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ジャスト日本のプロレス考察日誌

プロレスやエンタメ関係の記事を執筆しているライターのブログ

ジャスト日本です。


ヘルスケアWEBマガジン「lala a live」さんで新日本プロレス・棚橋弘至選手のインタビュー記事を執筆担当させていただきました。





前編:棚橋弘至「体の変化に合わせて戦い方を変えていく」プロレス界を盛り上げるためにも、自ら学び続ける 



後編:「150歳まで生きて筋トレしたい」新日本プロレスリング株式会社社長兼エース・棚橋弘至が語る健康と老後 


今回、棚橋弘至選手のインタビューが実現した経緯やインタビューの感想について綴りたいと思います。

  


きっかけは10ヶ月くらい前だったでしょうか。


以前、執筆させていただく機会がいただいた「ニューアキンドセンター」というウェブメディアでお世話になった塚田さんという編集者さんが辞められて別のメディアを立ち上げるという話を御本人からお聞きしました。


塚田さんが関わる新メディア「lala a live」さんがいよいよ始動する際に誰をインタビューしようかという話になり、私が提案したのが棚橋選手でした。去年の夏頃だったと思います。


理由はライターとしてやっていく中で媒体で「プロレス界のエース」棚橋選手のインタビューに携わることは大きな目標のひとつであり、悲願。


そもそも棚橋選手は私にとってプロレス界で数少ない頻繁に連絡を取り合う唯一の知り合いでした。


思えば約8年前。棚橋選手が自身のブログで私が以前書いたブログ記事を紹介したのがすべてのきっかけであり、はじまりでした。


グラスニ個 



そこからX(旧Twitter)で相互フォローになってからの話はこちらの記事でまとめていますので、チェックしていただければありがたいです。



プロレス愛に満ちたアプローチ~棚橋弘至選手の全力プロモーション~ 


コロナ禍になっても、コロナが明けても私と棚橋選手は他愛のない会話をXでしていました。


「お疲れ様です!今日の試合、素晴らしかったですよ!」

「ありがとう!嬉しいよ!」


こんな感じのやりとりがメイン。ネガティブな会話はほとんどしませんでした。あとたまにプロレスマニアトークで盛り上がることもあります。とにかくポジティブなやり取りが多く、いつもこんな自分に関わっていただき恐悦至極と思いながら感謝の気持ちでいっぱいになるのです。やり取りをするようになってからより棚橋選手をリスペクトようになりましたし、親近感も増していきました。


そんな棚橋選手のインタビューをいつか自分の実力をつけてから実現させたいという想いは日に日に強くなりました。


電子書籍、単行本だけではなく、東洋経済オンラインさん、日刊SPAさんといったネット媒体での執筆も経験しました。今こそ棚橋選手のインタビューを世間に届けたい!!しかもきちんとポジティブな形で。


ところが思わぬ展開が待っていました。なんと媒体ではなく、私のブログで棚橋選手が対談に登場するという緊急事態が発生します。 


その経緯はこちらのnoteをご覧いただければ分かると思います。


「昔もいまもプロレスは面白えよ!」 


木村光一さんとの対談のきっかけも棚橋選手とのやり取りでした。


そして棚橋選手の対談記事が私のブログで公開され、大きな反響を呼びました。


【プロレス界のエースとアントニオ猪木を追い求めた孤高の闘魂作家による対談という名のシングルマッチ!】


プロレス人間交差点 棚橋弘至☓木村光一 


前編「逸材VS闘魂作家」  



後編「神の悪戯」 



でも私の本命は「lala a live」さんでの棚橋選手のインタビュー。健康メディアということを加味してテーマは「棚橋弘至選手の健康管理」ということで決定。池田園子さんの編集プロダクション「プレスラボ」さんご協力の元、編集者の野村さんが奔走してくださり棚橋選手のインタビューが実現しました。それが去年12月中旬です。実は棚橋選手が新日本社長になる数日前でした。


インタビューは70分くらいだったと思います。実に面白い現場でした。棚橋選手の面白い発言も次々と飛び出しました。あとインタビューの中で私と棚橋選手だからこその会話もありました。そのやり取りを堪能していただければありがたいです。プロレスとは無縁の健康メディアで、リッキー・スティムボートのアームドラッグで盛り上がるのですから(笑)


それから年齢とキャリアを重ねる中での棚橋選手の試合スタイルやトレーニング体調や古傷のヒザについても深堀りしています。さらにセカンドキャリアや老後についてもお聞きしています。



塚田さん、プレスラボの野村さんの素晴らしい編集もあり、興味深い記事に仕上がったと思います!


このインタビュー、私と「lala a live」さん、プレスラボさん、3者の自信作です。是非多くの皆さんにご覧いただければありがたいです!



今から10年前。「岩下の新生姜」の社長は、新生姜とつぶやいた投稿は必ずリツイートするという噂を聞き、確認したくてプロレス好きの田舎のド素人が始めたX(旧Twitter)。棚橋選手は早々にフォローさせていただきました。Xでつぶやいた投稿をまとめるためにブログを開設したもの10年前でした。まだあの時はライターでも、何者でもありませんでした。



あれから10年。媒体でプロレス界のエースと呼ばれる棚橋弘至選手のインタビューを担当することになるとは…。人生は不思議なものですね。実力ではなく、たまたまで、運によるものだと重々承知していますが、やはり感慨深いものがあります。


約8年前。棚橋選手が自身のブログで僕の記事を紹介してくださったのがすべてのきっかけでした。僕にとって棚橋選手は恩人であり、立場は違いますがプロレスを愛する心の同志だと思っています。


思えば棚橋選手には何度か「いつか棚橋選手にインタビューする場にたどり着きます」と言っていたことがあります。簡単にその目標が叶うとは到底思っていませんでした。一歩一歩階段を登るように実績を積み重ね、ようやく…あなたにたどり着きました。素晴らしい思い出になりました。


でもこれはひとつのゴールであり、新たなスタートなのかもしれません。


これからもライターの私とプロレスラーの棚橋選手はプロレス全力プロモーションしていく日々を生きていくのですから。


棚橋弘至選手、新日本プロレスさん、塚田さんを始めとした「lala a live」さん、プレスラボの編集者・野村さん、本当にありがとうございました。











恒例企画「プロレス本を読んで感じたおすすめポイント10コ」シリーズ。今回が65回目です。このシリーズはライターの池田園子さんが以前、「旅とプロレス 小倉でしてきた活動10コ」という記事を書かれていまして、池田さんがこの記事の書き方の参考にしたのがはあちゅうさんの「旅で私がした10のことシリーズ」という記事。つまり、このシリーズはサンプリングのサンプリング。私がおすすめプロレス本を読んで感じたおすすめポイント10コをご紹介したいと思います。


さて今回、皆さんにご紹介するプロレス本はこちらです。






【書籍内容】
かゆい所に手が届く猪木ヒストリーの決定版!
日本プロレス時代から新日本プロレス時代まで、不世出のプロレスラー・アントニオ猪木の戦い、一挙一動を超マニアックな視点で詳しく追う。プロレス史研究の第一人者である筆者が猪木について書き下ろす渾身の書。
第3巻には、ザ・モンスターマンと異種格闘技戦史上に残る死闘を繰り広げた1977年(昭和52年)から、80年代の新日本プロレス・ブーム、愛弟子たちとの世代対決を経て、政界進出を果たした1989年(平成元年)までを掲載。

【目次】
1977年(昭和52年)
猪木が即答で選んだ「我が心の名勝負・モンスターマン戦」
1978年(昭和53年)
バックランドと世代闘争、地獄のヨーロッパ初遠征
1979年(昭和54年)
プロレスラーとして絶頂を極めた「栄光の1970年代」に幕
1980年(昭和55年)
波乱万丈の猪木にとっては珍しい「凪(なぎ)」の1年
1981年(昭和56年)
輝けるNWF王者時代の終焉~猪木の転換点
1982年(昭和57年)
病気・ケガとの戦い…ささやかれ始めた「猪木限界説」
1983年(昭和58年)
失神、タイガー引退、クーデター…
ブームの頂点から一転、スキャンダルまみれに
1984年(昭和59年)
名勝負、暴動事件、選手大量離脱事件…さまざまな猪木らしさを発揮!?
1985年(昭和60年)
ブロディの出現で、衰えかけた闘魂が蘇生!
1986年(昭和61年)
UWFと丁々発止の駆け引きを繰り広げる
1987年(昭和62年)
暴動に始まり暴動に終わる。スキャンダルに明け暮れた1年
1988年(昭和63年)
藤波と生涯最後の60分フルタイム戦!
ソ連をプロレスに引き込むことに成功
1989年(昭和64年・平成元年)
ソ連、東京ドーム、国会議員…誰も足を踏み入れたことがない新天地を目指す


著者
流智美(ながれ・ともみ)
1957年11月16日、茨城県水戸市出身。80年、一橋大学経済学部卒。大学在学中にプロレス評論家の草分け、田鶴浜弘に弟子入りし、洋書翻訳の手伝いをしながら世界プロレス史の基本を習得。81年4月からベースボール・マガジン社のプロレス雑誌(『月刊プロレス』、『デラックス・プロレス』、『プロレス・アルバム』)にフリーライターとしてデビュー。以降、定期連載を持ちながらレトロ・プロレス関係のビデオ、DVDボックス監修&ナビゲーター、テレビ解説者、各種トークショー司会などで幅広く活躍。


今回は2023年にベースボールマガジン社さんから発売されました流智美さんの猪木戦記 第3巻 不滅の闘魂編』を紹介させていただきます。

流さんによるアントニオ猪木ヒストリー三部作、今回が最終章。過去の2作品もレビューさせていただきました。





流さんによるかゆい所に手が届く猪木ヒストリー最終章はザ・モンスターマンと異種格闘技戦史上に残る死闘を繰り広げた1977年(昭和52年)から、80年代の新日本プロレス・ブーム、愛弟子たちとの世代対決を経て、政界進出を果たした1989年(平成元年)までを掲載しています。今回も面白いです!そしてなぜ猪木さんが引退試合を行った1998年まで掲載していないのか?そこには流さんなりのこだわりがありました。

今回は『猪木戦記 第3巻 不滅の闘魂編』の魅力をプレゼンしていきたいと思います!


よろしくお願い致します!



★1.伝説の異種格闘技戦 アントニオ猪木VSザ・モンスターマン戦
【1977年(昭和52年)猪木が即答で選んだ「我が心の名勝負・モンスターマン戦」&1978年(昭和53年)バックランドと世代闘争、地獄のヨーロッパ初遠征】


猪木さんにとって異種格闘技戦の名勝負となると、モハメド・アリ戦以外だとアメリカプロ空手の猛者モンスターマンとの一戦が真っ先に浮かぶようです。
 
猪木VSモンスターマン実現の経緯、詳細な試合レポートについて流さんが細かくまとめています。これは必見です!!

ちなみに流さんはこの一線について記した一文「極端な史観かもしれないが、『グラップラー(組み技系格闘技選手)』と『ストライカー(打撃系格闘技選手)』のミックストマッチが成立(成功)し、『十分ビジネスとなる可能性を証明した』という点では1993年にアメリカで始まったUFC(アルティメット・ファイティング・チャンピオンシップ)の原型、あるいは現在のMMA(総合格闘技)の雛形と言っても過言ではなく、まさに歴史的一戦だったと思う」は同感です!





★2.ジャック・ブリスコ戦後の札束バラマキ事件
【1979年(昭和54年)プロレスラーとして絶頂を極めた「栄光の1970年代」に幕】


1979年の猪木さんヒストリーを読んで興味深かったのは、1979年5月10日福岡スポーツセンターで行われたジャック・ブリスコとのNWFヘビー級選手権試合。

この試合はブリスコの提案で1万ドル(当時の約200万円)が賭けられていたが、試合後猪木さんがリング上で手渡された札束をリング上に放り投げるパフォーマンスを展開。60万円分の1000円札がリングサイドのファンに手に渡ってしまったという。

猪木札束バラマキ事件に、怒っていたのが対戦相手のブリスコだけじゃなくて、スタン・ハンセンも怒っていたという。ハンセン曰く「団体のリーダーである彼が、なぜ、あのような馬鹿げた行動に出られたのだろうか?ニュージャパンにいた時代に、イノキに対する信頼が一気に崩れたとすれば、あのときだった」とのこと。

流さんは「何でもかんでも猪木さんがやったことを肯定する気にはなれない。あれはハンセン、ブリスコのみならず、自分の抱えていたレスラー、関係者、スタッフ一同に莫大なる不信感を与えた『経営者として最悪の衝動的ミステーク』だったと思う」と批判しています。

なぜあの時、猪木さんは札束をリング上でバラまいたのか?謎です。


★3.ハルク・ホーガンとポール・オーンドーフ
【1980年(昭和55年)波乱万丈の猪木にとっては珍しい「凪(なぎ)」の1年&1981年(昭和56年)輝けるNWF王者時代の終焉~猪木の転換点】

1980年の秋シリーズ。外国人レスラーの中に後に世界プロレス界のスーパースターとなるハルク・ホーガンと、WWFでホーガンのライバルとなるも日本での評価は芳しいポール・オーンドーフが猪木さんとシングルマッチで対戦している。

10月30日熊本大会で猪木VSオーンドーフが実現。11月3日蔵前国技館大会では猪木VSホーガンが実現。ふたりとも猪木さんに敗れるも扱い方は全然違ったそうです。

オーンドーフはアマレスの実力もあり、ルックスも筋骨隆々の肉体も素晴らしいプロレスラーだったが、どうも新日本では実力を発揮することはなく、「早い段階で将来のエースとなれる外国人レスラーの芽を摘む」犠牲者となったのかもしれません。対する巨体が売りで発展途上のホーガンに猪木さんは「うまく育てれば、大変な大物になるかもしれない」という確信があったとも流さんは綴っています。

その独特の感性もまた猪木さんらしさかもしれません。



 
★4.右膝半月板手術、糖尿病…コンディション不良に悩む闘魂に流さんは「猪木さんの裸を見るのが怖い」
【1982年(昭和57年)病気・ケガとの戦い…ささやかれ始めた「猪木限界説」&1983年(昭和58年)失神、タイガー引退、クーデター…ブームの頂点から一転、スキャンダルまみれに】

1982年。39歳になった猪木さんには両膝の負傷、糖尿病とコンディション不良に悩まされ、リングに上がっても精彩を欠く試合も続出します。試合を欠場して背広姿で放送席に座って解説する猪木さんの姿はやや上半身が萎んだ印象を受けた流さんは「裸を見るのが怖い」と感じていたそうです。

猪木さんの全盛期を少年時代に見届けた流さん。この頃になると大学を卒業して社会人となっていました。大人になるとそこには全盛期を過ぎた猪木さんがいたわけです。尊敬するカリスマ・猪木さんの衰え、限界を流さんは複雑な胸中で見届けていたのかもしれません。

さらに1983年には猪木舌出し事件、タイガーマスク引退、クーデターなど負の連鎖が相次ぐことにより、猪木さんの奇跡のような神通力や実力も限界に近づいていたのでしょうか。





★5.新日本正規軍VS維新軍 5対5勝ち抜き戦
1984年(昭和59年)名勝負、暴動事件、選手大量離脱事件…さまざまな猪木らしさを発揮!?】

暴動事件、選手大量離脱など事件が相次いだ1984年において大ヒットとなったのが1984年4月19日蔵前国技館で行われた新日本正規軍VS維新軍の5対5の勝ち抜き戦。これは名勝負でした!

流さんの筆も心地よくて、猪木VS長州の大将戦での猪木さん勝利に「久々に快心の勝利」と評したのは納得です!

