俺達のプロレスラーDX
第229回 ジャンボイズムを継承した温厚な巨大グリズリー〜信頼されたカナダの地震男〜/ジョン・テンタ
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第229回 ジャンボイズムを継承した温厚な巨大グリズリー〜信頼されたカナダの地震男〜/ジョン・テンタ
ジャスト日本です。
以前、私は棚橋弘至選手についてこのような記事を書きました。
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第228回 もしもチャック・ノリスがリングに上がったら…〜幻想を抱かせた藤原組最強外国人となったアメリカン空手家〜/バート・ベイル
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第227回 過小評価の殺人コンベアー〜後塵に拝するTHE中堅レスラー〜/マイク・イーノス
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第226回 何者かになりたくて…〜足掻いていた人間戦車二世〜/ボビー・ダンカン・ジュニア
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第225回 いつも向かい風の執拗な試合巧者~True to the basics~/リック・マーテル
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第224回 bye bye blackbird〜クラシカルプロレスの求道者〜/西村修
プロレスラーで文京区議会議員の西村修(52)が食道がん(扁平上皮がん)を患っていることを告白した。10日に入院し、11日から抗がん剤治療を開始する。がんは左上半身全域に転移しており、ステージ4と診断。手術困難な状況と明かした。がん発症は1998年の後腹膜腫瘍に続き2度目。議員レスラーとして順風満帆だったが、突然の知らせとなった。西村は5歳の子どもを思い、「まだ死ぬわけにはいかない」と再び病魔に打ち勝つ覚悟を示した。
「ここでどう生きるか。今こそ真価が問われる場面ですよ」「体を甘やかしたら、あとは尻すぼみに弱るだけ。がんを治すなら、化学治療だけじゃなく、自分でもいっぱい栄養を摂って体力をつけなきゃ。腹を減らすには体を動かすトレーニング。ICUから退院したときは、スクワット3回すらできなかったけれど、頑張ってもう1回増やせば、次は4回、5回と増えていく。今は朝に300回、午後は全身の筋トレができるまでになって、4月の初入院時よりも体力は上がってきました。もうリングでも戦えます」【2024.08.23 NEWSポストセブン 末期がんの現役議員でプロレスラーが電流爆破マッチに挑む「人は何のために生きているのか」を見せたい】
小学校は少年野球、中学はバレーボールをやってましたが、ただのファン上がりなんですよ。新日本プロレスばかり見てましたので、ヒーローは(アントニオ)猪木さんであり、藤波(辰爾)さん、坂口(征二)さん。好きが嵩じて自分自身でやってみたくなったんです。新日本プロレスのプロレス学校のオープンと同時に入りまして、そこが部活替わり。(山本)小鉄さんの指導で、学校が終わったら等々力の道場に通うかたちで。高校2年から3年。それで運良く入門テストに合格。応募者総数は、書類から含めたら150人だったらしいんですけど。50人落とされて、最後面接で5人受かりました。学校は、20代後半の人もいたり、全員が全員プロを目指していたわけではないんですが。プロを目指してたのは1割ぐらいですよ。あそこの道場で練習できるっていうんで。新日本の道場そのものですから。1時から8時まで使えるんですけど、普通に現役の選手が入ってきますから。ファンにとっては、とんでもない環境ですよね。その中でも、6時から8時までは、小鉄さんのプロ養成コースがありまして、そこのメンバーに入って。メニューはプロの人の10分の1ぐらいかもしれないですが、スクワット500回、腕立て100〜200回やらされました。受け身とかブリッジとか、基礎の基礎。中学3年のときから本気で体を鍛えようとバーバル買ってきて練習はしてましたので、なんとかついていけました。
当時は、WWF(現WWE)以外に残っている団体がわずかだったんですが、長州さんからアメリカのフロリダに行けという指示がありました。のんびりした気候の中で体作りに専念しろと。ヒロ・マツダ(元NWA世界ジュニア王者)さんの道場に入って、レスリングを教えてもらって。ボディビルをブライアン・ブレアーのゴールド・ジムで。徹底して体作りをしました。
理論的な教えで。野毛の道場(新日本の道場)と言っている事は全然違ってましたね。若手として、「気迫だ、パワーだ、ガンガン行け」ばかりでしたが、緻密な戦法のもと、レベルが全然違う。間合いだったり、溜めだったり。そこで初めて聞いたのは、「プロレスはサイコロジー」。心理学が重要だと。そんなこと聞いたことないですよ。全否定されましたよね。今まで何の勉強してきたんだと。長州さんが現場責任者で、イキのかかる馳さんだったり、佐々木さんだったりをコーチに置く訳です。長州イズムが若手に押し付けられるわけです。私だけ、体がないし、パワーだ気迫だというファイトではないわけです。みんな長州プロレスになっていっちゃうんですよ。そういう意味でまったく違う文学書を手にした感覚ですよ。
