ジャスト日本のプロレス考察日誌

ジャスト日本のプロレス考察日誌

プロレスやエンタメ関係の記事を執筆しているライターのブログ


 




 




 


俺達のプロレスラーDX
第229回 ジャンボイズムを継承した温厚な巨大グリズリー〜信頼されたカナダの地震男〜/ジョン・テンタ

 

 

 
この日、カナダの地震男は怒りの形相で対戦相手を睨んでいた。
 
1991年4月1日SWS・神戸ワールド記念ホール大会。
当時、ジ・アースクエイクとしてWWF(現・WWE)のトップヒールとして活躍していたジョン・テンタは元大相撲横綱・北尾光司とシングルマッチ。2日前の東京ドーム大会でテンタが北尾を破っていたため、北尾にとっては雪辱戦のはずだったのだが…。
 
なぜか北尾が不可解な暴走をしてしまう。場外からリング内に机を投げ入れる、ヒザ関節蹴りやノド輪、サミングのポーズで相手に迫る意味不明な行為。
 
「あいつはプロレスをやるつもりはない!」
 
そう判断したテンタは北尾にヒートアップ。その表情は悪役レスラーの顔ではなくリアルに憤怒しているものだった。結局、北尾がこれまた意味不明のレフェリー暴行によりテンタの反則勝ち。試合後、北尾はマイクでテンタに「八百長野郎この野郎!八百長ばっかりやりやがって!!」と発言。さらに観客に向かって「お前ら、こんなもの観て面白いのか!」と叫ぶ始末。ファンからは北尾に容赦ない罵声が飛んだ。この一件で北尾はSWS追放となった。
 
公衆の面前で「八百長野郎」と罵倒されたテンタと北尾は同世代で大相撲の世界では格が違うが、プロレスの世界ではテンタの方が格上。二人のその後のレスラー人生を見てもどちらが成功したのかは一目瞭然である。
 
思えばジョン・テンタはものすごく出世の早く、実力で周囲を納得させてきた早熟のプロレスラーだ。201cm 210kgと体重計ではなかなか測れないほどのスーパーヘビー級の体格を誇り、アースクエイクドロップ(ランニング・ヒップドロップ)、フライングソーセージ(ランニング・ボディプレス)、ギロチンドロップ、アバランシュホールド、エルボードロップといった圧殺技を得意にしながら、ドロップキック、ランニングネックブリーカードロップ、カナディアン・バックブリーカー、ベリー・トゥー・ベリースープレックスなど多彩な技のレパートリーを持つのがテンタの魅力だった。
 
今回は「カナダの地震男」「カナダのグリズリーベア」と呼ばれたテンタのレスラー人生を追う。
 
テンタは1963年6月22日カナダ・ブリティッシュコロンビア州サレーで生まれた。ジン・キニスキーとドン・レオ・ジョナサンに影響を受けて6歳からレスリングの道に進むことを決めていたテンタはフリースタイルレスリングで実力を磨き、1981年にカナダのジュニア王者、世界ジュニアレスリング選手権スーパーヘビー級6位入賞を果たす。
 
アメリカのルイジアナ州立大学に進学するとレスリングとフットボールで活躍していたテンタは1985年、大学を中退し大相撲・佐渡ヶ嶽部屋に入門。琴天山という四股名で序ノ口、序二段、三段目でいずれも7戦全勝で優勝する、1986年には東幕下43枚目に昇進するも、場所前の6月27日に愛知県一宮市の宿舎を無断で飛び出して東京に戻り、親方の説得にも応じず廃業。当時は「相撲世界になじめなかった」「ホームシック」と報道されていたが、テンタにとって大相撲はあくまでもプロレスラーになるためのステッピングボードにしか過ぎなかった。
 
1986年7月テンタは全日本プロレスに入団。当時180kgあった体重を160kgに減量して1987年5月1日、ジャイアント馬場とタッグを組んで、ラッシャー木村&鶴見五郎と対戦。スムーズな試合運びと器用さを見せつけて最後は鶴見をカナディアンバックブリーカーで破り、デビュー戦から白星スタートをとげた。同年9月にはバンクーバーでUWAヘビー級王座、11月には同カナディアン・ヘビー級王座を獲得。また年末の「世界最強タッグ決定リーグ戦」にもザ・グレート・カブキとのコンビでエントリーしている。全日本でプロレスラーとしてバックボーンを身に着けたのは彼にとっては大きな財産となる。
 
 
「全日本のスタイルは世界じゅうのどこへ行っても通用するものだと思ってる。とくに、カブキさんには、毎日試合が終わるたびに『ここはこうやれ』『あれはミステークだ』『タイミングを考えろ』と、レクシャーを受けた。(中略)(ジャイアント)馬場さんからも、よくなったとほめられて、うれしかった。ジャンボさんからは、プロレスはしんぼう強く取り組むものだということを教えられた。全日本の選手は、やさしいよ」
【DECADE デケード 1985~1994 プロレスラー100人の証言集 斎藤文彦/ベースボールマガジン社】
 
「全日本の先輩方は、プロレスの先生として最高だったよ。カブキさん、ジャンボ(鶴田)さん、(ハル)薗田さんをはじめ、道場のみんながよくしてくれた。渕(正信)さんなんかはいったんツアーを離れて、付きっ切りでコーチしてくれたこともあった。ホントに周りに恵まれていたんだ。もちろん練習はキツかったけど、『プロレスで最も大切なことは、いかに相手にケガをさせないで闘うか』ということをしっかり教えてもらったことで。WWFでも成功できたんだ」
【逆襲のプロレス vol.14 新日本プロレス 「掟破りのケンカマッチ」一撃の真相/双葉社】
 
周囲のレスラーからも評価が高く、特にブルーザー・ブロディからは「いい選手が入った」と絶賛するほど。
 
1989年にテンタはWWFに移籍する。実はテンタには全日本に愛着があったが、結婚を機にプロレスを続けるか悩んでいたところにWWFからオファーがあり、カブキからも「これは大きなチャンスだから、絶対に行くべきだよ」と後押しを受けてのWWF参戦だった。
 
テンタは「カナディアン・アースクエイク」というリングネームとなり悪役レスラーに転身。敏腕マネージャーのジミー・ハートがつき、パートナーには"カナダの怪力男"ディノ・ブラボーとなり、ハルク・ホーガンやアルティメット・ウォリアーと抗争を展開。特に1990年8月27日にペンシルベニア州フィラデルフィアのスペクトラムで行われたPPV『サマースラム』でハルク・ホーガンとの大一番を闘っている。結果はリングアウトで敗れたがホーガンとの抗争はプロレスラーとしてのテンタのステータスを著しく上昇させた。
 
「いままでのキャリアで相手レスラーをケガさせたことは一度もないよ。だからホーガンがオレを対戦相手として使ってくれたんだ。知ってるだろ?ホーガンは自分をケガさせる相手とは絶対にやりたがらないからね。ホーガンが信用してくれて、初めてオレもメインイベントに出られたんだ」
【逆襲のプロレス vol.14 新日本プロレス 「掟破りのケンカマッチ」一撃の真相/双葉社】
 
WWFでトップレスラーの一角を担うようになってきたテンタは1991年には当時WWFと提携していたSWSにも参戦。そこであの北尾との不穏試合を迎えてしまう。テンタは北尾戦について次のように振り返っている。
 
 
「あの時、初日の東京ドームでオレが北尾をピンフォールしたんだけど、もちろん2日目もオレが勝つつもりだった。向こうは元・横綱だろうがなんだろうが、ここはプロレスのリング。オレが2連勝したって、なんらおかしくないからね。だから2日目の神戸も、オレはキッチリと自分の役目を果たすつもりでいたんだ。ところがアイツは、神戸の試合当日になって文句を言ってきたんだよ。『東京ドームのフィニッシュで胸の骨をケガさせられた』とか言いだしやがって。オイオイ、ふざけんなって! オレはいままで相手をケガさせたことが一度もないっていうのが自慢だったのに、オレがいつケガさせたって言うんだよ!? WWFの選手はみんな、オレのフィニッシュをきっちり受けてくれるぜ。文句を言うヤツなんて、誰もいなかった。それなのにキタオは当日になって文句を言ってきて、さらにマッチメイクに渋っているという。それでブッカー(マッチメーカー)のザ・グレート・カブキさんが控室に飛んできて意向を伝えにきた。オレはブッカーの指示には背かないから、カブキさんからの要請を素直に受け入れたんだ。『しょうがない、今日のところは北尾に花を持たせてやろう』ってね」
「俺は神戸でもちゃんと試合をするつもりだったから、まず普通にチョップを入れるところから始めたんだ。ところが北尾はセル(技のリアクション)もしない。それでも俺は普通にプロレスをしていたんだけど、あいつに腕を取らせたら、いきなりフジワラ・アームバー(脇固め)を極めてきたんだ。俺は『やばい!』と思ってかわしたけど、そこからおかしくなったんだよ。北尾はその後も、全力でキックを入れてきたり、サミングのポーズで威嚇してきたりした。そこで俺は、まともに試合をするのをやめたんだ」
「そもそも、あんな試合になってしまった発端は、東京ドームでのファンの反応にあったと思っているんだ。初日のドームの時点で、すでにお客さんはオレに声援を送り、北尾にはブーイングを浴びせていたんだ。そこらへんから、彼がイライラし始めたんじゃないかな。北尾は自分がスーパースターだと勘違いしているんだよ。『俺は横綱で、あいつは幕下なのに』っていう、相撲時代の意識を引きずっていたのかもしれないけど、へんな野郎だよ。べつに彼を『バカ』と呼ぶつもりはないけど、プロレスというビジネスをわかってなかったということは確かだね」
 
 
ただこの北尾戦には思わぬ余波を生んだ後日談がある。
 
「アメリカに帰ったら、話に尾ひれがついて何かものすごいシュートマッチをやったって大袈裟な噂になっていたんだ。相撲のグランドチャンピオンが仕掛けたシュートを返り討ちにしたっていう風にね。それで他のレスラーから一目置かれるようになったんだよ(笑)。まあ、良かったことといえば、それくらいかな。シュートマッチなんて、あれが最初で最後だよ。SWSに次に戻ってきたときも全然問題なかったし、数年後に天龍さんの団体WARで北尾と再戦が組まれたときも、ちゃんと普通に試合をしたからね」
 
 
1991年、テンタはタイフーンと「ナチュラル・ディザスターズ」を結成。テンタが201㎝ 210kg、タイフーンが204cm 174kg、合計384kgという超巨漢コンビはリージョン・オブ・ドゥーム(ロード・ウォリアーズ)最大のライバルとして立ちはだかり、WWF世界タッグ王座やSWSタッグ王座を獲得している。テンタはタイフーンについて「今までこの業界で出逢った中で最も素晴らしい人物」と絶賛している。WWEの歴史の中でもトップクラスの名タッグチームである「ナチュラル・ディザスターズ」は2025年のWWE殿堂を果たした。
 
テンタはWWFで活躍しながら、メキシコのCMLL、日本のSWSやWARでも活躍。

新日本プロレスには1993年6月にキング・ハクとのコンビで参戦し、当日新日本最強タッグチームであるヘルレイザーズと名勝負を残している。
またWARではキング・ハクと共に最強外国人レスラーに君臨している。角界の人間関係で悩まされてきたテンタだったがWWFでは充実した日々を過ごしていた。
 
「オレはブッカー(マッチメーカー)の言われた通りにやっていたから、彼らと揉めることもなかったし。ほかのレスラーからはオレが相撲とアマチュア・レスリングをやっていたことで、『アイツとは揉めてはいけない』って評判がすでに成立していたからね(笑)。あと、オレはWWFに入ってすぐ、キング・ハクのところに行って『兄弟子、よろしくお願いします!』って挨拶して、友達になったからね(笑)。ハクの伝説は知っているだろう?だからよけいに『あの2人には近づきがたい』という存在になっていったんだ」
【逆襲のプロレス vol.14 新日本プロレス 「掟破りのケンカマッチ」一撃の真相/双葉社】
 
1993年1月にWWFを去り、日本やメキシコを転戦。1994年1月にWWFに復帰して、ヨコズナとの相撲マッチが実現して話題を呼んだが同年5月にWWFを離脱。
 
その後、同年10月になんとUWFインターナショナルに参戦。当時プロレスリング世界ヘビー級王者だったスーパー・ベイダー(ビッグバン・ベイダー)のパートナーを務め、ゲーリー・オブライト&山崎一夫とのダブルバウトでUWFルールで闘った。オブライトとテンタはアマチュア・レスリングの大会で過去に対戦経験があった。テンタはUWFルールでも相撲とレスリングで培った足腰の強さを見せつけ、UWFルールに対応してみせた。
 
同年10月からはジ・アバランシュというリングネームでWCWに参戦。ケビン・サリバンが率いる怪物同盟「ダンジョン・オブ・ドゥーム」に加入し、かつてWWFで繰り広げたハルク・ホーガンとの抗争を再開する。実は当時、個人的な経済的困難を抱えていたテンタのWCW入りを後押ししたのがホーガン。彼にとってテンタはお気に入りのライバルのひとりだった。
 
WCWではザ・シャーク、ジョン・テンタとリングネームを変えたがWWF時代ほど活躍することはなかった。またWCWが1996年からnWoムーブメントが到来し、テンタのようなレスラーがやや前時代的に捉えられてしまったことも思った以上にWCWで活躍できなかった要因ともいえる。
 
1997年にWCWを去ったテンタは1998年にWWFに復帰。覆面レスラーのゴルガに変身し、クルガンやジャイアント・シルバとの怪物軍団「ヒューマン・オディティーズ」で活躍するも、1999年に解雇された。
 
その後テンタはカナダやイギリスを転戦しながら、フロリダ州サンフォードでレスリングスクールを経営して後進の育成に尽力してきた。またIWFというインディー団体のプロモーターも務めていたという。
 
WWFやWCWでプロレスラーとしてのキャリアを熟成させてきたテンタが13年ぶりに古巣・全日本に参戦したのが2002年の「世界最強タッグ決定リーグ戦」で角界の先輩・天龍源一郎とのコンビが実現。天龍は全日本、SWS、WAR時代に共に戦い、時には対戦相手として対峙してきたからこそ、テンタの潜在能力をよく熟知していた。だからこそタッグパートナーとしてテンタを叱咤しながら、テンタの爆発力を引き出そうとしている印象を受けた。その天龍の振る舞いはライバル・ジャンボ鶴田に対してあの手この手で本気にさせようと躍起になっていた頃を彷彿とさせるものがあった。恐らく天龍はテンタの後ろにジャンボ鶴田の姿を少しダブって見えていたのかもしれない。
 
そういえばテンタは全日本時代に興味深いことを語っている。
 
 
「いま(1988年)、全日本のリングで一番インパクトの強い選手はやっぱり天龍さん。すべてが、あの人を中心に動いている。天龍さんが自分からすすんでヒールになったから、ジャンボさんもウカウカしていられなくなった。ボクがこの会社に入ったころのジャンボさんはエースとしてどっしり構えていたけど、天龍さんが暴れはじめてからは、急に攻撃的な姿勢になったような気がする。でも、ボクが見たところでは、実力ナンバーワンはやっぱりジャンボさん。(中略)ボクはずっとジャンボさんの味方でいたい」
【DECADE デケード 1985~1994 プロレスラー100人の証言集 斎藤文彦/ベースボールマガジン社】
 
テンタはプロレスラーとしての基礎を全日本で学んできた。その中でタッグパートナーとして、セコンドとして鶴田のどっしり構える「王者のプロレス」を見てきたことが後にWWFでの経験に活きているのではないだろうか。テンタは「対戦相手をケガさせたことがない」と語り、鶴田も「バックドロップは対戦相手によって角度を分ける」と語っている。相手と状況に合わせて自らの能力を使い分けるプロレスはまさにジャンボイズム。テンタにはジャンボイズムを内に秘めた形で継承していたのかもしれない。
 
40歳を過ぎプロレスラーとして円熟を迎えようとしてたテンタだったが、2004年に膀胱がんを発症したことが明らかとなり、プロレス界から引退。医者からは「あと1年から1年半の余命」と告知を受ける。化学療法を受け続けるも、リンパ腫も発症、臀部にも腫瘍が見つかり、ガンは肺にまで転移していた。
 
