかなり残っており、それらの中身を余すことなくファンに提供しないことには猪木さんに申し訳が立たないと思っているんです。ただ、版元などがまだ未定のため、それらが具体化するまでの間、別のテーマの本を1冊世に送り出すべく準備に取り掛かっています。


──それは先日、Twitter(X)上で木村さんが宣言された昭和の怪奇レスラー・マンモス鈴木の本ですね!


木村さん はい。取材に4年以上をかけて雑誌に連載していたルポ記事の原稿をあらたに単行本用に書き直しています。なにしろマニアックすぎるテーマのため書籍化は難しいと半ば諦めていたのですが、今回も「マンモス鈴木というレスラーをこのまま歴史に埋もれさせてはいけない。一緒に彼がリングに在った証を後世に残しましょう!」と私の背中を押してくれた方がいて道が開けました。マンモス鈴木さんは猪木さんの兄弟子です。もしかしたらこれも猪木さんの導き──『格闘家アントニオ猪木』を書き上げたことと繋がっているのかもしれないと、そんな気もしています。


──『格闘家 アントニオ猪木』は東野幸治さんがジャケ買いしたそうですから。未だにその余波は続いてます。


加藤さん 闘魂は連鎖していくんですね。僕らは闘魂の灯を燃やしていくことが、猪木さんのプロレスに夢中になった人間の責務じゃないかなと思います。


──これでお二人の対談は以上となります。木村さん、加藤さん、本当にありがとうございました。お二人のご活躍を心からお祈りしております。


(プロレス人間交差点 木村光一✕加藤弘士・完/後編終了)


ジャスト日本です。



「人間は考える葦(あし)である」



これは17世紀 フランスの哲学者・パスカルが遺した言葉です。 人間は、大きな宇宙から見たら1本の葦のようにか細く、少しの風にも簡単になびく弱いものですが、ただそれは「思考する」ことが出来る存在であり、偉大であるということを意味した言葉です。


プロレスについて考える葦は、葦の数だけ多種多様にタイプが違うもの。考える葦であるプロレス好きの皆さんがクロストークする場を私は立ち上げました。



 

さまざまなジャンルで活躍するプロレスを愛するゲストが集まり言葉のキャッチボールを展開し、それぞれ違う人生を歩んできた者たちがプロレス論とプロレスへの想いを熱く語る対談…それが「プロレス人間交差点」です。

 
 
 

 

前回は新日本プロレスの棚橋弘至選手と作家・木村光一さんの「対談という名のシングルマッチ」をお送りしました。


プロレス人間交差点 棚橋弘至☓木村光一 


前編「逸材VS闘魂作家」  

後編「神の悪戯」 

 

第二弾となる今回は作家・木村光一さんとスポーツ報知の加藤弘士さんによる刺激的激論対談をお送りします。

 

 

 

 

 

(この写真は御本人提供です)

 

 

木村光一

1962年、福島県生まれ。東京造形大学デザイン学科映像専攻卒。広告企画制作会社勤務(デザイナー、プランナー、プロデューサー)を経て、'95年、書籍『闘魂転生〜激白 裏猪木史の真実』(KKベストセラーズ)企画を機に編集者・ライターへ転身。'98〜'00年、ルー出版、いれぶん出版編集長就任。プロレス、格闘技、芸能に関する多数の書籍・写真集の出版に携わる一方、猪木事務所のブレーンとしてU.F.O.(世界格闘技連盟)旗揚げにも協力。

企画・編著書に『闘魂戦記〜格闘家・猪木の真実』(KKベストセラーズ)、『アントニオ猪木の証明』(アートン)、『INOKI ROCK』(百瀬博教、村松友視、堀口マモル、木村光一共著/ソニーマガジンズ)、『INOKI アントニオ猪木引退記念公式写真集』(原悦生・全撮/ルー出版)、『ファイター 藤田和之自伝』(藤田和之・木村光一共著/文春ネスコ)、Numberにて連載された小説『ふたりのジョー』(梶原一騎・真樹日佐夫 原案、木村光一著/文春ネスコ)等がある

 

木村光一さんによる渾身の新作『格闘家 アントニオ猪木』(金風舎)が発売中!