帰国するも結果が残せず、一番、ふがいない時間だったです。良い試合組まれるんですよね。リック・フレアーと組まれたり。でも対応できない。経験もキャリアもないから。いまだに、自分のワーストマッチは、フレアー戦。何もできなかった。動きに対応できない。バンバン動き回る人じゃなないし。レベルが高過ぎちゃって。顔と指だけで、両国(国技館)のお客さんを魅了しちゃうんですもん。入っていけないですよ。ロックアップ、ヘッドロック云々じゃなく、バリアができちゃってる。どう動いて良いかわかんない。歩き方もスロー過ぎちゃって。体に触れた記憶もないぐらい。自分で受け身をとり動きまわり、これが本当に「ほうき相手でもできる名人」なんだなと思いました。ただそれで、私自身の考えが、70年代80年代の昔のプロレスに、NWA王者の理論に尊敬心がいっちゃったんです。
1997年に、もう1回海外に行ってこいというのがヨーロッパで。毎日試合できるので。オットー・ワンツのところでした。これは鍛えられましたね。ヨーロッパのスタイルはネチネチしてて、大技じゃなく、いかに技を出さないか、溜めるてお客さんを魅了する、難しいプロレスなんですよ。ラウンド制ですし。結局、ファンの文化がつくり上げてるんです。キャッチ・レスリングっていうのは。日本やアメリカみたいに、より新しいものではなく、歴史とか伝統を最大限に重んじる。19、20歳の女の子たちが50代のトニー・セント・クレアーを猛烈に応援したり。20代のアメリカから来たカッコつけ男なんか見向きもされないですよ。いまのWWEみたいにシェイプアップされたところには、お客さんの目線がいかない。往年の、デーブ・フィンレー、クレアー。車を見たってベンツがたくさん走ってるんですよ。タクシーもベンツだし。ベンツだって安いわけではない。でも乗ってる。そのかわり乗ったら10年も15年も乗る。グッチもヴィトンも関係ない。そういう人が見るものだから、アメリカとは違います。それは勉強になりました。ブランドじゃない、中身なんだと。
ガン治療は続く。抗ガン剤、放射線治療…。その副作用は計り知れない。
体が資本のレスラーにとって致命的な状況だった。
プロレスを続けるか、それともあきらめるか…。
「しっかりとした食事をとらせ、体を鍛えさせ、マフィア(病気)に立ち向かう人間をつくる、それが東洋医学です」結果、東洋医学を選択した。
リング復帰という大きな目標を掲げて。
その後、東洋医学の治療法探しの旅に出る。
行き先は世界各国。フロリダ州タンパ、台湾、ウィーン、シチリア島、インド…。
針治療、気孔、ヨガ、漢方薬、食事療法…。
「プロレスをそんな簡単にあきらめられない」。
人は、子どものころから見続けた夢をそう易々と捨てられない。
まして、プロレスラーとしての輝かしいライトを浴び続けてきた人間にとってはなおさらである。
再発の危険と背中合わせの日々。熱を出しやすく、精神面が落ちた。
体調がいつ上向きになるかわからない。毎日が試行錯誤。
その中で、〈プロレスラーとして復帰したい〉という揺るぎない信念が西村選手を精神修行へと突き動かした。わずかながらも希望の光をとらえることができるようになってきた 。
2000年6月に復帰するんですけど、そのときの新日本との契約条項の中に、海外と往復していいということがありました。そこでアメリカに住居を構えまして。マレンコ道場に通ったり、海で体を鍛えたり。そのとき、マツダさんの側近だったハワード・ブロディ(最近のNWAの会長)の興行があって、ドリー・ファンク・ジュニアが来てたんです。それで近寄っていって、「あなたの生徒になりたいんだ」と。そしたら、「いつでもオカラにきなさい」。競走馬を育てる街で、観光は一切ないですよ。まあ勉強になりましたね。マンツーマンで試合形式のスパーリング。そのときは、まだドリーさんもデッカイですから。必死になって技術を学びました。エルボースマッシュしかり。シンプルな技。どこが凄いかというと、溜め。ガスを溜めるように。今の選手なんて、すぐにガス抜きしようとするんですよね。いまだに勉強になります。そういうのを見ちゃうと、現代プロレスも確立されているのかもしれないけど、あの溜めは、プロレスの神髄だなと思います。新しいプロレスに合わせなくていいと確信しました。
自分自身は、癌を患って食育活動をやってたんですね。今の子供たち、先進国としてはおかしなぐらい、中身ボロボロ。アレルギーから精神疾患、鬱病、アトピー、自殺者。原点に戻んなさいと講演しながら歩くんです。でも講演したって、効果はそこまではないですよね。良い話だなと思っても、家に帰ったら好きなもの食べて。何をどう動かさなきゃいけないかとか考えると、戦後のアメリカのGHQの政策が出てくるんですよ。(中略)食の重要性。親に知識もないし、良いもの食べさせたいとか、子供も味の濃いものを好む。PTAの意見を集約するとおいしいもの、子供が残さないものになっちゃうんです。学校給食っていうのは、食の教育でもありますから。外食産業のメニュー作りをやらなきゃいけないわけじゃないですから。その進め方は教育委員会と話しながら。私の理想は、永平寺と提携して精進料理を出すことです。子供たちが和尚みたいに冷静に落ち着いて。自分が区長なら次の日からやっちゃうかもしれませんが。いきなり精進料理でなく、まず肉をなくすとか。日本の四季の伝統食、なかなかわかんないですよ。そういうものを教えながら和食の良いところを。食材っていうのは、60億の人の細胞をつくるので。子供たちが変わると親の意識も変わるわけですから。そうすると病人も減り、医療費も下がるわけです。私のライフワークです。全部、食育です。食によって免疫力高めましょう。