ただし第2回IWGP優勝は、暴動事件に発展するほど茶番となり、猪木さんの優勝は誰にも祝福されませんでした。

ちなみに木村光一さんが以前おすすめしていたアントニオ猪木&藤波辰巳VSディック・マードック&アドリアン・アドレスについて流さんは「猪木、藤波組で戦ったタッグマッチの歴代ベストバウト」 絶賛していました。

そして激動の1984年を締めくくる写真として掲載されていたのが社員の慰安旅行で上半身裸ではしゃぐ猪木さん。団体がピンチでも限界説が流れても笑顔をキープしていたのがまた猪木さんらしいです。






★6. ディック・マードック戦のジャーマン・スープレックス・ホールド
【1985年(昭和60年)ブロディの出現で、衰えかけた闘魂が蘇生!&1986年(昭和61年)
UWFと丁々発止の駆け引きを繰り広げる】


「超獣」ブルーザー・ブロディの移籍、猪木VS藤波の名勝負、UWF来襲など団体のピンチでも神風が吹く新日本と猪木さんですが、1986年6月19日・両国国技館でのディック・マードック戦(IWGP決勝戦)は「猪木史上、最悪の春の本場所決勝戦だった」と酷評。フィニッシュ直前に放ったジャーマン・スープレックス・ホールドのブリッジが「グニャリ」と崩れた場面には流さんは「強靭なブリッジワークに裏打ちされた必殺技は、これ以上望むべくもない感じだった」と綴っています。

大の猪木ファンである流さんだが、きちんと忖度無しで猪木さんを是々非々で評している姿勢は素晴らしく、また当時の猪木さんに流さんが一喜一憂しながら、時には絶賛して、時には失望するという感情のゆらぎがあったのだなと感じました。




★7.流さんの猪木さんへのゆらぎ、さらに激しく…。
【1987年(昭和62年)暴動に始まり暴動に終わる。スキャンダルに明け暮れた1年】

暴動に始まり、暴動に終わるとんでもない悪夢の一年となった1987年。流さんの筆も舌鋒鋭くなり、猪木さんへの失望が表面化しています。

「(アントニオ猪木VSマサ斎藤)両国でリング・ロープを外し、自らの手首と斎藤の手首を手錠で繋いで狂乱ファイトを繰り広げた『デスマッチまがい』の試合には、ただただ焦燥感しか漂っていなかった」
「(アントニオ猪木VSマサ斎藤の巌流島決戦)16年間連れ添った美津子夫人との破局を忘れるための自暴自棄な戦いではあったが、これに『付き合った』マサ斎藤の男気も筆舌に尽くしがたい。(中略)正直、個人的には嫌いな試合であるが、『どんな方法を用いても、世間の注目を集めてやる。まだまだ藤波や長州に主役を取られてなるものか』という猪木の『ギラギラ部分』が健在だったことについてのみ、チョッピリ嬉しかった」

そして1987年12月27日両国国技館の暴動事件に関しては呆れ果てた流さんが妙に淡々と綴っていたのが、静かなる怒りを感じてしまいました…。

猪木さんに愛するが故に、愛で猪木さんに殺す!ということなのでしょうか…。

★8.  写真で語れ!映像で感じろ!藤波VS猪木!!
【1988年(昭和63年)藤波と生涯最後の60分フルタイム戦!ソ連をプロレスに引き込むことに成功】


昭和新日本最後の名勝負といえば藤波辰巳VSアントニオ猪木のIWGPヘビー級選手権試合。ここで流さんが詳細に書くのかと思いきや、案外あっさり書いています。実は流さんの文章よりも4ページに渡り藤波VS猪木の攻防が写真として掲載されています。これは流さんによる「藤波VS猪木は、俺の文章より、写真と感じて、映像を見てほしい!!」というメッセージなのかなと勝手に感じました。



★9.チョチョシビリ戦後、政界進出!!
【1989年(昭和64年・平成元年)ソ連、東京ドーム、国会議員…誰も足を踏み入れたことがない新天地を目指す】


猪木さんは1989年5月31日大阪城ホール大会で、プロレス界初の東京ドーム大会で敗れたショータ・チョチョシビリとのリターンマッチに勝利。新日本社長を辞任、参議院選挙に出馬して当選を果たして日本プロレス史上初の「プロレスラー国会議員」となりました。 

流さんはこの事実を受け止めて「日本のプロレス史上初の『プロレスラー国会議員』が誕生し、猪木は29年の長きに亘るプロレスラー人生に(ひとまず)区切りをつけた」と綴っています。

全盛の1970年代を経て、黄昏の1980年代の猪木さんに対する流さんの心象描写が自身の手で冷徹に文章表現されていて、この第三巻、めちゃくちゃ面白いんです!あと毒の使い方が流さん、抜群にうまく、後味がいい。SNSで散見する多くのディスや毒には読む価値があるのか。自己満足に過ぎないものも多い。


それに比べて流さんの皮肉、毒はレベルが違うのです。ちゃんと品もあって、読み心地がいい。これは長年、多くの書籍に携わってきて、流さんの人間力と経験値がなせる業かもしれません。

★10.そもそも◯も☓もなかった
【あとがき】



あとがきには、流さんはこの『猪木戦記』が1989年7月の「参議院当選」で終わったのかについて説明しています。流さんからすると1989年5月のショータ・チョチョシビリ戦が現役バリバリのプロレスラー・アントニオ猪木のラストマッチで、国会議員になった猪木さんはレスラー・アントニオ猪木ではないという想いがあったようです。

だから1990年代の猪木さんの試合はあくまでも本戦ではなく、延長戦なのだという考えがあるのかもしれません。

それでも流さんは1990年代の猪木さんについて簡潔に年表でまとめています。

ここからあとがきは流さんと猪木さんが接近したエピソードがかなり披露されています。これは面白いです!!

猪木さんを尊敬し、愛したひとりのプロレス少年がやがて大人になり、衰えていく猪木さんの姿、スキャンダルな仕掛けと事件に失望していきます。直接この本では「猪木さんに失望した」とは書いていないものの、1980年代中盤から後半に関しては論調は明らかに怒りと悲しみが目立ちました。しかし、正直に吐露した流さんの姿勢は素晴らしく、さらにリスペクトしました。

それでも流さんは猪木さんが好きで、色々あっても嫌いにはなれなかったのだと思います。だからこそ数多くの猪木さんのイベントや仕事に関わってきて、猪木さんの語り部であり続けたのではないでしょうか。

猪木さんが亡くなった2023年の年末にBS朝日で送された『ワールドプロレスリングリターンズ アントニオ猪木追悼3時間スペシャル』を監修したのは流さんでした。猪木さんへの郷愁、猪木さんへのリスペクト、猪木さんの歴史を3時間という制限時間内で伝えたいという想いが詰まった素晴らしい番組でした。

流さんはあとがきの中でこのように綴っています。

「半世紀近くプロレスの文章を書いてお金をいただいてきた私としては、『アントニオ猪木を後世に語り継ぐための手引き』くらいは残さないと、やっぱり悔いが残る。この『猪木戦記』シリーズはその『手引き』であり、私個人にとっては『猪木さんを見続けたあの日、あの時の答え合わせ』というテーマを念頭に置いて粛々と書き進めた。『答え合わせ』の結果が◯だったのか、☓だったのか。今となってはどうでもいいことかもしれない。アントニオ猪木という難解な、ぶ厚い問題集の解答欄には、『そもそも◯も☓もなかった』というのが、書き終わった今の結論である」 


もしこの深い愛に満ちた流さんの一文を天国の猪木さんがご覧になったら、おそらくいつも100万ドルの笑顔で、「ウフフ」と微笑んでいるのかもしれません。



 

 

素晴らしい本です!!!是非ご覧ください!



そして、なんとこの『猪木戦記』シリーズ、第0巻が製作中とのこと。プロレスラーとしてデビューした1960年から23歳の若さで東京プロレスを旗揚げして苦戦した1967年までの歴史をまとめた『猪木戦記 第0巻 立志編』、とても気になります!!


ジャスト日本です。



「人間は考える葦(あし)である」



これは17世紀 フランスの哲学者・パスカルが遺した言葉です。 人間は、大きな宇宙から見たら1本の葦のようにか細く、少しの風にも簡単になびく弱いものですが、ただそれは「思考する」ことが出来る存在であり、偉大であるということを意味した言葉です。


プロレスについて考える葦は、葦の数だけ多種多様にタイプが違うもの。考える葦であるプロレス好きの皆さんがクロストークする場を私は立ち上げました。



さまざまなジャンルで活躍するプロレスを愛するゲストが集まり言葉のキャッチボールを展開し、それぞれ違う人生を歩んできた者たちがプロレス論とプロレスへの想いを熱く語る対談…それが「プロレス人間交差点」です。

 
 
 

 

前回は新日本プロレスの棚橋弘至選手と作家・木村光一さんの「対談という名のシングルマッチ」をお送りしました。


プロレス人間交差点 棚橋弘至☓木村光一 


前編「逸材VS闘魂作家」  

後編「神の悪戯」 

 

第二弾となる今回は作家・木村光一さんとスポーツ報知の加藤弘士さんによる刺激的激論対談をお送りします。

 

 

 

 

 

(この写真は御本人提供です)

 

 

木村光一

1962年、福島県生まれ。東京造形大学デザイン学科映像専攻卒。広告企画制作会社勤務(デザイナー、プランナー、プロデューサー)を経て、'95年、書籍『闘魂転生〜激白 裏猪木史の真実』(KKベストセラーズ)企画を機に編集者・ライターへ転身。'98〜'00年、ルー出版、いれぶん出版編集長就任。プロレス、格闘技、芸能に関する多数の書籍・写真集の出版に携わる一方、猪木事務所のブレーンとしてU.F.O.(世界格闘技連盟)旗揚げにも協力。

企画・編著書に『闘魂戦記〜格闘家・猪木の真実』(KKベストセラーズ)、『アントニオ猪木の証明』(アートン)、『INOKI ROCK』(百瀬博教、村松友視、堀口マモル、木村光一共著/ソニーマガジンズ)、『INOKI アントニオ猪木引退記念公式写真集』(原悦生・全撮/ルー出版)、『ファイター 藤田和之自伝』(藤田和之・木村光一共著/文春ネスコ)、Numberにて連載された小説『ふたりのジョー』(梶原一騎・真樹日佐夫 原案、木村光一著/文春ネスコ)等がある

 

木村光一さんによる渾身の新作『格闘家 アントニオ猪木』(金風舎)が発売中!

 

格闘家 アントニオ猪木【木村光一/金風舎】

 

 

 

 

 

YouTubeチャンネル「男のロマンLIVE」木村光一さんとTERUさんの特別対談

 

https://youtu.be/XYMTUqLqK0U 

 

 

 

https://youtu.be/FLjGlvy_jes 

 

 

 

https://youtu.be/YRr2NkgiZZY 

 

 

 

https://youtu.be/Xro0-P4BVC8 

 

 

 



(この写真は御本人提供です)

 

加藤弘士(かとう・ひろし)1974年4月7日、茨城県水戸市生まれ。茨城中、水戸一高、慶應義塾大学法学部法律学科を卒業後、1997年に報知新聞社入社。6年間の広告営業を経て、2003年からアマチュア野球担当としてシダックス監督時代の野村克也氏を取材。2009年にはプロ野球楽天担当として再度、野村氏を取材。その後、アマチュア野球キャップ、巨人、西武などの担当記者、野球デスク、デジタル編集デスクを経て、現在はスポーツ報知編集委員として、再びアマチュア野球の現場で取材活動を展開している。スポーツ報知公式YouTube「報知プロ野球チャンネル」のメインMCも務める。


(画像は本人提供です)

『砂まみれの名将』(新潮社) 阪神の指揮官を退いた後、野村克也にはほとんど触れられていない「空白の3年間」があった。シダックス監督への転身、都市対抗野球での快進撃、「人生最大の後悔」と嘆いた采配ミス、球界再編の舞台裏、そして「あの頃が一番楽しかった」と語る理由。当時の番記者が関係者の証言を集め、プロ復帰までの日々に迫るノンフィクション。現在6刷とヒット中。




今回の対談のテーマは「アントニオ猪木を語り継ごう!」です。

2022年に逝去されたプロレス界のスーパースター「燃える闘魂」アントニオ猪木さんについて、数々の猪木本や昨年『格闘家 アントニオ猪木』(金風舎)が発売になり話題を呼んだ「孤高の闘魂作家」木村光一さんと、大ヒット野球ノンフィクション『砂まみれの名将』(新潮社)の著者で、猪木さんを愛するプロレスファンである「活字野球の仕事師」加藤弘士さんに、大いに語っていただける場をご用意しました。

 

 

木村さんと加藤さんの対談は、こちらの5つのテーマに絞って行いました。ちなみに私は進行役としてこの対談に立ち会いました。

 

1.アントニオ猪木さんの凄さとは?

2.アントニオ猪木さんの好きな技

3.アントニオ猪木さんのライバルとは?

4.アントニオ猪木さんの好きな名勝負

5.アントニオ猪木さんとは何者だったのか?

 

 

アントニオ猪木とは何か? 

その答えのヒントになる対談、是非ご覧下さい!



プロレス人間交差点 木村光一☓加藤弘士〜アントニオ猪木を語り継ごう!〜 前編「偉大な盗人」 




プロレス人間交差点 

「孤高の闘魂作家」木村光一☓「活字野球の仕事師」加藤弘士

〜アントニオ猪木を語り継ごう!〜

後編「闘魂連鎖」








猪木さんの好きな技とは?

「猪木さんのジャーマンは本当に美しくて、カール・ゴッチの流れを継ぐ大変誇りに満ちた芸術」(加藤さん)

「リバース・インディアン・デスロックは格闘家としてのアントニオ猪木とプロレスラー猪木が矛盾なく融合している」(木村さん)



──ここでお二人にはアントニオ猪木さんの好きな技について語っていただいてもよろしいでしょうか。まずは加藤さんからお願い致します。


加藤さん  二つあります。ひとつはジャーマン・スープレックス・ホールドです。ジャーマンはプロレスラーにとっての美しさの象徴であり、技使いの基準の一つとして考えています。猪木さんのジャーマンは本当に美しくて、カール・ゴッチの流れを継ぐ大変誇りに満ちた芸術ですよね。しかも滅多に出さないところも含めて大好物でした。


──猪木さんのジャーマンは多くの名勝負でフィニッシャーとなった芸術品ですよね。


加藤さん  そうですね。もう一つはリバース・インディアン・デスロックですね。見栄の切り方がたまらないんですよ(笑)。小学生の時に勝田市総合体育館で猪木さんのリバース・インディアン・デスロックを生で見たことがあって、足を固めてから「みんな俺を見ろ!」とお客さんを煽ってから後ろに倒れるじゃないですか。あれは痺れましたよ。会場のみんなが猪木さんの虜にさせるような僕の好きな技ですね。


──ちなみに猪木さんのジャーマンで印象に残っている試合はありますか?


加藤さん リアルタイムでは体感できませんでしたが、1974年3月19日、蔵前国技館でのストロング小林戦でフィニッシュホールドになったジャーマンは別格でしょう。勢い余って両足が宙に浮くシーンがたまりません。今でこそビデオで何度も見直せますが、当時は生観戦かテレビ中継における「聖なる一回性」だったことを考えると、名勝負として語り継がれるのは結びの芸術性と気迫…まさに「燃える闘魂」の象徴としてのジャーマンだったと言えるんじゃないでしょうか。見た者の人生を狂わせたジャーマンですよ。


──ありがとうございます。では木村さん、お願い致します。


木村さん 私が大好きな猪木さんの技も加藤さんと同じくリバース・インディアン・デスロックなんですよ。この技は格闘家としてのアントニオ猪木とプロレスラー猪木が矛盾なく融合している。というのも、相手を完全に制圧して反撃できない状態にした上で、そこではじめて猪木さんは観客に向けてたっぷりと間をとって見栄を切っていたわけです。パフォーマンスのタイミング的にも合理的で嘘がない。だから見ている側もあの瞬間は猪木の表情や身のこなしに全集中できるんだと思います。もちろん卍固めもコブラツイストも素晴らしいです。特にコブラツイストは、近年になって格闘技の技術として注目を集めていますが、私にとって千両役者アントニオ猪木の華をもっとも堪能できる技はなんといってもリバース・インディアン・デスロックなんです。


加藤さん ここで一致して嬉しいです(笑)。木村さんにお聞きしたいのですが、グラウンド・コブラあるじゃないですか。確か長州力戦の決まり手になりましたよね。


木村さん 長州選手のリキ・ラリアットをかわしてコブラツイストからのグラウンド・コブラで3カウントというフィニッシュでした。




──1984年8月2日・蔵前国技館での一騎打ちでした。


加藤さん このグラウンド・コブラがずっと気になっている技で、引退が近くなっていく晩年の猪木さんがウィリー・ウィリアムス戦、ドン・フライとの引退試合で、グラウンドコブラを用いてギブアップ勝ちしているじゃないですか。なぜ猪木さんが晩年になってグラウンドコブラを使うようになったと思われますか?


木村さん 私が初めて猪木さんのグラウンドコブラを見たのはモンスターマンとの再戦(1978年6月7日・福岡スポーツセンター/格闘技世界一決定戦)だったと記憶しています。あの時のグラウンドコブラは相手がレスラー体型でないせいなのかプロレス技とは違う形に決まった感じがしてとくに印象に残ったんです。が、猪木さんは1978年のモンスターマンとの異種格闘技戦でこの技をフィニッシュにして以来、1984年の長州戦までこの技は使っていなかったようにも記憶してます。


加藤さん 僕は1981年から『ワールドプロレスリング』を毎週見てますけど、猪木さんは長州戦で披露するまで多分グラウンドコブラを使ってないですね。



「グラウンドコブラは数千年前からレスリング、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンにある重要な技の一つだそうです。第二次UWFのロゴマークがあるじゃないですか。Wのアルファベットの下にあるレスリングのシルエットは、ここからグラウンドコブラに移行する体勢だそうです」(木村さん)



──猪木さん以外だと藤波選手がグラウンドコブラでピンフォールを取っている試合が多かったと思います。


木村さん グラウンドコブラはピンフォールも取れますけど、柔術関係者に聞いた話ですが、頚椎にダメージを与えるかなり危険な技らしいんですよ。


加藤さん ツイスターというんですよね。


──エディ・ブラボーという道着を着用しないグラップリングの世界で活躍したアメリカの柔術家がいまして、彼がグラップリングの試合でツイスターという名称でグラウンドコブラを持ち込んだんですよ。


木村さん 宮戸優光さんから伺ったのですが、グラウンドコブラは数千年前からレスリング、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンにある重要な技の一つだそうです。第二次UWFのロゴマークがあるじゃないですか。Wのアルファベットの下にあるレスリングのシルエットは、ここからグラウンドコブラに移行する体勢だそうです。


──えええ!そうなんですね!ビックリしました。


木村さん で、加藤さんの「なぜ猪木さんがレスラー生活の最晩年になってグラウンドコブラを使うようになったか」という質問の答えがまさにそれだったんです。


──どういうことですか? もう少し詳しく聞かせてください。


木村さん シューティング(修斗)を主宰していた頃の佐山聡さんに「格闘技でも使えるプロレス技はあるんですか?」と質問したことがあったのですが、即、「コブラツイストは格闘技の試合でもフィニッシュに使えます。グラウンドでね」という答えが返ってきました。その少し後にそれまで袂を分かっていた猪木さんと佐山さんが和解し、さきほど加藤さんが挙げたウイリー・ウイリアムスとの17年越しの決着戦が東京ドームで「決め技限定マッチ」(猪木はコブラツイスト、ウイリーは正拳突きでのみ勝敗が決まる特別ルール)として行われたんです(1997年1月4日)。これはアントニオ猪木と総合格闘技の先駆者である佐山聡からの「格闘技に対抗するためプロレス本来の強さを取り戻せ!」というメッセージだったんですが、残念ながら、当時、この一戦はノスタルジー色の強いエキシビションマッチとしか受け止められなかったんです。というのも、その頃のプロレスではすでにコブラはフィニッシュホールドでなくなっていたこともあって誰もピンと来なかったんですね。引退試合のドン・フライ戦もそうで、何十年ぶりかにプロレスを観たという私の親戚の叔母さんも「なんで卍固めじゃなかったの?」と不満気でした。私も「決め技限定マッチ」の意図を猪木さんから聞かなかったら理解できなかったと思います。そもそも、子供の頃にプロレスごっこをやっていた昭和のプロレスファンにとってコブラツイストって「どこが痛いの?」と疑問を持たれる技の代表でもありましたから。


加藤さん 昭和の小学生が休み時間に廊下でコブラツイストの掛け合いをしていましたよね。あれはいい時代でしたね(笑)。


木村さん 身体がまだ出来上がっていない子供同士だとふにゃふにゃしてコブラや卍固めは形にもなりませんでした(笑)。


加藤さん そこで僕らも色々なことに気がついていくわけで(笑)。あと卍固めというネーミングは本当に素晴らしい。そして、古舘伊知郎さんが実況することでより卍固めの特別感が増していったんですよね。


 


「猪木さんと馬場さんはビートルズのジョン・レノンとポール・マッカートニーのような関係だと思うんです」(加藤さん)




──ありがとうございます。次のテーマ「猪木さんのライバルとは?」について。猪木さんには数多くの名勝負と共に強豪やライバルが存在したと思います。お二人が考える猪木さんのライバルは誰ですか?まずは加藤さんからお願い致します。


加藤さん 難しい質問ですね…。これは新聞記者として大変凡庸な意見ですがやっぱりジャイアント馬場さんです。猪木さんと馬場さんはビートルズのジョン・レノンとポール・マッカートニーのような関係だと思うんです。


──素晴らしいです。分かりやすくて絶妙な例えです!