 

格闘家 アントニオ猪木【木村光一/金風舎】

 

 

 

 

 

YouTubeチャンネル「男のロマンLIVE」木村光一さんとTERUさんの特別対談

 

https://youtu.be/XYMTUqLqK0U 

 

 

 

https://youtu.be/FLjGlvy_jes 

 

 

 

https://youtu.be/YRr2NkgiZZY 

 

 

 

https://youtu.be/Xro0-P4BVC8 

 

 

 



(この写真は御本人提供です)

 

加藤弘士(かとう・ひろし)1974年4月7日、茨城県水戸市生まれ。茨城中、水戸一高、慶應義塾大学法学部法律学科を卒業後、1997年に報知新聞社入社。6年間の広告営業を経て、2003年からアマチュア野球担当としてシダックス監督時代の野村克也氏を取材。2009年にはプロ野球楽天担当として再度、野村氏を取材。その後、アマチュア野球キャップ、巨人、西武などの担当記者、野球デスク、デジタル編集デスクを経て、現在はスポーツ報知編集委員として、再びアマチュア野球の現場で取材活動を展開している。スポーツ報知公式YouTube「報知プロ野球チャンネル」のメインMCも務める。


(画像は本人提供です)

『砂まみれの名将』(新潮社) 阪神の指揮官を退いた後、野村克也にはほとんど触れられていない「空白の3年間」があった。シダックス監督への転身、都市対抗野球での快進撃、「人生最大の後悔」と嘆いた采配ミス、球界再編の舞台裏、そして「あの頃が一番楽しかった」と語る理由。当時の番記者が関係者の証言を集め、プロ復帰までの日々に迫るノンフィクション。現在6刷とヒット中。




今回の対談のテーマは「アントニオ猪木を語り継ごう!」です。

2022年に逝去されたプロレス界のスーパースター「燃える闘魂」アントニオ猪木さんについて、数々の猪木本や昨年『格闘家 アントニオ猪木』(金風舎)が発売になり話題を呼んだ「孤高の闘魂作家」木村光一さんと、大ヒット野球ノンフィクション『砂まみれの名将』(新潮社)の著者で、猪木さんを愛するプロレスファンである「活字野球の仕事師」加藤弘士さんに、大いに語っていただける場をご用意しました。

 

 

木村さんと加藤さんの対談は、こちらの5つのテーマに絞って行いました。ちなみに私は進行役としてこの対談に立ち会いました。

 

1.アントニオ猪木さんの凄さとは?

2.アントニオ猪木さんの好きな技

3.アントニオ猪木さんのライバルとは?

4.アントニオ猪木さんの好きな名勝負

5.アントニオ猪木さんとは何者だったのか?

 

 

アントニオ猪木とは何か? 

その答えのヒントになる対談、是非ご覧下さい!




プロレス人間交差点 

「孤高の闘魂作家」木村光一☓「活字野球の仕事師」加藤弘士

〜アントニオ猪木を語り継ごう!〜

前編「偉大な盗人」








『砂まみれの名将』著者、木村さんの新作『格闘家 アントニオ猪木』を大絶賛!

「ものすごい発見と気づきがあって、何か自分の中での疑問点が全部、腑に落ちていくような大変意義深い一冊」(加藤さん)



──木村さん、加藤さん、「プロレス人間交差点」にご協力いただきありがとうございます!今回はアントニオ猪木さんについてとことん語り尽くす対談となっております。よろしくお願いいたします!


木村さん よろしくお願いいたします!


加藤さん よろしくお願いいたします!


──今回の対談は2022年に逝去された”燃える闘魂”アントニオ猪木さんを語り継ぐがテーマなのですが、ちなみに加藤さんは2023年10月に発売された木村さんの新作『格闘家 アントニオ猪木─ファイティングアーツを極めた男─』(金風舎)をご覧になられましたか?


加藤さん もちろんです!『格闘家 アントニオ猪木』は本当に読み応えがあって、僕が全然知らない猪木さんをたくさん知ることができて、大変感服しました。令和の時代に猪木さんの強さのルーツを探るというのは凄くチャレンジングな一冊だったと思います。今まで気づかなかった猪木さんの強さの裏側をこの本を通じて知ることができて、「読んでよかったな!」と思えました。


木村さん 恐れ入ります!