「私2回目のがんになりました。明日から入院して、あさってから抗がん剤が始まります。手術じゃない。がんが散らばっちゃっている。はっきり言って、ステージ4。扁平上皮がんというがんで、原発(がんがはじめに発生した部位)は食道から来ているらしい。今日が最終の診察と入院の手続き。さっき、主治医から『あさってから一緒に頑張りましょう』と言葉がありました」「世の中戦争だ、地震だ。プロレス界だって、動けない人もいる。五体満足がどれだけ幸せかっていう部分に気づけば、抗がん剤で苦しいからと泣きごとなんて言ってられませんからね。それも含めて与えられた試練でしょうから。猪木イズムじゃないですけど、すべて自分をさらけ出して、(闘病を)自分自身のテーマと定めて。人生の52歳にして第2回がんとの戦い。必ず勝ちます」
「そりゃあ、いきなりステージ4と言われた時は“参ったな、息子もまだ5歳だぞ”って思いましたよ。でもね、目標(試合)がある方が、体に精気がみなぎってくる。それにプロレスラーは、いつも命を張ってる職業。このがんもまさに無制限一本勝負。そう考えると、心の奥底からゾクゾクしてくる自分がいるんですよ。その感情が恐怖に勝っちゃう」「昔の私はひと口だけで顔が真っ赤でね。飲めない体質なんです。でも、毎日浴びるように飲んで完全に克服した。ただ、その無理な飲酒がたたって食道がんになっちゃった。因果応報です」
「(退団から)今日までとうとう会わずじまいで終わってしまったんだけど、俺が彼を憎んだとかではなくてね。馬場さんの大会で代わりに出たのが、俺の気持ちのすべてですよ。彼のしたことに対して、俺は何も思っていないよということ」「(思いが天国に)通じるものなら『俺はもういいよ』と。恨んでもないし、旅立ってくれと。長い時間、闘病生活ご苦労さまという気持ちと、冥福を祈ってます」
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第223回 知る人ぞ知るインディーのプロレス職人/畠中浩旭
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第222回 5ヶ月の完成品〜早熟すぎた王道怪物の幻想/ブライアン・ダイエット
ジャスト日本です。
「人間は考える葦(あし)である」
これは17世紀 フランスの哲学者・パスカルが遺した言葉です。 人間は、大きな宇宙から見たら1本の葦のようにか細く、少しの風にも簡単になびく弱いものですが、ただそれは「思考する」ことが出来る存在であり、偉大であるということを意味した言葉です。
プロレスについて考える葦は、葦の数だけ多種多様にタイプが違うもの。考える葦であるプロレス好きの皆さんがクロストークする場を私は立ち上げました。
さまざまなジャンルで活躍するプロレスを愛するゲストが集まり言葉のキャッチボールを展開し、それぞれ違う人生を歩んできた者たちがプロレス論とプロレスへの想いを熱く語る対談…それが「プロレス人間交差点」です。
9回目となる今回は作家・木村光一さんとプロレス格闘技ライター・堀江ガンツさんの対談をお送りします。
木村光一
1962年、福島県生まれ。東京造形大学デザイン学科映像専攻卒。広告企画制作会社勤務(デザイナー、プランナー、プロデューサー)を経て、'95年、書籍『闘魂転生〜激白 裏猪木史の真実』(KKベストセラーズ)企画を機に編集者・ライターへ転身。'98〜'00年、ルー出版、いれぶん出版編集長就任。プロレス、格闘技、芸能に関する多数の書籍・写真集の出版に携わる一方、猪木事務所のブレーンとしてU.F.O.(世界格闘技連盟)旗揚げにも協力。
企画・編著書に『闘魂戦記〜格闘家・猪木の真実』(KKベストセ
木村光一さんによる渾身の新作『格闘家 アントニオ猪木』(金風舎)が発売中!
YouTubeチャンネル「男のロマンLIVE」木村光一さんとTERUさんの特別対談
堀江ガンツ
1973年、栃木県生まれ。プロレス格闘技ライター。
『紙のプロレス』編集部を経て、2010年よりフリーとして活動。『KAMINOGE』、『Number』、『昭和40年男』、『BUBKA』などでレギュラーとして執筆。近著は『闘魂と王道 昭和プロレスの16年戦争』(ワニブックス)。玉袋筋太郎、椎名基樹との共著『闘魂伝承座談会』(白夜書房)。藤原喜明の『猪木のためなら死ねる』(宝島社)、鈴木みのるの『俺のダチ。』(ワニブックス)の本文構成を担当。ABEMA「WWE中継」で解説も務める。現在、構成を担当した『玉袋筋太郎の全女極悪列伝』(白夜書房)発売中。
今回のテーマは「平成と令和のアントニオ猪木」。
昭和の猪木さんの偉大さや凄さについて語られる文献が目立つ昨今、敢えて全盛期を過ぎプロレスラーとして熟年となった猪木さん、引退後にプロレスや格闘技で縦横無尽にプロデューサーとして馳せ参じていた猪木さん、そして晩年病魔に苦しみ闘い続けた猪木さんにスポットを当てるのがこの対談です。
数多くの猪木さんのインタビューを手掛け、猪木さんのブレーンという立場にいた時期もあった木村さんと晩年、猪木さんにインタビューを担当したガンツさん。2人が見てきた猪木さんの想いが対談の場で見事にクロスオーバーしました!
ちなみにこちらがこの対談のお品書きです!
1.平成のアントニオ猪木さんについてどのように感じていたのか?
2.平成のアントニオ猪木さんの好きな名勝負
3.アントニオ猪木さんの引退と引退後について
4.猪木さんが立ち上げた団体UFOとIGFについて
5.晩年のアントニオ猪木さんについて
6.猪木さん逝去から2年…今だからこそ語りたい猪木さんへの想い
皆さん、是非ご覧下さい!