闘病生活を自身のブログで公開するテンタ。余命宣告を受け、ガンも転移して苦しい状態でも彼はウェブサイトの掲示板に「怖くなんかない」と書き込んでファンを安心させていた。辛くても苦しくても死にそうになっても彼は最後の最後まで生きることを諦めていなかった。
 
だが、2006年6月7日、フロリダで膀胱癌のため逝去。享年42。あまりに早い人生の幕切れ。レスリングスクールでレスラーを育成し、インディー団体プロモーターとしての活動もしていたテンタはさぞかし無念だっただろう…。
 
 
テンタの死後、彼と同じカナダ出身で共にWWFで活躍したブレット・ハートはこのように語っている。
 
「ジョン・テンタ、ジ・アースクエイク。彼はもの静かで控えめな優しい巨人で、みんなに『お願いします』『ありがとう』と言い、みんなを『サー』と呼んだ。残忍な怪物ヒールとして、何百万人もの子供たちを動揺させました。しかし、バックステージでは、ジョンはヒールになることを嫌っていた。彼は子供が大好きで、一緒に遊んだり、膝の上に座らせたりするのも大好きだったのに、空港に行って子供たちが泣いて逃げ出すと彼は動揺していたんだ。1992年に彼がベビーフェースになると世界は本物のジョン・テンタを見た。彼リングに来たときの笑顔、みんなからの歓声、そして子供たちがついに彼を『良い人』として見たとき、テンタ自身の心を温めました。タッグタイトルを獲得したとき、彼の顔に浮かぶ高揚感の表情はとても純粋でした。リングの外で善人になったとき、彼は自分が受けた反応を本当に愛し、バックステージの誰もがジョンのことを尊敬していた。だから彼が亡くなったとき、私たちは皆打ちのめされたんだ…」
 
角界でもトラブルがあり問題児扱いされたことがあったが、プロレス界に入るとその温厚な性格でみんなから愛されたテンタ。
確かな実力と人格でプロレス界で成功を収めたテンタ。
 
 
「プロレスは信頼と尊敬の芸術である」
 
これはブレット・ハートの名言だが、カナダの巨大グリズリーが歩んだレスラー人生は、周囲からの信頼と尊敬を勝ち取る生きるヒントが詰まっている。
 
 
 
 
 
 
 
 

ジャスト日本です。


以前、私は棚橋弘至選手についてこのような記事を書きました。



プロレス愛に満ちたアプローチ~棚橋弘至選手の全力プロモーション~ 



棚橋選手について感じていたことやひょんなきっかけから思わぬ繋がりが生まれた経緯についてまとめさせていただきました。  

この記事を書いたのが2019年3月でした。  

あれから6年。  

棚橋選手との関係はプライベートから仕事絡みもでてきて、より深くなったのかなと個人的に感じています。

何しろ棚橋選手は私にとってプロレス界で頻繁に連絡を取り合う唯一の知り合い。大変おこがましいかもしれませんが、勝手にプロレス仲間だと思っています。

会話は私が「お疲れさまです!今日の試合よかったですよ!」と連絡すると棚橋選手が「ありがとう!嬉しいよ!」と返信するというものが多く、基本的にはネガティブな話題になることはありません。最近は「昇給」スタンプをありがたくいただいております。


たまにプロレスのマニアックトークをすることもあります。特にアメリカンプロレスの話!

私 「アメリカンプロレスで好きな選手いますか?」
棚橋選手「リック・マーテルやティト・サンタナが好きなんだよね」
私「ええ!そうなんですか!また渋いチョイスですね!」
棚橋選手「アームドラックとフライングフォアアームはティト・サンタナから影響を受けて使っているよ。心のなかでは継承したつもり!」
私 「マジですか!それは新事実ですよ!」


こんなやり取りをたまに(笑)絶対的主人公のハルク・ホーガンやストーンコールドではなく脇役のリック・マーテルとティト・サンタナが好きだと言っている男を私は愛さずにはいられません!!


棚橋選手と私の関係が進展したのが2023年の秋。きっかけは映画『アントニオ猪木をさがして』のプロモーションとして行われたある媒体での棚橋選手のインタビューがSNSでやや炎上したこと。詳しい経緯はこちらのnoteでご確認ください。


棚橋選手のインタビューにアントニオ猪木さんと親交があった作家の木村光一さんが反応したことにより、オールドファンから棚橋選手に対する風当たりと批判が強くなりました。その状況を棚橋選手はきちんと把握されていて、SNSで棚橋選手と木村さんの立場を守ろうとした私に対して「フォローいただきありがとうございます。アンチが殺気立ってますね」とご連絡がありました。

そこから棚橋選手と私はプロレスの在り方について熱く連絡の交換をしました。

「プロレス村の中でこんな内輪揉めしている暇があったら、もっと新しいファンを獲得していく努力をするべきですよね」
「本音はオールドファンにも今のプロレスを見てほしんですよ!」
「時代の変化は、生活にも文化にもプロレスにもあって、それを受け入れられないものは、淘汰されていくのだと思います。プロレスは、生き残ってます!」
「プロレスと料理は似ている気がしますよ。日本料理なんと伝統とか先祖代の続く料理法とか、この調理法は本当に理にかなっているのかとか、でも昔からの料理法だからこだわるとか、逆に今と昔のハイブリッドを目指すとか、自己流の日本料理を作るんだとか色々とせめぎあいがあるんです。伝統を残すことは、昔からやってきたことを守ることではなく、進化して残すことであるという考えは割とありますね」


こんなやり取りを棚橋選手と僕がやっている中で棚橋選手から「木村さんと話してみたいです」と言われました。
実は棚橋選手と木村さんは世代や見てきたものは違いますが、プロレスに対する考え方が割と近いと思っていた私はブログで対談をセッティングしました。

【プロレス界のエースとアントニオ猪木を追い求めた孤高の闘魂作家による対談という名のシングルマッチ!】

プロレス人間交差点 棚橋弘至☓木村光一 


棚橋選手と木村さん。緊張感があふれる現場で互いの想いを交換して分かりあっていく素晴らしい対談でした。進行を務めることができ光栄に感じてましたよ。

そこから棚橋選手にはネット媒体で2回インタビューする機会をいただき記事化されました。

ヘルスケアWEBマガジン「lala a live」さん
棚橋弘至選手インタビュー記事


東洋経済オンラインさん
新日本プロレス・棚橋弘至選手インタビュー 

 新日本プロレスの「闘う広告塔」棚橋新社長の胸中 猪木、坂口、藤波に続く「レスラー兼社長」が語ること


  新日本・棚橋社長が語る「プロレスの未来予想図」 「猪木さんの仕掛けに近いこともやりたい」 



対談もインタビューも自信作!棚橋選手の想いを引き出すことにこだわりました。


あと昨年10月に大阪・なんば紅鶴さんで行われたプロレストークイベントに出演した私は棚橋選手にサプライズメッセージを依頼。棚橋選手はきちんと動画を送ってくださいました。

プロレストーキングブルース番外編~味園ファイナルプロレストークバウト 2024.10.13 大阪・なんば白鯨~|ジャスト日本 @jumpwith44  #note






棚橋選手、いつも本当にありがとうございます!!本当に世話になりっぱなしで、私のような男を受け入れてくれるんですから…。

ズームでは何度も会ってインタビューしているのですが、直接会って話すのはコロナ禍以後はなかったのでその機会を伺ってましたが、2025年3月14日・新日本プロレス大阪・堺市金岡公園体育館大会に私は現地でプロレス観戦することにしました。















今の新日本プロレス、やっぱり面白かったですよー!

棚橋選手には事前に行くことは伝えていて、連絡を取り合ってました。そして、金岡大会後に棚橋選手とご挨拶させていただくことになりました。


私 「お久しぶりです!これお土産です!皆さんで分けてくださいね!」
(ここで私は棚橋選手に地元土産を渡すことに)
棚橋選手「うわぁ、ありがとう!さすが、社会人!」
私 「今日の金岡大会、面白かったですよ!」
棚橋選手 「ありがとう!」
私 「小島聡選手との前哨戦でしたね!」
棚橋選手「そうだね。小島さんとは因縁もないし、言葉はいらないですよ」
私 「棚橋選手と小島選手は過去に名勝負を何度も闘ってますよね」
棚橋選手 「あったね。色々と思い出すよね…」
私 「そうですよね。棚橋選手、また媒体でインタビューやりましょうよ!」
棚橋選手 「また年内に1回はやりたいよね!」



宿舎近くで春の夜風に吹かれて棚橋選手との会話。心地のいい空間。6年前にご挨拶した時は緊張してあまり話せなかった私ですが、関係性が深くなったのか、インタビューして免疫がついたのか、棚橋選手との会話を楽しむことができました。

すると棚橋選手から思わぬ声掛けがありました。

「プロレスを広める援軍、頼んだよ」

これは心底、嬉しかったです。棚橋選手に言われたのですから、やるしかないです!プロレスをもっと広めていきますよ。そのために自分に何ができるのかを考えて行動していきます。

棚橋選手の著書『全力で生きる技術』の中に「相手を活かすことで自分も活きる」という記述があるのですが、私も棚橋選手に活かされているのかもしれません。


そして最後に棚橋選手と記念撮影!






棚橋選手は「自撮りは得意なんだよ」と仰ったので、撮ってくださいました。

最後に互いにガッチリ握手をして別れました。

プロレス界のスーパースターである棚橋選手との直接対面での邂逅はこうして終わりました。


プロレス界のエース兼日本プロレス最大手団体社長である棚橋選手と田舎の野良犬ライターである私。立場も環境も格もあまりにも違いますが、棚橋選手と私はプロレスを愛する気持ちで偶然にも繋がっています。これからも棚橋選手は試合と社長業で、私は文章を世間にプロレスを届けていくために精進あるのみです!



そう言えば以前、知り合いに棚橋選手と私の不思議な関係について、「恐らく棚橋選手は孤独なんですよ。その孤独をジャストさんみたいな真っすぐで熱い人が現れて埋めてくれているんです!」と言われたことがありました。


この件で棚橋選手に「知り合いをこんなことを言われたんですよ」と言ってみると…。



「…ということなので、これからもよろしく!!」



棚橋弘至選手と私の不思議な関係。そのありがたみを噛み締めながらこれからも面白い日々を生きていきます。

全ては俺たちが愛するプロレスのために…。


プロレスで繋がった御縁に感謝!!




















 


俺達のプロレスラーDX
第228回 もしもチャック・ノリスがリングに上がったら…〜幻想を抱かせた藤原組最強外国人となったアメリカン空手家〜/バート・ベイル

 

 

 
 

私がプロレスファンになった1992年。思えば新日本と全日本の二大メジャー時代でSWSやFMWが存在して、UWF系三団体も元気だった。初めて週刊プロレスを買った時、表紙だったのが船木誠勝VSロベルト・デュランだった。ボクシングの巨星デュランがTシャツ&スパッツで異種格闘技戦をこなし物議を呼んだ。

この回の週刊プロレスは、UWF系三団体のひとつである藤原組の東京体育館大会が表紙だけでなく巻頭カラーも飾った。船木がたるんでいたデュランに勝利して「次やるときは減量してこい」と言い放ち、鈴木みのるがウェイン・シャムロックをフロントスリーパーで歓喜の勝利をあげたのもこの大会だった。

そんな藤原組の外国人エースだったのがバート・ベイルである。190cm 118kgの巨体、空手とキックの猛者だった。トレードマークは星条旗をあしらったトランクス。マーシャルマーツやアメリカン空手を彷彿とさせるサイドキック、ハイキックが得意だった。

ベイルは1957年5月4日アメリカ・フロリダ州マイアミで生まれた。13歳の時から拳法を習い始めてから空手、キックボクシング、レスリングなどの格闘技を鍛錬してきた。

第2次UWFで初来日を果たし、その後藤原組ではウェイン・シャムロックと共に外国人エースとして活躍したベイルはアメリカ・フロリダでシュートファイティングというUWFスタイルを教える道場を率いたり、キックや空手の道場を経営したりしていた。私にとって彼は強いというイメージが今でもあるのは、この藤原組時代の活躍が原因である。


ベイルを見ていると私はアクション俳優が実際にリングに上がったらどうなるのかということを抱かせた。特に雰囲気がどこか空手世界王者で後にスターとなったチャック・ノリスのようだった。もしチャック・ノリスがリングに上がったらというベイルみたいなスタイルだったのだろうという幻想があった。


だがその幻想は初期のバーリトゥード、リングス、K1参戦で脆くも崩れた。最初はいいように扱われてもその期待に応えられず敗れ、しまいにアンダードッグとなった。角田信朗に3回ダウンを取られてKO負けしたのはその極みである。空手とキックの実力は本当は過大評価だったのかもしれない。




だが藤原組で外国人エースだったということが彼が重宝された理由である。もし2000年以降にベイルがその実力のままリングに上がっていたらまた違った状況になっていたのかもしれない。そう考えると。リアルとファンタジーがいい意味で共存していた1990年代に世に出たというのは彼にとってはよかったのだ



最後にベイルの近況だが、彼は今年で68歳となる。リングを離れてからは全米で20ヶ所にプロレス学校の創設し、指導者の道を本格的に歩いているという。それだけの学校を開いているのだから、今活躍している外国人レスラーの中にもしかしたらベイルの門下生が紛れているかもしれない。



 


俺達のプロレスラーDX
第227回 過小評価の殺人コンベアー〜後塵に拝するTHE中堅レスラー〜/マイク・イーノス

 

 

 
 
1995年2月4日、新日本プロレス・札幌中島体育センター大会。
 
この大会で君は誰よりも光り輝いていた。
タッグパートナーのスコット・ノートンが左腕の負傷により戦線離脱、世界最強のタッグチームであるスタイナー兄弟(リック&スコット)を相手に5分以上も大技の波状攻撃を食らい、孤軍奮闘を続けていた。それでも3カウントだけは許さない。場内は大歓声に包まれた。
 
その後、左腕全体にテーピングが施されたノートンが復帰、イーノスもスタイナー兄弟のお株を奪うベリー・トゥー・ベリー・スープレックスを見舞うほど大ハッスルをした。最後はスタイナー兄弟の合体技スカイハイDDT(リックが肩車を相手を抱えてスコットがトップロープに登ってDDTを決める合体雪崩式DDT)で沈んだが、イーノスは札幌大会のMVP。当時の新日本プロレスでは中堅レスラーに余んでいたイーノスは隠れた実力者であることは証明した試合だった。
 
マイク・イーノス
190cm 125kgのぶ厚い肉体を誇るパワーファイター。人は彼を「殺人コンベアー」と呼ぶ。
パワースラム、フォールアウェイスラム(投げっぱなしブロックバスター)、ラリアット、ベリー・トゥー・ベリー・スープレックスを得意にしている投撃重戦車。今回は隠れた実力派でありながら中堅レスラーに甘んじてしまったイーノスのレスラー人生を追う。
 
イーノスは1963年6月11日アメリカ・ミネソタ州ミネアポリスで生まれた。彼がプロレスに入ったきっかけはロード・ウォリアーズやリック・ルードを育てたエディ・シャーキーの指導を受けて1988年にミネアポリスのAWAでプロレスデビュー。翌1989年に同じシャーキーの兄弟子であるウェイン・ブルームとディストラクション・クルーというコンビを結成。同年10月にはAWA世界タッグ王座決定トーナメントを優勝し、新王者となった。デビューして1年で、アメリカ3大メジャー団体の一角だったAWA世界タッグ王座を獲得しているのである意味、彼のレスラー人生の出だしは順風満帆だったのかもしれない。
 
だがAWAは末期状態で経営難だった。イーノスとブルームは1990年にAWAにいながらWCWに転戦、さらに同年8月19日の新日本プロレス・両国国技館大会にて武藤敬司&蝶野正洋が保持するIWGPタッグ王座に挑戦している。
 
その後AWAは1991年に活動停止。イーノスはブルームと共に同年5月にWWF(現・WWE)と契約。"オハイオ州シェイカーハイツ出身の金持ちゲイ兄弟"ビバリー・ブラザーズとして登場。ブルームが兄のボウ・ビバリー、イーノスは弟のブレイク・ビバリー。マネージャーはランディ・サベージの弟であるジーニアスがつき、ヒールコンビとして売り出された。
 