加藤さん 僕は今、49歳なんですけど、『プロレススーパースター列伝』を読んで「ほんまかいな」と思いながら、そこから色々な書籍を読んで自分の中での猪木史を書き加えていくような作業をしてきて、猪木さんの「強さ」のルーツがカール・ゴッチさんとの出逢い以前にあったことが新しい発見でした。プロ柔道の大坪清隆さんの存在とか、吉原功さんからレスリングを習得、僕らからするとビリビリにシャツを破かれしまうレフェリーという印象が強い沖識名さんが実はハワイアン柔術の達人だったということなど、ものすごい発見と気づきがあって、何か自分の中での疑問点が全部、腑に落ちていくような大変意義深い一冊でした。


木村さん ありがとうございます! 加藤さんと私はちょうど一回り年齢が違うんですよね。当然、アントニオ猪木の捉え方にも溝があるんだろうなと、今日はある程度覚悟して対談に臨んだので素直に嬉しいです!


──木村さん、今の加藤さんのコメントは『格闘家 アントニオ猪木』最高のレビューになったんじゃないですか!


木村さん いや、まさに我が意を得たり! そのままストレートに受け止めていただけてなにより! 爽快な気分です(笑)。


加藤さん 日本プロレスは本当に各ジャンルのフィジカルエリートが集った梁山泊だったんですね。


木村さん そうなんです。猪木さんのレスラーとしての出発点について、まずその背景をよくよく調べてみて確信したことがそれでした。年齢的に力道山をリアルタイムで観ていない私は日本プロレスの選手たちに対して角界や柔道界で食い詰めた人たちというネガティブなイメージを抱いていたんですけど、時計の針を戻して当時の日本プロレス道場の光景をよくよく想像してみると、フィジカルエリートの代表である大相撲の幕内経験者がズラリと顔を揃えていたばかりか、木村政彦さんが戦後進駐軍の占領政策によって骨抜きにされた武道の再興を志して旗揚げした“プロ柔道”に参加していた柔道界の猛者や“柔拳”(柔道vs.ボクシングの異種格闘競技)や“アマレス”といったさまざまな格闘技のエキスパートもいた。とくにプロ柔道は指関節や脊椎への逆関節、バスターや胴絞めもOKというかなり危険な格闘技だったそうで、猪木さんは17歳のときにブラジルから日本に帰ってきて、いきなりそんな絶望的にヤバイ世界に放り込まれた。そんな道場での原体験がその後のアントニオ猪木のプロレスを決定づけたのは間違いありません。


加藤さん 本当に殺しに行くような感じもあって、今のスポーツ化されたものとは少し違って、生か死かがダイレクトにあった時代ですよね。


木村さん 観客の側にも戦争の生々しい記憶があったわけですし、適当にお茶を濁すようなヌルイ試合は見透かされたに違いありません。私の父親は昭和30年代後半から40年代のはじめ頃、福島の片田舎でプロレスの興行にも携わっていたのですが、あからさまに手を抜いた試合をされて頭に来て二度と呼ばなかったと聞いてます。プロレス人気爆発の引き金は正義の日本人が悪の外国人を倒す、いわゆる鬼退治という単純な構図だったのは間違いありませんが、観客はそれ以前に相撲や柔道を見慣れていたわけですし、最初のうちは達人同士によるシリアスな演武やプロの喧嘩としての側面も求められていたんじゃないでしょうか。少なくとも猪木さんが入門した頃の日本プロレスには、たしかに達人と呼ばれるに相応しい強さをもった実力者もいたわけですから。


加藤さん 彼らはプロレスという名の演武を全国で興行を展開して、お客はそれに木戸銭を払って見に行っていたんですね。日本プロレスに関してはふきだまりの淀んだ組織のような印象があったんですけど、北沢幹之さんが先輩レスラーから嫌がらせを受けた時に大坪さんが「俺がボコボコにしてやる!」という男気を見せたり、大坪さんと猪木さんがトレーニングを通じて意気投合していって、後に藤波辰巳さんや木戸修さんといった猪木派が集うというのも、日本プロレスに青春物語があったんだろうなと木村さんの本を読んで、改めて思いを馳せるきっかけになりました。