プロレス人間交差点 木村光一☓堀江ガンツ 前編「平成猪木史から見える理想と現実」
プロレス人間交差点 〜平成と令和のアントニオ猪木〜
「孤高の闘魂作家」木村光一☓「活字プロ格の万能戦士」堀江ガンツ
後編「令和に真の猪木像を伝える使命」
「猪木さんの直感を同時に共有できる感性と、それを言語化、理論化してなおかつ具体的な技術指導にまで落とし込めるのは佐山聡さんをおいて他にはいなかった」(木村さん)
──前編でガンツさんが語ってくださいましたが、もし1990年代半ば時点ならシフトチェンジして格闘技向きの選手たちに格闘技のトレーニングを積ませていたら、プロレス最強神話も崩壊しない可能性があったと考えると歴史の分岐点ですね。
木村さん 同感です。そう思って振り返ってみると、1993年12月5日、藤原組・後楽園ホール大会で行われた猪木さんと石川雄規選手の公開スパーリングが非常に興味深いんですよ。
──ありましたね。
木村さん あの目の覚めるようなスパーリングには、プロレスに内包される格闘技的な技術がこれでもかと詰め込まれていました。
ガンツさん あのスパーリングで猪木さんは、今のMMAでいうところのボディトライアングル(4の字ロック=ボディシザース)からのバックコントロールとかをやってましたね。
木村さん 柔術的なディフェンスもやっているし、私がインタビューした際に藤原さんや佐山さんが「アントニオ猪木の本当の必殺技」と証言したボディーシザースも完璧に極めていました。猪木さんはすでに93年の時点で、実は明確に「プロレスにも十分グレイシーに対抗できる技術はあるんだ」と身をもってアピールしていたわけです。
しかし、残念ながらこの時期は例の猪木スキャンダルの真っ只中。主催者も観客もこの公開スパーリングは世間に叩かれまくったアントニオ猪木の健在をアピールするのが主な目的だったため「猪木さん、元気でよかった」とその場限りで終わってしまった。
たらればの話になりますが、ガンツさんのおっしゃる通り、もし、この段階で猪木さんと佐山さんの関係が修復されていて、このスパーリングについてきちんとした解説がなされていたら、その後のプロレスと格闘技の流れは変わっていたかもしれません。
とにかく、猪木さんの直感を同時に共有できる感性と、それを言語化、理論化してなおかつ具体的な技術指導にまで落とし込めるのは佐山聡さんをおいて他にはいなかったんです。
──馬場さんのプロレス論を分かり約後輩に伝えて指導したのが佐藤昭雄さんでしたが、猪木さんにとっての智将は佐山さんだったんですね。
木村さん 余談になりますが、なぜプロレスマスコミでもスポーツライターでもなかった私がいきなり猪木さんの懐に飛び込めたかというと、今思えば、スキャンダルの際には徹底的に言葉で痛めつけられてそれにうまく反論できずにいた猪木さんのもどかしい思いを、たまたまジャストのタイミングで引き出して説明できたからなんですよ。
私がはじめて猪木事務所を訪ねた1995年の秋頃、猪木さんはまさに八方塞がりの状況にありました。猪木スキャンダルはうやむやのまま終結したものの、そのダメージが尾を引いて猪木さんは2期目の参院選に落選。やむなくプロレスに戻ってみれば、新日本のリング上の景色は一変していた。そのときの猪木さんの戸惑いや苛立ちや怒りを、私は自ら企画プロデュースした『闘魂転生』という一冊の本に込めて世に送り出したんです。そこから猪木さんの逆襲が始まったといっても過言ではなかったと思います。
そしておそらく、猪木さんはその本の取材の過程で、現役引退後の自分のヴィジョン、あるいはK-1やアルティメット等の新興格闘技の台頭に全く無防備な新日本プロレスへのメッセージ等々をその都度言語化する、いわゆる通訳のような役割を果たす人間が自分の周りにいないことを痛感したに違いありません。
とくにプロレス観の異なる若い選手たちに自分の考えるプロレスの流儀を言葉で伝えることは至難の業のようでした。長州体制になってから新日本の道場ではゴッチ流トレーニングやサブミッション中心のスパーリングは行われなくなっていましたから、猪木さんのいう「強くあれ」というプロレス哲学の根本からして理解させるのが困難になっていたんです。
そんな時期、私のいちばんのテーマはアントニオ猪木のプロレスを格闘技の視点から捉え直して再検証することにありました。2冊目に企画した『闘魂戦記』は、一昨年(2023年10月)、猪木さんの一周忌に上梓した『格闘家アントニオ猪木─ファイティングアーツを極めた男─』のプロトタイプとなった本です。
その取材で私は佐山さんとお会いできて、それから半年後、また別の企画で佐山さんと猪木さんの対談をセッティングさせていただいたわけですが、以降、お二人は再び急接近し、UFO設立へと話が進展していきました。猪木さんは佐山さんという頭脳を得たことによって、理想とするプロレス、あるいはプロレスと格闘技の融合というテーマを、ようやく大々的に打ち出すことができたんです。
「桜庭選手らがUインター道場で取り組んでいたサブミッションレスリングの練習というのは、要は昭和の新日本プロレス道場の延長線上にあるもの。それを軽視してしまったら、猪木イズムを軽視することになる」(ガンツさん)
──そうだったんですか。もし、それらがもう少し早く実現していたら、日本のプロレス界の情勢は変わっていたかもしれませんね。
ガンツさん ぼくは1990年代の新日本が隆盛だったことが結果的には仇となった気がしているんですよ。あと1995年からUWFインターナショナルとの対抗戦での成功体験もあって、それが慢心に繋がってしまったのかなと。90年代末から桜庭和志選手が総合格闘技で一気に台頭したじゃないですか。桜庭選手の強さは、アマチュアレスリングをベースにして、Uインターの道場でサブミッションを磨き、タイ人からムエタイを学び、出稽古に来た修斗のエンセン井上を通じていち早くブラジリアン柔術を知り、それを彼独特のセンスで融合させることができたからじゃないですか。でも、長州さんを筆頭に当時の新日本上層部の人たちは、Uインター道場で身につけたものは軽視して桜庭選手のアマチュアレスリングのキャリアだけを見て、桜庭選手よりアマレスではるかに実績がある石澤常光選手らが出れば簡単だと勘違いしてしまったんです。
木村さん その頃、新日本の永島(勝司)さんとよく会って話をしていたのですが、「ヒクソン? 中西(学)を出したら相手にならないよ」と本気で言ってました。
──永島さんらしいエピソードですね!