加藤さん レノンとマッカートニーが同時代に音楽の場で出逢ったように、猪木さんと馬場さんもプロレスの世界で遭遇するわけで、この二人は本来だったら出逢わないはずなんですよ。ジャイアント馬場さん、いや馬場正平さんはプロ野球・読売巨人軍のピッチャーであるべきで、後に色々と調べると馬場さんはそんなにのっそりとしたピッチャーではなく、結構な技巧派で優れたピッチャーだったんです。そこから馬場さんはさまざまな運命の悪戯で日本プロレスに入門して、同時期に地球の裏側から猪木さんが来て、同じ日にデビューするわけですから、本当に奇跡ですよ。


──その通りです。


加藤さん 常に猪木さんは馬場さんへのジェラシーなのか、ひょっとしたら愛情の裏返しだったのか…。なんとも言えない感情があって、この二人の関係性の中でプロレス界の物事が転がっていく様に我々は楽しむことができました。僕はこの二人の出逢いをプロレスの神様にただただ感謝したいです。


──力道山さんが急逝したことによって、日本プロレス界の灯が消えかかったところに馬場さんと猪木さんが台頭してきたことによって、さらに燃え上がったわけですから。二人の功績はあまりにも大きいですよね。


加藤さん  そうですね。また二人の方向性が全然違うので、馬場さんはNWA、猪木さんはカール・ゴッチなので僕らも享受できるプロレスの世界が自ずと広がりました。またこの二人のキャラクターが大変強烈だったことで色々な風景を見られたのはすごく幸せでしたね。


──猪木さんと馬場さんは互いにメインイベンターになってから長年、一騎打ちが熱望されていましたが、結果的に実現しませんでした。この件についていかがですか?


加藤さん 小学生の頃は「やればいいのに」とずっと思ってました。まだ東京ドームのない時代なので、国立競技場とかでやってほしかったなと。でも猪木さんと馬場さんの一騎打ちが実現しなかったという尊さがありますね。そこに二人に優劣や勝敗をつける必要はなかったんじゃないかなと思います。



「猪木さんが歩んだ道は力道山が歩むはずだった道とぴたりと重なる。というより、猪木さんは本来プロレス引退以降の人生で力道山を超えたかったのではないか」(木村さん)



──夢の対決は、実現せずに夢のままで終わったのもよかったのかもしれません。ありがとうございます。では木村さん、お願い致します。


木村さん 私は猪木さんにとって真のライバルは力道山だったのではないかと思っています。


加藤さん おおお!!これは詳しく聞きたいですよ!


──なぜ、猪木さんにとって最大のライバルは力道山さんなのでしょうか?


木村さん 猪木さんの生涯を俯瞰すれば一目瞭然です。実業家としての成功を夢見たり、政界に進んだりしたのは明らかに力道山の影響です。力道山は若くして亡くなりましたけど、生きていれば必ず政界入りしていたと言われています。それに、猪木さんが5歳のときに亡くなった父親も実業家で政界入りを目指していたそうですから資質としても受け継いでいたのではないでしょうか。その辺を踏まえて考えると、猪木さんが歩んだ道は力道山が歩むはずだった道とぴたりと重なる。というより、猪木さんは本来プロレス引退以降の人生で力道山を超えたかったのではないかと、私はそんなふうに感じていました。


──もし力道山さんが存命していて、猪木さんが台頭する頃までメインイベンターとしてリングに上がっていたとした場合、猪木VS力道山の新旧対決はあったと思いますか?


木村さん 力道山は新旧対決を行わず、国民的英雄のまま引退したと思います。そしてその後の日本プロレスを背負って立った主役も変わらなかったような気がします。


──力道山さんが急逝しても存命していても、猪木さんと馬場さんが日本プロレスを背負う運命だったということですね。


木村さん はい。


加藤さん 猪木さんが力道山さんと過ごした時間はそんなに長くなかったと思うんですよ。ただ一番感受性の豊かな時に、あんなに強烈な師匠に出逢って濃密な日々を過ごしたのは猪木さんの生涯にとてつもない影響を与えたんでしょうね。


木村さん 全くその通りです。猪木と力道山の師弟関係は3年8カ月。でもその短い間に猪木さんは裏社会も含めてあらゆる世界を見せられたんだと思うんですよ。表はスーパースターの世界で、特別な人間にしか味わえないものが確かにあった。でもそれと引き換えにとてつもない闇も見せられたと思うんです。その両方を10代の若さで経験してしまったわけですから影響を受けていないはずがない。きっと猪木さんは普通の人間が一生かけても経験できないことを経験したに違いありません。もうその時点で、ある種、プロレスラーを超えてしまったという気がするんです。あの独特な価値観、物事を俯瞰で見る視点はこの時期に培われたんじゃないでしょうか。



「1995年の北朝鮮興行を開催するときに猪木さんが『私の師匠の故郷だから』と収斂していくのも壮大な人間ドラマ」(加藤さん)



──猪木さんは技術も色々なところから吸収していって、帝王学に関しては力道山さんの下で培って、それが後の人生に繋がっているんですね。


加藤さん そこも愛憎がグシャグシャに絡まっていて、尊敬の念もあるけど、「なんで俺だけこんなひどい目に遭わないといけないのか!」という怒りと憎しみもあったのかなと。でもそれが後々に1995年の北朝鮮興行を開催するときに猪木さんが「私の師匠の故郷だから」と収斂していくのも壮大な人間ドラマですよね。 


  


──加藤さんは実際に1995年4月28日&29日メーデースタジアムで行われた北朝鮮平和の祭典を現地観戦してますよね。


木村さん 凄い! それは羨ましい限りです! いろいろ言われていますが、現地の雰囲気は本当のところどうだったんですか?


加藤さん 北朝鮮のあらゆる売店で猪木さんと力道山さんの銅像が並んで売っていて、あの光景をやっぱり思い出しますね。あと猪木さんは二日目(1995年4月29日)にリック・フレアーとメインイベントで闘って素晴らしい名勝負になりましたが、ひょっとしたらあのメーデースタジアムで自分の心の中では力道山さんと闘っていたのかもしれません。


──猪木さんはフレアーと闘いながら、力道山さんという残像と闘っていて、北朝鮮の国民は猪木さんの雄姿を見て、その奥に力道山さんを見たんでしょうね。


木村さん 私は北朝鮮でのリック・フレアー戦がアントニオ猪木の実質上の引退試合であり、力道山の悲願を達成して師匠超えを果たした瞬間だったと思ってます。残念ながらビデオ映像だとメーデースタジアムのスケールと客席の空気感がいまいち伝わってこなかったのですが、生で目撃した猪木・フレアー戦はいかがでした?


加藤さん 猪木VSフレアーは年齢やブランクとかを超越した素晴らしくて、色気のある大ベテランの達人同士の闘いでした。北朝鮮興行はそれまでの試合がほとんど沸かなかったんですけど、猪木さんのナックルパートに怒涛の如く沸いているわけですよ。あれは凄かった!猪木さんの歴史を共有していないであろう北朝鮮の皆さんを初見で大歓声を巻き起こす。これは格闘芸術としか言いようがない僕の中で忘れられない試合です。    





「猪木&藤波VSマードック&アドニスは新日本のストロングスタイルとアメリカンプロレスが最高レベルで融合した『プロレスの完成形』だと思ってるんです」(木村さん)     







──ありがとうございます。では次の話題に移ります。お二人がこの場で語ってみたい猪木さんの名勝負について教えてください。まずは加藤さんからお願い致します。


加藤さん 僕の世代は、猪木VSドリー・ファンク・ジュニア、猪木VSストロング小林、猪木VSビル・ロビンソンをリアルタイムで見られなかった悔しさが凄くあるんですよ。本当にひねくれた形で言うとリック・フレアー戦ですね。僕も木村さんがおっしゃる通り、フレアー戦が猪木さんの引退試合だったと思います。プロレスを知らない人たちに対して、初見で猪木さんは自身のプロレスで「さぁ、見やがれ!」と手玉に取ったあのパフォーマンス。そこには闘いがあったんじゃないかなと。今のような技が多彩でダイナミックなプロレスもいいんですけど、根底には「この野郎!」とフレアーをやっつける姿に北朝鮮の皆さんは沸いたと思うんです。



──猪木VSフレアーは、「INOKI FINAL COUNT DOWN」シリーズにも入っていないんですけど、今の加藤さんの発言は同感です。猪木さんは1994年からスタートした「INOKI FINAL COUNT DOWN」シリーズになると、モチベーションが上がっていないような微妙な試合が目立った印象があったので、フレアー戦がより名勝負として際立ったのかもしれません。それでは木村さん、お願い致します。


木村さん この前のインタビューの時にも言いましたが、アントニオ猪木には名勝負が多すぎて選べないので今回は語り継ぎたい特別なタッグマッチを挙げたいと思います(笑)。1984年12月5日大阪府立体育会館で行われた『第5回MSGタッグリーグ戦』優勝戦・猪木&藤波VSディック・マードック&アドリアン・アドニスというのはいかがでしょう。


加藤さん 素晴らしいです!!


木村さん ご賛同いただきありがとうございます!(笑) 私、この試合は新日本のストロングスタイルとアメリカンプロレスが最高レベルで融合した「プロレスの完成形」だと思ってるんです。


加藤さん 猪木さんのアメリカンプロレスのうまさがこれまた凄い高いレベルでファンをヒートさせるんですよ。


──マードック&アドニスというタッグチームが最高にいいんですよね!二人ともプロレスがうまくて、ガチンコに強い。アドニスに至ってはかつて強すぎて、賞金首になったこともあったんですから。


木村さん この試合を行った4人には強さというベースを持つ者同士にしかわからない信頼関係があり、相手へのリスペクトがプロレスという表現の自由度を高めている。こんなに高いレベルで強くて巧くて華があるレスラー4人が思う存分試合を楽しんで観客と一体化していた試合、ちょっと他には見当たりません。この日に行われた猪木&藤波VSマードック&アドニス戦こそ、まさにプロレスの完成形なんですよ。


加藤さん 『格闘家 アントニオ猪木』での北沢さんのインタビューで木村さんが「猪木さんは道場で普段やってるシュートの技術を試合ではどのくらい出してたんですか?」と伺うと、北沢さんが「試合ではほとんど出していない」と答えているのがものすごく好きで(笑)。要するに試合に出すとか出さないという話じゃないんですよね。でも強さを内蔵しているというのがプロレスラーとしての魅力に直結するところに、僕らが夢中になっていたプロレスの面白さがあるんじゃないでしょうか。あの北沢さんのインタビューが自分の中で大ウケでした。


木村さん 北沢さんのあの答えは最高でした。「全然ですよ。10%も出していない」と。逆説めいていますが、格闘家アントニオ猪木はプロレスのリングでは純粋にプロレスラーだったという真実を聞かされて、私、感動しましたね。


加藤さん 『ワールドプロレスリング』で一番視聴率が高かったのは猪木VS国際軍団とされていますよね。これが本当に面白くて最高なんです。猪木さんがラッシャー木村さん、アニマル浜口さん、寺西勇さんを相手にしている時が最も世間をヒートさせたし、古舘伊知郎さんもノリノリだったわけですから。


木村さん 私もとくにラッシャー木村戦(1981年11月5日・蔵前国技館/ランバージャック・デスマッチ)が大好きです。あの試合はアントニオ猪木が善悪を超越した怒りを全身全霊で表現してみせた一世一代ともいえる至極の舞台で、観客は一緒に感情を爆発させてそのカタルシスを味わえばいい。理屈抜き。猪木を観ているだけでいい、そういうプロレスだったんです。


加藤さん 今、JALに乗ると、オンデマンドで色々な動画が見れる中に猪木VS国際軍団があるんですよ。「あの頃の自分が見てよかったなと思う試合も、今見たらつまらないかもし

れない」と思って、見てみるとこれがもう楽しくて楽しくて(笑)。こんなものを毎週金曜夜8時に見ていたら、色々な人の人生が狂いますよ(笑)。



猪木さんとは何者なのか?

「シンプルに『燃える闘魂』だったんですよ。ずっと野球の取材をしてきた自分は猪木さんには一度も会えませんでした。でも一度きりの人生で、猪木さんを眺めて、憧れて、胸を熱くさせる人生を歩めました。こんな凄い巨星に出逢えたのは本当に幸せなことです」(加藤さん)

「ずっと考えていてフッと浮かんだのが『アントニオ猪木という存在がロマン』という答え。一言で言うならアントニオ猪木とは『肉体化した夢』でしょうか」(木村さん)  


          

──ありがとうございます。それでは最後の話題になります。お二人はアントニオ猪木さんとは何者だったと思われますか?まずは加藤さんからお願い致します。


加藤さん 猪木さんはあまりにも多面体過ぎるので、「ジャストさん、そんな質問は答えられないよ」と思ったりしますけど、シンプルに「燃える闘魂」だったんですよ。僕は新聞記者で、会社の先輩に猪木さんを何度もインタビューした尊敬する記者がいますが、ずっと野球の取材をしてきた自分は猪木さんには一度も会えませんでした。でも一度きりの人生で、猪木さんを眺めて、憧れて、胸を熱くさせる人生を歩めました。こんな凄い巨星に出逢えたのは本当に幸せなことです。今、ジャストさんや木村さんと猪木さんについて語っていると、猪木さんの存在が浮かび上がってくるんですよ。アントニオ猪木という燃える闘魂の灯は、消えないんじゃないかなと思うんですよね。


──ありがとうございます。では木村さん、お願い致します。


木村さん 本当に難しい質問ですよね…。書泉さんで開催していただいたトークショーでも同じ質問に「分からない」としか言えなかったんですが、そのあともずっと考えていてフッと浮かんだのが「アントニオ猪木という存在がロマン」という答え。一言で言うならアントニオ猪木とは「肉体化した夢」でしょうか。


──かつて女子プロレスラーのさくらえみ選手が飯伏幸太選手について「夢が人の形をしている」と表現したことがありました。猪木さんは夢やロマンが擬人化しているような感じなのかもしれませんね。


加藤さん 木村さん、モハメド・アリと闘うなんて、そんなのは夢でしかないわけじゃないですか。どう考えても「こんなのはあるわけないだろう」という話なんですよ。


木村さん 一瞬、思いついただけでも恥ずかしくなってしまう。普通ならそうです。



「猪木さんといえば、なぜかバーン・ガニアをリスペクトしているという謎が残っているんですよ。まだまだ猪木さんに関するミステリーは尽きませんね(笑)」(加藤さん)



──結果的に猪木さんはモハメド・アリが対戦した唯一の東洋人という事実は残りました。


加藤さん 猪木VSアリは近年、再評価されていて、当時「茶番」と報じたNHKが後年、猪木VSアリの特集を組むほど、今なお回転体として息をしている感じですよね。


──NHKの『アナザーストーリー』で取り上げられましたね。


加藤さん あと話が変わりますけど、猪木さんといえば、なぜかバーン・ガニアをリスペクトしているという謎が残っているんですよ。まだまだ猪木さんに関するミステリーは尽きませんね(笑)。


──猪木さんとAWAは接点ないですよね。


木村さん ええ。だから、なぜグレーテスト18クラブというベルトが制定されたとき、その発起人の中ににガニアの名が入っていたのか分からないんです。


──グレーテスト18クラブは1990年に猪木さんのレスラー生活30周年記念パーティーの席上で、ルー・テーズを発起人とした「過去に猪木と闘った」、プロレスラー及び格闘家によって構成された組織で、そこからタイトルが誕生して長州力さんが初代王者に認定されています。確か1990年2月10日東京ドーム大会でラリー・ズビズコVSマサ斎藤のAWA世界ヘビー級選手権試合が組まれていて、新日本とAWAの繋がりからガニアがメンバーに選ばれたとは考えられないでしょうか?


木村さん そもそもグレーテスト18クラブはアントニオ猪木と対戦したライバルたちによって創設されたタイトルであるというのが大前提でしたからその説には無理がありますよ。ガニアは猪木さんが所属していた日本プロレス、東京プロレス、新日本プロレスのいずれにも参戦しておらず、日本マットで一度も猪木と対戦してないわけですから。


──何かリング外で繋がりがあったのでしょうか?


木村さん アリ戦の前にアメリカで行われたプロモーションの際に接点があったようですが…。いまわかっているのはそれだけなんですよ。


──猪木さんに関するミステリーは今後、解き明かされるのかもしれませんね。では最後にお二人の今後についてお聞かせください。



加藤さん 今も日々、野球の現場をかけ回っています。猪木さんの「迷わず行けよ、行けばわかるさ」をいつも自分に唱えながら取材に行って頑張ってます。木村さんがおっしゃる通りで、猪木さんが色々な方の優れたところを吸収していって自分のものにする天才でした。僕も『格闘家 アントニオ猪木』からヒントを得て、色々なものに影響を受けていい書き手になりたいですね。


木村さん 私の次の目標は『格闘家アントニオ猪木』をプロデュースしてくれたTERUさんと共に立ち上げた「シン・INOKIプロジェクト」の第2弾として、現在、絶版になっている『アントニオ猪木の証明』に未収録の取材記録を加えた「完全版猪木インタビュー集」の出版です。実は私の手元には猪木さんとの1vs1インタビューを収録したカセットテープやビデオテープといった取材記録がまだかなり残っており、それらの中身を余すことなくファンに提供しないことには猪木さんに申し訳が立たないと思っているんです。ただ、版元などがまだ未定のため、それらが具体化するまでの間、別のテーマの本を1冊世に送り出すべく準備に取り掛かっています。


──それは先日、Twitter(X)上で木村さんが宣言された昭和の怪奇レスラー・マンモス鈴木の本ですね!