──加藤さんは以前、「猪木さんはトレーニングマシンとかで鍛えたものとはちょっと違うナチュラルで強靭な肉体なんですよ。少年時代にブラジルのコーヒー農園で朝から晩まで働いた過酷な労働環境がもたらした産物かもしれないが、強さにしなやかさを感じるんです」と語ったことがありました。木村さんの本を読まれて、加藤さんが抱いていた猪木さんへの疑問のピースが埋まった感じはしますか?


加藤さん ピースが埋まりましたよ。どう見たって猪木さんのフィジカルはもう別格で、今のようなサイエンスを駆使したトレーニングができなかった時代ですけど、青春時代から陸上競技、ブラジルから日本に帰ってきてからの若き日々を考えると今までの猪木さんの対する疑問が一個一個、氷解されていったような気がします。


──この本には猪木さんと梶原一騎さんの年表を照らし合わせて、空前の70年代格闘技ブームについて考えるという切り口もありましたよね。


加藤さん あの年表は力作で、凄かったです。読み進めたくてもページが先に進まない(笑)。その都度、年表を見返してましたね。色々な楽しみ方ができるお得な本ですよ。


木村さん 第3章の年表は時系列を整理した客観的なデータというより、70年代の第1次格闘技ブームの熱狂をリアルタイムで体験した読者の記憶のインデックスとして作成しました。後追いのプロレスファン、格闘技ファンにはなかなか伝えるのが難しいのですが、極論を言えば、私は梶原一騎のフィクションとアントニオ猪木のリアルのせめぎ合いがなかったらその後のプロレスも格闘技もまったく別のカルチャーになっていたと思うし、もっといえば100万人の青少年の生き方に影響を与えたと思っています。梶原先生と猪木さんが交錯した格闘技ブームの影響はそれくらい巨大なものでした。それをぜひ、当時を知る生き証人である同世代の猪木ファンの皆さんにも語り継いでいただきたい。そのための手引書として『格闘家アントニオ猪木』を活用してもらえたら、まさに、冥利に尽きます。



二人が語るアントニオ猪木さんの凄さ

「猪木さんは多面体でさまざまな顔を持っていて、いずれも一流。パフォーマーであってプロモーターでもあって、政治家でもあった。やっぱりスーパースター」(加藤さん)

「古舘伊知郎さんがかつて猪木さんのプロレススタイルを模倣したハルクホーガンを『華麗なる盗人』と命名してましたよね。猪木さんはその上を行く『偉大な盗人』だったんじゃないか」(木村さん)




──ありがとうございます。ここから本題に入ります。まずはお二人が考えるアントニオ猪木さんの凄さについて語っていただきたいです。加藤さんからよろしくお願いいたします。


加藤さん そうですね。猪木さんは多面体でさまざまな顔を持っていて、いずれも一流。パフォーマーであってプロモーターでもあって、政治家でもあった。大変凡庸な言い方になりますが、やっぱりスーパースターであることだと思うんですね。大変な星のもとに生まれてきた方で、このような人生を歩んだのは運命としか言いようがないです。


──確かにそうですね!


加藤さん 木村さんの本に初代若ノ花が力道山に「自分に猪木を預からせてほしい」と言ったという記述がありましたが、猪木さんはどんなことをやっても成功されて名を残してたと思いますが、やっぱりプロレスという魑魅魍魎なジャングルに迷い込んでしまったことで世の中が大きく変わっていくという奇跡にただただ感謝するだけですね。力道山さんとの出逢い、同期にジャイアント馬場さんがいたこと、プロデビューがモハメド・アリとほぼ同時期だった偶然とか、すべてが神の見えざる手によって描かれたドラマのような気がしました。


──神の見えざる手!それは何となく感じますね。


加藤さん あと猪木さんの凄さとして大変な努力家だったということですね。トレーニングを熱心にされていて、好奇心旺盛で、色々な技術に興味を持って実際に汗を流して習得していったのが猪木さんで、その努力を続けて年齢を重ねてもいつまでも肉体をキープし続けた猪木さんに出逢えたのは僕にとっては大きな幸福でした。