ガンツさん 桜庭選手らがUインター道場で取り組んでいたサブミッションレスリングの練習というのは、要は昭和の新日本プロレス道場の延長線上にあるもの。それを軽視してしまったら、猪木イズムを軽視することになる。90年代の新日本では、いわゆるセメントの練習の代わりに「俺たちはレスラーだからレスリングをやるんだ」とアマチュアレスリングの練習にはかなり取り組んでいたようですけど、総合格闘技に対する認識不足は否めませんでしたね。
木村さん たしか1998年頃だったと記憶してるんですが、出版プロデューサーの宮崎満教さんの計らいで、真樹日佐夫先生、佐山聡さん、グレートサスケ選手、四代目タイガーマスク選手との宴席があったんです。
そのとき、真樹先生が四代目タイガーに「総合格闘技のリングに上がれと言われたらどれくらいの練習期間が必要かね?」と質問したところ「もう完全にプロレスが体になじんでいるので、半年くらいは練習しないと怖くてリングに立てません」と答えていたのを憶えています。
──四代目タイガーは修斗の選手だったので総合格闘技へのアジャストの難しさをよく理解しているからそのようなアンサーになったのかなと感じました。
木村さん PRIDEで活躍していた頃の藤田和之選手に聞いた話でも、総合の練習をしようとすると「お前、プロレスが下手なんだから、プロレスの練習をしろ」と長州さんに怒られたという答えでしたから、それが当時の新日本プロレスの空気だったんですよ。
「IGF戦のカート・アングルVSブロック・レスナーは素晴らしかった。あれこそが猪木さんの見せたいプロレスだった」(木村さん)
──ありがとうございます。次の話題に移ります。2007年に猪木さんが旗揚げした団体IGFについて語っていただいてもよろしいですか。
ガンツさん 本当に不思議な団体ですよ。面白いのがIGFにはサイモン(サイモン・ケリー猪木)さんがいたじゃないですか。サイモンさんはWWEと仕事ができる人で、ちゃんとブロック・レスナーとカート・アングルを旗揚げ戦で呼んでいて、PRIDEが終わってMMAが日本で揺らいでいる頃に格闘技色を強く推し出しながら、WWWスーパースターも来るという不思議な団体ができたなと当時、感じてました。
──同感です!
ガンツさん 実際にIGFには元大相撲前頭の鈴川真一がいたのがすごく面白かったんです。地力はあるけどプロレスに染まっていなくて、MMA文脈から来ていない男がK-1ファイターや元PRIDE王者と闘うというプロレスと格闘技がいびつに融合したマッチメイクの結果、MMAともあの時代のプロレスとも違う面白いものが出ていた時期があったなと思います。
──確かにいびつでしたよね。
ガンツさん IGFではプロレスの試合だけじゃなく普通にMMAの試合も組まれていたので、総体的なコンセプトが固まってなかったんだろうなと。
──UFO以上に固まってなかったんでしょうね。
ガンツさん 各々が持ち場で頑張っているという感じでしたね。
木村さん 団体としてのコンセプト不在のまま動き始めてしまったんでしょうね。それでも、旗揚げ戦(2007年6月29日・両国国技館)のカート・アングルVSブロック・レスナーは素晴らしかった。あれこそが猪木さんの見せたいプロレスだったに違いありません。「こういうプロレスをやればWWEも格闘技にも負けないんだ」と。しかしながら、ああいう試合はアングルとレスナーだからやれたのであって……。
ガンツさん そうなんですよ。あの二人だからできたんですから。
──カート・アングルVSブロック・レスナーはWWE『レッスルマニア』のメインを取っている黄金カードです。
木村さん つまり、旗揚げ戦でいきなり最大の切り札を投入してしまった。私はIGFの旗揚げ前に猪木さんとは距離を置くようになっていたため、団体の内情はほとんど知らないのですが、おそらく中長期的な戦略はなかったんじゃないでしょうか。
ガンツさん いわゆる「営業」に近い感覚だったかもしれませんね。UFOとは違いますよ。
木村さん 場当たり的で、UFOのような理念はなかったと。
「IGFは客層も特殊で、週刊プロレスを読んでいるような現在進行形のプロレスファンとはまったく違う人たちが来られていた」(ガンツさん)
──でもIGFは10年くらい団体運営しているんですよね。
ガンツさん やっぱり猪木さんのパチンコ台が大当たりしたのが大きいですよ(笑)。
──ありましたね(笑)。そういえば一時期、IGFはK-1やMMAファイターの受け皿になっていた時期がありました。
ガンツさん PRIDEが崩壊した後の日本のMMA過渡期を支えたのが、じつはIGFかもしれないですね。
──IGFではジェロム・レ・バンナVS鈴川真一(2011年4月28日・TDCホール)は面白かったですよね。
ガンツさん あれはカテゴリーでいうとプロレスですけど、何が起こるか分からない危うさを内在しながら激闘を繰り広げたので面白かったです。IGFは客層も特殊で、週刊プロレスを読んでいるような現在進行形のプロレスファンとはまったく違う人たちが来られていたのも印象に残っています。
一時期、猪木さんの外部ブレーンだった木村さんの本音