ビバリー・ブラザーズの役割分担は見事だった。ボウがミネソタ生まれの先輩レスラー”ミスター・パーフェクト”カート・ヘニングを彷彿とさせる試合巧者で、ブレイクはパワーで相手を圧倒していく。どちらもプロレスのうまさを持っていてコンビネーションは抜群とタッグチームとして完成されていた。リージョン・オブ・ドゥーム、ザ・ロッカーズ、ザ・ブッシュワッカーズ、ナスティ・ボーイズ、スタイナー・ブラザーズ、ナチュラル・ディザスターズといった強豪チームと抗争を繰り広げてきた。
 
だが1993年にボウ・ビバリーことブルームがプロレスをセミリタイアしたことにより、チームは解散。ビバリー・ブラザーズはWWFタッグ王者になることはなかった。
 
イーノスも同年8月にWWFを離れ、同年11月からシングルプレイヤーとして新日本プロレスに来日。そこから新日本の常連外国人レスラーとして活躍していく。
 
新日本でのイーノスの試合を見て彼の実力はよく分かる。パワーもあり、テクニックもある、しかもタッグマッチや6人タッグマッチでもうまさが光るので誰とコンビを組んでも成立することができた。また攻めも受けも豪快だったので、プロモーターとしてはかなり重宝された「THE中堅レスラー」であった。
 
だが器用に試合をスムーズにこなしてしまったため、インパクトにやや欠けていた。当時の新日本最強外国人レスラーはイーノスとよくタッグを組んでいた"超竜"スコット・ノートン。ノートンはけた外れのパワーで圧倒してきた強者だったため、パワーファイターであるイーノスでもノートンと比べるとワンランク下の印象を受けていた。
 
それでもイーノスの実力が証明された試合もあった。新日本では冒頭の紹介したスタイナー兄弟とのタッグマッチと1995年7月13日札幌中島体育センター大会で行われたノートンと組んで橋本真也&平田淳嗣と対戦したIWGPタッグ王座決定戦である。
 
イーノスはノートンの超竜パワーをサポートしつつ、自らの実力も開放していく。カート・へニングばりのパーフェクト・プレックス(フィッシャーマンズ・スープレックス・ホールド),
パワースラム、フォールアウェイスラム、雪崩式ベリー・トゥー・ベリースープレックスと得意の投撃殺法で橋本を追い込むも、最後は橋本の垂直落下式DDTに敗れてしまう。
 
1996年、新日本を離れたイーノスはWCWに参戦している。このWCWでのイーノスの遍歴がなかなか流転しているので紹介したい。
 
最初は"ザ・モウラー"マイク・イーノスとなり、そこからディック・スレーターとラフ&レディというコンビを結成。コンビを解消するとシングルプレイヤーとなるも、1998年にブルームとコンビ再結成するが、短命に終わり、バリー・ダーソウ(スマッシュ・デモリッション、リーポマン)とミネアポリスコンビを組んだこともあった。
 
だがどれも方向性が定まらずにトップレスラーのジョバーに甘んじてしまう。実力はあったが、後塵を拝するポジションに追いやられる。彼自身は忸怩たる思いがあったかもしれないが、実力者でもトップレスラーになることができないのがプロレスの難しさであり現実である。
 
イーノスは2000年3月と6月に新日本に参戦し、WCWを離れた後に同年に引退。キャリア12年、37歳でプロレスラーとして生きる道をあきらめてしまう。実力者であることは間違いなかったが、残念ながら彼はプロレス界で代替えのきかない存在になることができなかったことがレスラーとしては致命傷となったような気がする。ワン・オブ・ゼムではプロレス界ではトップを取ることはできない。
 
イーノスは現在、フロリダ州タンパにイーノス・エグゼクティブ・ペインティングという塗装会社を経営し、妻と子供たちと一緒に暮らし、お孫さんにも恵まれているという。今年62歳を迎えるイーノスは第二の人生を静かに歩んでいる。
 
 
私はマイク・イーノスは過小評価されているプロレスラーだと思っている。ユーティリティプレイヤーとして色々なポジションで闘えた男だった。バイプレーヤーもできたし、ジョバーもできた。タッグマッチのうまさには定評があった。パワーもテクニックもあって、体格にも恵まれていた。しかし、彼には突き抜ける個性がなかった。だから"無印"のレスラー人生で終わってしまった。
 
でも私は1995年2月札幌大会で誰よりも輝いていたイーノスを知っている。一瞬でも新日本で光輝いていた殺人コンベアーの勇姿を私は忘れない。
 
 
 
 
 

 


俺達のプロレスラーDX
第226回 何者かになりたくて…〜足掻いていた人間戦車二世〜
/ボビー・ダンカン・ジュニア

 

 
 
1998年6月12日、全日本プロレス・日本武道館大会。
 
この日、ボビー・ダンカン・ジュニアは当時全日本四天王のひとりだったトップレスラー田上明とシングルマッチを迎えていた。
 
全日本に来日して3年。スタン・ハンセンのタッグパートナーとして1997年に世界最強タッグ決定リーグ戦にエントリーするなど少しずつチャンスを与えられてきたが、なかなかモノにすることができなったが、ビッグマッチでのトップレスラーとのシングルマッチという大きなチャンスを手にした。
 
”往年の名レスラー”ボビー・ダンカンを父に持ち、196cm 125kgの巨体を誇り、アメリカンフットボール仕込みのパワーと身体能力を武器にする荒くれカウボーイは気合いが入っていた。武道館大会に向けて5月の後楽園ホール大会でプランチャを披露した飛べるスーパーヘビー級戦士は田上戦で全日本マットに爪痕を残そうと試みたのだが…。
 
今思えば、ダンカン・ジュニアは全日本でファンクスやスタン・ハンセンと続くカウボーイレスラーの系譜を継ぐ男だった。もしも順調に育ちポテンシャルが開花すれば外国人トップ戦線を張ることができたのかもしれない。
 
ダンカン・ジュニアは1965年8月26日アメリカ・テキサス州オースチンで生まれた。父のボビー・ダンカンは「人間戦車」と呼ばれた大型カウボーイレスラー。実は若手時代のハンセンに大きな影響を与えたがダンカンで1979年にはAWAでタッグを組んでいた時期があった。
 
テキサス大学オースティン校でアメリカンフットボールの選手として活躍し、アリーナ・フットボール・リーグのダラス・テキサンズでプロフットボーラーとなった。父と同じく1989年に地元テキサスでプロレスラーとしてデビューを果たした。
 
1992年からはテキサスのGWFでジョン・ホークとテキサス・ムスタングスというタッグチームを結成し、GWFタッグ王座を獲得している。このホークというレスラーは後にWWEでスーパースターとなるJBLである。
 
1993年1月にはNOWで初来日しているが、1993年から2年ほどレスラー活動を休止。1995年5月、全日本プロレスで再出発を図る。そこから11回の来日してハンセンやゲーリー・オブライトのパートナーとして経験を積んでいった。その一方でアメリカECWに参戦。全日本とECWを往復しながらレスラーとしてのステータスをあげようとしていた。
 
1997年の世界最強タッグ決定リーグ戦でハンセンとのコンビでエントリー。3勝6敗の6点で終了。結果も内容も大きな印象を残すことはなかった。
 
ダンカン・ジュニアの試合を見るとややばたついた不格好なシーンが目立つ。確かにフライング・ショルダータックルやダイビング・ラリアットといった飛び技もできるし、パワーもあることはわかる。得意のブルドッキング・ヘッドロックもいいのだが、強烈なインパクトを残せない。期待はされていたのかもしれないが、全日本でタイトル戦線に絡めない。
 
だが試合の中で何か我々にひっかかるものを提示しようとする姿勢が見えるのだ。綺麗な形ではなく不器用なまでに泥臭い。彼の試合はいつも「自分を変えたい」とリング上で足掻いていた。その足搔きが私の心にずっとひっかかっていた。
 
そして1998年の田上戦。ダンカン・ジュニアはこの試合にかけていた。田上との体当たり合戦も互角で、フライングショルダータックルで吹っ飛ばす。場外に落ちた田上に向かってダンカン・ジュニアはここで仕掛ける。助走をとって場外に飛ぼうとしている。これはもしやザ・グラジエーターばりのノータッチトぺか、もし決まれば大きなインパクトを残せる!いけ!ダンカン・ジュニア!!
 
だが、飛ぼうとした瞬間に足がトップロープにひっかかり前方回転しながら不発。場内は大きな笑いとどよめきが起こった。本当に無様な自爆であり、珍プレーという部類に値する失敗。
 
「こんなはずじゃなかった…」
 
恐らくダンカン・ジュニアは悔しい思いをしていたのかもしれない。試合は僅か5分21秒、田上のノド輪落としで惜敗を喫した。
 
1998年8月23日・全日本後楽園ホールで行なわた6人タッグマッチ。ダンカン・ジュニアはハンセンとジョニー・スミスと組んでゲーリー・オブライト&高山善廣&垣原賢人と対戦。試合後にハンセンと高山がド迫力の場外乱闘を起こしたのはマニアの間で知られているのだが、この試合にダンカン・ジュニアに注目して見ていたのがプロレスマニアで知られるお笑い芸人のケンドーコバヤシである。
 
「この試合でダンカン・ジュニアは、オブライトに投げられ、高山選手に膝を叩き込まれ、垣原選手に掌底を食らいながらも必死に抵抗していた。相手に食らいつき、彼なりに頑張ったんです。やられても、ロープを掴みながら『ウォー!』と叫んでアピールもしていましたね」
「頑張るダンカン・ジュニアを徹底的にフォローしていたのが、他ならぬハンセンだったんですよ。ダンカンが捕まったら必死にカットしたり、パートナーを支える献身的な姿が目立って、"ブレーキの壊れたダンプカー"のいつもの制御不能なファイトは影をひそめる形になりました。俺は、冴えない外国人レスラーがタッグパートナーだった時に、ハンセンがその選手を見捨てて帰ってしまうシーンを何度も見た記憶があります。ピンフォールされていないのに、カウント2が入った時にはすでにブルロープを持って、花道の奥で『ユース!』と叫んでテキサスロングホーンを突き上げて帰る、みたいなこともあったはず。だけどこの試合では、冴えないかもしれないけど頑張るダンカン・ジュニアを、見捨てることなく徹底的にフォローした」
 
 
私はハッとさせられた。ダンカン・ジュニアはいつも頑張っていたのだ。自分なりにベストをつくした試合に挑んでいたのだが、その結果が空回りになったり、無様な自爆になったり、ばたついた試合になってしまっていたのだ。
 
全日本では目立った実績も活躍もできなかったダンカン・ジュニア。もしかしたら「自分はいつクビを切られてもおかしくない」と思いながら試合をしてたのかもしれない。その危機感を抱きながら1年近く闘っていたのではないだろうか。1998年9月を最後にダンカン・ジュニアは全日本から姿を消した。
 
1998年11月、ダンカン・ジュニアはアメリカ二大メジャー団体WCWに参戦。当初はベビーフェースとして活動していたが、1999年にヒールに転向。カート・ヘニング、バリー・ウィンダム、ケンドール・ウィンダムとカウボーイ軍団ウエスト・テキサス・レッドネックスを結成。試合以外では花道でカントリーミュージックを演奏するバンド活動も行い異色ユニットだった。ちなみにカートがボーカルで、バリー・ウインダムがドラムス、ケンドール・ウインダムがベース、ボビー・ダンカン・ジュニアがギターを担当していたという。
 
WCW末期でヒールでありながら人気もあったウエスト・テキサス・レッドネックスだったが、ダンカン・ジュニアは1999年秋、回旋筋腱板の手術のため欠場に追い込まれた。
 
せっかくチャンスだったが掴むことができなかった。またWCWの体制変更に伴い、ウエスト・テキサス・レッドネックスは同年11月に解散してしまう。
 
そして2000年1月24日朝5時にルームメイトが死亡しているダンカン・ジュニアを発見。享年34。死因には鎮痛剤の過剰摂取。検死の結果、モルヒネの最大100倍の効力を持つ鎮痛剤・フェンタニルを過剰摂取していたことが明らかになった。遺体はテキサス大学に寄付されたという。
 
 
全日本では後日、ダンカン・ジュニアの追悼10カウントは鳴らされた。全日本でスターになりたかった男は天国でどんな心境で見ていたのだろうか。
 
レスラー生活11年。タイトル歴は若手時代のGWFタッグ王座のみ。決してジョバーではなく、中途半端な実績しか残せなかったダンカン・ジュニア。それでも私は彼を忘れない。
 
ダンカン・ジュニアの試合を見ているとなぜか感情移入してしまう。
 
 
結果を残せない自分。
世の中で評価されない自分。
インパクトを残せない自分。
 
結果も内容も伴わない。報われない、うまくいかない。
 
もしダンカン・ジュニアが大成することがあったら、「報われない人たちの代弁者」になれたのかもしれないし、彼自身もそこを狙っていたのかもと私は思ったりしている。
 
だからこそ、ダンカン・ジュニアが何者かになりたかったのだ。
そうすることで世間を見返したかったんだ。
パワーでも飛び技でも暴走でもなんでもいい。
要は人々の心に響くファイトがしたかったんだ。
 
だが彼は何者かになる前に早すぎる死を迎えてしまった…。
 
私はそれでもダンカン・ジュニアの試合には心に残ってしまう。
うまく生きれなくてもいい。
うまく試合をやらなくてもいい。
命の輝きをリングで見せてくれればそれでいいのだ。
 
人間戦車二世がリング上で見せた魂の足搔きは、人生の応援歌。
そう捉えると彼のレスラー人生は決して無駄ではない。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 


俺達のプロレスラーDX
第225回 いつも向かい風の執拗な試合巧者~True to the basics~
/リック・マーテル

 

 
 
1984年5月13日、ミネソタ州セントポール・シビック・センター。日本人初のAWA世界ヘビー級王者となったジャンボ鶴田はこの日、17度目の防衛戦を迎えていた。試合は互いにヘッドロック、アームドラッグ、ハンマーロック、アームバーといった基本的なレスリングの攻防をメインに展開していくなかで起死回生のフライング・ボディアタックで鶴田は敗れ王座陥落。
 
 
「私は以前に日本に行ったことがあり、鶴田は日本で神のように扱われていたのを覚えています。私はいつも彼を尊敬していました。試合のためにかなりハードなトレーニングをしていたので、鶴田に対して準備はできていました。私たちはかなりフィジカルな試合をしました。とても嬉しかったです。間違いなく、私のキャリアの中で最大の夜でした」
 
後年、彼は鶴田戦についてこのように振り返っている。
 
 
「ジャンボ鶴田からAWA世界王座を奪取した男」
 
日本マット界ではこの呼び名が代名詞となったレスラーが今回の主人公。
 
リック・マーテル。
183cm 104kgの均整の取れた肉体とハンサムな面構えを持ち、レスリングの基本技を中心に、ロープ超えのダイビング・ボディプレスやフライング・ボディアタックといった一発逆転の飛び技を得意にしていた試合巧者。
 
 
それがマーテルだ。今回は20代でAWA世界王者となりベビーフェースとして活躍し、ベテランになるとキザなヒールレスラーとなったマーテルのレスラー人生を追う。
 
マーテルは1956年3月18日カナダ・ケベック州ケベックシティーに生まれた。少年時代からジャック・ブリズコに憧れ、レスリングに打ち込んでいたマーテルは、二人の兄ピエール・マーテルとマイク・マーテルのコーチを受けて1972年、怪我で欠場した選手の代打として16歳でプロデビュー。兄のマイクがホームリングにしていたカルガリーのスタンピードレスリングで活動拠点としながら、オーストラリア、ニュージーランド、ハワイのサーキットを回り、1975年からアメリカ本土に進出。ジョージア、フロリダ、ダラスなどNWAの主要テリトリーに参戦している。
 
1976年には二人の兄ピエールとマイクと共に国際プロレスに初来日を果たす。寺西勇が保持するIWA世界ミッドヘビー級王座に挑戦している。その非凡なレスリングセンスで関係者から高く評価されていた。また1980年には全日本プロレスにも来日している。
 