──ありがとうございます。では木村さん、お願い致します。


木村さん 言おうと思っていたことを全部言われてしまいました(笑)。なので加藤さんの意見の補足にしかなりませんが、古舘伊知郎さんがかつて猪木さんのプロレススタイルを模倣したハルクホーガンを「華麗なる盗人」と命名してましたよね。私、猪木さんはその上を行く「偉大な盗人」だったんじゃないかなと思うんです。


加藤さん おおお!


木村さん そもそも相撲や柔道といった格闘技の下地がなかった猪木さんの目には、さきほども言いましたがプロレス界はとてつもなく怖ろしい化け物だらけの世界に映ったはずです。その不安を拭い去るためには一刻も早く対抗する術を身につける必要があった。そうでないと生き残れない。それって本人にとってはブラジルのジャングルの奥地で必死に毎日を生きていた頃の心境と大して変わりがなかったんじゃないでしょうか。


加藤さん 日本プロレスで日々をどう無事に過ごし、どうやったら頭角を現わせるのかって大変な作業ですよね。


木村さん 実際、猪木さんに日本プロレスの道場でジャイアント馬場さんや先輩のマンモス鈴木選手を初めて見たときの印象について伺ったことがあるんですが「俺はとんでもないところに来てしまった…」と半ば絶望的な気分になったと語っていました。


──10代の若者にとっては、刺激が強すぎる世界ですよね。


木村さん 猪木さんはブラジルでも自分よりデカい奴に出会ったことがなかったとも言ってましたから、馬場さんやマンモスさんの姿は異世界の怪物に見えたに違いありません。たぶん、自分の体格でもアドバンテージはないと思い知らされた猪木さんは、その時点できっぱり割り切ったんでしょう。この埋められない体格差を克服するにはより強靭なフィジカルとテクニカルな強さを手にいれるしかないと。幸いなことに日本プロレスの道場には大坪清隆さんという高専柔道の達人、レスリングの吉原功さんというストイックに強さを追求していた先輩方がいた。猪木さんが彼らに憧れてどんどん感化されていったのは当然の成り行きだったと思います。


加藤さん 多感だった頃の記憶が後々にずっと影響を残す典型的な例ですよね。


木村さん もう一つ付け加えると、その頃の猪木さんにとってプロレスはイコール力道山。そして力道山のどこに猪木さんが強く惹かれたのかというと“怒り”でした。力道山はあの時代の日本人のフラストレーションを全て背負ってリング上で爆発させていました。それはヒーローを演じていた力道山というレスラーの表現に他ならなかったわけですが、師匠の付き人も務めながらリング外の生き様もすぐ傍らで見つめていた猪木さんにすればその怒りの表現は演技の一言などでは済まされなかった。おそらくは救いのないほどドロドロでネガティブな感情さえも観客に感動やカタルシスを与える原動力に換えてしまう精神力、つまりそれが不撓不屈(ふとうふくつ)の“闘魂”であり、見習うべき本当のプロレスラーの強さなのだと早いうちから骨身に染みていたのだと思います。




猪木さんは特殊な嗅覚や本能に従って行動をしていただけなのかもしれませんが、凄いのはそれがジャンルの壁や時代さえ超越していたこと」(木村さん)





──日本プロレス時代の原体験が猪木さんのアイデンティティーになったんですね。


木村さん はい。猪木さんにとってプロレスとは力道山から学んだ心技体の強さの表現であり、まずはリアルに強くなることに没頭していった。自分は怪物ではないからこそ、強さを求め続けなければいけないという宿命を迷わず受け入れられたんじゃないでしょうか。


加藤さん 猪木さんの成り立ちを考えてみると、やっぱり一国一城の主となって1972年に新日本プロレスを旗揚げした際に、とにかく強さを押し出して、その象徴としてカール・ゴッチを招聘したのは合点がいく話ですよね。