木村さん はい。取材に4年以上をかけて雑誌に連載していたルポ記事の原稿をあらたに単行本用に書き直しています。なにしろマニアックすぎるテーマのため書籍化は難しいと半ば諦めていたのですが、今回も「マンモス鈴木というレスラーをこのまま歴史に埋もれさせてはいけない。一緒に彼がリングに在った証を後世に残しましょう!」と私の背中を押してくれた方がいて道が開けました。マンモス鈴木さんは猪木さんの兄弟子です。もしかしたらこれも猪木さんの導き──『格闘家アントニオ猪木』を書き上げたことと繋がっているのかもしれないと、そんな気もしています。


──『格闘家 アントニオ猪木』は東野幸治さんがジャケ買いしたそうですから。未だにその余波は続いてます。


加藤さん 闘魂は連鎖していくんですね。僕らは闘魂の灯を燃やしていくことが、猪木さんのプロレスに夢中になった人間の責務じゃないかなと思います。


──これでお二人の対談は以上となります。木村さん、加藤さん、本当にありがとうございました。お二人のご活躍を心からお祈りしております。


(プロレス人間交差点 木村光一✕加藤弘士・完/後編終了)


ジャスト日本です。



「人間は考える葦(あし)である」



これは17世紀 フランスの哲学者・パスカルが遺した言葉です。 人間は、大きな宇宙から見たら1本の葦のようにか細く、少しの風にも簡単になびく弱いものですが、ただそれは「思考する」ことが出来る存在であり、偉大であるということを意味した言葉です。


プロレスについて考える葦は、葦の数だけ多種多様にタイプが違うもの。考える葦であるプロレス好きの皆さんがクロストークする場を私は立ち上げました。



 

さまざまなジャンルで活躍するプロレスを愛するゲストが集まり言葉のキャッチボールを展開し、それぞれ違う人生を歩んできた者たちがプロレス論とプロレスへの想いを熱く語る対談…それが「プロレス人間交差点」です。

 
 
 

 

前回は新日本プロレスの棚橋弘至選手と作家・木村光一さんの「対談という名のシングルマッチ」をお送りしました。


プロレス人間交差点 棚橋弘至☓木村光一 


前編「逸材VS闘魂作家」  

後編「神の悪戯」 

 

第二弾となる今回は作家・木村光一さんとスポーツ報知の加藤弘士さんによる刺激的激論対談をお送りします。

 

 

 

 

 

(この写真は御本人提供です)

 

 

木村光一

1962年、福島県生まれ。東京造形大学デザイン学科映像専攻卒。広告企画制作会社勤務(デザイナー、プランナー、プロデューサー)を経て、'95年、書籍『闘魂転生〜激白 裏猪木史の真実』(KKベストセラーズ)企画を機に編集者・ライターへ転身。'98〜'00年、ルー出版、いれぶん出版編集長就任。プロレス、格闘技、芸能に関する多数の書籍・写真集の出版に携わる一方、猪木事務所のブレーンとしてU.F.O.(世界格闘技連盟)旗揚げにも協力。

企画・編著書に『闘魂戦記〜格闘家・猪木の真実』(KKベストセラーズ)、『アントニオ猪木の証明』(アートン)、『INOKI ROCK』(百瀬博教、村松友視、堀口マモル、木村光一共著/ソニーマガジンズ)、『INOKI アントニオ猪木引退記念公式写真集』(原悦生・全撮/ルー出版)、『ファイター 藤田和之自伝』(藤田和之・木村光一共著/文春ネスコ)、Numberにて連載された小説『ふたりのジョー』(梶原一騎・真樹日佐夫 原案、木村光一著/文春ネスコ)等がある

 

木村光一さんによる渾身の新作『格闘家 アントニオ猪木』(金風舎)が発売中!

 

格闘家 アントニオ猪木【木村光一/金風舎】

 

 

 

 

 

YouTubeチャンネル「男のロマンLIVE」木村光一さんとTERUさんの特別対談

 

https://youtu.be/XYMTUqLqK0U 

 

 

 

https://youtu.be/FLjGlvy_jes 

 

 

 

https://youtu.be/YRr2NkgiZZY 

 

 

 

https://youtu.be/Xro0-P4BVC8 

 

 

 



(この写真は御本人提供です)

 

加藤弘士(かとう・ひろし)1974年4月7日、茨城県水戸市生まれ。茨城中、水戸一高、慶應義塾大学法学部法律学科を卒業後、1997年に報知新聞社入社。6年間の広告営業を経て、2003年からアマチュア野球担当としてシダックス監督時代の野村克也氏を取材。2009年にはプロ野球楽天担当として再度、野村氏を取材。その後、アマチュア野球キャップ、巨人、西武などの担当記者、野球デスク、デジタル編集デスクを経て、現在はスポーツ報知編集委員として、再びアマチュア野球の現場で取材活動を展開している。スポーツ報知公式YouTube「報知プロ野球チャンネル」のメインMCも務める。


(画像は本人提供です)

『砂まみれの名将』(新潮社) 阪神の指揮官を退いた後、野村克也にはほとんど触れられていない「空白の3年間」があった。シダックス監督への転身、都市対抗野球での快進撃、「人生最大の後悔」と嘆いた采配ミス、球界再編の舞台裏、そして「あの頃が一番楽しかった」と語る理由。当時の番記者が関係者の証言を集め、プロ復帰までの日々に迫るノンフィクション。現在6刷とヒット中。




今回の対談のテーマは「アントニオ猪木を語り継ごう!」です。

2022年に逝去されたプロレス界のスーパースター「燃える闘魂」アントニオ猪木さんについて、数々の猪木本や昨年『格闘家 アントニオ猪木』(金風舎)が発売になり話題を呼んだ「孤高の闘魂作家」木村光一さんと、大ヒット野球ノンフィクション『砂まみれの名将』(新潮社)の著者で、猪木さんを愛するプロレスファンである「活字野球の仕事師」加藤弘士さんに、大いに語っていただける場をご用意しました。

 

 

木村さんと加藤さんの対談は、こちらの5つのテーマに絞って行いました。ちなみに私は進行役としてこの対談に立ち会いました。

 

1.アントニオ猪木さんの凄さとは?

2.アントニオ猪木さんの好きな技

3.アントニオ猪木さんのライバルとは?

4.アントニオ猪木さんの好きな名勝負

5.アントニオ猪木さんとは何者だったのか?

 

 

アントニオ猪木とは何か? 

その答えのヒントになる対談、是非ご覧下さい!




プロレス人間交差点 

「孤高の闘魂作家」木村光一☓「活字野球の仕事師」加藤弘士

〜アントニオ猪木を語り継ごう!〜

前編「偉大な盗人」








『砂まみれの名将』著者、木村さんの新作『格闘家 アントニオ猪木』を大絶賛!

「ものすごい発見と気づきがあって、何か自分の中での疑問点が全部、腑に落ちていくような大変意義深い一冊」(加藤さん)



──木村さん、加藤さん、「プロレス人間交差点」にご協力いただきありがとうございます!今回はアントニオ猪木さんについてとことん語り尽くす対談となっております。よろしくお願いいたします!


木村さん よろしくお願いいたします!


加藤さん よろしくお願いいたします!


──今回の対談は2022年に逝去された”燃える闘魂”アントニオ猪木さんを語り継ぐがテーマなのですが、ちなみに加藤さんは2023年10月に発売された木村さんの新作『格闘家 アントニオ猪木─ファイティングアーツを極めた男─』(金風舎)をご覧になられましたか?


加藤さん もちろんです!『格闘家 アントニオ猪木』は本当に読み応えがあって、僕が全然知らない猪木さんをたくさん知ることができて、大変感服しました。令和の時代に猪木さんの強さのルーツを探るというのは凄くチャレンジングな一冊だったと思います。今まで気づかなかった猪木さんの強さの裏側をこの本を通じて知ることができて、「読んでよかったな!」と思えました。


木村さん 恐れ入ります!


加藤さん 僕は今、49歳なんですけど、『プロレススーパースター列伝』を読んで「ほんまかいな」と思いながら、そこから色々な書籍を読んで自分の中での猪木史を書き加えていくような作業をしてきて、猪木さんの「強さ」のルーツがカール・ゴッチさんとの出逢い以前にあったことが新しい発見でした。プロ柔道の大坪清隆さんの存在とか、吉原功さんからレスリングを習得、僕らからするとビリビリにシャツを破かれしまうレフェリーという印象が強い沖識名さんが実はハワイアン柔術の達人だったということなど、ものすごい発見と気づきがあって、何か自分の中での疑問点が全部、腑に落ちていくような大変意義深い一冊でした。


木村さん ありがとうございます! 加藤さんと私はちょうど一回り年齢が違うんですよね。当然、アントニオ猪木の捉え方にも溝があるんだろうなと、今日はある程度覚悟して対談に臨んだので素直に嬉しいです!


──木村さん、今の加藤さんのコメントは『格闘家 アントニオ猪木』最高のレビューになったんじゃないですか!


木村さん いや、まさに我が意を得たり! そのままストレートに受け止めていただけてなにより! 爽快な気分です(笑)。


加藤さん 日本プロレスは本当に各ジャンルのフィジカルエリートが集った梁山泊だったんですね。


木村さん そうなんです。猪木さんのレスラーとしての出発点について、まずその背景をよくよく調べてみて確信したことがそれでした。年齢的に力道山をリアルタイムで観ていない私は日本プロレスの選手たちに対して角界や柔道界で食い詰めた人たちというネガティブなイメージを抱いていたんですけど、時計の針を戻して当時の日本プロレス道場の光景をよくよく想像してみると、フィジカルエリートの代表である大相撲の幕内経験者がズラリと顔を揃えていたばかりか、木村政彦さんが戦後進駐軍の占領政策によって骨抜きにされた武道の再興を志して旗揚げした“プロ柔道”に参加していた柔道界の猛者や“柔拳”(柔道vs.ボクシングの異種格闘競技)や“アマレス”といったさまざまな格闘技のエキスパートもいた。とくにプロ柔道は指関節や脊椎への逆関節、バスターや胴絞めもOKというかなり危険な格闘技だったそうで、猪木さんは17歳のときにブラジルから日本に帰ってきて、いきなりそんな絶望的にヤバイ世界に放り込まれた。そんな道場での原体験がその後のアントニオ猪木のプロレスを決定づけたのは間違いありません。


加藤さん 本当に殺しに行くような感じもあって、今のスポーツ化されたものとは少し違って、生か死かがダイレクトにあった時代ですよね。


木村さん 観客の側にも戦争の生々しい記憶があったわけですし、適当にお茶を濁すようなヌルイ試合は見透かされたに違いありません。私の父親は昭和30年代後半から40年代のはじめ頃、福島の片田舎でプロレスの興行にも携わっていたのですが、あからさまに手を抜いた試合をされて頭に来て二度と呼ばなかったと聞いてます。プロレス人気爆発の引き金は正義の日本人が悪の外国人を倒す、いわゆる鬼退治という単純な構図だったのは間違いありませんが、観客はそれ以前に相撲や柔道を見慣れていたわけですし、最初のうちは達人同士によるシリアスな演武やプロの喧嘩としての側面も求められていたんじゃないでしょうか。少なくとも猪木さんが入門した頃の日本プロレスには、たしかに達人と呼ばれるに相応しい強さをもった実力者もいたわけですから。


加藤さん 彼らはプロレスという名の演武を全国で興行を展開して、お客はそれに木戸銭を払って見に行っていたんですね。日本プロレスに関してはふきだまりの淀んだ組織のような印象があったんですけど、北沢幹之さんが先輩レスラーから嫌がらせを受けた時に大坪さんが「俺がボコボコにしてやる!」という男気を見せたり、大坪さんと猪木さんがトレーニングを通じて意気投合していって、後に藤波辰巳さんや木戸修さんといった猪木派が集うというのも、日本プロレスに青春物語があったんだろうなと木村さんの本を読んで、改めて思いを馳せるきっかけになりました。


──加藤さんは以前、「猪木さんはトレーニングマシンとかで鍛えたものとはちょっと違うナチュラルで強靭な肉体なんですよ。少年時代にブラジルのコーヒー農園で朝から晩まで働いた過酷な労働環境がもたらした産物かもしれないが、強さにしなやかさを感じるんです」と語ったことがありました。木村さんの本を読まれて、加藤さんが抱いていた猪木さんへの疑問のピースが埋まった感じはしますか?


加藤さん ピースが埋まりましたよ。どう見たって猪木さんのフィジカルはもう別格で、今のようなサイエンスを駆使したトレーニングができなかった時代ですけど、青春時代から陸上競技、ブラジルから日本に帰ってきてからの若き日々を考えると今までの猪木さんの対する疑問が一個一個、氷解されていったような気がします。


──この本には猪木さんと梶原一騎さんの年表を照らし合わせて、空前の70年代格闘技ブームについて考えるという切り口もありましたよね。


加藤さん あの年表は力作で、凄かったです。読み進めたくてもページが先に進まない(笑)。その都度、年表を見返してましたね。色々な楽しみ方ができるお得な本ですよ。


木村さん 第3章の年表は時系列を整理した客観的なデータというより、70年代の第1次格闘技ブームの熱狂をリアルタイムで体験した読者の記憶のインデックスとして作成しました。後追いのプロレスファン、格闘技ファンにはなかなか伝えるのが難しいのですが、極論を言えば、私は梶原一騎のフィクションとアントニオ猪木のリアルのせめぎ合いがなかったらその後のプロレスも格闘技もまったく別のカルチャーになっていたと思うし、もっといえば100万人の青少年の生き方に影響を与えたと思っています。梶原先生と猪木さんが交錯した格闘技ブームの影響はそれくらい巨大なものでした。それをぜひ、当時を知る生き証人である同世代の猪木ファンの皆さんにも語り継いでいただきたい。そのための手引書として『格闘家アントニオ猪木』を活用してもらえたら、まさに、冥利に尽きます。



二人が語るアントニオ猪木さんの凄さ

「猪木さんは多面体でさまざまな顔を持っていて、いずれも一流。パフォーマーであってプロモーターでもあって、政治家でもあった。やっぱりスーパースター」(加藤さん)

「古舘伊知郎さんがかつて猪木さんのプロレススタイルを模倣したハルクホーガンを『華麗なる盗人』と命名してましたよね。猪木さんはその上を行く『偉大な盗人』だったんじゃないか」(木村さん)




──ありがとうございます。ここから本題に入ります。まずはお二人が考えるアントニオ猪木さんの凄さについて語っていただきたいです。加藤さんからよろしくお願いいたします。


加藤さん そうですね。猪木さんは多面体でさまざまな顔を持っていて、いずれも一流。パフォーマーであってプロモーターでもあって、政治家でもあった。大変凡庸な言い方になりますが、やっぱりスーパースターであることだと思うんですね。大変な星のもとに生まれてきた方で、このような人生を歩んだのは運命としか言いようがないです。


──確かにそうですね!


加藤さん 木村さんの本に初代若ノ花が力道山に「自分に猪木を預からせてほしい」と言ったという記述がありましたが、猪木さんはどんなことをやっても成功されて名を残してたと思いますが、やっぱりプロレスという魑魅魍魎なジャングルに迷い込んでしまったことで世の中が大きく変わっていくという奇跡にただただ感謝するだけですね。力道山さんとの出逢い、同期にジャイアント馬場さんがいたこと、プロデビューがモハメド・アリとほぼ同時期だった偶然とか、すべてが神の見えざる手によって描かれたドラマのような気がしました。


──神の見えざる手!それは何となく感じますね。


加藤さん あと猪木さんの凄さとして大変な努力家だったということですね。トレーニングを熱心にされていて、好奇心旺盛で、色々な技術に興味を持って実際に汗を流して習得していったのが猪木さんで、その努力を続けて年齢を重ねてもいつまでも肉体をキープし続けた猪木さんに出逢えたのは僕にとっては大きな幸福でした。


──ありがとうございます。では木村さん、お願い致します。


木村さん 言おうと思っていたことを全部言われてしまいました(笑)。なので加藤さんの意見の補足にしかなりませんが、古舘伊知郎さんがかつて猪木さんのプロレススタイルを模倣したハルクホーガンを「華麗なる盗人」と命名してましたよね。私、猪木さんはその上を行く「偉大な盗人」だったんじゃないかなと思うんです。


加藤さん おおお!