カナダ、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランド、プエルトリコ、日本、10代からジャーニーマン(旅がらす)として世界各地のリングに上がりプロレスラーとしての経験値をあげて、各テリトリーのタイトルも獲得していくマーテルは若き実力者だった。
 
1980年からはWWF(現・WWE)に参戦し、トニー・ガレアと組んでWWFタッグ王者となり、WWFを離れてから地元のモントリオールに戻ると、ビル・ロビンソンやディノ・ブラボーとカナディアン・インターナショナルヘビー級王座をかけて闘ってきた。また新日本プロレスへの来日が予定され、IWGPリーグ戦カナダ代表選手として登場予定だったが、実現することはなかった。
 
彼にとって転機となったのがモントリオール地区と提携していたアメリカAWAの参戦。AWAのボスであるバーン・ガニアはマーテルをAWA次期世界王者を見据えていた。AWAといえばガニアとニック・ボックウィンクルというレスリングの実力者であり、長期政権型世界王者が団体を牽引していた。当時のAWAはハルク・ホーガンが絶大な人気を誇っていたが、ガニアがニックの次に長期政権を託そうとしたのがホーガンではなくマーテルだった。
 
1983年末でホーガンがAWAと離れ、1984年にWWFと専属契約を結ぶとAWA世界王座はニックからジャンボ鶴田に移り、マーテルに渡った。
 
マーテルは鶴田、ニック、マサ斎藤、ビル・ロビンソン、ブラッド・レイガンズ、ハーリー・レイス、ジム・ガービン、ボブ・バックランド、ケンドー・ナガサキ、ラリー・ズビスコ、カマラ、マイケル・ヘイズ、テリー・ゴディ、ジェリー・ローラー、スタン・ハンセンといった強者相手にAWA世界王座の防衛戦を行ってきた。1985年10月21日に全日本・両国国技館大会にて、当時のNWA世界ヘビー級王者リック・フレアーと史上初のAWA&NWA世界ダブルタイトルマッチを行っている。AWA世界王座は1985年12月にスタン・ハンセンに敗れるまで1年7カ月の長期政権を築いた。
 
 
実はマーテルとハンセンは1970年代にアメリカ・テキサスで何度も対戦していた過去があり、キャリアも近いのだ。(マーテルは1972年、ハンセンは1973年デビュー)
 
「スタンは、正直に言うと、私が今までレスリングで出会った中で最もタフな男です。彼が主戦場にしていた日本のスタイルは、非常にアップダウンがあり、動きが多いです。スタンはそのスタイルにぴったりでした。だから、私がアメリカで彼とAWAのタイトルをかけてレスリングしたとき、彼はそのスタイルを保っていたんだ。彼はそのスタイルを日本から持ち込んできて、それはただ行ったり来たりしていただけだった。本当にフィジカルで、アップダウンが激しいです。彼が自分の体重であのペースを維持できるとは信じられませんでした」
 
 
実績だけだとガニアの期待に応えたように思えるマーテル。だが当時のアメリカマット界はWWFとホーガン人気が猛威を振るい、全米マーケットを支配しようとしていた時代。残念ながら実力者マーテルは世界王者になった時代があまりにも悪かったのかもしれない。長年WWEで実況アナウンサーを務めてきたジム・ロスは「マーテルはいいレスラーだがAWAの救世主になるとは思えなかった」と語っている。それでもマーテルはこの時代の不遇にも前向きにとらえている。
 
「あの時代は素晴らしい時代で、ファンは特にハルクの動向を本当に追いかけていました。彼のキャリアは本当に軌道に乗っていました。人々は彼のカリスマ性を感じることができた。そして、リック・フレアーなども。本当にエキサイティングな時期でした。そして、ニック・ボックウィンケルもその時期に素晴らしかったです。その一部になれたことを本当に嬉しく思います」
 
 
ここでマーテルは1986年にAWAを離れモントリオールに戻る。ガニアがAWAの命運を託した男は世界王座陥落後にあっさりと団体を去っていった。1986年の全日本『世界最強タッグ決定リーグ戦』にトム・ジンクとのカンナム・コネクションで出場し、1987年からはジンクとのコンビでWWFに移籍する。
 
「1980年代半ば、WWFは多くの地元のプロモーションを引き継ぎ始めていて、ケベックのプロモーションであるインターナショナル・レスリングがすぐに衰退するのは時間の問題だと感じていました。だから、それが起こる前に、それがどこに向かっているのか、WWFがどこに向かっているのか、もっと良いこと、もっと大きく、もっと良いことに進む時が来たと感じてました」
 
マーテルとジンクは見た目も試合スタイルも似ていた。跳躍力もありハンサムでWWFでも人気コンビになるはずだったが、ジンクは契約のトラブルでWWFを去った。マーテルはジンクとのコンビについてこのように振り返っている。
 
「AWAにいたときにトムがレスリングをしているのを見たとき、僕と多くの共通点が見えたよ。彼に会う前に、ニック・ボックウィンケルが最初に『リック、若き日のリック・マーテルを思い出させる男を見たんだ』と言ったのを覚えています。それからリングで彼を見たとき本当に私にとても似ていました。後になって、トムが私のスタイルを真似して、私がやっていた動きをたくさんやっていたことに気づきました。その後、WWFに入団することを決めたとき、ビンス・マクマホンに『トムとのコンビはタッグチームとして大きな影響を与えるだろう。私はそれを感じることができる』と言ったんだ。もっとトムと僕は一緒にいたら、史上最大のタッグチームの1つになっていただろう」
「恐らくトムは全てに圧倒されていたんでしょうね。レスリングは体にとても負担がかかります。精神的にも厳しいです。体力的にも大変です。毎日ジムに通ってトレーニングを行い、試合を続け、ケガをしても、前に進み続けなければならない。それは彼にとって無理だったと思います。また、大観衆の前でレスリングをし、常にトップレベルでパフォーマンスを発揮するというプレッシャーも。彼はそれを受け入れることができなかった。彼が去る数週間前から私が激励の言葉を言っていたのを覚えています。ボストンのある日、朝起きるとトムからは『リック、機会をありがとう。でも、僕にとってはこれで終わりだ』というメモが届きました。ショックだった。彼は夜逃げするようにWWFを去った。トムには可能性があった。しかし、彼はプロレスラーとして精神的にも肉体的にも、標準に達していなかったのです」
 
 
パートナーを失ったマーテルはティト・サンタナを新パートナーにストライク・フォースというチームを結成し、10月27日にブレット・ハート&ジム・ナイドハートのハート・ファウンデーションからWWF世界タッグ王座を奪取している。サンタナもマーテル同様にレスリングの基本を大切にする実力者だった。
 
「私たちはさやの中の2つのエンドウ豆のように仲良くなりました。ティトがそばにいると安心できました。私には、仕事を成し遂げることができる人がいました。彼は素晴らしい人でした。今でも連絡を取り合っています」
 
だがマーテルは1989年にサンタナと仲間割れ、ヒールレスラーに転向を果たす。ストライクフォースのコンビ解消は「シングルプレイヤーとして勝負をしたい」というマーテルの内なる欲求だった。
 
「私は長年レスリングをしていて、多くのことを成し遂げてきましたが、ストライクフォースはうまくやっていました。でも私はシングルプレイヤーに戻りたかったのです。タッグマッチにうんざりしていました」
 
マーテルはザ・モデルを名乗り、キザで嫌味なヒールレスラーとなり、WWFにおける関脇ポジションの立ち位置で活躍してきた。トレードマークは時には相手にかける凶器として使用する香水と蝶ネクタイとスーツのジャケット。この頃のマーテルはAWA世界王座をハンセンから取られた逆エビ固め(ベスト・ショット)を必殺技にしていた。ちなみにザ・モデルというニックネーム以外はマーテル自身のアイデアでクリエイトされたキャラクターだったという。
 
「ザ・モデルはとても気に入りました。私のモチベーションを上げるために必要だった変化だったんです。私を前進させ続けるために、ますます高く到達し続けるために。それは私にとって大きな挑戦でした、なぜなら、誰もうまくいくとは信じていなかった。なぜなら僕はベビーフェイスタイプのレスラーとして確立されていたからだ。誰も私が悪役タイプだとは思っていませんでした。そして、それが軌道に乗ったとき、人々はそれを本当に気に入りました。私にとっては、それを成功させたことに対する満足感がありました」
 
 
1991年には当時WWFと提携していたSWSに参戦。佐野直喜とSWSジュニアヘビー級王座をかけて対戦している。
 
個人的に印象に残っているのが1992年5月20日・石川大会での佐野戦。序盤に自ら後方回転エビ固めを仕掛けた際に何らかのはずみで口を切って出血するアクシデントに見舞われるも、マーテルは佐野のグラウンドとキックに真っ向から立ち向かっていった。しつこいまでのハンマーロック、ニースタンプ、スリーパーホールドで佐野を苦しめ、佐野の打撃には感情むき出しの張り手で返し、終盤にはフルネルソンの状態から後方回転エビ固めという今まで見たことがない丸め込みでニアフォールを奪いにいった。最後は佐野のダイビングボディアタック(トップロープからの空中胴絞め落としのような形ではあったが)に沈んだが地味で派手さはなくても相手が嫌がるねちっこい攻撃、どんな状況でも対応できるマーテルの試合巧者ぶりが遺憾なく発揮された試合だった。
 
実力は本物。だが次第に中堅レスラーの立ち位置が定着していく。この頃になるとマーテルはサイドビジネスとして不動産業を始めていたため、プロレスへのモチベーションが下がっていった。1995年WWFを去ったマーテルはカナダに戻りインディー団体に参戦。1998年にWCWに参戦し、WCW世界TV王座に就くも、ブッカーT戦で右膝の内側靭帯を断裂し、さらに足を骨折、軟骨損傷という大怪我を負った。また以前から背骨と首も痛めていた。1998年、マーテルは引退を余儀なくされる。
 
 
実はマーテルは愛妻家で有名でかつて妻が闘病生活を送るときにWWFから公休をもらい看病につとめたことがあったほどだ。プロレスラーを引退すれば今後はゆっくり妻と娘と共に暮らす生活が送れる。だからこの決断に後悔はなかった。引退後、マーテルは現役時代から続けていた不動産事業を手掛けている。
 
思えば、マーテルのレスラー人生を振り返ると追い風を感じることはなく、いつも向かい風を受けていた。逆風の中でマーテルはその場その場で自身でベターと思える決断と試合を行ってきた。彼の安定供給のクオリティーを提供できる実力はもっと評価されているはずである。
 
マーテルほど「True to the basics(基本に忠実である)」という言葉をリングで体現してきたレスラーはいない。物事をシンプルに保ち、基本的な原則や方法に従うことを強調するプロレスを行い、新しいトレンドや流行に追われず、基本的な価値や品質にこだわってきたのが彼のレスラー人生だった。流行ではなく普遍である基本に忠実というスタイルに試合内容と同様に執拗にやり続けてきたのではないだろうか。
 
 
 
「プロレスラーに年齢は関係ないと思います。ファンの皆さんが楽しんで観戦してくれる以上、それが大事なことだと思います。なぜなら、レスリングはとても複雑で、誰がそこにいるべきで、誰がそこにいるべきでないかは、人々が決めていると思うからだ」
 
 
レスラー人生の晩年、マーテルが語った言葉には、自身のこだわりである執拗なまでの基本に忠実なプロレスをファンにジャッジを委ね続けその都度、安定的な試合内容を提供してきたプロフェッショナルとしての矜持を感じてしまう。
 
リック・マーテル、"オールドファッション"と呼ばれたあなたのプロレスは決して色褪せない。
 
 
 
 
 
 
 
 

 

 


俺達のプロレスラーDX
第224回 bye bye blackbird〜クラシカルプロレスの求道者〜
/西村修

 

 
 
 
プロレスラーで文京区議会議員の西村修(52)が食道がん(扁平上皮がん)を患っていることを告白した。10日に入院し、11日から抗がん剤治療を開始する。がんは左上半身全域に転移しており、ステージ4と診断。手術困難な状況と明かした。がん発症は1998年の後腹膜腫瘍に続き2度目。議員レスラーとして順風満帆だったが、突然の知らせとなった。西村は5歳の子どもを思い、「まだ死ぬわけにはいかない」と再び病魔に打ち勝つ覚悟を示した。

【ENCOUNT/2024.04.10 議員レスラー西村修、食道がんでステージ4 すでに転移、手術困難も「まだ死ぬわけにはいかない」】

 

 

 
 
 
思えば、西村修は人生の分岐点となるタイミングでガンとの闘いに迫られてきた。
 
1998年、26歳で後腹膜腫瘍を患った際は抗がん剤や放射線治療に頼らず食事療法や免疫力を上げる治療でガンを克服してきた。その後、リングに復帰してから「無我の説法家」「闘う哲学者」としてクラシックプロレスで観客を魅力し、数々の名勝負を残してきた。プロレスラーとして、区議会議員として社会に貢献することをライフワークにしてきた中で再び襲ったガン。しかもステージ4まで進行してきた。がん細胞は左上半身全域に転移し、体中の激痛で仰向けに寝ることもできない。抗がん剤治療を行っても、脳腫瘍によるけいれん失神でICU(集中治療室)へ緊急搬送。脳に転移した4センチ大のがんを除去するために7時間半に及ぶ開頭手術を受けた。もはやプロレスどころの話ではない。
 
 
それでも彼はドクターストップがかかってもリングに上がり続けた。
 
 
「ここでどう生きるか。今こそ真価が問われる場面ですよ」
「体を甘やかしたら、あとは尻すぼみに弱るだけ。がんを治すなら、化学治療だけじゃなく、自分でもいっぱい栄養を摂って体力をつけなきゃ。腹を減らすには体を動かすトレーニング。ICUから退院したときは、スクワット3回すらできなかったけれど、頑張ってもう1回増やせば、次は4回、5回と増えていく。今は朝に300回、午後は全身の筋トレができるまでになって、4月の初入院時よりも体力は上がってきました。もうリングでも戦えます」
 

【2024.08.23 NEWSポストセブン 末期がんの現役議員でプロレスラーが電流爆破マッチに挑む「人は何のために生きているのか」を見せたい】

 
 
 
 
 
 
 
なぜ、西村は死の間際まで凄まじいプロレスラーとしての生き様と「生への執着」を見せつけてきたのか。
 
西村は1971年9月23日東京都文京区に生まれた。学生時代は野球とバスケットボールをやっていたが、格闘技経験者ではなかった。高校在学中に新日本プロレスが運営していたレスラー養成所・新日本プロレス学校に入門する。
 
小学校は少年野球、中学はバレーボールをやってましたが、ただのファン上がりなんですよ。新日本プロレスばかり見てましたので、ヒーローは(アントニオ)猪木さんであり、藤波(辰爾)さん、坂口(征二)さん。好きが嵩じて自分自身でやってみたくなったんです。新日本プロレスのプロレス学校のオープンと同時に入りまして、そこが部活替わり。(山本)小鉄さんの指導で、学校が終わったら等々力の道場に通うかたちで。高校2年から3年。それで運良く入門テストに合格。応募者総数は、書類から含めたら150人だったらしいんですけど。50人落とされて、最後面接で5人受かりました。学校は、20代後半の人もいたり、全員が全員プロを目指していたわけではないんですが。プロを目指してたのは1割ぐらいですよ。あそこの道場で練習できるっていうんで。新日本の道場そのものですから。1時から8時まで使えるんですけど、普通に現役の選手が入ってきますから。ファンにとっては、とんでもない環境ですよね。その中でも、6時から8時までは、小鉄さんのプロ養成コースがありまして、そこのメンバーに入って。メニューはプロの人の10分の1ぐらいかもしれないですが、スクワット500回、腕立て100〜200回やらされました。受け身とかブリッジとか、基礎の基礎。中学3年のときから本気で体を鍛えようとバーバル買ってきて練習はしてましたので、なんとかついていけました。
 
 
1990年4月に新日本プロレスに入門。そこから1年後の1991年4月21日、沖縄県糸満市西崎総合体育館の飯塚孝之戦でデビューを果たす。ただ瘦せ型だったためなかなか体重が増えなくて、レフェリーに転向しようという話をあがっていたという。
 