「猪木さんが亡くなってから後悔ばかりしてました。どうしてもう一度会いに行かなかったのかと……。でも、今は会わなくてよかったと思ってます。おかげで猪木さんを思い出す度に脳裏に浮かぶのは、元気だった頃のあの太陽のような笑顔なんです」(木村さん)
──ありがとうございます。IGFが紆余曲折の末に活動停止となります。時代は平成から令和に変わります。晩年の猪木さんについて語っていただきたいです。
木村さん 話が前後しますが、以前、ジャスト日本さんのインタビューでも話した通り、私はあくまで猪木事務所と対等の立場の外部ブレーンであって、社員ではありませんでした。もともと私は猪木事務所の倍賞鉄夫社長とも、彼が新日本の役員時代にある件で揉めたことがあって決していい関係ではなかったんです。それでも、互いにビジネスはビジネスと割り切ってましたし、猪木事務所とは別の側近グループの方々やPRIDEの百瀬先生とも中立の立場で仕事をさせていただいていました。ちなみに猪木事務所と百瀬先生の関係も良好ではありませんでした。
ところが、2006年の1月、何の前触れもなくいきなり猪木事務所が解散になり、正直、私が依頼を受けて進めていたいくつかのプロジェクトが頓挫して実害を被ったんです。猪木事務所の解散についてはさまざまな憶測が流れましたが、私もいまだに何があったのかその真相はわかりません。
ただ一つはっきりしているのは、すべての揉め事は猪木さんの身内同士の派閥争いというか、アントニオ猪木の取り合いに端を発していたということ。私はそういう不信感が渦巻いている陰湿な状況にずっとうんざりしていて、一度、猪木さんを交えて異なる派閥の側近の方々が同席して食事をした際、「みんなで猪木さんを盛り立てていけばいいじゃないですか」と発言してその場の空気を凍らせたこともあったんです。というのも、そういう状況を作り出している張本人が猪木さんであることは明白でしたから、私、何も知らないような顔をしてわざとそう言ったんです。
猪木事務所の解散はその直後のことでした。あとから思い起こせば、猪木さんがそれらしきことをインタビューの中でも匂わせていたのですが、まさか、いきなり事務所を閉鎖してしまったのには仰天しました。突如、路頭に迷うことになったスタッフの混乱ぶりは見ていられませんでした。
私が猪木さんから距離を置く決心をしたのはその一件があったから。自分には何の関わりもない身内のゴタゴタに巻き込まれた怒りもありましたが、それよりも、こんなことがこれからも続いたら、いつか自分も猪木さんを憎んでしまう日が来るかもしれない──そう思ったら、もう堪えられなくなったんです……。
ところが、その少し後、猪木・アリ戦30周年を記念したイベントとして、モハメド・アリの娘のレイラ・アリと猪木さんの娘の寛子さんの異種格闘技戦行う計画があるという記事が東スポに出て、なんだこれは!? と驚いていたら「猪木会長が会議に参加してほしいと言ってます。お願いできますか」いう連絡が元側近の方から入ったんです。
即座に私は「アリの娘と寛子さんの試合の件なら参加できません。もし猪木さんがそれを本気でやろうとしているのなら、猪木さんが御自身の歴史を否定することになります」と言ってお断りしました。
アリの娘は正真正銘プロボクサーですが寛子さんは格闘技経験ゼロのズブの素人。猪木・アリ戦に絡めた話題性のあるイベントを開催したいという目論見はもちろん理解できました。でも、そんなことを猪木さんがやってしまったら、これまでのアントニオ猪木の歴史がすべて嘘になってしまうと訴えて電話を切ったんです。それきり二度と連絡はなく、猪木さんと私の関係にはそこでピリオドが打たれました。
幸いなことにそのイベントが実現することはなく、どこかで軌道修正が行われたのでしょう、翌年にIGFが旗揚げされたんです。
──さまざまな葛藤があって、そのような結論になったんですね。
木村さん 本音を言えば、ずっと猪木さんに会いたいという思いは消えませんでした。どこへ行けば猪木さんに会えるのかも分かっていましたし、その場所は私が日課にしていた真夜中の散歩コースの途中にありましたから、その気になればいつでも行けたんです。
実際、入り口の階段の前で思案したことも一度や二度ではありませんでした。ですから、猪木さんが亡くなってから後悔ばかりしてました。どうしてもう一度会いに行かなかったのかと……。でも、今は会わなくてよかったと思ってます。おかげで猪木さんを思い出す度に脳裏に浮かぶのは、元気だった頃のあの太陽のような笑顔なんです。
長い話になってすみません。そういう訳ですので、私は令和のアントニオ猪木というテーマに関しては何も語ることができません。
猪木さんが亡くなる3カ月前にインタビューを敢行したガンツさんの告白
「猪木さんは取材を受ける際はきちんと髪の毛を整えてマフラーもしてズームの画面に登場してくれて、苦しくてもアントンスマイルは健在でした」(ガンツさん)
──お気持ちは分かります。
木村さん ガンツさんは最晩年の猪木さんに取材でお会いしてますよね。
ガンツさん 本当に晩年なんですよ。ギリギリ間に合った感じです。
木村さん インタビューされたのはいつ頃でしたか?