木村さん そもそも相撲や柔道といった格闘技の下地がなかった猪木さんの目には、さきほども言いましたがプロレス界はとてつもなく怖ろしい化け物だらけの世界に映ったはずです。その不安を拭い去るためには一刻も早く対抗する術を身につける必要があった。そうでないと生き残れない。それって本人にとってはブラジルのジャングルの奥地で必死に毎日を生きていた頃の心境と大して変わりがなかったんじゃないでしょうか。


加藤さん 日本プロレスで日々をどう無事に過ごし、どうやったら頭角を現わせるのかって大変な作業ですよね。


木村さん 実際、猪木さんに日本プロレスの道場でジャイアント馬場さんや先輩のマンモス鈴木選手を初めて見たときの印象について伺ったことがあるんですが「俺はとんでもないところに来てしまった…」と半ば絶望的な気分になったと語っていました。


──10代の若者にとっては、刺激が強すぎる世界ですよね。


木村さん 猪木さんはブラジルでも自分よりデカい奴に出会ったことがなかったとも言ってましたから、馬場さんやマンモスさんの姿は異世界の怪物に見えたに違いありません。たぶん、自分の体格でもアドバンテージはないと思い知らされた猪木さんは、その時点できっぱり割り切ったんでしょう。この埋められない体格差を克服するにはより強靭なフィジカルとテクニカルな強さを手にいれるしかないと。幸いなことに日本プロレスの道場には大坪清隆さんという高専柔道の達人、レスリングの吉原功さんというストイックに強さを追求していた先輩方がいた。猪木さんが彼らに憧れてどんどん感化されていったのは当然の成り行きだったと思います。


加藤さん 多感だった頃の記憶が後々にずっと影響を残す典型的な例ですよね。


木村さん もう一つ付け加えると、その頃の猪木さんにとってプロレスはイコール力道山。そして力道山のどこに猪木さんが強く惹かれたのかというと“怒り”でした。力道山はあの時代の日本人のフラストレーションを全て背負ってリング上で爆発させていました。それはヒーローを演じていた力道山というレスラーの表現に他ならなかったわけですが、師匠の付き人も務めながらリング外の生き様もすぐ傍らで見つめていた猪木さんにすればその怒りの表現は演技の一言などでは済まされなかった。おそらくは救いのないほどドロドロでネガティブな感情さえも観客に感動やカタルシスを与える原動力に換えてしまう精神力、つまりそれが不撓不屈(ふとうふくつ)の“闘魂”であり、見習うべき本当のプロレスラーの強さなのだと早いうちから骨身に染みていたのだと思います。




猪木さんは特殊な嗅覚や本能に従って行動をしていただけなのかもしれませんが、凄いのはそれがジャンルの壁や時代さえ超越していたこと」(木村さん)





──日本プロレス時代の原体験が猪木さんのアイデンティティーになったんですね。


木村さん はい。猪木さんにとってプロレスとは力道山から学んだ心技体の強さの表現であり、まずはリアルに強くなることに没頭していった。自分は怪物ではないからこそ、強さを求め続けなければいけないという宿命を迷わず受け入れられたんじゃないでしょうか。


加藤さん 猪木さんの成り立ちを考えてみると、やっぱり一国一城の主となって1972年に新日本プロレスを旗揚げした際に、とにかく強さを押し出して、その象徴としてカール・ゴッチを招聘したのは合点がいく話ですよね。


木村さん そうですね。猪木さんは自分が強いと認めたレスラーからつねに一流であるための必要なエッセンスを貪欲に盗み取っていたんですが、それは意図してそうしていたというより、生きていく上で当たり前のことだったのかもしれません。


加藤さん 生存本能だったんでしょうね。


木村さん はい。その最たる例がブラジル遠征の際に挑戦してきたバーリトゥード王者のイワン・ゴメスとの交流です。『格闘家アントニオ猪木』の取材で北沢幹之さんにあらためてインタビューしたのですが、猪木とゴメスは公式には試合という形での対戦はなかったものの、新日本の道場ではかなり高度なスパーリングを行なっていたという証言を得ています。猪木さんは日本プロレス道場で柔術に近い高専柔道の技術を身につけていただけでなく、後年にはゴメスからバーリトゥードの技術まで盗んでいたんですよ。UFCが登場する遙か以前にね。


加藤さん イワン・ゴメスと出逢って「これは我々にとって必要なもの」と好奇心を抱いて会得していくわけですね。ヒールホールドを猪木さん、藤原喜明さんや佐山聡さんはゴメスから学んで、とんでもない貪欲さであり、どんなものでも自分に吸い込んでしまう壮絶なブラックホールなんですね。


木村さん 強さだけでなく、実現不可能といわれたモハメド・アリ戦を実現させたことで世界的なネームバリューも手に入れましたからね。まさにブラックホールです。


加藤さん 猪木さんのテーマ曲『炎のファイター』は今でも高校野球の甲子園大会でNHKから流れるわけですから。


──チャンスになるとよく流れますね!


木村さん 猪木さんは特殊な嗅覚や本能に従って行動をしていただけなのかもしれませんが、凄いのはそれがジャンルの壁や時代さえ超越していたこと。『格闘技世界一決定戦』で対戦したウイリエム・ルスカ(柔道金メダリスト)やモハメド・アリ(プロボクシング・ヘビー級王者)といった世界チャンピオンの称号を持つアスリートから“熊殺し”ウイリー・ウイリアムス(空手)に至るまで、あの当時の世界の格闘技界の全てを呑み込んでしまったばかりか、未来を予知していたかのようにバーリトゥードとも接点を持っていたわけですから。


加藤さん その通りです。後に1984年に第一次UWFが立ち上げに至る経緯とか、もうめちゃくちゃじゃないですか。でも結果的には新しい総合格闘技の発展に図らずも寄与してしまう。猪木さんが考えているところじゃなくて、事が転がっていくような気がして、そのバイタリティーに虚と実を織り交ぜながら回転体として進行していくダイナミズムがもうたまりませんね。



猪木さんを神格化、猪木原理主義者について

「猪木さんと同時代で生きた人間として猪木さんだけと信じて見るよりも、様々な形や視野で猪木さんの生涯を楽しむ方が、猪木さんから学んだ人間としての今後の生き方」(加藤さん)

「神格化してしまったらアントニオ猪木の本当の凄さが見えなくなってしまう。神様なら奇跡を起こして当たり前ですから。猪木さんは生身の人間でありながら、それでも奇跡のようなことを幾つも成し遂げたから素晴らしい」(木村さん)





──ちなみにひとつお聞きしたいことがあります。猪木さんが2022年に亡くなってから数々の書籍やイベントが開催されました。SNSの中では猪木さんを神格化していく傾向が一部であって、これの行き過ぎはいかがなものかという意見もあります。猪木原理主義者という言葉もSNS上でありますが、この件についてお二人はどのように思われますか?


加藤さん 猪木原理主義者になる人の気持ちはよく分かりますので、そういう人たちを批判する気にはなれないです。ただ猪木さんから学んだことは「本当か、嘘か」「パフォーマンスかガチンコなのか」と多面的に物事を見ることで、猪木さんと同時代で生きた人間として猪木さんだけと信じて見るよりも、様々な形や視野で猪木さんの生涯を楽しむ方が、猪木さんから学んだ人間としての今後の生き方じゃないかなという気がしています。


木村さん 全く同意見です。よく誤解を受けますが、私も猪木原理主義者ではないですし、猪木さんを神格化するという動きに関しては反対です。なぜかというと、神格化してしまったらアントニオ猪木の本当の凄さが見えなくなってしまう。神様なら奇跡を起こして当たり前ですから。猪木さんは生身の人間でありながら、それでも奇跡のようなことを幾つも成し遂げたから素晴らしいんです。


加藤さん そうなんですよ!


──木村さん、今の意見は素晴らしいですよ。人間・アントニオ猪木が奇跡を起こしたことに猪木さんの偉大さがあるんですね。


木村さん その本質部分を見失ってしまうとすごく気持ち悪いし、猪木さんほど人間らしいと言いますか、あんなに欲望に忠実で生々しい人もいなかった。それを全部綺麗ごとで包み込んでしまったらアントニオ猪木は遠くなるばかりでどんどんつまらなくなってしまう。私はそう思います。


加藤さん デオドラントスプレーを振って、汗のにおいを抑えちゃうと、猪木さんの匂いは嗅げないですよ。嫉妬、裏切り、金銭面も含めても色々出てきますけど、それを全部ひっくるめてのアントニオ猪木の凄さであり、面白さなんですよ。



木村さん、衝撃のカミングアウト!

「WJプロレスの旗揚げは一度計画段階で頓挫しているんですが、その最初の企画書を作成したのが私だったんです」(木村さん)




──実は2023年12月2日に大阪・ロフトプラスワンウエストで行われた『昭和プロレス復活祭』というイベントがありまして、そこでミック博士さんの妄想と言いつつ裏社会の話と数々の証言や文献を組み込んで鋭く物事の真実に迫る手法で「ジャパンプロレスとUWF」「馬場さんと猪木さんの関係」についてかなり興味深く語っていたので、そこからの影響で、猪木原理主義者についての質問をさせていただいたものでした。


木村さん なるほど、じゃあ、そういう流れになったのでちょっと…。これは初めて打ち明ける話です。長州力さんが立ち上げたWJプロレスってあったじゃないですか? 実は、私、どうやら知らず知らずのうちにあの団体の旗揚げに関わっていたようなんです。


──え? どういうことですか?


木村さん WJプロレスの旗揚げは一度計画段階で頓挫しているんですが、その最初の企画書を作成したのが私だったんです。


加藤さん ええええ!


──きました!木村さんのカミングアウト(笑)。


木村さん 当時、私は95年出版の『闘魂転生』という書籍の企画を新日本プロレスのAさんに持ち込んだのをきっかけに親しくなって、よく個人的に頼まれて企画書を作成していた時期があったんです。その中の1本が長州力選手を中心にした“第2新日本プロレス”の旗揚げに関する企画書でした。ところで、加藤さんは内外タイムスの記者を経て、その後何社も出版社を立ち上げてベストセラーを連発した宮崎満教さんという人物をご存じですか?


加藤さん もちろんです!大有名人です。


木村さん 私は広告会社を辞めたあとにフリーランスのプランナー兼ライターのような立場でAさんや猪木事務所とお付き合いするようになってから、さらに『ワールドプロレスリング』の元プロデューサーの栗山満男さんとも知り合い、その栗山さんから宮崎満教さんを紹介していただいてルー出版、いれぶん出版の編集長という肩書きで書籍や写真集の出版に携わるようになったんです。また宮崎さんと梶原一騎先生の実弟である真樹日佐夫先生が親しい関係にあり、お二方の後押しもあって、梶原一騎・真樹日佐夫原案のボクシング小説『ふたりのジョー』を1年間、Numberに執筆する機会に恵まれたんですよ。


──凄まじい人間関係の中でお仕事をされてたんですね!


木村さん で、そんなカオスな状況にあった私のもとに突然Aさんから持ち込まれた話が「新日本プロレスを2つに分けたい。で、第2新日本のトップを長州力にする。これは猪木も承知の件だから企画は任せる」というものだったんです。


加藤さん そうだったんですね!


木村さん 団体設立の趣意書と事業計画書を書き上げて手渡すと、次にスポンサー探しも依頼され、そこで宮崎さんと繋がりのある芸能事務所に動いてもらってスポンサーも決まりかけたんです。ところがある日、Aさんから呼び出されて「あの話は御破算になった。例の企画書もすべて破棄してくれ!」と。要するに最初に聞かされた猪木さんも承知していたという話は真っ赤な嘘で、危うくその片棒を担がされるところだったんです。


──今の話はAさんらしいです。


木村さん どうやらそのときいったんボツになった企画が数年後、スポンサーを変えて誕生したのがWJプロレスだった、とそういうわけです。一時期、団体の副社長に就任した宮崎さんから「WJのマッチメイクをやらないか」と誘われたこともありましたが、きっぱりお断りしました。


──木村さんはUFOの設立趣意書も作成していましたよね。もし第2新日本プロレスの話が進展していたら非常に複雑な立場になっていましたね。ちなみにAさんからの企画の依頼はいつ頃だったか覚えていますか?


木村さん 1999年だったと思います。たぶん時系列的にも合ってますよね。




「猪木さんを取り巻く環境はずっと複雑な関係ですよね。敵か味方なのか万華鏡のように姿を変えていくようですね。仲違いしているのに、また結託するとか」(加藤さん)



──合いますね。猪木さんと長州さんが本格的に暗闘している時期で、新日本の経営陣が坂口征二さんから藤波辰爾選手に社長が交代された年ですね。


加藤さん 猪木さんを取り巻く環境はずっと複雑な関係ですよね。敵か味方なのか万華鏡のように姿を変えていくようですね。仲違いしているのに、また結託するとか。これは木村さん、この話も含めて後に一冊にまとめていただきたいですよ。


──猪木さんの人間関係は亡くなった今もずっと魑魅魍魎の世界なんですよ。


木村さん 正直、プロレス界に片足を突っ込んでいた頃にはいろいろありました。が、少なくとも私は猪木さんとの直接の関わりの中で嫌な思いをしたことはなかったんですよ。残念ながら最後は袂を分つ形になりそれきりになってしまったものの、そこに裏切りや陰謀のようなものは一切介在しませんでした。だから猪木さんへの思いはずっと変わらなかったし、それが私にとっては誇りでもあったんです。昨年の秋、あえて一周忌に『格闘家アントニオ猪木』という本を上梓したのも、そのテーマの普遍性と気高さは誰にも穢されないと確信していたからです。


加藤さん 裏切りや様々な欲がまみれている話も面白いんですけど、『格闘家 アントニオ猪木』は本当にピュアな1人の格闘家としてのアントニオ猪木にフィーチャーしたすごく読後感が良いんですよね。このタイミングで世に出されたのは意義深いですよ。


(前編終了)




ジャスト日本です。


新年明けましておめでとうございます。

昨年は本当にお世話になりました。

今年もよろしくお願い致します!



さて、昨年当ブログでは新日本プロレスの棚橋弘至選手と作家の木村光一さんの対談を掲載させていただきました。


【プロレス界のエースとアントニオ猪木を追い求めた孤高の闘魂作家による対談という名のシングルマッチ!】


プロレス人間交差点 棚橋弘至☓木村光一 


前編「逸材VS闘魂作家」  



後編「神の悪戯」 


前編・後編と本音剥き出しの対談という名のシングルマッチは大きな反響を呼びました。主にオールドファンを中心に反応があった印象がありましたが、棚橋選手と木村さんの対談は古いファンだけじゃなくて、今のファンにも届けたいという想いがありました。


すると棚橋弘至選手ファンのゆみおさんがこのようなレビューを書いてくださいました。





ここまで詳細に書いていただき本当に感謝しかありません。ありがとうございます!

棚橋選手と木村さんの想いが多くの皆さんに届くことを切に願ってます。


またこれからプロレスファンになるかもしれない皆さんへ。

もしプロレスファンになったことに対して悩んだり、苦しんだりすることがあるかもしれない。世間や偏見に苦しむことがあるかもしれない。SNS疲れもあって、嫌になるかもしれない。

でも私は声を出しにして言いたい。

「今も昔もプロレスはスゲェ面白いよ!」

それでも何か壁にぶち当たることがあれば、この対談を読んでほしい。

そう願ってます。

ゆみおさん、本当にありがとうございました!この対談を実現させてよかったです!







ジャスト日本です。


今年もこの季節がやってきました。


『書泉選定プロレス本大賞2023』


書泉選定プロレス本大賞2023オフィシャルページ 







『書泉制定 2023年度(第4回)プロレス本大賞』MVP(最優秀プロレス本賞)
「SLK STYLE~スターライト・キッド スタイルブック~」(スターライト・キッド 著 / 彩図社 発行)

ベストバウト(最優秀企画賞)
「安納サオリ写真集 unknown」(安納サオリ 著 / 東京ニュース通信社 発行)

殊勲賞
「格闘家 アントニオ猪木」(木村光一 著 / 金風舎 発行)

敢闘賞
「俺のダチ。」(鈴木みのる 著 / ワニブックス 発行)

技能賞
「飄々と堂々と 田上明自伝」(田上明 著 / 竹書房 発行)

話題賞
「強く、気高く、美しく 赤井沙希・自伝」(赤井沙希 著 / イースト・プレス 発行)

書泉グランデ特別賞
「KAIRI 1st STYLE BOOK Voyage」(KADOKAWA 発行)

書泉ブックタワー特別賞
「まるっとTJPW!! 東京女子プロレス OFFICIAL “FUN” BOOK 2023」(東京女子プロレス 監修 / 玄光社 発行)





今年のMVPはまたも彩図社さん!!

スターライト・キッド選手の『SLK STYLE』が選ばれました。私の単行本におけるタッグパートナーである編集者のGさん、これで3作品目のMVPです!もはや「ミスタープロレス本大賞」ですね!おめでとうございます!


また、「私とプロレス」や棚橋弘至選手との対談に登場してくださいました木村光一さんの『格闘家 アントニオ猪木』が殊勲賞を受賞しました。木村さん、やりましたね!おめでとうございます!




私の著書『プロレス喧嘩マッチ伝説』は残念ながら、受賞ならず…。悔しいですね。でもこの「書泉選定プロレス本大賞」に絡めるように今後も精進していきたいと思います!!!



そして、私が執筆協力させていただきました「まるっとTJPW!! 東京女子プロレス OFFICIAL “FUN” BOOK 2023」(東京女子プロレス 監修 / 玄光社 発行)が書泉ブックタワー特別賞を受賞しました。  


編集者の池田園子さん、苦労が報われましたね。この本に関わった皆さん、おめでとうございます!


さて、この本になぜ私が執筆協力することになったのか?きっかけは今年1月に大阪で池田園子さんのミーティングをする機会があり、そこでこのようなご相談がありました。

「ジャストさん、実は東京女子のファンブックに編集者として関わることになったのですが、もしよろしければご協力していただきませんか?」


どうやら諸々の事情もあり、ケツカッチン状態。池田さんは知り合いの私に協力依頼をしてきたということです。喜んでお受けして、レスラーの技説明と東京女子の年表の文章チェックを担当させていただきました。

今まで単行本でも電子書籍でも著者として関わってきたましたが、多くのライターの中のひとりとして執筆協力させていただいたのは初めてでした。いい刺激になりましたし、池田さんを助けたいという想いがありましたので、結果的に無事発売に間に合った時はめちゃくちゃ嬉しかったです。


今まで池田さんから色々な刺激や御縁をいただき、ライターとしてさまざまな仕事をさせていただきましたが、今年も池田さんのおかげでプロレス本大賞に絡む作品に協力することができたこと、本当に誇りに思います。ありがとうございました!


プロレス本大賞は素晴らしい企画であり、この企画があるから、プロレスに関わるライターにとって大きな目標になります!このプロレス本大賞がいつか東京スポーツのプロレス大賞のような豪華な式典が開かれるようなスケール感になってほしいなと思います!とにかく書泉のプロレス担当・長井さん、お疲れ様でした!

これが年内最後の記事です。今年一年、本当にありがとうございました!来年もよろしくお願いします!