身長186cm、デビュー当時は81kg(後に105kgまで増加)と身長に恵まれた彼は足がピンと伸びたドロップキックとミサイルキックが得意だった。
 
1990年代前半のヤングライオン名物カードといえば山本(現・天山)広吉&小島聡VS金本浩二&西村修。負けん気の強い若獅子たちの闘いは専門誌でも取り上げられるほど話題を呼んだ。3代目タイガーマスクを務めるほど天性の華を持っていた金本、プロレスの上手さと武骨さで独自のキャラクターを確立していた山本、気合を全面にぶつけていく小島といった個性が強い面々の中で西村はどこか地味で大人しい存在に映った。
 
転機となったのは1993年3月のヤングライオン杯での準優勝。特に開幕戦で小島聡を破った試合と決勝戦の山本戦は好勝負となった。ちなみにこの時期に武藤敬司ばりのムーンサルトプレスを披露している。当時武藤の付き人を務めていた西村は精悍でアイドル顔だったため、将来は武藤のようなタイプのレスラーになるのではないかと思われていた。
 
1993年8月にアメリカ武者修行に旅立った西村。そこで彼は徹底的に肉体改造に励んだ。
 

当時は、WWF(現WWE)以外に残っている団体がわずかだったんですが、長州さんからアメリカのフロリダに行けという指示がありました。のんびりした気候の中で体作りに専念しろと。ヒロ・マツダ(元NWA世界ジュニア王者)さんの道場に入って、レスリングを教えてもらって。ボディビルをブライアン・ブレアーのゴールド・ジムで。徹底して体作りをしました。
 
アメリカ遠征で西村は新日本野毛道場で培ったプロレス学とは明らかに違う世界を知った。
 
理論的な教えで。野毛の道場(新日本の道場)と言っている事は全然違ってましたね。若手として、「気迫だ、パワーだ、ガンガン行け」ばかりでしたが、緻密な戦法のもと、レベルが全然違う。間合いだったり、溜めだったり。そこで初めて聞いたのは、「プロレスはサイコロジー」。心理学が重要だと。そんなこと聞いたことないですよ。全否定されましたよね。今まで何の勉強してきたんだと。長州さんが現場責任者で、イキのかかる馳さんだったり、佐々木さんだったりをコーチに置く訳です。長州イズムが若手に押し付けられるわけです。私だけ、体がないし、パワーだ気迫だというファイトではないわけです。みんな長州プロレスになっていっちゃうんですよ。そういう意味でまったく違う文学書を手にした感覚ですよ。
 
アメリカのECWやNWCなどあらゆるインディー団体を転戦した西村。「ショーグン・ニシムラ」というリングネームでペイントにふんどし姿でリングに上がったこともあった。一度は会社から帰国命令が出たが「もっと海外にいたい」と拒否し、その後イギリスのビリー・ライレー・ジムやオランダのクリス・ドールマン道場で鍛錬を積んできた。
 
1995年10月、西村は帰国し、当時IWGPヘビー級王者だった武藤のパートナーとしてSGタッグリーグ戦にエントリーするも、結果も内容も残せなかった。また藤波辰爾が主催した自主興行・無我に参戦。イギリスのビリー・ライレー・ジムで学んだレスリングに打ち込むも、新日本の試合ではなかなか不甲斐ない日々が続いた。
 
帰国するも結果が残せず、一番、ふがいない時間だったです。良い試合組まれるんですよね。リック・フレアーと組まれたり。でも対応できない。経験もキャリアもないから。いまだに、自分のワーストマッチは、フレアー戦。何もできなかった。動きに対応できない。バンバン動き回る人じゃなないし。レベルが高過ぎちゃって。顔と指だけで、両国(国技館)のお客さんを魅了しちゃうんですもん。入っていけないですよ。ロックアップ、ヘッドロック云々じゃなく、バリアができちゃってる。どう動いて良いかわかんない。歩き方もスロー過ぎちゃって。体に触れた記憶もないぐらい。自分で受け身をとり動きまわり、これが本当に「ほうき相手でもできる名人」なんだなと思いました。ただそれで、私自身の考えが、70年代80年代の昔のプロレスに、NWA王者の理論に尊敬心がいっちゃったんです。
 
1995年~1997年までの西村はとにかく「やられ役」に印象が強かった。IWGP戦の前哨戦があれば、いつも敗北を喫していたのは彼だった。会社に歯向かった帰国を拒否した男には内なる反骨精神があったのが、それがリング上で爆発することはなかった。とにかく、本人も周囲ももどかしいという思いを抱いていたのではないだろうか。
 
1997年5月、二度目の海外に旅立った西村はカナダやヨーロッパで修業を積んだ。ヨーロッパCWAでの経験は彼にとって大きかったという。
 
 1997年に、もう1回海外に行ってこいというのがヨーロッパで。毎日試合できるので。オットー・ワンツのところでした。これは鍛えられましたね。ヨーロッパのスタイルはネチネチしてて、大技じゃなく、いかに技を出さないか、溜めるてお客さんを魅了する、難しいプロレスなんですよ。ラウンド制ですし。結局、ファンの文化がつくり上げてるんです。キャッチ・レスリングっていうのは。日本やアメリカみたいに、より新しいものではなく、歴史とか伝統を最大限に重んじる。19、20歳の女の子たちが50代のトニー・セント・クレアーを猛烈に応援したり。20代のアメリカから来たカッコつけ男なんか見向きもされないですよ。いまのWWEみたいにシェイプアップされたところには、お客さんの目線がいかない。往年の、デーブ・フィンレー、クレアー。車を見たってベンツがたくさん走ってるんですよ。タクシーもベンツだし。ベンツだって安いわけではない。でも乗ってる。そのかわり乗ったら10年も15年も乗る。グッチもヴィトンも関係ない。そういう人が見るものだから、アメリカとは違います。それは勉強になりました。ブランドじゃない、中身なんだと。
 
1998年1月4日・東京ドームで凱旋した西村は藤波と組んで小島聡&中西学と対戦。西村が小島を得意技ノーザンライト・スープレックスホールドで勝利を飾った。同年2月7日・札幌中島体育センターで行われた佐々木健介とのIWGPヘビー級戦。そこで西村はスリーパーホールド、腕十字、ミサイルキックを執拗に狙う見た目には単調な試合展開となり、物議を呼ぶことになる。ただ試合には敗れたが、プロレス界がざわつく試合をしたことにより彼の存在感が増していく。
 
黒のショートタイツ、身体の柔らかさを生かしたスープレックス、基本に忠実なクラシカルスタイルを信条とする西村のセピア色プロレスはカラフルな色彩を誇っていた1990年代以降の新日本において、異質だった。
 
同年4月4日・東京ドームで西村は橋本真也と組んで武藤敬司&蝶野正洋が保持するIWGPタッグ王座に挑戦した。アントニオ猪木引退興行というビッグイベントで闘魂三銃士に挟まれた第三世代の西村は、凄まじい存在感を見せつける。
 
花道に姿を現した武藤と蝶野に西村はすっとかけつけ、睨み合った後にリングに戻っていく。その背中には「無我」と書かれたガウン姿が場内ビジョンで映し出され、大歓声を呼んだ。当時トレンドだったnWoに対する彼なりのアンチテーゼだったのかもしれない。また試合でもこれまで培ってきたレスリングを武藤と蝶野にぶつけ、中盤には猪木の得意技であるコブラツイストを披露し場内を沸かせ、ジャーマンやノーザンライトといったスープレックスで大善戦。終盤には蝶野のヤクザキックを何度も食らっても西村は歯を食いしばり立ち続けた。最後は蝶野のバタフライロックに沈んだが、この試合の主役は紛れてもなく西村だった。
 
ファンの支持を集めることに成功し、自分がやりたいプロレスを見つかった矢先、彼に悪夢が襲う。1998年9月に後腹膜腫瘍により欠場する。当初はガンと公表されなかったが、専門誌で告白したことによりプロレス界に衝撃が走った。
 
西村は抗ガン剤、放射線治療を選ばずに東洋医学でガンに立ち向かった。
 
 
ガン治療は続く。抗ガン剤、放射線治療…。その副作用は計り知れない。
体が資本のレスラーにとって致命的な状況だった。
プロレスを続けるか、それともあきらめるか…。

「しっかりとした食事をとらせ、体を鍛えさせ、マフィア(病気)に立ち向かう人間をつくる、それが東洋医学です」
 

結果、東洋医学を選択した。
リング復帰という大きな目標を掲げて。
その後、東洋医学の治療法探しの旅に出る。
行き先は世界各国。フロリダ州タンパ、台湾、ウィーン、シチリア島、インド…。
針治療、気孔、ヨガ、漢方薬、食事療法…。

 

「プロレスをそんな簡単にあきらめられない」。
人は、子どものころから見続けた夢をそう易々と捨てられない。
まして、プロレスラーとしての輝かしいライトを浴び続けてきた人間にとってはなおさらである。
再発の危険と背中合わせの日々。熱を出しやすく、精神面が落ちた。
体調がいつ上向きになるかわからない。毎日が試行錯誤。
その中で、〈プロレスラーとして復帰したい〉という揺るぎない信念が西村選手を精神修行へと突き動かした。

わずかながらも希望の光をとらえることができるようになってきた 。

 

 
 
そして西村は2000年6月に奇跡のカムバックを果たす。またこの時期からアメリカ・フロリダ州タンパに移住。カール・ゴッチやドリー・ファンク・ジュニアの指導を受けた。ガンに打ち勝った男が愛するプロレスを肉体表現するために、クラシカルプロレスにより傾倒していく。また卍固めやコブラツイスト、鎌固めなど往年のアントニオ猪木ムーブを持ち味にし、数少ないアントニオ猪木を報復とさせた新日本出身レスラーの一人だった。
 
 
2000年6月に復帰するんですけど、そのときの新日本との契約条項の中に、海外と往復していいということがありました。そこでアメリカに住居を構えまして。マレンコ道場に通ったり、海で体を鍛えたり。そのとき、マツダさんの側近だったハワード・ブロディ(最近のNWAの会長)の興行があって、ドリー・ファンク・ジュニアが来てたんです。それで近寄っていって、「あなたの生徒になりたいんだ」と。そしたら、「いつでもオカラにきなさい」。競走馬を育てる街で、観光は一切ないですよ。まあ勉強になりましたね。マンツーマンで試合形式のスパーリング。そのときは、まだドリーさんもデッカイですから。必死になって技術を学びました。エルボースマッシュしかり。シンプルな技。どこが凄いかというと、溜め。ガスを溜めるように。今の選手なんて、すぐにガス抜きしようとするんですよね。いまだに勉強になります。そういうのを見ちゃうと、現代プロレスも確立されているのかもしれないけど、あの溜めは、プロレスの神髄だなと思います。新しいプロレスに合わせなくていいと確信しました。
 
元々の内なる反骨精神と勤勉さに、ガンを克服したことによる「生への執着」が加わり西村の試合はそこから神がかった内容が多くなっていく。特にG1CLIMAXやタイトルマッチでの西村の試合にハズレはなく、どれも好勝負となっていった。
 
G1CLIMAXでは天山広吉戦(2001年)、小島聡戦(2001年)、武藤敬司戦(2001年)、高山善廣戦(2003年)、秋山準戦(2003年)特に素晴らしく、これ以外にも挙げたらきりがないほどG1での西村の名勝負は多い。
 
個人的に西村の試合で印象深いのは2002年6月5日・大阪府立体育会館で行われた蝶野正洋&天山広吉VS中西学&西村修のIWGPタッグ戦だ。IWGPタッグの歴史において60分時間切れドローとなった唯一の試合となったが、西村は試合途中、足を負傷し戦線を離脱した中西の分まで孤軍奮闘。まるで師匠ヒロ・マツダのような裸足となり、野性味あふれるファイトで蝶天タッグをひとりで追い込んでいく。足4の字固めでギブアップを迫り、復活した中西のジャンピングニーを食らい、鼻骨骨折した天山の鼻を執拗にナックルパートで追い打ちをかけた。60分時間切れのゴングが鳴り、疲労困憊でリング上でぐったりしていた蝶野、天山、中西に対し、西村だけがピンピンとしていた。コーナーポストに上がり、「俺はまだまだやれるぞ!」とアピールするほど。これぞ、西村修というベストバウトだった。
 
またこの頃から西村の生真面目なマイクパフォーマンスやあまりにも長いコメントが注目が集まった。要は選挙演説なのだ。一部では無我説法、西村説法と形容された。「無我とは何か?」を試合以外で説明するためにはコメントが必要だと感じていたのかもしれない。彼は言葉を持ちすぎていた。
 
西村は暗黒期と呼ばれた2000年代前半新日本の希望だった。彼のクラシカルなプロレスが1990年代の長州力支配下で蔓延していたラリアットプロレスに一石を投じていた。格闘技路線に舵を切ろうとしていた暗黒期の新日本でも西村がいたからこそ保守本流のプロレスがなんとか守られていたのではないだろうか。
 
新日本では藤波や天山と組んでIWGPタッグ王座、天山と組んで2003年にG1タッグリーグ戦を制覇するも、シングル王座には無縁だった。また2005年から西村の新日本での存在感が薄くなっていった。
 
2006年1月、西村は「地位や名誉などいらない。本当のプロレスをしたい」と語り新日本を退団。その後、藤波や吉江豊と共に、進化し続ける現代のプロレスにアンチテーゼを投げかけた原点回帰をテーマにした団体・無我ワールドプロレスを旗揚げ。だがその一年後、西村は後輩の征矢学を引き連れて、無我ワールドを退団し、全日本プロレスに移籍。自ら「亡命」と語るほど義理を欠いた行動をとってしまう。
 
全日本でも西村は自身のクラシカルプロレスを展開していく。アントニオ猪木、藤波辰爾、ヒロ・マツダ、カール・ゴッチ、ドリー・ファンク・ジュニア…自身が影響を受けた強者たちのエッセンスを吸収した彼のプロレスはいつしか「西村ワールド」と呼ばれるようになった。
 
説法や演説と形容されたコメント力と思考力、行動力が相まって西村は政治の世界を志していく。2011年から東京都文京区議会議員として4期を務めた。政治家として西村は「食育」を最大のテーマにして活動を続けてきた。ガンを食事療法で克服した彼だからこそできる政策テーマだ。
 
自分自身は、癌を患って食育活動をやってたんですね。今の子供たち、先進国としてはおかしなぐらい、中身ボロボロ。アレルギーから精神疾患、鬱病、アトピー、自殺者。原点に戻んなさいと講演しながら歩くんです。でも講演したって、効果はそこまではないですよね。良い話だなと思っても、家に帰ったら好きなもの食べて。何をどう動かさなきゃいけないかとか考えると、戦後のアメリカのGHQの政策が出てくるんですよ。(中略)食の重要性。親に知識もないし、良いもの食べさせたいとか、子供も味の濃いものを好む。PTAの意見を集約するとおいしいもの、子供が残さないものになっちゃうんです。学校給食っていうのは、食の教育でもありますから。外食産業のメニュー作りをやらなきゃいけないわけじゃないですから。その進め方は教育委員会と話しながら。私の理想は、永平寺と提携して精進料理を出すことです。子供たちが和尚みたいに冷静に落ち着いて。自分が区長なら次の日からやっちゃうかもしれませんが。いきなり精進料理でなく、まず肉をなくすとか。日本の四季の伝統食、なかなかわかんないですよ。そういうものを教えながら和食の良いところを。食材っていうのは、60億の人の細胞をつくるので。子供たちが変わると親の意識も変わるわけですから。そうすると病人も減り、医療費も下がるわけです。私のライフワークです。全部、食育です。食によって免疫力高めましょう。
 
 
 
政治家となり、全日本を離れフリーランスとなった西村はさまざまな団体に上がり続けてきた。プロレスと政治の二刀流を歩んでいた西村に再び病魔が襲う。
 
2024年に入ると体調不良が続き、4月になってPET診断、内視鏡検査、生検によってがんと確定。食道がん(扁平上皮がん)から左側上半身全体に転移し、ステージ4と診断された。
 