木村さん そうですね。猪木さんは自分が強いと認めたレスラーからつねに一流であるための必要なエッセンスを貪欲に盗み取っていたんですが、それは意図してそうしていたというより、生きていく上で当たり前のことだったのかもしれません。


加藤さん 生存本能だったんでしょうね。


木村さん はい。その最たる例がブラジル遠征の際に挑戦してきたバーリトゥード王者のイワン・ゴメスとの交流です。『格闘家アントニオ猪木』の取材で北沢幹之さんにあらためてインタビューしたのですが、猪木とゴメスは公式には試合という形での対戦はなかったものの、新日本の道場ではかなり高度なスパーリングを行なっていたという証言を得ています。猪木さんは日本プロレス道場で柔術に近い高専柔道の技術を身につけていただけでなく、後年にはゴメスからバーリトゥードの技術まで盗んでいたんですよ。UFCが登場する遙か以前にね。


加藤さん イワン・ゴメスと出逢って「これは我々にとって必要なもの」と好奇心を抱いて会得していくわけですね。ヒールホールドを猪木さん、藤原喜明さんや佐山聡さんはゴメスから学んで、とんでもない貪欲さであり、どんなものでも自分に吸い込んでしまう壮絶なブラックホールなんですね。


木村さん 強さだけでなく、実現不可能といわれたモハメド・アリ戦を実現させたことで世界的なネームバリューも手に入れましたからね。まさにブラックホールです。


加藤さん 猪木さんのテーマ曲『炎のファイター』は今でも高校野球の甲子園大会でNHKから流れるわけですから。


──チャンスになるとよく流れますね!


木村さん 猪木さんは特殊な嗅覚や本能に従って行動をしていただけなのかもしれませんが、凄いのはそれがジャンルの壁や時代さえ超越していたこと。『格闘技世界一決定戦』で対戦したウイリエム・ルスカ(柔道金メダリスト)やモハメド・アリ(プロボクシング・ヘビー級王者)といった世界チャンピオンの称号を持つアスリートから“熊殺し”ウイリー・ウイリアムス(空手)に至るまで、あの当時の世界の格闘技界の全てを呑み込んでしまったばかりか、未来を予知していたかのようにバーリトゥードとも接点を持っていたわけですから。


加藤さん その通りです。後に1984年に第一次UWFが立ち上げに至る経緯とか、もうめちゃくちゃじゃないですか。でも結果的には新しい総合格闘技の発展に図らずも寄与してしまう。猪木さんが考えているところじゃなくて、事が転がっていくような気がして、そのバイタリティーに虚と実を織り交ぜながら回転体として進行していくダイナミズムがもうたまりませんね。



猪木さんを神格化、猪木原理主義者について

「猪木さんと同時代で生きた人間として猪木さんだけと信じて見るよりも、様々な形や視野で猪木さんの生涯を楽しむ方が、猪木さんから学んだ人間としての今後の生き方」(加藤さん)

「神格化してしまったらアントニオ猪木の本当の凄さが見えなくなってしまう。神様なら奇跡を起こして当たり前ですから。猪木さんは生身の人間でありながら、それでも奇跡のようなことを幾つも成し遂げたから素晴らしい」(木村さん)





──ちなみにひとつお聞きしたいことがあります。猪木さんが2022年に亡くなってから数々の書籍やイベントが開催されました。SNSの中では猪木さんを神格化していく傾向が一部であって、これの行き過ぎはいかがなものかという意見もあります。猪木原理主義者という言葉もSNS上でありますが、この件についてお二人はどのように思われますか?


加藤さん 猪木原理主義者になる人の気持ちはよく分かりますので、そういう人たちを批判する気にはなれないです。ただ猪木さんから学んだことは「本当か、嘘か」「パフォーマンスかガチンコなのか」と多面的に物事を見ることで、猪木さんと同時代で生きた人間として猪木さんだけと信じて見るよりも、様々な形や視野で猪木さんの生涯を楽しむ方が、猪木さんから学んだ人間としての今後の生き方じゃないかなという気がしています。


木村さん 全く同意見です。よく誤解を受けますが、私も猪木原理主義者ではないですし、猪木さんを神格化するという動きに関しては反対です。なぜかというと、神格化してしまったらアントニオ猪木の本当の凄さが見えなくなってしまう。神様なら奇跡を起こして当たり前ですから。猪木さんは生身の人間でありながら、それでも奇跡のようなことを幾つも成し遂げたから素晴らしいんです。


加藤さん そうなんですよ!