  ジャスト日本です。

 

有名無名問わず、さまざまな分野から私、ジャスト日本が「この人の話を聞きたい」と強く思う個人的に気になるプロレス好きの方に、プロレスをテーマに色々とお聞きするインタビュー企画「私とプロレス」。

 

 

 

 今回のゲストは、ホラー作家の佐野和哉(ダイナマイト・キッド)さんです。

 

 
 



(画像は本人提供です) 

   


佐野和哉(ダイナマイト・キッド)

1986年7月18日生まれ。

170センチ100キロ。


本名の佐野和哉名義での活動のほか

TBSラジオ「伊集院光 深夜の馬鹿力」にも時々、投稿しています。

御用の方は

Kazuya18@hotmail.co.jp

までどうぞ。


(プロモーション情報)

普段は小説を書いています。ネット小説大賞11で拙作

タクシー運転手のヨシダさん

が2次審査を通過しました!

ホラー、SFバトル、そのほか不思議な話なども。

よろしければご覧ください。


小説家になろう

https://mypage.syosetu.com/mypage/top/userid/912998/


アルファポリス

https://www.alphapolis.co.jp/author/detail/376432056



私は以前から「小説家になろう」「アルファポリス」で書かれている佐野さんの文章が好きで、過去にこのような記事を書かせていただきました。


キッドさんの味わい~「僕の好きな職人レスラー」&「王道プロレスとストロングスタイルと」レビュー~ 


佐野さんは元々闘龍門に入門した経歴を持つプロレスラーの卵でした。しかし、プロレスラーになれずに挫折した過去があります。恐らくそんな自分がプロレスについて書くことにどこかしらの恐縮さと慎重さも感じるのです。

あと佐野さんはプロレスが好きだけど、それを他人と分かち合うことが少し苦手という印象もあり、だから佐野さんが書く「自分みたいなものがプロレスを書いてすいません」という一種の腰の低さが伝わるんです。

そんな佐野さんとは3時間、ズームでインタビューさせていただきました!



 
是非ご覧ください!






 
 
私とプロレス 佐野和哉(ダイナマイト・キッド)さんの場合
「最終回(第3回) キッドさんといっしょ」
 





エッセイやホラー小説を書くきっかけ


──佐野さんが『キッドさんといっしょ』というエッセイを書かれたり、ホラー小説を書いたりするようになったきっかけについて語ってください。

佐野さん 子供の頃から本を読むのが好きだったんです。読書家だった母親の影響で……音楽とか映画とか、そういう文化的素養はほとんど母からです。特にレコードと文庫本の数は半端なかったです。
プロレスファンになる以前の僕は鉄道マニアで、いろんな鉄道の名前や路線を覚えたり地図を見て線路を辿ったりしていました。鉄道や地図が好きなのはおじいちゃん譲りで、そのおじいちゃんが初孫のために分厚い鉄道図鑑シリーズを買い揃えてくれたのを毎日毎日、飽きずに読んでいたそうで……鉄道好きになると旅そのものにも興味が出てきて、今度は椎名誠さんの本を読むようになりました。

──作家やエッセイストとして活躍されている椎名誠さんは日本各地、世界各地の特に辺境に頻繁に赴き、多くの旅行記と映像記録を発表してますよね。

佐野さん 小学校3年生か4年生ぐらいのときに、母親から「この人、プロレスファンなんだよ」と言って渡されたのが椎名誠さんの『あやしい探検隊 海で笑う』(角川文庫)という本でした。それで読書にハマって、学校の図書館にあった江戸川乱歩とシャーロックホームズを全部読んで、海外のSF小説もどんどん読みました。

──おおお!!

佐野さん そうなると自分でも何か椎名誠さんみたいなことを書きたくなりまして、中学1年生から2年生にかけて、ルーズリーフのノートを買ってきて自分の本を書くようになって。
学校とか部活とか日々の生活で起こった出来事を椎名さんの見よう見まねで書いてました。見せたら面白いよって言ってくれる友達がいて、また調子に乗って書いたらみんなで回し読みとかしてもらってたんです。が、それをある日、僕のすごい好きだった女の子が「佐野君こんなの書いているんだ。貸してよ」と言って返事も待たずに持ってっちゃったんです。「絶対に嫌われた」と思って、本当に死を覚悟するくらい落ち込みましたけど、次の日に「面白かったから、もう少し貸してね」と言われて。そこで本格的に文章を書くことに目覚めました。もとい、味をしめました。お話を書くと女の子に優しくされるんですね(笑)。



──そうだったんですね。本を読み込んでいる人は基本的に文章を書くのがうまいですよね。

佐野さん その他にも、部活の仲間や顧問のU先生をネタにして、「キャスティングごっこ」というテーマで文章を書いて、この人はこの役という感じで遊んでいたんです。週刊ゴングの読者コーナーの真似をしていたんですね。U先生は顔が怖いから、ヤ〇ザ役ばっかりなんですけど(笑)。




──ハハハ(笑)。

佐野さん ある日ついにU先生がその文章を見てしまって「うわぁ、怒られる!逃げろ!」と、どうやって言い逃れをしようかと考えていたら、先生が「周りをよく見てるな。これ面白いぞ」と言ってくれて、僕の観察眼を褒めてくれたんですよ。U先生のことは今でも尊敬してます。

──おお!よかったじゃないですか!佐野さんの文章のバックボーンが知れてよかったです。素晴らしい仲間や先生に恵まれてますよね。

佐野さん ありがとうございます。ただ、僕はまだ小説の賞とか何も取ってないんですよ。今まで出してもかすりもしないですし、縁もありません……やっぱり賞を取る人はちゃんとした文章を書きますよ。僕が本に載せてもらったその唯一の事例『廃墟の怖い話』 (風羽洸海・裂田伊織・佐野和哉・久保田 一樹・禾・悠井すみれ/宝島社文庫)にしても、僕以外の人は文章が綺麗で整っていて、基礎がしっかりしているんです。僕の文章だけバタバタしていて、読むと悲しいくらい浮き彫りになる。

──そうなんですね。

佐野さん 特に悠井すみれさんの文章はすごく冷たくて……つまりそういう物語やセリフの温度や色まで見えてくるんですよ。他の作家さんは人の痛み、恐怖、驚いた時にどう思ったのか、何が怖かったのかとかを書いている傾向があるのですが、僕はどういう動作で驚いたのか、どうやって行動しているのかを書いているようで。所詮運動部崩れだなと。

──佐野さんには佐野さんならではの文章の世界観があって魅力的だと個人的には思いますよ。ちなみに『キッドさんといっしょ』は中学時代に書いていたことの延長線という感じですか?

佐野さん そうです。最初は真面目に小説を書いてたんですけど、誰も読んでくれないですから。そこで昔みたいに何か馬鹿なことを書こうと思って、今まで溜まっていたネタの在庫から取り出して書くようになりました。当時アマチュア物書きのグループに入れてもらったこともあって、彼らにウケる文章を書きたかったのもあります。
なので最初は完全な客寄せとして『キッドさんといっしょ』を始めました。毎日更新してるものがひとつでもあれば、投稿サイトのどこかしらに僕の名前が表示されるじゃないですか。そこにコツコツと書いた小説もたまに投稿するようになりました。

──なるほど。そうだったんですね。

佐野さん 僕は椎名誠さんの他に伊集院光さんが好きで、伊集院さんみたいなことも書きたかったんです。ラジオの伊集院さんと文章の伊集院さんは全然違って、抒情的で懐かしくも破天荒で、そこが面白くて。

──佐野さんの文章はどこか周りの目を気にしているところがあるじゃないですか。基本的にSNSやネットでの発信は自分が感じたことや好きなものをどんどん伝えているものだと思います。佐野さんはその中で周りを気にして発信されてますよね。

佐野さん 気が小さいもので……。あとやっぱり書くからには誰かに読んでほしいと思って書いています。



文章を書くときに心がけていること


      
──ちなみに文章を書くときにどのようなことを心がけていますか?

佐野さん 知ったかぶりをしないことです。分かってもいないことを分かったように書かないようにしています。よく知りもしないこと、好きなだけで詳しくも実経験もないようなことを断定的に語らない。とか。好きなジャンルなら猶更……プロレスは特に。
あと間違いに気がついたらなるべく早く修正することです。たまにふと読み返して、出先で間違いに気がついちゃうと直すまで気が気じゃないんですよね……単語の変換間違いとか、重複、矛盾、てにおは。色々と細かいところが気になります。


佐野さんの好きなプロレス名勝負


──お気持ちはよく分かります。では佐野さんの好きなプロレス名勝負を3試合、あげてください。

佐野さん 1試合目は1999年1月22日。
全日本プロレス・大阪府立体育会館大会で行われた三沢光晴VS川田利明の三冠ヘビー級選手権試合……伝説の三冠パワーボムの試合です。当時、僕はあまり全日本に興味がなくて。新日本、FMW,みちのくプロレスを熱心に見ていた人間でした。週刊ゴングを買っても全日本はよく読まずに飛ばしてたんです……周囲からの面白くない、地味だという言葉でそう思い込んでたのもあったり、誌面を見ても確かにイマイチ華やかじゃなかったりであまり関心を持たなかったんです。

──確かにそうですね。

佐野さん ところがある日、録画したプロレス中継をビデオで見たら……新日本(ワールドプロレスリング)だと思っていたらそれが全日本プロレス中継で、三沢さんと川田さんの三冠戦を放映していたんです。二人の関係性とかもよく分からなかったんですけど、あの当時は四天王プロレスも行き着くところまで行っていて、危険度も増していた時期だったんでしょうね。川田さんが得意のパワーボムやデンジャラス・バックドロップを何度も出しても決まらなくて、最終的に頭から落とす三冠パワーボムになってしまった。インディーだとテーブルクラッシュとか椅子の山に叩きつけるとかハードコア的な技があったのですが、そういうアイテムを使わなくてもリング上でエクストリームをやるんだと思って。そこから全日本が好きになりました。今までテレビで見たプロレスの中で一番衝撃的だったのが、川田さんの三冠パワーボムです。

──そうだったんですね。

佐野さん 全日本を好きになって、毎週テレビ中継も録画するようになって、結果的に小橋建太(当時は健太)さんの大ファンになりました。オレンジの眩しいタイツで、髪の毛はオールバック、時々は口ひげも生やして、筋肉モリモリで、ムーンサルトプレスやローリングソバットとかもするし。子供心にすごく分かりやすかったです。

──ちょうどいい頃に全日本に出逢ったかもしれませんね。もしその出逢いが1年~2年後なら、三沢VS川田は見れませんから。それにしても意外なチョイスです!では2試合目をよろしくお願いいたします。

佐野さん 1999年5月3日に新日本・福岡国際センター大会で行われた武藤敬司さんと天龍源一郎さんのIWGPヘビー級選手権試合です。天龍さんが雪崩式フランケンシュタイナーをやった試合で、テレビで見たプロレスで一番面白い試合でした。日本における逆輸入されたアメリカンプロレスの集大成というか、二人ともアメリカ時代が長くてターニングポイントになっているじゃないですか。武藤さんはNWAでグレート・ムタが大ブレイクして豪邸が買えるくらいのスーパースターになって、天龍さんはファンク道場で修行し、アメリカでデビューしてて、三度もアメリカ修行を行っている。NWAの匂いがプンプン匂う試合を1990年後半の新日本でやったというのも今にして思えば面白いなと思います。

──武藤さんも天龍さんもNWA世界戦の経験がありますし、NWAを彷彿とさせながら、当時のトレンドも入れた試合でしたね。

佐野さん 武藤VS天龍は、リック・フレアーVSハーリー・レイスみたいなもので、名人戦を見ているようでした。武藤さんはドラゴンスクリューからの4の字固めをフィニッシュにしていましたが、あの頃の新日本は4の字固めと腕ひしぎ十字固め、アルゼンチンバックブリーカーとSTFがフィニッシャーとして通用していたんですよね。活かせるものは磨いて磨いて活かしていく、プロレスのSDGsというか。

──言われてみたらそうかもです!では3試合目もお願いいたします。

佐野さん 初めてプロレス会場で観戦した1999年7月……FMW豊橋大会の第1試合。リッキー・フジさんとフライングキッド市原さんの試合です。生まれて初めて目の前で生観戦した試合が本当にこれで良かったです。「田舎のプロレス、かくありき」です(笑)。

──これぞ地方興行らしい第1試合ですよね!

佐野さん 田舎のプロレス興行だと、タイトルマッチもなければ、その後のストーリーに何か大きな影響を及ぼすような出来事もない。それでもあのリッキーさんと市原さんの試合は本当に面白かった。あれを見たから僕も、プロレスがやりたくなったんだと思います。マットの上をシューズがキュッと擦る音、腕や足を取ったときチッチッと手で皮膚を叩く音がするじゃないですか。後ろに回って引きずり倒す、腕を取るとか。もう最高でした。そういえばよく考えたら僕の名勝負は全部1999年に行われた試合ですね。


今後について


──そうですね!偶然かもしれませんけど。ありがとうございます。それでは佐野さんの今後についてお聞かせください。

佐野さん 小説をいっぱい読んでもらえるように頑張るだけです。書きたいことがいっぱいありますし、それに向かって今でも調べものしに行ったり高い本を買ったり……骨董市で古本を買ったりもしてます。この前も高校時代の先生が副業で古本屋をやっていて、そこで豆類の図鑑があって1700円のところ、500円で買いました。これは面白そうだし、何かに使えるかも。

──素晴らしいです!

佐野さん 豆人間の小説とか書けそうです(笑)
それはともかく普段そうやって知識を蓄えておいて、何か思いついたときにこんなヤツがいたらいいなと思って書くとすごい楽しかったりするので、そういうことがいつでもできるように頑張っていたいです。


あなたにとってプロレスとは?

──ありがとうございます。では最後の質問です。あなたにとってプロレスとは何ですか?

佐野さん プロレスは「遠くからずっと見上げている満天の星空」です。
僕が星空の方に回ってないのがミソです(笑)。リングという板の上に乗ったプロレスラーはスペル・エストレージャですから、星なんです。だから、遠くから見上げている星空で、手が届かないんです。それに尽きます。

──素敵な表現だと思います。これでインタビューは以上となります。佐野さん、長時間の取材に応じてくださりありがとうございました。今後のご活躍とご健康を心よりお祈り申し上げます。

佐野さん こちらこそありがとうございました。

(「私とプロレス 佐野和哉さんの場合」完/第3回終了)









  ジャスト日本です。

 

有名無名問わず、さまざまな分野から私、ジャスト日本が「この人の話を聞きたい」と強く思う個人的に気になるプロレス好きの方に、プロレスをテーマに色々とお聞きするインタビュー企画「私とプロレス」。

 

 

 

 今回のゲストは、ホラー作家の佐野和哉(ダイナマイト・キッド)さんです。

 

 
 



(画像は本人提供です) 

   


佐野和哉(ダイナマイト・キッド)

1986年7月18日生まれ。

170センチ100キロ。


本名の佐野和哉名義での活動のほか

TBSラジオ「伊集院光 深夜の馬鹿力」にも時々、投稿しています。

御用の方は

Kazuya18@hotmail.co.jp

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(プロモーション情報)

普段は小説を書いています。ネット小説大賞11で拙作

タクシー運転手のヨシダさん

が2次審査を通過しました!

ホラー、SFバトル、そのほか不思議な話なども。

よろしければご覧ください。


小説家になろう

https://mypage.syosetu.com/mypage/top/userid/912998/


アルファポリス

https://www.alphapolis.co.jp/author/detail/376432056



私は以前から「小説家になろう」「アルファポリス」で書かれている佐野さんの文章が好きで、過去にこのような記事を書かせていただきました。


キッドさんの味わい~「僕の好きな職人レスラー」&「王道プロレスとストロングスタイルと」レビュー~ 


佐野さんは元々闘龍門に入門した経歴を持つプロレスラーの卵でした。しかし、プロレスラーになれずに挫折した過去があります。恐らくそんな自分がプロレスについて書くことにどこかしらの恐縮さと慎重さも感じるのです。

あと佐野さんはプロレスが好きだけど、それを他人と分かち合うことが少し苦手という印象もあり、だから佐野さんが書く「自分みたいなものがプロレスを書いてすいません」という一種の腰の低さが伝わるんです。

そんな佐野さんとは3時間、ズームでインタビューさせていただきました!



 
是非ご覧ください!




 
 
私とプロレス 佐野和哉(ダイナマイト・キッド)さんの場合
「第2回 板の上に乗る夢」
 





「理不尽大王」冬木弘道さんの凄さと魅力


──ここで佐野さんの好きなプロレスラーについて語っていただきます。一人目は冬木弘道さんです。冬木さんの凄さと魅力とは何だと思いますか?
 