 
「私2回目のがんになりました。明日から入院して、あさってから抗がん剤が始まります。手術じゃない。がんが散らばっちゃっている。はっきり言って、ステージ4。扁平上皮がんというがんで、原発(がんがはじめに発生した部位)は食道から来ているらしい。今日が最終の診察と入院の手続き。さっき、主治医から『あさってから一緒に頑張りましょう』と言葉がありました」
「世の中戦争だ、地震だ。プロレス界だって、動けない人もいる。五体満足がどれだけ幸せかっていう部分に気づけば、抗がん剤で苦しいからと泣きごとなんて言ってられませんからね。それも含めて与えられた試練でしょうから。猪木イズムじゃないですけど、すべて自分をさらけ出して、(闘病を)自分自身のテーマと定めて。人生の52歳にして第2回がんとの戦い。必ず勝ちます」
 
末期がんに襲われても西村はどこまで前向きだった。ドクターストップがかかっても最後の最後までリングに立ち続けた。
 
「生きるためにリングに上がる」
 
 
それが少年時代からプロレスラーになることを目標にして夢を叶えた男の生きざま。地味で大人しい、アイデンティティー確立に苦しんでいたヤングライオン時代とは違う。もう誰にも真似できないプロレスラーの領域に達していた。
 
 
「そりゃあ、いきなりステージ4と言われた時は“参ったな、息子もまだ5歳だぞ”って思いましたよ。でもね、目標(試合)がある方が、体に精気がみなぎってくる。それにプロレスラーは、いつも命を張ってる職業。このがんもまさに無制限一本勝負。そう考えると、心の奥底からゾクゾクしてくる自分がいるんですよ。その感情が恐怖に勝っちゃう」
「昔の私はひと口だけで顔が真っ赤でね。飲めない体質なんです。でも、毎日浴びるように飲んで完全に克服した。ただ、その無理な飲酒がたたって食道がんになっちゃった。因果応報です」
 
 
だがやりたいことはまだまだあった。プロレスでも政治の世界でも、そして6歳のひとり息子には教えたいことや伝えたいことがたくさんあった。それでも人の一生には制限時間がある。「生への執着」を見せつけてきた「無我の説法師」には人生のレフェリーストップがかかった。
 
2025年2月28日、西村は53年の生涯に幕を下ろした。早すぎる死。だがプロレスラーとしての執念とプライドを見せつけた生涯。6歳の息子は「パパと熱海に行けなくなった」と泣いていたという。
 
いいものは古くならない。偉大なる先人たちが作った伝統と道のりを歩きなながら、自らが信じるクラシカルプロレスを貫き、「無我」というコンセプトに内在して継承しようとしたのが彼のレスラー人生だった。
 
西村は堅忍不抜、基本忠実、伝統継承、自由奔放、文武両道、諸行無常、不撓不屈、温厚勤勉といったさまざまな概念が入り組んだアイデンティティーの持ち主。リング上では生真面目な印象を受けるが、リング外では陽気でユーモアに溢れたヤンチャな一面があった。古き良きプロレスを信条としながらもプライベートでは流行家電をいち早く愛用していた。どこか言っていることとやっていることが矛盾している。だがそれが彼の味わいであり、一種の色気だったのではないだろうか。
 
 
 
温厚な人柄、自由でおおらかに生きる西村はレスラー仲間に愛されていた。かつての師匠・藤波も「亡命」の件で西村と袂を分かったことを引きずっていない。2025年1月に出場予定だった西村が欠場し、代役として試合に出たのが藤波だった。
 
「(退団から)今日までとうとう会わずじまいで終わってしまったんだけど、俺が彼を憎んだとかではなくてね。馬場さんの大会で代わりに出たのが、俺の気持ちのすべてですよ。彼のしたことに対して、俺は何も思っていないよということ」
「(思いが天国に)通じるものなら『俺はもういいよ』と。恨んでもないし、旅立ってくれと。長い時間、闘病生活ご苦労さまという気持ちと、冥福を祈ってます」
 
 
ロックバンド・サニーデイサービスの隠れた名アルバム『サニーデイサービス』の最後に収録された『byebye blackbird』という曲がある。







この曲に込めた思いをボーカルの曽我部恵一は次のように語っている。
 
 
「“鳥”っていうのは、アルバムの途中から徐々に出てくるけど、それはストーリー・テラーみたいなもんで、すべてを俯瞰で見てるような存在だと思うんでね。それがまたどこに飛んでいって…。でも、鳥が飛んで行くっていうのは、行き先があるっていう事で。未来に飛んで行くのか過去に飛んで行くのか、自由なものっていうか。だから未来や過去と“NOW”っていうものはつながってんだなあとは思いますけど」
 
ストロングスタイルの求道者・西村修は新日本を去る際に自身を「フリーバード」と名乗っていた。天国に旅立った自由な鳥はまたどこかで我々の記憶の中に現れることだろう。


また、いつか…。
 
 
 
 
 

 


俺達のプロレスラーDX
第223回 知る人ぞ知るインディーのプロレス職人
/畠中浩旭

 

 

私が畠中浩旭を初めて見たのはSWS時代だった。まだ新人だったが、基礎はしっかりしていて、体格や面構えもよかった。将来的にはプロレス界を支える逸材になっていくと思っていたのだが…。どうやら彼のレスラー人生を振り返るとこのSWS時代が最もポピュラーだったような気がする。

なぜか?それはさまざまな団体を渡り歩いたのだが、なぜかメジャーな舞台に出場しなかったからだ。だが、プロレス関係者は彼の実力を評価している。現在は地元北海道で「アジアン・スポーツ・プロモーション」代表として活動する彼のレスラー人生とは…。

畠中浩旭は1969年1月15日北海道瀬棚郡に生れたた。本名は畠中浩という。畠中は少年時代からプロレスファン。彼が憧れたのは"韓国の猛虎"大木金太郎だった。かなり渋い嗜好である。将来の夢はプロレスラーになること。14歳から自己流のプロレスラーになるためのトレーニングを始めた。

大木の弟子になるために韓国に渡った畠中だったが、会うことができずに帰国し、その後もメキシコでプロレスラーになろうとしたがこれも断念。最終的にプエルトリコに渡り、1990年3月に彼は晴れてプロレスデビューする。

 畠中にとって転機となったのはSWSの旗揚げだった。ケンドー・ナガサキに誘われてSWSに入団することになった。当時185cm 100kg(後に120kg~推定140kgにまで増量)とバランスのとれた肉体を持ち、プロレスセンスもあった。新人ながら非凡さを感じさせたのが畠中だった。

特に印象に残っているのが、1992年6月の佐野直喜戦。当時SWSは解散が決定していて、佐野はUWF系の強さを全面的に出したスタイルにモデルチェンジを測っていた。得意の空中殺法は温存し、キック&サブミッション&スープレックスに傾倒していた。この試合で畠中は佐野のキックをもろに顔面に食らった。

畠中は鼻血を出しながらも佐野に食らいついていき、プロレスを展開していった。最後は佐野の軍門に下ったが、そこに畠中の意地を見た。例えるなら前田日明の格闘スタイルを全面的に受けとめた上でプロレスをやってのけた藤波辰爾のようだった…。

SWS解散後、畠中はナガサキを慕いNOW旗揚げに参加する。畠中にとってナガサキは師匠のような存在。だから得意技であるジャンピング・パイルドライバーはナガサキ譲りなのだ。だがNOWからも姿を消していた畠中は再びプエルトリコに渡った。

プエルトリコでグレート・センセイを名乗るペイントレスラーに返信した畠中はWWC TV王座を獲得するほどの活躍を見せる。帰国後は東京プロレスや道産子プロレス元気にフリーとして参戦していった。

畠中は20代後半にも関わらずプロレス職人のような試合運びの巧さを発揮していった。いわゆる相手を引き上げた上で最後は勝利するレスラーにとっては模範的なスタイルである。本人曰くリック・フレアーを意識して、このスタイルになったという。インディーにいるメジャーに通用する本格派と言われた。

だが畠中はどうゆうわけかますますインディーの住人となり、メジャーで活躍できる実力がありながらアンダーグラウンドの世界に染まっていった。1998年9月13日にレフェリーのクレイン中條とともに「アジアン・スポーツ・プロモーション」を旗揚げし、ローカルプロレス団体の代表となった。

「アジアン・スポーツ・プロモーション」の運営に関わりながら、韓国やプエルトリコに参戦した畠中。いつしか彼の肉体は元WWF世界王者ヨコズナを彷彿とさせるほど巨大化していく。しかし、動きや巧さに衰えや落ちることはなかった。

畠中は確かにメジャーでも活躍できる実力をもっていた。しかし、本人のやる気なのか、運なのか、人徳なのか理由は定かではないが、メジャーに登場することなくローカルプロレス団体の代表としてレスラー人生を歩んでいる。

新日本や全日本といったメジャーシーンには一度も登場しなかったが、知る人ぞ知るプロレス職人は確かに北海道に存在している。ただ畠中を見ているとこういうアンダーグラウンドに生息し、口こみのように知られるスタンスもある意味で正解なのではと思うのだ。つまり自分にあった生き方をしているのだ。

プロレス職人・畠中浩旭はかつてこう語っている。

「プロレスは大技はひとつだけあればいい、あとはアドリブで試合の流れを掴むことは大切なのだ」

これは団体の大小や国籍に関係なくプロレスの心得を説く金言ではないだろうか。


ローカルの地でプロレスを伝承する男・畠中浩旭はアジアンプロレス代表として北海道でプロレスを続けていく。その活動は地道で草の根活動のようなプロレス伝承かもしれない。だが、この草の根活動が少しでも実を結びことを私は願っている。

 


俺達のプロレスラーDX
第222回 5ヶ月の完成品〜早熟すぎた王道怪物の幻想
/ブライアン・ダイエット

 

 
私は今まで30年以上プロレスを見てきた。その中で最も「この選手が辞めたのはプロレス界にとって大きな痛手だった」と感じた選手がいる。
 
1990年代に全日本プロレスに参戦していたブライアン・ダイエットというプロレスラーである。
 
 
ほんの一瞬だったかもしれないが、「こいつは大物になる」と思わせたレスラーである。人をめったに誉めないジャイアント馬場が「受け身は外国人で一番うまい」とベタ褒めした人材だった。
 
だが全日本での活動期間は1996年5月から7月までと実に短い。そしてその後も活躍せずにプロレス界からフェードアウトしている。この男は一体何者だったのか。
 
ブライアン・ダイエットは1970年12月12日アメリカ・コロラド州デンバーで生まれた。コロラド大学卒業後の1994年から1年間、CFLシュリーブポート・パイレーツでプロのアメリカンフットボーラーとして活動していた。
 
そんな彼をスカウトしたのがコロラド出身で全日本常連外国人のスティーブ・ウィリアムスだった。
 
ウィリアムスは元アメリカン・フットボールの選手で、しかもアマレスの強豪である。1996年2月にビッグDというリングネームでデビューする。199cm 130kgの巨体は将来性を感じさせた。
 
彼が全日本に上がることになったのはデビュー直後のことだった。 1996年3月、諸般の事情で全日本を休んでいたウィリアムスが「チャンピオン・カーニバル」で帰還。全日本への手土産の一つがこのブライアン・ダイエットだった。ブライアンは1996年5月に来日して全日本道場で練習をすることになった。
 
「今まで見てきた外国人の中で一番受け身がうまく、プロレスセンスがある」
 
ブライアン・ダイエットを見た馬場はこのように絶賛した。巨漢なのに華麗なロープワーク、レスリング仕込みのスープレックスとテクニック、そしてアメリカン・フットボールで鍛えたパワーと突進力があった。
 
1996年5月27日青森県営体育館大会の全日本デビュー戦で、ダイエットはマウナケア・モスマンと組んで本田多聞&泉田竜角と対戦。15分9秒、タモンズ・パワード(変形ジャンピングパワーボム)で敗れるも、アメリカでデビューしてから僅か3カ月で15分以上闘えるスタミナは驚愕だった。
 
試合後に「グッドファイトだった。ここのカンパニーで試合を積んでベストになるように頑張っていきたい」と語ったダイエットの新人離れした試合ぶりに週刊プロレスでカラー2ページで取り上げ、その逸材ぶりを評価している。
 
5月29日の宮古市千徳地区体育館大会で小橋健太と組んで、田上明&本田多聞と対戦して,
30分時間切れ引き分けに持ち込んだ。試合後、小橋はダイエットを大絶賛。
 
「(ダイエットについて)道場で一緒にトレーニングしてるからスタミナに不安はなかった。あの中に入ったらバタバタしてしまうかと思ったら、そんなこともなかったしね。練習しても素直だから吸収が早い。体の大きさに関係なく練習するから、こっちがビックリするほどだよ」
 
6月7日の日本武道館大会でダニー・クロファットと組んでパトリオット&ザ・ラクロスと対戦。検討するもパトリオットの高角度パワーボムで敗退。試合後にパートナーのクロファットがダイエットを介抱するフリをしてバックドロップで投げて唾を吐きつける。新人離れした怪物は早くも先輩外国人レスラーからジェラシーの対象となっていたのかもしれない。
 
彼を例えるなら、パワーとテクニックに長けているという点ではJBLやテッド・デビアスに近いのかもしれない。とにかくプロレスがうまいのだ。
 
今思えば彼にとっての大一番は1996年6月28日後楽園ホール大会。メインイベントで小橋健太と組んで当時の世界タッグ王者・三沢光晴&秋山準とのタッグ戦ではないだろうか。
 
ダイエットは三沢と秋山の攻撃も受けつつもなんとか食らいついていく。そんな彼の姿をパートナーの小橋が檄を飛ばし見守っていた。
 
終盤、ダイエットは秋山に投げっ放しレーザーズ・エッジ(今で言うところのバッドラック・フォール)を敢行し、あと一歩まで追い込むも最後は秋山に3カウントを喫した。だが将来性を感じさせ、まだ新人ながら非凡な才能を見せつけた。
 
ダイエットはその後、シリーズに参戦し、最終戦ではボビー・ダンカン・ジュニアと組んでマーク・ヤングブラッド&クリス・ヤングブラッドと対戦。ダイエットがクリスを河津落としで勝利をあげた。

 
 
凄い外国人選手が現れ楽しみになってきたなと思っていた矢先だった。次のシリーズにブライアンの名がなかった。理由は不明で、公式発表もなかった。
 
その後、彼の名前をプロレス界で聞くことはなかった。
 
ダイエットは才能に溢れていた。デビューした段階からプロレスラーとして完成品だった。試合運び、肉体、スタミナ、センス、精神力…どれも揃っていた。新人なのにベテランレスラーのような風格とプロレスのうまさを持ち合わせていた。
 
もし、このダイエットがあと少しプロレスを続けていれば、全日本の三冠戦線や世界タッグ戦線に絡んだり、トップ外国人レスラーになったかもしれない。本当に早熟すぎたプロレスラーだった。
 
私は彼について考えるとこんな言葉がよぎった。
 
「プロレスラーは才能だけでは生きていけない」
 
もちろん才能やセンスは必要である。だがそれ以上にプロレスへの愛情や熱意、プロレスラーとして個性が必要なのではないだろうか。そう考えると彼はプロレス向きの住人ではなかった。
 
もしかしたらそのことを自覚していて自分に向いていないと感じていたから、彼は早々にプロレス界に見切りをつけたのではないだろうか。だとすると実に潔い。でもその一方で才能があるのに開花直前で去ったのだからもったいない気もする。
 
潔さともったいなさという二つの概念の上に彼の短いレスラー人生があった。
 
ブライアン・ダイエットという幻想。それは掘り起こすとプロレスラーで成功する難しさと大変さを痛感させられる教訓が存在している。あなたにもそんな「潔いけどもったいない」レスラーはいるのではないだろうか。
 
「早熟すぎた王道モンスター」ブライアン・ダイエット、たった5ヶ月のレスラー人生だったかもしれない。だが、その5か月間でプロレスラーとしてすでに完成品として仕上げた男は長きプロレス史においてレアケースなのだ。
 
 

ジャスト日本です。

 

 

 

 

「人間は考える葦(あし)である」

 

 

 

これは17世紀 フランスの哲学者・パスカルが遺した言葉です。 人間は、大きな宇宙から見たら1本の葦のようにか細く、少しの風にも簡単になびく弱いものですが、ただそれは「思考する」ことが出来る存在であり、偉大であるということを意味した言葉です。

 

 

プロレスについて考える葦は、葦の数だけ多種多様にタイプが違うもの。考える葦であるプロレス好きの皆さんがクロストークする場を私は立ち上げました。

 

 

 

 

さまざまなジャンルで活躍するプロレスを愛するゲストが集まり言葉のキャッチボールを展開し、それぞれ違う人生を歩んできた者たちがプロレス論とプロレスへの想いを熱く語る対談…それが「プロレス人間交差点」です。

 
 
 

 

9回目となる今回は作家・木村光一さんとプロレス格闘技ライター・堀江ガンツさんの対談をお送りします。

 

 

 

(画像は本人提供です)

 

 

木村光一

1962年、福島県生まれ。東京造形大学デザイン学科映像専攻卒。広告企画制作会社勤務(デザイナー、プランナー、プロデューサー)を経て、'95年、書籍『闘魂転生〜激白 裏猪木史の真実』(KKベストセラーズ)企画を機に編集者・ライターへ転身。'98〜'00年、ルー出版、いれぶん出版編集長就任。プロレス、格闘技、芸能に関する多数の書籍・写真集の出版に携わる一方、猪木事務所のブレーンとしてU.F.O.(世界格闘技連盟)旗揚げにも協力。

企画・編著書に『闘魂戦記〜格闘家・猪木の真実』(KKベストセラーズ)、『アントニオ猪木の証明』(アートン)、『INOKI ROCK』(百瀬博教、村松友視、堀口マモル、木村光一共著/ソニーマガジンズ)、『INOKI アントニオ猪木引退記念公式写真集』(原悦生・全撮/ルー出版)、『ファイター 藤田和之自伝』(藤田和之・木村光一共著/文春ネスコ)、Numberにて連載された小説『ふたりのジョー』(梶原一騎・真樹日佐夫 原案、木村光一著/文春ネスコ)等がある

 

木村光一さんによる渾身の新作『格闘家 アントニオ猪木』(金風舎)が発売中!