──木村さん、今の意見は素晴らしいですよ。人間・アントニオ猪木が奇跡を起こしたことに猪木さんの偉大さがあるんですね。


木村さん その本質部分を見失ってしまうとすごく気持ち悪いし、猪木さんほど人間らしいと言いますか、あんなに欲望に忠実で生々しい人もいなかった。それを全部綺麗ごとで包み込んでしまったらアントニオ猪木は遠くなるばかりでどんどんつまらなくなってしまう。私はそう思います。


加藤さん デオドラントスプレーを振って、汗のにおいを抑えちゃうと、猪木さんの匂いは嗅げないですよ。嫉妬、裏切り、金銭面も含めても色々出てきますけど、それを全部ひっくるめてのアントニオ猪木の凄さであり、面白さなんですよ。



木村さん、衝撃のカミングアウト!

「WJプロレスの旗揚げは一度計画段階で頓挫しているんですが、その最初の企画書を作成したのが私だったんです」(木村さん)




──実は2023年12月2日に大阪・ロフトプラスワンウエストで行われた『昭和プロレス復活祭』というイベントがありまして、そこでミック博士さんの妄想と言いつつ裏社会の話と数々の証言や文献を組み込んで鋭く物事の真実に迫る手法で「ジャパンプロレスとUWF」「馬場さんと猪木さんの関係」についてかなり興味深く語っていたので、そこからの影響で、猪木原理主義者についての質問をさせていただいたものでした。


木村さん なるほど、じゃあ、そういう流れになったのでちょっと…。これは初めて打ち明ける話です。長州力さんが立ち上げたWJプロレスってあったじゃないですか? 実は、私、どうやら知らず知らずのうちにあの団体の旗揚げに関わっていたようなんです。


──え? どういうことですか?


木村さん WJプロレスの旗揚げは一度計画段階で頓挫しているんですが、その最初の企画書を作成したのが私だったんです。


加藤さん ええええ!


──きました!木村さんのカミングアウト(笑)。


木村さん 当時、私は95年出版の『闘魂転生』という書籍の企画を新日本プロレスのAさんに持ち込んだのをきっかけに親しくなって、よく個人的に頼まれて企画書を作成していた時期があったんです。その中の1本が長州力選手を中心にした“第2新日本プロレス”の旗揚げに関する企画書でした。ところで、加藤さんは内外タイムスの記者を経て、その後何社も出版社を立ち上げてベストセラーを連発した宮崎満教さんという人物をご存じですか?


加藤さん もちろんです!大有名人です。


木村さん 私は広告会社を辞めたあとにフリーランスのプランナー兼ライターのような立場でAさんや猪木事務所とお付き合いするようになってから、さらに『ワールドプロレスリング』の元プロデューサーの栗山満男さんとも知り合い、その栗山さんから宮崎満教さんを紹介していただいてルー出版、いれぶん出版の編集長という肩書きで書籍や写真集の出版に携わるようになったんです。また宮崎さんと梶原一騎先生の実弟である真樹日佐夫先生が親しい関係にあり、お二方の後押しもあって、梶原一騎・真樹日佐夫原案のボクシング小説『ふたりのジョー』を1年間、Numberに執筆する機会に恵まれたんですよ。


──凄まじい人間関係の中でお仕事をされてたんですね!


木村さん で、そんなカオスな状況にあった私のもとに突然Aさんから持ち込まれた話が「新日本プロレスを2つに分けたい。で、第2新日本のトップを長州力にする。これは猪木も承知の件だから企画は任せる」というものだったんです。


加藤さん そうだったんですね!