ガンツさん 猪木さんが亡くなる3カ月前です。その時期に2回やらせてもらっています。
──2022年にガンツさんが出された書籍『闘魂と王道 昭和プロレスの16年戦争』の冒頭に猪木さんのインタビューが掲載されています。このインタビューは晩年の猪木さんの声をきちんと届けてくれた素晴らしい内容で、これは後世に残るガンツさんの功績だと思っています。このインタビューが実現した経緯を教えていただいてもよろしいですか。
ガンツさん 猪木さんが亡くなる3カ月前だったので体調がかなり悪い状態でした。だから取材OKの返事はもらっていたんですけど取材日はなかなか決まらなくて、マネージャーの方に「明日の13時にリモートでならできそうです」って、急に言われたんですよ。間が悪いことにその時、僕は沖縄旅行の真っ最中(笑)。でも、ズームならできるだろうということで、ホテルの部屋のWi-Fi環境をちゃんとしっかり調べて臨みました。猪木さんは取材を受ける際はきちんと髪の毛を整えてマフラーもしてズームの画面に登場してくれて、苦しくてもアントンスマイルは健在でした。体調を考慮して時間は15分間と決められていたんですけど、インタビュー時間が15分を経過した時、猪木さんが「もう少しいけるよ」と言ってくださって、結局は予定の2倍の30分間やらせていただきました。
──このインタビューの中でも猪木語録は素晴らしくて、「力道山が死んだあと、芳の里さや遠藤幸吉さん、あるいは豊登さんなんかが日本プロレスを引き継いだわけだけど。あの人たちがやっていることと、俺が心の色鉛筆で描いたプロレスの方向性が逆だった」というコメントが誌的で猪木さんらしいなと感じたんです。
ガンツさん この時のインタビューはかなり大変でした。文字になっているからちゃんとインタビューとして読める内容になってますけど、「何を言っているのか」しっかり耳を澄まさないと聞き取れないほど猪木さんの状態が悪かったですから。
──必死になって猪木さんは想いを伝えようとしていたんでしょうね。それとガンツさんが「今も猪木さんの存在を心の糧や支えにしているプロレスファンに対してどんな思いがありますか?」とお聞きすると、猪木さんが「迷惑だ!」と言うんですよ(笑)。これがまた猪木さんらしくて。そのあとに「俺がここまでやってこれたのは、素直に『ファンのおかげ』『プロレスのおかげ』と言わなければいけないと思う。なかなか素直になれないんだけどね」と語るんです。
ガンツさん なかなか声を発するのも大変な中、大きな声で「迷惑だ!」って言ってました(笑)。
──2020年から猪木さんがYouTubeをされていて、亡くなる直前まで動画をアップされてましたが、私は『闘魂と王道』に掲載されているガンツさんのインタビューが猪木さんの最後の遺言だったと感じています。
ガンツさん タイミング的にそうなってしまったかもしれません。あとインタビューで猪木さんが「誰が後継者と考えたことはないけど、タイガーマスク(佐山聡)にはそれを期待したことがある」と仰っていて、猪木さんが亡くなった後に佐山さんに伝えると号泣されたんですよ…。そこに2人の本当の関係があったんだなと感じました。
木村さん 猪木さんと佐山さんの間には誰も入っていけない何かがあったんですよ。だから愛憎も深すぎた。返す返すも、UFOの失敗が残念でなりません。
ガンツさん 恐らく猪木さんが自分以外でプロレスの天才と感じたのは佐山さんだけだったんでしょうね。
木村さん 猪木さんが期待をかけていた他の選手は、いずれも猪木さんの求めるプロレスラーの条件を満たしていませんでした。強さとプロとしての華。それらを高い次元で兼ね備えていなければ、真のプロレスラーではないというのが猪木さんの信念でした。結局、それを体現できたのは初代タイガーマスクだけ。いや、猪木さんの期待を超えて見せた唯一のプロレスラーだったんですよ。
──猪木さんがいた時代に佐山さんがいるというのも奇跡のような話です。
木村さん アントニオ猪木がいなかったら自分はプロレスラーになっていなかったと佐山さんも言っていました。ということは、二人の出会いがなければタイガーマスクもUWFも出現せず、その後の佐山さんによる革新的な格闘技の実験が行われることもなかったわけです。そうなっていたら、プロレス界も格闘技界も今とはずいぶん違ったものになっていたでしょうね。
「自分の知る限りのアントニオ猪木の実像を、できるだけ多くの猪木ファンにシェアしていくことが自分に課せられた使命」(木村さん)
──ありがとうございます。では最後のお題に入ります。猪木さんが2022年10月1日に全身性トランスサイレチンアミロイドーシスによる心不全のため自宅で逝去されました。2025年10月で亡くなってから3年経ちました。改めて猪木さんへの想いを語ってください。
木村さん 先ほど話した通り、一時、私は猪木さんから遠くへ離れようとしていました。でも、そうすればするほど自分の進むべき道がわからなくなっていったんです。そして猪木さんが亡くなってから、自分の人生の大半がアントニオ猪木とずっと繋がっていて、それを切り離すことは不可能なのだということにはっきり気づいた。良くも悪くも、アントニオ猪木は自分にとってなくてはならない羅針盤だったんですね。
そんなことを考えながら鬱々としていた時、友人から「木村の中にはまだ誰にも伝えていないアントニオ猪木のいろんな記憶や情報が眠っているんだろ? それを墓場まで持ってくのか? お前も物書きならそれを世に出せ!」と発破をかけられてX(旧Twitter)を始めました。今は自分の知る限りのアントニオ猪木の実像を、できるだけ多くの猪木ファンにシェアしていくことが自分に課せられた使命だと思っています。
──素晴らしいです!