 

格闘家 アントニオ猪木【木村光一/金風舎】

 

 

 

 

 

YouTubeチャンネル「男のロマンLIVE」木村光一さんとTERUさんの特別対談

 

https://youtu.be/XYMTUqLqK0U 

 

 

 

https://youtu.be/FLjGlvy_jes 

 

 

 

https://youtu.be/YRr2NkgiZZY 

 

 

 

https://youtu.be/Xro0-P4BVC8 

 

 

 

 
 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 (画像は本人提供です)
 

 

 

 

堀江ガンツ

1973年、栃木県生まれ。プロレス格闘技ライター。

『紙のプロレス』編集部を経て、2010年よりフリーとして活動。『KAMINOGE』、『Number』、『昭和40年男』、『BUBKA』などでレギュラーとして執筆。近著は『闘魂と王道 昭和プロレスの16年戦争』(ワニブックス)。玉袋筋太郎、椎名基樹との共著『闘魂伝承座談会』(白夜書房)。藤原喜明の『猪木のためなら死ねる』(宝島社)、鈴木みのるの『俺のダチ。』(ワニブックス)の本文構成を担当。ABEMA「WWE中継」で解説も務める。現在、構成を担当した『玉袋筋太郎の全女極悪列伝』(白夜書房)発売中。

 

 玉袋筋太郎の全女極悪列伝 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今回のテーマは「平成と令和のアントニオ猪木」。

昭和の猪木さんの偉大さや凄さについて語られる文献が目立つ昨今、敢えて全盛期を過ぎプロレスラーとして熟年となった猪木さん、引退後にプロレスや格闘技で縦横無尽にプロデューサーとして馳せ参じていた猪木さん、そして晩年病魔に苦しみ闘い続けた猪木さんにスポットを当てるのがこの対談です。

 

 

数多くの猪木さんのインタビューを手掛け、猪木さんのブレーンという立場にいた時期もあった木村さんと晩年、猪木さんにインタビューを担当したガンツさん。2人が見てきた猪木さんの想いが対談の場で見事にクロスオーバーしました!

 

ちなみにこちらがこの対談のお品書きです!

 

 

 

1.平成のアントニオ猪木さんについてどのように感じていたのか?

2.平成のアントニオ猪木さんの好きな名勝負

3.アントニオ猪木さんの引退と引退後について

4.猪木さんが立ち上げた団体UFOとIGFについて

5.晩年のアントニオ猪木さんについて

6.猪木さん逝去から2年…今だからこそ語りたい猪木さんへの想い

 

        

 

 

 

 

皆さん、是非ご覧下さい!

 

 

 

プロレス人間交差点 木村光一☓堀江ガンツ 前編「平成猪木史から見える理想と現実」

 

 

 

 

 

 

プロレス人間交差点 〜平成と令和のアントニオ猪木〜

「孤高の闘魂作家」木村光一☓「活字プロ格の万能戦士」堀江ガンツ 

後編「令和に真の猪木像を伝える使命」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



「猪木さんの直感を同時に共有できる感性と、それを言語化、理論化してなおかつ具体的な技術指導にまで落とし込めるのは佐山聡さんをおいて他にはいなかった」(木村さん)


──前編でガンツさんが語ってくださいましたが、もし1990年代半ば時点ならシフトチェンジして格闘技向きの選手たちに格闘技のトレーニングを積ませていたら、プロレス最強神話も崩壊しない可能性があったと考えると歴史の分岐点ですね。

木村さん 同感です。そう思って振り返ってみると、1993年12月5日、藤原組・後楽園ホール大会で行われた猪木さんと石川雄規選手の公開スパーリングが非常に興味深いんですよ。

──ありましたね。

木村さん あの目の覚めるようなスパーリングには、プロレスに内包される格闘技的な技術がこれでもかと詰め込まれていました。

ガンツさん あのスパーリングで猪木さんは、今のMMAでいうところのボディトライアングル(4の字ロック=ボディシザース)からのバックコントロールとかをやってましたね。


木村さん 柔術的なディフェンスもやっているし、私がインタビューした際に藤原さんや佐山さんが「アントニオ猪木の本当の必殺技」と証言したボディーシザースも完璧に極めていました。猪木さんはすでに93年の時点で、実は明確に「プロレスにも十分グレイシーに対抗できる技術はあるんだ」と身をもってアピールしていたわけです。

しかし、残念ながらこの時期は例の猪木スキャンダルの真っ只中。主催者も観客もこの公開スパーリングは世間に叩かれまくったアントニオ猪木の健在をアピールするのが主な目的だったため「猪木さん、元気でよかった」とその場限りで終わってしまった。

たらればの話になりますが、ガンツさんのおっしゃる通り、もし、この段階で猪木さんと佐山さんの関係が修復されていて、このスパーリングについてきちんとした解説がなされていたら、その後のプロレスと格闘技の流れは変わっていたかもしれません。
とにかく、猪木さんの直感を同時に共有できる感性と、それを言語化、理論化してなおかつ具体的な技術指導にまで落とし込めるのは佐山聡さんをおいて他にはいなかったんです。

──馬場さんのプロレス論を分かり約後輩に伝えて指導したのが佐藤昭雄さんでしたが、猪木さんにとっての智将は佐山さんだったんですね。

木村さん 余談になりますが、なぜプロレスマスコミでもスポーツライターでもなかった私がいきなり猪木さんの懐に飛び込めたかというと、今思えば、スキャンダルの際には徹底的に言葉で痛めつけられてそれにうまく反論できずにいた猪木さんのもどかしい思いを、たまたまジャストのタイミングで引き出して説明できたからなんですよ。

私がはじめて猪木事務所を訪ねた1995年の秋頃、猪木さんはまさに八方塞がりの状況にありました。猪木スキャンダルはうやむやのまま終結したものの、そのダメージが尾を引いて猪木さんは2期目の参院選に落選。やむなくプロレスに戻ってみれば、新日本のリング上の景色は一変していた。そのときの猪木さんの戸惑いや苛立ちや怒りを、私は自ら企画プロデュースした『闘魂転生』という一冊の本に込めて世に送り出したんです。そこから猪木さんの逆襲が始まったといっても過言ではなかったと思います。

そしておそらく、猪木さんはその本の取材の過程で、現役引退後の自分のヴィジョン、あるいはK-1やアルティメット等の新興格闘技の台頭に全く無防備な新日本プロレスへのメッセージ等々をその都度言語化する、いわゆる通訳のような役割を果たす人間が自分の周りにいないことを痛感したに違いありません。

とくにプロレス観の異なる若い選手たちに自分の考えるプロレスの流儀を言葉で伝えることは至難の業のようでした。長州体制になってから新日本の道場ではゴッチ流トレーニングやサブミッション中心のスパーリングは行われなくなっていましたから、猪木さんのいう「強くあれ」というプロレス哲学の根本からして理解させるのが困難になっていたんです。

そんな時期、私のいちばんのテーマはアントニオ猪木のプロレスを格闘技の視点から捉え直して再検証することにありました。2冊目に企画した『闘魂戦記』は、一昨年(2023年10月)、猪木さんの一周忌に上梓した『格闘家アントニオ猪木─ファイティングアーツを極めた男─』のプロトタイプとなった本です。

その取材で私は佐山さんとお会いできて、それから半年後、また別の企画で佐山さんと猪木さんの対談をセッティングさせていただいたわけですが、以降、お二人は再び急接近し、UFO設立へと話が進展していきました。猪木さんは佐山さんという頭脳を得たことによって、理想とするプロレス、あるいはプロレスと格闘技の融合というテーマを、ようやく大々的に打ち出すことができたんです。


「桜庭選手らがUインター道場で取り組んでいたサブミッションレスリングの練習というのは、要は昭和の新日本プロレス道場の延長線上にあるもの。それを軽視してしまったら、猪木イズムを軽視することになる」(ガンツさん)


──そうだったんですか。もし、それらがもう少し早く実現していたら、日本のプロレス界の情勢は変わっていたかもしれませんね。

ガンツさん ぼくは1990年代の新日本が隆盛だったことが結果的には仇となった気がしているんですよ。あと1995年からUWFインターナショナルとの対抗戦での成功体験もあって、それが慢心に繋がってしまったのかなと。90年代末から桜庭和志選手が総合格闘技で一気に台頭したじゃないですか。桜庭選手の強さは、アマチュアレスリングをベースにして、Uインターの道場でサブミッションを磨き、タイ人からムエタイを学び、出稽古に来た修斗のエンセン井上を通じていち早くブラジリアン柔術を知り、それを彼独特のセンスで融合させることができたからじゃないですか。でも、長州さんを筆頭に当時の新日本上層部の人たちは、Uインター道場で身につけたものは軽視して桜庭選手のアマチュアレスリングのキャリアだけを見て、桜庭選手よりアマレスではるかに実績がある石澤常光選手らが出れば簡単だと勘違いしてしまったんです。

木村さん その頃、新日本の永島(勝司)さんとよく会って話をしていたのですが、「ヒクソン? 中西(学)を出したら相手にならないよ」と本気で言ってました。

──永島さんらしいエピソードですね!

ガンツさん 桜庭選手らがUインター道場で取り組んでいたサブミッションレスリングの練習というのは、要は昭和の新日本プロレス道場の延長線上にあるもの。それを軽視してしまったら、猪木イズムを軽視することになる。90年代の新日本では、いわゆるセメントの練習の代わりに「俺たちはレスラーだからレスリングをやるんだ」とアマチュアレスリングの練習にはかなり取り組んでいたようですけど、総合格闘技に対する認識不足は否めませんでしたね。

木村さん たしか1998年頃だったと記憶してるんですが、出版プロデューサーの宮崎満教さんの計らいで、真樹日佐夫先生、佐山聡さん、グレートサスケ選手、四代目タイガーマスク選手との宴席があったんです。

そのとき、真樹先生が四代目タイガーに「総合格闘技のリングに上がれと言われたらどれくらいの練習期間が必要かね?」と質問したところ「もう完全にプロレスが体になじんでいるので、半年くらいは練習しないと怖くてリングに立てません」と答えていたのを憶えています。

──四代目タイガーは修斗の選手だったので総合格闘技へのアジャストの難しさをよく理解しているからそのようなアンサーになったのかなと感じました。

木村さん PRIDEで活躍していた頃の藤田和之選手に聞いた話でも、総合の練習をしようとすると「お前、プロレスが下手なんだから、プロレスの練習をしろ」と長州さんに怒られたという答えでしたから、それが当時の新日本プロレスの空気だったんですよ。


「IGF戦のカート・アングルVSブロック・レスナーは素晴らしかった。あれこそが猪木さんの見せたいプロレスだった」(木村さん)


──ありがとうございます。次の話題に移ります。2007年に猪木さんが旗揚げした団体IGFについて語っていただいてもよろしいですか。

ガンツさん 本当に不思議な団体ですよ。面白いのがIGFにはサイモン(サイモン・ケリー猪木)さんがいたじゃないですか。サイモンさんはWWEと仕事ができる人で、ちゃんとブロック・レスナーとカート・アングルを旗揚げ戦で呼んでいて、PRIDEが終わってMMAが日本で揺らいでいる頃に格闘技色を強く推し出しながら、WWWスーパースターも来るという不思議な団体ができたなと当時、感じてました。

──同感です!

ガンツさん 実際にIGFには元大相撲前頭の鈴川真一がいたのがすごく面白かったんです。地力はあるけどプロレスに染まっていなくて、MMA文脈から来ていない男がK-1ファイターや元PRIDE王者と闘うというプロレスと格闘技がいびつに融合したマッチメイクの結果、MMAともあの時代のプロレスとも違う面白いものが出ていた時期があったなと思います。

──確かにいびつでしたよね。

ガンツさん IGFではプロレスの試合だけじゃなく普通にMMAの試合も組まれていたので、総体的なコンセプトが固まってなかったんだろうなと。

──UFO以上に固まってなかったんでしょうね。

ガンツさん 各々が持ち場で頑張っているという感じでしたね。

木村さん 団体としてのコンセプト不在のまま動き始めてしまったんでしょうね。それでも、旗揚げ戦(2007年6月29日・両国国技館)のカート・アングルVSブロック・レスナーは素晴らしかった。あれこそが猪木さんの見せたいプロレスだったに違いありません。「こういうプロレスをやればWWEも格闘技にも負けないんだ」と。しかしながら、ああいう試合はアングルとレスナーだからやれたのであって……。

ガンツさん そうなんですよ。あの二人だからできたんですから。

──カート・アングルVSブロック・レスナーはWWE『レッスルマニア』のメインを取っている黄金カードです。

木村さん つまり、旗揚げ戦でいきなり最大の切り札を投入してしまった。私はIGFの旗揚げ前に猪木さんとは距離を置くようになっていたため、団体の内情はほとんど知らないのですが、おそらく中長期的な戦略はなかったんじゃないでしょうか。

ガンツさん いわゆる「営業」に近い感覚だったかもしれませんね。UFOとは違いますよ。

木村さん 場当たり的で、UFOのような理念はなかったと。



「IGFは客層も特殊で、週刊プロレスを読んでいるような現在進行形のプロレスファンとはまったく違う人たちが来られていた」(ガンツさん)

──でもIGFは10年くらい団体運営しているんですよね。

ガンツさん やっぱり猪木さんのパチンコ台が大当たりしたのが大きいですよ(笑)。

──ありましたね(笑)。そういえば一時期、IGFはK-1やMMAファイターの受け皿になっていた時期がありました。

ガンツさん PRIDEが崩壊した後の日本のMMA過渡期を支えたのが、じつはIGFかもしれないですね。

──IGFではジェロム・レ・バンナVS鈴川真一(2011年4月28日・TDCホール)は面白かったですよね。

ガンツさん あれはカテゴリーでいうとプロレスですけど、何が起こるか分からない危うさを内在しながら激闘を繰り広げたので面白かったです。IGFは客層も特殊で、週刊プロレスを読んでいるような現在進行形のプロレスファンとはまったく違う人たちが来られていたのも印象に残っています。