木村さん 団体設立の趣意書と事業計画書を書き上げて手渡すと、次にスポンサー探しも依頼され、そこで宮崎さんと繋がりのある芸能事務所に動いてもらってスポンサーも決まりかけたんです。ところがある日、Aさんから呼び出されて「あの話は御破算になった。例の企画書もすべて破棄してくれ!」と。要するに最初に聞かされた猪木さんも承知していたという話は真っ赤な嘘で、危うくその片棒を担がされるところだったんです。


──今の話はAさんらしいです。


木村さん どうやらそのときいったんボツになった企画が数年後、スポンサーを変えて誕生したのがWJプロレスだった、とそういうわけです。一時期、団体の副社長に就任した宮崎さんから「WJのマッチメイクをやらないか」と誘われたこともありましたが、きっぱりお断りしました。


──木村さんはUFOの設立趣意書も作成していましたよね。もし第2新日本プロレスの話が進展していたら非常に複雑な立場になっていましたね。ちなみにAさんからの企画の依頼はいつ頃だったか覚えていますか?


木村さん 1999年だったと思います。たぶん時系列的にも合ってますよね。




「猪木さんを取り巻く環境はずっと複雑な関係ですよね。敵か味方なのか万華鏡のように姿を変えていくようですね。仲違いしているのに、また結託するとか」(加藤さん)



──合いますね。猪木さんと長州さんが本格的に暗闘している時期で、新日本の経営陣が坂口征二さんから藤波辰爾選手に社長が交代された年ですね。


加藤さん 猪木さんを取り巻く環境はずっと複雑な関係ですよね。敵か味方なのか万華鏡のように姿を変えていくようですね。仲違いしているのに、また結託するとか。これは木村さん、この話も含めて後に一冊にまとめていただきたいですよ。


──猪木さんの人間関係は亡くなった今もずっと魑魅魍魎の世界なんですよ。


木村さん 正直、プロレス界に片足を突っ込んでいた頃にはいろいろありました。が、少なくとも私は猪木さんとの直接の関わりの中で嫌な思いをしたことはなかったんですよ。残念ながら最後は袂を分つ形になりそれきりになってしまったものの、そこに裏切りや陰謀のようなものは一切介在しませんでした。だから猪木さんへの思いはずっと変わらなかったし、それが私にとっては誇りでもあったんです。昨年の秋、あえて一周忌に『格闘家アントニオ猪木』という本を上梓したのも、そのテーマの普遍性と気高さは誰にも穢されないと確信していたからです。


加藤さん 裏切りや様々な欲がまみれている話も面白いんですけど、『格闘家 アントニオ猪木』は本当にピュアな1人の格闘家としてのアントニオ猪木にフィーチャーしたすごく読後感が良いんですよね。このタイミングで世に出されたのは意義深いですよ。


(前編終了)




ジャスト日本です。


新年明けましておめでとうございます。

昨年は本当にお世話になりました。

今年もよろしくお願い致します!



さて、昨年当ブログでは新日本プロレスの棚橋弘至選手と作家の木村光一さんの対談を掲載させていただきました。


【プロレス界のエースとアントニオ猪木を追い求めた孤高の闘魂作家による対談という名のシングルマッチ!】


プロレス人間交差点 棚橋弘至☓木村光一 


前編「逸材VS闘魂作家」  



後編「神の悪戯」 


前編・後編と本音剥き出しの対談という名のシングルマッチは大きな反響を呼びました。主にオールドファンを中心に反応があった印象がありましたが、棚橋選手と木村さんの対談は古いファンだけじゃなくて、今のファンにも届けたいという想いがありました。


すると棚橋弘至選手ファンのゆみおさんがこのようなレビューを書いてくださいました。





ここまで詳細に書いていただき本当に感謝しかありません。ありがとうございます!

棚橋選手と木村さんの想いが多くの皆さんに届くことを切に願ってます。


またこれからプロレスファンになるかもしれない皆さんへ。

もしプロレスファンになったことに対して悩んだり、苦しんだりすることがあるかもしれない。世間や偏見に苦しむことがあるかもしれない。SNS疲れもあって、嫌になるかもしれない。

でも私は声を出しにして言いたい。

「今も昔もプロレスはスゲェ面白いよ!」

それでも何か壁にぶち当たることがあれば、この対談を読んでほしい。

そう願ってます。

ゆみおさん、本当にありがとうございました!この対談を実現させてよかったです!