木村さん おそらく、もっとも猪木さんと1対1のインタビューを行った取材者は私だと自負しています。その過程で未整理のまま活字にしていない音声やビデオ画像などの素材もかなりあり、それらも原稿化した上で、これまで出版したインタビュー本に加筆して完全版アントニオ猪木インタビュー集として一冊にまとめる計画もあります。で、この場をお借りしてお知らせです。ぜひ、興味のある出版社の方、ご一報ください!
また、昨年の夏からターザン山本さんと『時計仕掛けの猪木論』という、こちらもおそらく世界でいちばんディープなアントニオ猪木について考える会を不定期に開催しています。そこでの発言も近々発信を開始するつもりです。
──猪木さんの語り部として木村さんが担う役割がかなり大きいと思いますよ。
木村さん 私はアントニオ猪木にまつわる誤解や偏見だらけの書籍やYouTube動画などが氾濫している現状、あるいは、やたらと賛美して神格化しようという流れには危機感を覚えています。したがって、可能な限り実像に近いアントニオ猪木を文書に残すことで、私としてはそれらの虚像の再生産に歯止めをかけたいと思っています。
「僕は佐山さんにWWEとUFC両方の殿堂入りをはたしてほしいんです。プロレスの天才で去り、競技スポーツとしての総合格闘技の創始者であり、若き日に猪木さんから精神的なバトンを受け継いでやってきたのが佐山さんの格闘人生だと思います」(ガンツさん)
──ありがとうございます。ではガンツさん、お願い致します。
ガンツさん 木村さんが言及されましたけど、特に2010年代前半から中盤にかけて現役のプロレスファンが猪木さんへの認識があまりにも欠けていて誤解していると感じてました。猪木さんが新日本オーナー時代に団体をめちゃくちゃにして、今の選手たちが立て直したという部分ばかりが語られる、その現象には違和感しかありませんでしたね。僕は2000年代に新日本が転落していったのは猪木さんがいてもいなくても、あのような状況になってたと思いますよ。猪木さんが加速させたかもしれませんが、猪木さんに全責任を負わせるのはおかしいことです。猪木さんが亡くなった後にみんなが声をあげて心の猪木像が語られるようになったのはすごくよかったですよ。
──同感です。
ガンツさん あとは世界的な評価として猪木さんがWWE殿堂入りを果たしましたが、僕は佐山さんにWWEとUFC両方の殿堂入りをはたしてほしいんです。プロレスの天才で去り、競技スポーツとしての総合格闘技の創始者であり、若き日に猪木さんから精神的なバトンを受け継いでやってきたのが佐山さんの格闘人生だと思います。「なぜ、日本のプロレスは独自に発展したのか」、「なぜプロレスから総合格闘技が生まれたのか」を考えると、猪木さんと佐山さんの功績は絶大です。そもそもプロレスラーとしての実績や影響度、プロMMAの成り立ちからして、WWEとUFCの殿堂入りが相応しいと思いますから。
──佐山さんは初代タイガーマスク時代にWWE(当時はWWF)に参戦歴はありますし、UFCには関わってませんが、オープンフィンガーグローブを導入して初期UFCでは野蛮な喧嘩と言われた世界を総合格闘技というファイトスポーツに進化させた佐山さんの功績はあまりにも大きいですよね。
ガンツさん MMAというスポーツを構築するために尽力したの功労者は佐山さんですから。プロレスと格闘技の双方の発展に寄与したのが猪木さんであり、佐山さんですよ。
──これで対談は以上となります。いかがでしたか?
木村さん ガンツさん、思った通り、いや、それ以上に真面目な方でした(笑)。
ガンツさん そうですか(笑)。
木村さん 真面目に丁寧にフェアな態度でアントニオ猪木を語れる人ってとても少ないんですよ。昔から猪木なら何を言ってもいいと面白おかしく茶化して語る風潮がある。私は昔からそれが嫌いなんです。
ガンツさん 「アントニオ猪木」というキャラクターとしてしかとらえてない人が、いがいと多いのかもしれませんね。
木村さん その通り! 現在、プロレスファンにもっとも発信力のあるガンツさんと意見が一致して安心しました。間違いなく、これで若い世代にも正統派ストロングスタイルの猪木論が伝わります! それを肌で感じることができて、私としては非常に有意義な対談でした。
ガンツさん 僕も勉強になりました。作家の村松友視さんが言っていた「プロレスは不真面目にも真面目にも観るものじゃなく、クソ真面目に観るもの」という姿勢に立ち返ってますね。
木村さん そう、とくにアントニオ猪木はクソ真面目に見続けないと。筋金入りの猪木マニアはいまやネットも駆使して膨大な情報を収集していますから、生半可な掘り下げ方じゃ到底納得してくれません。でも、アントニオ猪木VSビル・ロビンソンのビデオを30分の1秒ずつ、10万8000コマに分割して見た“変態”は世界でも私だけだという自信はあります(笑)。
ガンツさん ハハハ(笑)。
──私としては木村さんとガンツさんを何とかお繋ぎできればと思って今回の対談をセッティングさせていただきましたよ。
ガンツさん ありがとうございました。僕は猪木さんにインタビューしたは亡くなる前に数回やったのを合わせると5回くらいなんです。それで大丈夫かなと思ったんですけど、知識よりも思い入れの深さやプロレスとの向き合い方が一番大事だなと木村さんとの対談を通じて学ぶことができました。本当に心地よかったです!
──本当に意義深い対談でした。木村さん、ガンツさん、本当にありがとうございました。今後のお二人のご活躍とご健勝をお祈り申し上げます。
(プロレス人間交差点 木村光一☓堀江ガンツ 完/後編・終了)