佐野さん 僕は冬木信者なんです。とにかく分かりやすいプロレスラーじゃないですか。昔、作家の内館牧子さんが週刊プロレスで『プロレスラー美男子列伝』という連載をしていましたよね。その冬木さんが取り上げられた回で「おばさんみたいなパーマをして太っていても、ロック様よりもカッコよく見えるときがある」と書かれていて、さすがだなと思いました。




──冬木さんの回は後に書籍版『プロレスラー美男子列伝』(文藝春秋)でも掲載されています。

佐野さん 冬木さんが「ブーイングされてもいい」「俺はカッコいい、マッチョバディだ」と言っていたのはブーイングしてほしかったんだと思ったんです。あの人は日本におけるアメリカンプロレスの権化で、ヒールレスラーなのだからブーイングしてもらわないと始まらない。FMWのエース・ハヤブサさん率いる正規軍を活かすには、冬木さんはヒール集団の親玉としてブーイングを浴びないといけないわけで。勧善懲悪の世界で「どっちが正義」「どっちが悪役」とファンに分かりやすいものを提供することを、冬木さんは徹底されていたと思います。実は現在でもTAJIRIさんが一生懸命にこれを言っていますが、まだ根付いていない気がします。

──確かにそうですね。

佐野さん この冬木さんの考えは神格化され聖域みたいになったストロングスタイルに対する反論でした。恐らく冬木さんは猪木イズムに対して真っ向から反論した最初のレスラーだと思うんです。冬木さんの単行本(理不尽大王の高笑い)に
「ストロングスタイルとか言ってるけど、あんなものベタベタのアメリカンスタイルだぞ。バディ・ロジャースがやってたことじゃないか」
と書いてあったのを初めて読んだ時は感動しました。アメリカンプロレスに心酔し、すべてを学び、エンターテインメントプロレスを標榜していく冬木さんならでは着眼点が冬木軍結成当時すでにあって、信念を持って理不尽大王に君臨しているんだと気がついた時、僕はこの人に一生ついていこうと思いました。だからプロレスごっこでも、冬木さんの得意技である地団駄ラリアットをやってました(笑)。

──ハハハ(笑)。

佐野さん でもその一方で冬木さんは激しい試合も辞さないスタンスで、ハヤブサさんに対してはずっと厚い壁であり続けましたよね。あとミスター雁之助さんと金村キンタローさんには悪役レスラーとしての振る舞いをどんどん教えたのも冬木さんの功績じゃないでしょうか。雁之助さんがターザン後藤さん、金村さんはディック・マードック、ミゲル・ペレス・ジュニアとかにプロレスを教わっているじゃないですか。そういう資質のある人材をボスとして冬木さんがまとめていった。そこが冬木さんの頭の良さ、器のデカさだったのかなと。

──確かにそうですね。

佐野さん あと新日本やWARで行われた橋本真也さんとの一戦や、亡くなる少し前の川田利明さんや三沢光晴さんとの一戦ではすごく綺麗で丁寧なプロレスを展開しましたし。本当はプロレスに対して愛情と熱いハートがあって、かつての仲間に対する情愛もあったけど、プロレスラーとして理不尽大王であり続けた。そこが冬木さんの凄さです。

──素晴らしい考察です。

佐野さん ノアで行われた三沢光晴VS冬木弘道(2002年4月7日・有明コロシアム)は、冬木さんにとって最後のろうそくの灯で、あの後に冬木さんは引退して、翌年には亡くなっていますから。僕は会場で見ていて、冬木さんが病魔に侵されているとも、腰が悪いとも思ってませんでした。

──三沢戦の試合後に冬木さんは四方に頭を下げてましたよね。あれが謎かけだと思いきや、内心は引退の意思を固めていて、挨拶をしたのかもしれませんね。

佐野さん あの試合でセコンドの金村さんが三沢さんにテーブルクラッシュを仕掛けているんです。もしかしたら金村さんが介入して時間を稼がないといけないほど冬木さんのコンディションが相当悪くて、あの当時の三沢さんに太刀打ちできなかったのかもしれません。冬木さんは引退こそされましたけど、ファンに対して本当のことを何も言わないでプロレスラーのまま亡くなった印象があって。「お前が死ぬまでファンでいろ」ということなのかなと僕は受け止めています。

──理不尽大王として悪行三昧をやる冬木さんですが、ちゃんと押さえるところは押さえていて、ビッグマッチになると名勝負が多かったですよね。特に三沢さんとの試合は序盤、クラシックな攻防をやっていて、腕や足の取り合いやアームドラッグ、リープフロッグ、ヒップトスとか基本的なレスリングを展開しているんですよ。

佐野さん 1980年代に若手だった頃に戻っていたのかもしれませんね。全日本の道場で教わったことを繰り返し、繰り返しやっていた頃の記憶というか、僕らには分からないことをやっていても、面白く見れるわけですから、やっぱり一流同士の試合は違いますね。

──以前、マンモス佐々木選手に取材した時に聞いた話なんですけど、FMW道場で冬木さんから「グラウンドのときに体を斜めにして相手の関節を取るのは見栄えが悪い。体を真っ直ぐにして取れよ」とアドバイスされたそうです。この話を聞くと冬木さんは佐藤昭雄さんから教わったことなんだろうなと感じました。

佐野さん 要はアメリカのテレビマッチとか大衆から見られる経験を積んでいる佐藤さんだからこその教えなんでしょうね。

──それはあると思います。佐藤昭雄さんは冬木さん、三沢さん、川田さん、越中詩郎さんを教えた名伯楽で、ジャイアント馬場さんの一番弟子で、馬場さんのプロレス学を言語化できたのが佐藤昭雄さんの凄さで、冬木さんは佐藤さんの理論を一番継承されているんじゃないかなと思います。

佐野さん 確かに冬木さんはプロレスが理詰めですよね。天才肌の三沢さんや川田さんに対して冬木さんは運動神経がよくないと自認しているから、やっぱり頭を使ってのしあがっていったんでしょうね。

──佐藤さんは選手の特性によって、教え方を変えていて、三沢さんにはこんな感じにやったらいいよという感じでアドバイスして、冬木さんには「この動きはこうすればできる。なぜならこうなんだ」ときちんと理論で説明して教えたそうです。

佐野さん そうだったんですね。佐藤昭雄さんはWWF(現・WWE)時代の新崎人生さんのマネージャーも務めているし、佐藤さんの師匠は馬場さんだから、あの時代のWWFに馬場イズムが紛れ込んでいたというのは面白いですね!

──WWFは何気に馬場イズムかもしれませんね。冬木さんの教えを継承しているのが外道選手で、彼が現在、新日本の現場を仕切っているわけですから、新日本にも冬木イズム、佐藤昭雄イズムが入っているかも。

佐野さん でも冬木さんの教えは理詰めで基礎は作ることはできるけど、やはり天才を生み出すことはできなかったのではないかなと思います。以前、伊集院光さんが「理屈を覚えると天才は作れない」と言っていたことがあって。伊集院さんも理詰めでお笑いを作る人で、そうして生きて来たことを振り返って
「食えるけど大ブレイクはしない」「素で面白かったやつが理屈を覚えると面白くなくなっちゃう」「俺は野球でいうところの二番バッターしか任せてもらえない」と言っていて。
FMWも団体内ではレベルが高くて面白いと思っていても、いざ団体から飛び出して活躍をした人は限られていて、ハヤブサさんとか田中将斗さんとか。邪道さんと外道さんはFMWを離れてから紆余曲折があって新日本にたどり着いた。冬木さんも冬木なりに、かつての佐藤さんの役割をやっていたのには、なんか昭和のプロレスラーの矜持を感じます。

──冬木さんは天才を生み出すことはできなかったかもしれませんが、長持ちするレスラーは育て上げたかもしれませんね。

佐野さん それはありますね。


「世界の究極龍」ウルティモ・ドラゴン選手の凄さと魅力

──ありがとうございます。では佐野さんの好きなプロレスラー二人目である闘龍門のウルティモ・ドラゴン選手。佐野さんは闘龍門でプロレスラーを志していた時期があるので、さまざまな想いがあると思います。ウルティモ選手の凄さと魅力について語ってください。

佐藤さん 校長は自己プロデュースの権化のような人で、プロデューサーや人材育成の部分では冬木さんよりも抜きんでていたと思います。以前、校長から「弱くてもいい。プロレスが好きならプロレスをできる道を自分で探しなさい。どうしてもプロレス界で生きていきたいのなら、自分でキャラクターや活かせる場所を見つけないといけない。俺は一回だけキャラクターを付けてやるけど、それをものにできるのかはお前次第なんだ」と言っていたことがありました。これがプロレスラーとして生き抜くうえでの処世術なんだなと思います。
──説得力がありますね。

佐野さん 僕が校長を好きになったのは1996年のJ-CROWN(ジュニアヘビー級8冠統一トーナメント)でした。あの時の校長がカッコよすぎて、眩しくて、その光を追っかけて後に僕は闘龍門に入ったんです。

──ウルティモ選手は世界での評価は高いですけど、日本でもっと評価されていいプロレスラーですよね。

佐野さん 本人は「こんなことをしてきた」とかあまり言わない人で。世界的な知名度があって、左腕が医療ミスで動かなくなることもあったんですけど、それを乗り越えた苦労とか自慢を言わない。人に弱みを見せない。で、Instagramを見るといつもシガーとかワインを嗜んでいる(笑)。でも僕は校長がその境地にたどり着くまでファンとして、ちょっとだけは闘龍門の練習生として見ているんです。世界中を飛び回って、試合ではマスクマンに変身して、休日は優雅に過ごして。男の子の理想を具現化したような憧れのヒーロー。校長の凄さと魅力は、そうしたカッコよさと裏腹な、無言の影にあるダンディズムじゃないでしょうか。


「爆弾小僧」ダイナマイト・キッドの凄さと魅力


──ありがとうございます。では佐野さんがプロレスをハマるきっかけとなったダイナマイト・キッドの凄さと魅力について語ってください。

佐野さん キッドは荒っぽいイメージがありますが、割と正統派なんですよ。イス攻撃とかあまりやらないじゃないですか。彼の凄さと魅力は「やっていることは乱暴極まりないんですけど、己の肉体が凶器になってるために、意外と正々堂々とした試合が多かった」ことです。初代タイガー戦はレスリングの攻防も凄かったんですけど、やはり激しい殴り合い蹴りあいが毎回面白い。荒っぽいけど自分の肉体と実力で真っ向勝負に挑むキッドの心意気が好きでした。

──初代タイガーのライバルになった選手たちは荒っぽいことをしたり、反則をやっても凶器攻撃はしていなんですよね。

佐野さん そうなんですよ。小林邦昭さんもマスクに手をかけたことはあっても、実力で挑んでましたし、初代ブラック・タイガーは足ばかり攻撃しても、足にイス攻撃はしませんでした。あとフィッシュマンやスティーブ・ライトやピート・ロバーツもよかったですよね。

──初代タイガーが引退して、新たなヒーロー候補としてザ・コブラが出現してキッドと抗争を繰り広げた時に観客はキッドを応援したんですよ。

佐野さん そこからキッドは全日本に移籍して、マレンコ兄弟とのタッグマッチが最高でした。キッドの選手生命は短かったですけど、極限まで肉体を鍛えて、相手に思いっきり攻撃して、相手の攻撃を思いっきり受け止め、自身の肉体を酷使していったスタイルは誰にも真似できないですし、彼は一代限りだったと思います。


「稲妻仮面二世」ラヨ・デ・ハリスコ・ジュニアの凄さと魅力


──ありがとうございます。では佐野さんの好きなプロレスラーであるラヨ・デ・ハリスコ・ジュニア(「稲妻仮面二世」と呼ばれるメキシコの覆面レスラー。父ラヨ・デ・ハリスコ直伝のトペ・デ・レベルサ=背面プランチャが得意技)の凄さと魅力について語ってください。

佐野さん 世界一美しいルチャドールです。姿や形、ひとつひとつの動作や仕草の全部が美しく完成されていて、完全なヒーローがラヨ・デ・ハリスコ・ジュニアでした。例のレンタル屋さんにあったCMLL JAPANのビデオを見て「こんな凄い人がいるんだ」とハマりました。

──他のルチャドールと何が違うんですか?

佐野さん 所作の完成度ですね。そこまで難易度の高い飛び技をする選手ではなくて、むしろ地味で動きもある程度決まっている。相手が場外に出たらトぺ・スイシーダで追い打ちして、リングに戻してから大技を決めて3カウントを取るというオーソドックスな感じが最高で、それが見たくて仕方がなかったんです。

──ラヨ・デ・ハリスコ・ジュニアは闘牛士のコスチュームでリングに上がりますよね。

佐野さん そうなんですよ。闘龍門の面接でも「好きなプロレスラーは?」と聞かれた時にとっさに「ラヨ・デ・ハリスコ・ジュニアです!」と言うほど好きで、とにかく理屈を越えた美しさがあるんです。


「千里役者」松山勘十郎選手と松山座の凄さと魅力


──ありがとうございます。実は佐野さんは好きなプロレスラーとして松山勘十郎選手、好きなプロレス団体で松山座を挙げているんです。そこで松山勘十郎選手と松山座の凄さと魅力を思う存分語っていただきたいです。

佐野さん そもそも松山座というのは松山勘十郎さんが業界や選手をちゃんと見てきた上で、ご自身の考える理想のプロレスを具現化している世界だと解釈しています。
興行で有名な選手を呼んでいいカードを組むのは当たり前じゃないですか。最近、松山座の興行ポスターを見ると、あまり魅力が伝わりにくい選手が連ねていたりするケースが多いんです。まだ全国区で名前は売れてないローカルレスラーや非メジャーの選手とか。

──松山座にはまだまだ知名度が低いレスラーが多く参戦しているんですね。

佐野さん はい。でも松山さんが選出したまだ名前が知られていない選手の試合にほとんどハズレがない。あの人のプロレスに対する洞察力と目利きは凄くて、本当に異常ですよ。プロレスラーを見る目は厳しくて絶対に妥協はしないので、そこから選ばれているレスラーだけが松山座に出場しています。だから知らない選手同士であっても、試合が終わると「この選手でよかった」と納得できるんです。出場している各々の選手が持っている魅力を引き出して、お客さんに提供するプロデュース能力も松山さんは凄いんですよ。

──名プロデューサーじゃないですか。

佐野さん それが松山さんの試合や松山座なんです。初期の松山座は大阪プロレス時代の選手に独自のキャラクターを付けて、その各試合にテーマを設けていました。
例えば松山さんの試合だと、自分が憧れた選手と闘う試合なら「見我夢之力(みよわがゆめのちから)」という演目がついている。すると何となくお客さんは字面から試合がイメージしやすいですよね。

──確かにそうですね。

佐野さん でも数年前からそれすら明かさなくなった。それは選手やファンがこの試合カードを組んだだけで意味を考えてくれるようになったという自信が松山さんにあったと思うんです。あと松山さんは固定客だけじゃなくて新規の、プロレスを知らないお客さんも増やしたいと考えていて、マンネリ化を嫌うんです。ずっと松山座に出ている選手はほとんどいなくて、今出ている選手もいつまで呼ばれるか分からない。

──お客さんに飽きられるのが嫌なんでしょうね。

佐野さん 校長を超えたのはオカダ・カズチカさんかもしれません。そして校長に一番近いことをやっているのは案外、松山さんじゃないかなと思います。他の闘龍門の選手はレスラーとしてガンガンやってますよね。松山さんはレスラーだけじゃなくて、人を育てたり発掘したり、興行を手掛けるプロデューサーとして活躍しています。その部分が校長を彷彿とさせるんです。あと松山さんはどんな対戦相手とでもプロレスができる職人肌の試合巧者だとも思います。

──まったくそのような雰囲気を出さないで松山座をやっている印象があるのも凄いですね。

佐野さん 普段の松山さんは根がおとなしくて、周りに気を遣ってくれる優しい人です。あとよく人を観察してます。


闘龍門でプロレスラーを目指した3ヶ月


──ありがとうございます。先ほどから少しずつ話に上がっていますが、佐野さんはかつて闘龍門でプロレスラーを志していた時期がありましたよね。在籍期間はどれくらいでしたか?

佐野さん 3か月くらいでした。

──実際に在籍してみて、闘龍門というプロレス学校はいかがでしたか?

佐野さん 練習は厳しいですけど、みんな優しかったです。僕の場合、単純に根性がなくて挫折しただけなので……松山さんとは今でもお付き合いがありますし、他の先輩方も久しぶりに会場で会うと覚えていてくれるんです。闘龍門の道場は設備が整っていて、リングはいつでもあるし、ウェイト器具も校長が買い揃えたものなので、いい品物が多かったです。環境もよくて、先輩方も素晴らしかった。この上ない状況が整っている闘龍門でプロレスラーになれないのなら、どこ行ったって無理ですよ。気持ちが強くなければ。


──その言葉はなかなか実感がこもってますね。

佐野さん メキシコという異国のど真ん中で生まれて初めて孤独のようなものを感じて、どうなってしまうのかという不安に押し潰れてしまって、僕はプロレスラーになることを諦めました。
すごく情けないことなんですけど、プロレスも怖くなって……。僕は闘龍門では松山さんと同部屋だったんですけど、挫折し始めた時期にはアメリカ遠征に行っていたのでひとりっきり。もうプロレスを辞めようと思いつめてました。でも他の選手が部屋に来てくれて声をかけてくれたり、励ましたりしてくださったんです。
ツトム・オースギさんが「俺たちはプロレスを辞めたいと言っているヤツを止めたりしないんだぞ。だけど何人がお前のことを引き留めているんだ?」と激励してくれたんですけど、それでも僕はプロレスが怖くなって、つらくなって辞めてしまったんです…。

──怖さと辛さには耐えらなかったということですね…。

佐野さん でも闘龍門の皆さんは優しい人たちばかりで、本当にお世話になりました。ある日、アミーゴ鈴木さんと一緒にバスに乗った時に言われたことを忘れません。「佐野、つらくないか? 俺も身内に不幸があったけど帰れなかったことがあったよ。お前もつらいかもしれないけど、今は我慢して、気持ちを強く持てよ」と。CHANGOさんや堀口ひろみさんも一緒に買い物に連れ出して下さったり、寮にひとりでいると声をかけてくれたり。同期で今も現役のHANAOKAくんには「佐野くん、プロレスを辞めてどうするの? 俺、プロレス以外にやることないよ」と言っていて、有言実行で頑張っていますから頼もしいです。

──皆さん、優しいですね……。

佐野さん 大原はじめさんにもすごく可愛がっていただきました。僕はプロレスラーになれませんでしたが、あの3か月間、かけがえのない素晴らしい人達に恵まれたと思います。厳しいところで怒られたことはありますが、いじめられたことはありません。嫌な思いなんて全くしてなくて、自分にプロレスラーになる覚悟がなくて辞めているので……誤解や偏見でそれが他の人のせいになるのは心外なんですよ。

──素晴らしいです。

佐野さん 僕が闘龍門に入った頃に、大原はじめさんが「俺たちは絶対にいじめは辞めようと話し合って決めたんだ。みんな俺たちの仲間なんだよ」と言ってくれて。みんな厳しかったですけど、優しくて団結してました。

──闘龍門時代の話を聞くと佐野さんらしいなと思います。佐野さんのプロレスをテーマにした文章にはリスペクトと共に劣等感みたいなものを感じるんです。プロレスラーになれなかった負い目を抱えながら、それでもプロレスを愛しているという世界観が素晴らしいんです。

佐野さん 恥ずかしいです(笑)。でも嬉しいです。



──劣等感があるから、ひねくれてしまうのではなく、「僕みたいな人間が書いていいのか?でもプロレスを伝えたい」という恐縮さを佐野さんの文章から感じるんですよ。

佐野さん インディー、ローカル、強いのか、弱いのかとか関係なくて、リングという板の上に乗って「プロレスラーになる」という夢を叶えている時点で彼ら、彼女らの勝ちです。板の上に乗れなかった僕の負けです。

(第2回終了) 





 ジャスト日本です。

 

プロレスの見方は多種多様、千差万別だと私は考えています。

 

 

かつて落語家・立川談志さんは「落語とは人間の業の肯定である」という名言を残しています。

 

プロレスもまた色々とあって人間の業を肯定してしまうジャンルなのかなとよく思うのです。

 

プロレスとは何か?