一時期、猪木さんの外部ブレーンだった木村さんの本音
「猪木さんが亡くなってから後悔ばかりしてました。どうしてもう一度会いに行かなかったのかと……。でも、今は会わなくてよかったと思ってます。おかげで猪木さんを思い出す度に脳裏に浮かぶのは、元気だった頃のあの太陽のような笑顔なんです」(木村さん)



──ありがとうございます。IGFが紆余曲折の末に活動停止となります。時代は平成から令和に変わります。晩年の猪木さんについて語っていただきたいです。

木村さん 話が前後しますが、以前、ジャスト日本さんのインタビューでも話した通り、私はあくまで猪木事務所と対等の立場の外部ブレーンであって、社員ではありませんでした。もともと私は猪木事務所の倍賞鉄夫社長とも、彼が新日本の役員時代にある件で揉めたことがあって決していい関係ではなかったんです。それでも、互いにビジネスはビジネスと割り切ってましたし、猪木事務所とは別の側近グループの方々やPRIDEの百瀬先生とも中立の立場で仕事をさせていただいていました。ちなみに猪木事務所と百瀬先生の関係も良好ではありませんでした。

ところが、2006年の1月、何の前触れもなくいきなり猪木事務所が解散になり、正直、私が依頼を受けて進めていたいくつかのプロジェクトが頓挫して実害を被ったんです。猪木事務所の解散についてはさまざまな憶測が流れましたが、私もいまだに何があったのかその真相はわかりません。

ただ一つはっきりしているのは、すべての揉め事は猪木さんの身内同士の派閥争いというか、アントニオ猪木の取り合いに端を発していたということ。私はそういう不信感が渦巻いている陰湿な状況にずっとうんざりしていて、一度、猪木さんを交えて異なる派閥の側近の方々が同席して食事をした際、「みんなで猪木さんを盛り立てていけばいいじゃないですか」と発言してその場の空気を凍らせたこともあったんです。というのも、そういう状況を作り出している張本人が猪木さんであることは明白でしたから、私、何も知らないような顔をしてわざとそう言ったんです。

猪木事務所の解散はその直後のことでした。あとから思い起こせば、猪木さんがそれらしきことをインタビューの中でも匂わせていたのですが、まさか、いきなり事務所を閉鎖してしまったのには仰天しました。突如、路頭に迷うことになったスタッフの混乱ぶりは見ていられませんでした。
私が猪木さんから距離を置く決心をしたのはその一件があったから。自分には何の関わりもない身内のゴタゴタに巻き込まれた怒りもありましたが、それよりも、こんなことがこれからも続いたら、いつか自分も猪木さんを憎んでしまう日が来るかもしれない──そう思ったら、もう堪えられなくなったんです……。

ところが、その少し後、猪木・アリ戦30周年を記念したイベントとして、モハメド・アリの娘のレイラ・アリと猪木さんの娘の寛子さんの異種格闘技戦行う計画があるという記事が東スポに出て、なんだこれは!?  と驚いていたら「猪木会長が会議に参加してほしいと言ってます。お願いできますか」いう連絡が元側近の方から入ったんです。
即座に私は「アリの娘と寛子さんの試合の件なら参加できません。もし猪木さんがそれを本気でやろうとしているのなら、猪木さんが御自身の歴史を否定することになります」と言ってお断りしました。

アリの娘は正真正銘プロボクサーですが寛子さんは格闘技経験ゼロのズブの素人。猪木・アリ戦に絡めた話題性のあるイベントを開催したいという目論見はもちろん理解できました。でも、そんなことを猪木さんがやってしまったら、これまでのアントニオ猪木の歴史がすべて嘘になってしまうと訴えて電話を切ったんです。それきり二度と連絡はなく、猪木さんと私の関係にはそこでピリオドが打たれました。
幸いなことにそのイベントが実現することはなく、どこかで軌道修正が行われたのでしょう、翌年にIGFが旗揚げされたんです。

──さまざまな葛藤があって、そのような結論になったんですね。

木村さん 本音を言えば、ずっと猪木さんに会いたいという思いは消えませんでした。どこへ行けば猪木さんに会えるのかも分かっていましたし、その場所は私が日課にしていた真夜中の散歩コースの途中にありましたから、その気になればいつでも行けたんです。
実際、入り口の階段の前で思案したことも一度や二度ではありませんでした。ですから、猪木さんが亡くなってから後悔ばかりしてました。どうしてもう一度会いに行かなかったのかと……。でも、今は会わなくてよかったと思ってます。おかげで猪木さんを思い出す度に脳裏に浮かぶのは、元気だった頃のあの太陽のような笑顔なんです。
長い話になってすみません。そういう訳ですので、私は令和のアントニオ猪木というテーマに関しては何も語ることができません。


猪木さんが亡くなる3カ月前にインタビューを敢行したガンツさんの告白
「猪木さんは取材を受ける際はきちんと髪の毛を整えてマフラーもしてズームの画面に登場してくれて、苦しくてもアントンスマイルは健在でした」(ガンツさん)



──お気持ちは分かります。

木村さん ガンツさんは最晩年の猪木さんに取材でお会いしてますよね。

ガンツさん 本当に晩年なんですよ。ギリギリ間に合った感じです。

木村さん インタビューされたのはいつ頃でしたか?

ガンツさん 猪木さんが亡くなる3カ月前です。その時期に2回やらせてもらっています。

──2022年にガンツさんが出された書籍『闘魂と王道 昭和プロレスの16年戦争』の冒頭に猪木さんのインタビューが掲載されています。このインタビューは晩年の猪木さんの声をきちんと届けてくれた素晴らしい内容で、これは後世に残るガンツさんの功績だと思っています。このインタビューが実現した経緯を教えていただいてもよろしいですか。

ガンツさん 猪木さんが亡くなる3カ月前だったので体調がかなり悪い状態でした。だから取材OKの返事はもらっていたんですけど取材日はなかなか決まらなくて、マネージャーの方に「明日の13時にリモートでならできそうです」って、急に言われたんですよ。間が悪いことにその時、僕は沖縄旅行の真っ最中(笑)。でも、ズームならできるだろうということで、ホテルの部屋のWi-Fi環境をちゃんとしっかり調べて臨みました。猪木さんは取材を受ける際はきちんと髪の毛を整えてマフラーもしてズームの画面に登場してくれて、苦しくてもアントンスマイルは健在でした。体調を考慮して時間は15分間と決められていたんですけど、インタビュー時間が15分を経過した時、猪木さんが「もう少しいけるよ」と言ってくださって、結局は予定の2倍の30分間やらせていただきました。

──このインタビューの中でも猪木語録は素晴らしくて、「力道山が死んだあと、芳の里さや遠藤幸吉さん、あるいは豊登さんなんかが日本プロレスを引き継いだわけだけど。あの人たちがやっていることと、俺が心の色鉛筆で描いたプロレスの方向性が逆だった」というコメントが誌的で猪木さんらしいなと感じたんです。

ガンツさん この時のインタビューはかなり大変でした。文字になっているからちゃんとインタビューとして読める内容になってますけど、「何を言っているのか」しっかり耳を澄まさないと聞き取れないほど猪木さんの状態が悪かったですから。

──必死になって猪木さんは想いを伝えようとしていたんでしょうね。それとガンツさんが「今も猪木さんの存在を心の糧や支えにしているプロレスファンに対してどんな思いがありますか?」とお聞きすると、猪木さんが「迷惑だ!」と言うんですよ(笑)。これがまた猪木さんらしくて。そのあとに「俺がここまでやってこれたのは、素直に『ファンのおかげ』『プロレスのおかげ』と言わなければいけないと思う。なかなか素直になれないんだけどね」と語るんです。


ガンツさん なかなか声を発するのも大変な中、大きな声で「迷惑だ!」って言ってました(笑)。

──2020年から猪木さんがYouTubeをされていて、亡くなる直前まで動画をアップされてましたが、私は『闘魂と王道』に掲載されているガンツさんのインタビューが猪木さんの最後の遺言だったと感じています。

ガンツさん タイミング的にそうなってしまったかもしれません。あとインタビューで猪木さんが「誰が後継者と考えたことはないけど、タイガーマスク(佐山聡)にはそれを期待したことがある」と仰っていて、猪木さんが亡くなった後に佐山さんに伝えると号泣されたんですよ…。そこに2人の本当の関係があったんだなと感じました。

木村さん 猪木さんと佐山さんの間には誰も入っていけない何かがあったんですよ。だから愛憎も深すぎた。返す返すも、UFOの失敗が残念でなりません。

ガンツさん 恐らく猪木さんが自分以外でプロレスの天才と感じたのは佐山さんだけだったんでしょうね。

木村さん 猪木さんが期待をかけていた他の選手は、いずれも猪木さんの求めるプロレスラーの条件を満たしていませんでした。強さとプロとしての華。それらを高い次元で兼ね備えていなければ、真のプロレスラーではないというのが猪木さんの信念でした。結局、それを体現できたのは初代タイガーマスクだけ。いや、猪木さんの期待を超えて見せた唯一のプロレスラーだったんですよ。


──猪木さんがいた時代に佐山さんがいるというのも奇跡のような話です。

木村さん アントニオ猪木がいなかったら自分はプロレスラーになっていなかったと佐山さんも言っていました。ということは、二人の出会いがなければタイガーマスクもUWFも出現せず、その後の佐山さんによる革新的な格闘技の実験が行われることもなかったわけです。そうなっていたら、プロレス界も格闘技界も今とはずいぶん違ったものになっていたでしょうね。


「自分の知る限りのアントニオ猪木の実像を、できるだけ多くの猪木ファンにシェアしていくことが自分に課せられた使命」(木村さん)


──ありがとうございます。では最後のお題に入ります。猪木さんが2022年10月1日に全身性トランスサイレチンアミロイドーシスによる心不全のため自宅で逝去されました。2025年10月で亡くなってから3年経ちました。改めて猪木さんへの想いを語ってください。

木村さん 先ほど話した通り、一時、私は猪木さんから遠くへ離れようとしていました。でも、そうすればするほど自分の進むべき道がわからなくなっていったんです。そして猪木さんが亡くなってから、自分の人生の大半がアントニオ猪木とずっと繋がっていて、それを切り離すことは不可能なのだということにはっきり気づいた。良くも悪くも、アントニオ猪木は自分にとってなくてはならない羅針盤だったんですね。

そんなことを考えながら鬱々としていた時、友人から「木村の中にはまだ誰にも伝えていないアントニオ猪木のいろんな記憶や情報が眠っているんだろ? それを墓場まで持ってくのか? お前も物書きならそれを世に出せ!」と発破をかけられてX(旧Twitter)を始めました。今は自分の知る限りのアントニオ猪木の実像を、できるだけ多くの猪木ファンにシェアしていくことが自分に課せられた使命だと思っています。

──素晴らしいです!

木村さん おそらく、もっとも猪木さんと1対1のインタビューを行った取材者は私だと自負しています。その過程で未整理のまま活字にしていない音声やビデオ画像などの素材もかなりあり、それらも原稿化した上で、これまで出版したインタビュー本に加筆して完全版アントニオ猪木インタビュー集として一冊にまとめる計画もあります。で、この場をお借りしてお知らせです。ぜひ、興味のある出版社の方、ご一報ください!
また、昨年の夏からターザン山本さんと『時計仕掛けの猪木論』という、こちらもおそらく世界でいちばんディープなアントニオ猪木について考える会を不定期に開催しています。そこでの発言も近々発信を開始するつもりです。

──猪木さんの語り部として木村さんが担う役割がかなり大きいと思いますよ。

木村さん 私はアントニオ猪木にまつわる誤解や偏見だらけの書籍やYouTube動画などが氾濫している現状、あるいは、やたらと賛美して神格化しようという流れには危機感を覚えています。したがって、可能な限り実像に近いアントニオ猪木を文書に残すことで、私としてはそれらの虚像の再生産に歯止めをかけたいと思っています。


「僕は佐山さんにWWEとUFC両方の殿堂入りをはたしてほしいんです。プロレスの天才で去り、競技スポーツとしての総合格闘技の創始者であり、若き日に猪木さんから精神的なバトンを受け継いでやってきたのが佐山さんの格闘人生だと思います」(ガンツさん)

──ありがとうございます。ではガンツさん、お願い致します。

ガンツさん 木村さんが言及されましたけど、特に2010年代前半から中盤にかけて現役のプロレスファンが猪木さんへの認識があまりにも欠けていて誤解していると感じてました。猪木さんが新日本オーナー時代に団体をめちゃくちゃにして、今の選手たちが立て直したという部分ばかりが語られる、その現象には違和感しかありませんでしたね。僕は2000年代に新日本が転落していったのは猪木さんがいてもいなくても、あのような状況になってたと思いますよ。猪木さんが加速させたかもしれませんが、猪木さんに全責任を負わせるのはおかしいことです。猪木さんが亡くなった後にみんなが声をあげて心の猪木像が語られるようになったのはすごくよかったですよ。

──同感です。

ガンツさん あとは世界的な評価として猪木さんがWWE殿堂入りを果たしましたが、僕は佐山さんにWWEとUFC両方の殿堂入りをはたしてほしいんです。プロレスの天才で去り、競技スポーツとしての総合格闘技の創始者であり、若き日に猪木さんから精神的なバトンを受け継いでやってきたのが佐山さんの格闘人生だと思います。「なぜ、日本のプロレスは独自に発展したのか」、「なぜプロレスから総合格闘技が生まれたのか」を考えると、猪木さんと佐山さんの功績は絶大です。そもそもプロレスラーとしての実績や影響度、プロMMAの成り立ちからして、WWEとUFCの殿堂入りが相応しいと思いますから。


──佐山さんは初代タイガーマスク時代にWWE(当時はWWF)に参戦歴はありますし、UFCには関わってませんが、オープンフィンガーグローブを導入して初期UFCでは野蛮な喧嘩と言われた世界を総合格闘技というファイトスポーツに進化させた佐山さんの功績はあまりにも大きいですよね。

ガンツさん MMAというスポーツを構築するために尽力したの功労者は佐山さんですから。プロレスと格闘技の双方の発展に寄与したのが猪木さんであり、佐山さんですよ。



──これで対談は以上となります。いかがでしたか?

木村さん ガンツさん、思った通り、いや、それ以上に真面目な方でした(笑)。

ガンツさん そうですか(笑)。

木村さん 真面目に丁寧にフェアな態度でアントニオ猪木を語れる人ってとても少ないんですよ。昔から猪木なら何を言ってもいいと面白おかしく茶化して語る風潮がある。私は昔からそれが嫌いなんです。

ガンツさん 「アントニオ猪木」というキャラクターとしてしかとらえてない人が、いがいと多いのかもしれませんね。

木村さん その通り! 現在、プロレスファンにもっとも発信力のあるガンツさんと意見が一致して安心しました。間違いなく、これで若い世代にも正統派ストロングスタイルの猪木論が伝わります! それを肌で感じることができて、私としては非常に有意義な対談でした。


ガンツさん 僕も勉強になりました。作家の村松友視さんが言っていた「プロレスは不真面目にも真面目にも観るものじゃなく、クソ真面目に観るもの」という姿勢に立ち返ってますね。

木村さん そう、とくにアントニオ猪木はクソ真面目に見続けないと。筋金入りの猪木マニアはいまやネットも駆使して膨大な情報を収集していますから、生半可な掘り下げ方じゃ到底納得してくれません。でも、アントニオ猪木VSビル・ロビンソンのビデオを30分の1秒ずつ、10万8000コマに分割して見た“変態”は世界でも私だけだという自信はあります(笑)。

ガンツさん ハハハ(笑)。

──私としては木村さんとガンツさんを何とかお繋ぎできればと思って今回の対談をセッティングさせていただきましたよ。

ガンツさん ありがとうございました。僕は猪木さんにインタビューしたは亡くなる前に数回やったのを合わせると5回くらいなんです。それで大丈夫かなと思ったんですけど、知識よりも思い入れの深さやプロレスとの向き合い方が一番大事だなと木村さんとの対談を通じて学ぶことができました。本当に心地よかったです!


──本当に意義深い対談でした。木村さん、ガンツさん、本当にありがとうございました。今後のお二人のご活躍とご健勝をお祈り申し上げます。

(プロレス人間交差点 木村光一☓堀江ガンツ 完/後編・終了)