その答えは人間の指紋の数ほど違うものだと私は考えています。

 

そんなプロレスを愛する皆さんにスポットを当て、プロレスへの想いをお伺いして、記事としてまとめてみたいと思うようになりました。

 

有名無名問わず、さまざまな分野から私、ジャスト日本が「この人の話を聞きたい」と強く思う個人的に気になるプロレスファンの方に、プロレスをテーマに色々とお聞きするインタビュー企画。

 

それが「私とプロレス」です。

 

 

 

 今回のゲストは、ホラー作家の佐野和哉(ダイナマイト・キッド)さんです。

 

 
 



(画像は本人提供です) 

   


佐野和哉(ダイナマイト・キッド)

1986年7月18日生まれ。

170センチ100キロ。


本名の佐野和哉名義での活動のほか

TBSラジオ「伊集院光 深夜の馬鹿力」にも時々、投稿しています。

御用の方は

Kazuya18@hotmail.co.jp

までどうぞ。


(プロモーション情報)

普段は小説を書いています。ネット小説大賞11で拙作

タクシー運転手のヨシダさん

が2次審査を通過しました!

ホラー、SFバトル、そのほか不思議な話なども。

よろしければご覧ください。


小説家になろう

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アルファポリス

https://www.alphapolis.co.jp/author/detail/376432056



私は以前から「小説家になろう」「アルファポリス」で書かれている佐野さんの文章が好きで、過去にこのような記事を書かせていただきました。


キッドさんの味わい~「僕の好きな職人レスラー」&「王道プロレスとストロングスタイルと」レビュー~ 


佐野さんは元々闘龍門に入門した経歴を持つプロレスラーの卵でした。しかし、プロレスラーになれずに挫折した過去があります。恐らくそんな自分がプロレスについて書くことにどこかしらの恐縮さと慎重さも感じるのです。

あと佐野さんはプロレスが好きだけど、それを他人と分かち合うことが少し苦手という印象もあり、だから佐野さんが書く「自分みたいなものがプロレスを書いてすいません」という一種の腰の低さが伝わるんです。

そんな佐野さんとは3時間、ズームでインタビューさせていただきました!



 
是非ご覧ください!
 
 
私とプロレス 佐野和哉(ダイナマイト・キッド)さんの場合
「第1回 きっかけはウルトラマン」
 


佐野さんがプロレスを好きになったきっかけ


──佐野さん、このような企画にご協力いただきありがとうございます!今回は「私とプロレス」というテーマで色々とお伺いしますので、よろしくお願いいたします。
 
佐野さん こちらこそよろしくお願いします!

──まずは佐野さんがプロレスを好きになったきっかけについて語ってください。

佐野さん 僕は、プロレスより前にウルトラマンが好きだったんです。ある日もおじいちゃんに連れて行ってもらったんですけど、円谷プロのウルトラマンとルチャリブレのウルトラマンを間違えてビデオを借りてしまったんです(笑)。


──ハハハ(笑)。

佐野さん 近所のビデオ屋は特撮とプロレスのコーナーが近くて、ウルトラマンがあって仮面ライダーがあってシャイダーとかギャバンとかあるじゃないすか。その隣にタイガーマスクのビデオがあったんです。初代タイガーマスクの試合が収録されたVHSのパッケージにウルトラマンと書いてあったのを見て、「ウルトラマンが出てくるのかな」と思って借りました。すると全然ウルトラマンが出てこなくて、代わりに出てきたのが銀色のマスクを着用した上半身裸の人で。実況の古舘伊知郎アナウンサーが「劇画の世界から登場した夢のヒーロー対決!」とか言っていて。それがルチャリブレのウルトラマンだったんです。



──ちなみに何歳の時ですか?

佐野さん 5歳でした。ちょうどテレビで仮面ライダーBLACKをやっていて、特撮にハマっていたんですよ。


──初代タイガーのVHSはレンタルビデオ屋で借りて何度も見ましたけど最高ですよね!そこからどのようにプロレスを好きになったのですか?

佐野さん 初代タイガーのVHSに出ていたダイナマイト・キッドの試合を見てハマっちゃったんです。初代タイガーのデビュー戦の相手がキッドで、ライバルとして抗争を繰り広げていたじゃないですか。ほかにも対戦相手はブレット・ハートとか男前もいれば、華麗なマスクマンもいて、渋い寺西勇さんもいる中で、ダイナマイト・キッドは仮面ライダーに出てくるショッカーの怪人みたいだったんです。筋骨隆々で顔もカッコよくて怖い。初代ブラック・タイガーやスティーブ・ライトは試合が丁寧ですよね。でもキッドはすぐ殴って蹴ってボコボコにして場外に行ってフェンスに叩きつけたりするので、僕には怪獣に見えたんですよ。最初は借りるビデオを間違ったことがきっかけでしたが、キッドの試合からプロレスというものが僕の中にしっかり入り込みましたね。

──いい出会いじゃないでしょうか。もし初代タイガーVSウルトラマンだけ見たら、プロレスを好きになっているか分からないですよね。

佐野さん そうですね。


初めてのプロレス観戦

──ちなみに初めてのプロレス会場観戦はいつ頃ですか?

佐野さん 13歳、中学1年の時です。1999年7月、エンターテインメントプロレスを突き進んでいた頃のFMW豊橋大会を見に行きました。当時は田中将斗さん、邪道さんと外道さんもいて、あとスーパー・レザー(オリジナル・レザーフェイス)もいて、アルマゲドン1号とアルマゲドン2号がいました。

──アルマゲドンズは後にWWEでジャマール(アルマゲドン1号)とロージー(アルマゲドン2号)の「スリー・ミニッツ・ワーニング」で活躍してます。

佐野さん ミスター雁之助さんと金村キンタロー(当時は金村ゆきひろ)さんと邪道さんがトリオを組んで入場口でブリブラダンスを踊っていたので、一緒に踊ってました(笑)。

──ハハハ(笑)。

佐野さん 母親に誕生日プレゼントだからといって頼み込んでリングサイドの最前列の席のチケットを買ってもらって。で写真を撮ってたらスーパー・レザーにチェーンソーで追っかけまわされて。あの時は本当に「殺される!」と思いました。


──怖い体験をされましたね。

佐野さん ちなみに第1試合がリッキー・フジVSフライングキッド市原で、これは忘れられない試合です。生まれて初めて目の前で観たプロレス…それがリッキーさんと市原さん。チケットを握りしめて、買ったばかりのパンフレットを持って観たこの試合は5分くらい投げ技もなくてずっと腕や足を取りあいで、リングのキャンパスをシューズがキュッキュッとこする音と、リッキーさんと市原さんの息遣いだけが聞こえてくる。最初にリッキーさんがボディスラムで投げたんですけど、あの一発で僕の心を持っていかれました。ただ勝敗は覚えていません。

──プロレスのお手本のような試合だったんですね。

佐野さん はい。あとリッキーさんのカミカゼを生で観れて感動したんですよ。あの頃の僕はFMW一直線でしたね。


「エンターテインメントプロレス」FMWの凄さと魅力


──佐野さんは好きなプロレス団体のひとつにFMWを挙げています。FMWの凄さと魅力について語ってください。

佐野さん 僕が見ていたFMWは人間でいえば晩年だったと思うんですよね。2002年に団体は崩壊してますから。従来のデスマッチ路線からエンタメ路線になって、ハヤブサさん、田中さん、黒田哲広さんといった大仁田厚さん時代のFMWで育った選手たちがめちゃくちゃすごい試合をするようになって。ハイレベルな攻防にプラスして後楽園ホールの通路の階段からフランケンシュタイナーをやったり破天荒な動きもあって。ハヤブサVS田中なんてメジャーと見劣りしないほどハイレベルな攻防をしてきたFMWなんですが、この境地に達するまでには、それこそ大仁田さん時代の泥臭さがあって。でも、そこから激変した。よくあそこまで変わったなと。


──言われてみればその通りですね。

佐野さん あのまま大仁田さん一代で1995年にFMWが終わっていたら、今のプロレスはガラッと変わってるはずなんです。2000年代に入って誕生したゼロワンやハッスル、FREEDOMSとかはなかったかもしれません。あの頃、FMWで育ってそこから巣立っていった人材は離れ離れになりましたが、その結果さまざまな団体で活躍したわけです。

──確かに!

佐野さん 僕は創世記のFMWをリアルタイムで見たかったです。リーガクスーがいて、ロシアのグリゴリー・ベリチェフがいて、アミーゴ・ウルトラがいて、松永光弘さんやミスター・ポーゴさんがいて。クセの強いジプシーが集結したリングを大仁田さんがどうにか形にしちゃっていた、あの胡散臭い場末感がたまらなく好きなんです。

──確かに!

佐野さん FMWは創世記の胡散臭い歴史と新生以後のハイレベルで素晴らしい試合のあった歴史とを、長い年月を経て一緒に持っている稀な団体だと思います。それがFMWの凄さと魅力です。今でも一番好きなプロレス団体はFMWです。

──1990年代後半のFMWの試合はレベルが高くて、今の時代でやっても通用するくらいなんですよ。

佐野さん FMW後楽園ホール大会のシングルマッチは絶対に外れがなかったですよね。あと田舎の第一試合からビッグマッチのメインイベントまで、ちゃんと序盤でレスリングの攻防をやってくれるのも魅力ですね。


「応援したくなる団体」愛媛プロレスの凄さと魅力


──ありがとうございます。では佐野さんの好きなプロレス団体・愛媛プロレスの凄さと魅力について語ってください。

佐野さん やり方は幾分かスマートになったかもしれませんが、昔、僕がハマっていたインディープロレスの世界観を持つのが愛媛プロレスの魅力かなと思って注目しています。松山勘十郎さんが何年か前から松山座の各公演にライジングHAYATOさんを筆頭に色々な愛媛プロレスの選手を呼ぶようになったんです。そこにイマバリタオル・マスカラスという今治タオルがモチーフの覆面レスラーがいて、ドラゴンゲートのしゃちほこマシーンさんと対戦した試合が凄くよかったんです。イマバリタオルさんは、ドラゴンゲートに憧れてプロレスラーにたったそうで。爽やかで人気が出そうだなと思いまして、彼の試合を見て愛媛プロレスが好きになりました。

──ライジングHATATO選手ではなく。

佐野さん はい。確かにライジングHAYATOさんは愛媛プロレスと全日本プロレスの二団体所属レスラーなので有名ですが、イマバリタオルさんもそのうち有名になってメジャーに出れます。ご当地レスラーで人気が出るのはほっとけないレスラーだと思うんですが、まさにイマバリタオルさんはほっとけないレスラーなんです。ほっといても人気が出そうな人がメインストリームに駆け上がると、みんなそこに群がるように行くでしょ。でも同じ仲間だから盛り上げようとするけど、脇にいる人たちだって心中は複雑だと思うんです。でもその脇にいる人たちを応援するファンこそが実は団体を支えていたりするんですよ。

──確かにそうかもしれません。

佐野さん イマバリタオルさんは運動神経もよくて、カッコいいし、ファン対応も素晴らしくて、自分のことをよく分かっているんです。そう考えた時にHATATOさんやイマバリタオルさんのような優秀なレスラーを育成できていて、次の人材も輩出しているローカル団体というのが愛媛プロレスの凄さです。人材育成の循環がよくて、次々にスターが現れる団体というのは世の中が変わっても残っていくような気がします。そのサイクルが途絶えた時に団体の勢いが途絶えてしまってやがて崩壊していくわけで……何が原因でそうなるのかはまだ考え中ですが、愛媛プロレスを見ているとそれがよく分かるんです。


──なるほど。

佐野さん 愛媛プロレスは、これからの日本のご当地プロレスのあり方としてひとつのモデルケースになっていると思います。団体の代表のキューティエリー・ザ・エヒメさんは松山市の市議会議員もされていて、発信力と行動力があるのも凄いところです。やっぱり愛媛プロレスはほっとけない団体で、頑張ってるし、応援したくなるんです。



「ルチャリブレの正道」CMMLの凄さと魅力


──ありがとうございます。次に佐野さんが好きなプロレス団体CMLLの凄さと魅力について語ってください。

佐野さん CMLLは100年近くの歴史があって、栄枯盛衰をずっと見てきた団体で、いろんな選手が現れては消えて、潰されてはまた上がってきたんです。この団体の凄さと魅力は、伝統と進化です。アレナ・メヒコ(「ルチャリブレの聖地」と呼ばれるメキシコシティにあるCMLL所有の屋内競技場)を持っているだけでCMLLの勝ちです!あの会場ほど美しいプロレス会場はないですよ。

──アレナ・メヒコはCMLLそのものですよね。

佐野さん 闘龍門の練習生だったころ、アレナ・メヒコで自主興行がありまして。メキシコの有名な選手や初代タイガーの佐山聡さんも参戦した大会だったんですが。僕は手伝いでリングの周りを走り回っていたんです。客席の間の通路には白いペンキで塗ったすのこが敷いてあって、メキシコ人がいい加減なモップをかけていたからなのかびしょびしょに濡れてて、用事で呼ばれてそこを走った時に思いっきり滑って、すのこの上で受け身を取ったんです。


──えええ!!

佐野さん 仰向けにひっくり返ったままで受け身の「バシーン」という音を聞きながら、アレナ・メヒコの天井がグルグル回っていたんですけど、あの高い天井を見上げて「なんて美しい場所だろう」と。
たった数秒の出来事ですが、本当に尊い時間でした。アレナ・メヒコは外から見ると古びたコンクリートの建物で、子供が覆面を被って走り回っていて、選手もウロウロしていて、急斜面の客席にはメキシコ人がわんさか並んでいて、試合になるとお客さんが大挙して来場するわけで。あれこそが歴史の産物であり、ルチャリブレの歴史そのものなんです。そして、アレナ・メヒコを持っているCMLLこそ、ルチャリブレの正道であり、伝統なのかなと思います。


──確かに!

佐野さん 夢や希望だけじゃなくて、情念、怨念、嘘、人間の醜さとかも渦巻状にグルグル巻いているのがアレナ・メヒコで、その会場を所有しているCMLLこそ、僕にとってのルチャリブレそのものです。


──ちなみにCMLLの進化はどのようなところに感じますか?

佐野さん 最近、僕が面白いなと思ったのがInstagramで、選手がパッと飛んだり、飛びついたり、技を仕掛けたり、受けたりする様をスローで撮っていて、腕や足の筋肉の動きや目線とかが全部じっくり見えるし分かっちゃうんです。ひとつひとつの身体の動きを熟知し、かつ洗練されたスキルがあるからこそできることで、ごまかしがきかない。配信時代だからこそ堪能できるルチャリブレの進化じゃないでしょうか。

──それは分かりやすいです。飛び技ひとつでも1ミリのズレがないから芸術品になるんですね。

佐野さん スマホで見てる今の人たちにどういうふうに楽しんでもらうか、をよく考えてますよね。スローで見てもCMLLの選手の動きには粗が少ないんですよ。ひとつひとつは絵画のようでもちゃんと通常再生すると技が鮮やかに決まっているんです。常に見せ方や見え方を考えているのが所作で伝わるんですよね。それを分かりやすく我々に提供しているのも、CMLLの進化のひとつじゃないでしょうか。

──素晴らしいです。その視点で語ったのは聞いたことがなかったので、勉強になりました。

佐野さん ありがとうございます。それは恐縮です(笑)。

(第1回終了)





 

 ジャスト日本です。

 

有名無名問わず、さまざまな分野から私、ジャスト日本が「この人の話を聞きたい」と強く思う個人的に気になるプロレス好きの方に、プロレスをテーマに色々とお聞きするインタビュー企画「私とプロレス」。

 

 

 

 今回のゲストは、YouTubeをプロレス動画を配信し続け、イベントにも出演されているプロレス研究家のマスクド・マハローことマハロー・カタヤマさんです。

 

 
 


(画像は本人提供です) 

 


 マスクド・マハロー(マハローカタヤマ)


BI砲時代からプロレスを見続けているプロレス研究家。
闘道館にてプロデュースイベント3回開催。
毎週末YouTubeチャンネル『昭和プロレス列伝』にてライブ配信
毎回異なるテーマで昭和のプロレスを深掘りする
&今のプロレスを語る「週刊・プロレスジャーナル」を配信しています。
 

【プロモーション情報】
 
  YouTubeチャンネル『昭和プロレス列伝』
  https://www.youtube.com/@introducingprowrestling8445
 
 闘道館イベント
・ 2019/3/9「プロレスファンがハワイを100倍楽しむ方法」
https://www.toudoukan.com/page/$/page_id/4323/

・2020/3/14 『プロレス温故知新』
https://www.toudoukan.com/page/$/page_id/5097/

・2023/10/15 プロレス温故知新2
https://www.toudoukan.com/onko2



マハローさんの取材はなんと3時間半に及びました。とにかくプロレスを骨の髄まで愛して深堀りしているマハローさんの超マニアックトークが炸裂した回となりました。


 かなりディープですよ! これぞプロレス研究家・マハローさんの面目躍如!
 
是非ご覧ください!
 




 
私とプロレス マハロー・カタヤマさんの場合「最終回(第3回)マハローさんが選ぶ名勝負とは!?」
 



マハローさんが選ぶ名勝負



──ここでマハローさんの好きなプロレス名勝負を3試合選んでください。
 
マハローさん 1試合目はアントニオ猪木VSアンドレ・ザ・ジャイアント(新日本/1977年6月1日・愛知県体育館/NWFヘビー級選手権試合)です。猪木さんとアンドレはこれまで幾度もシングルマッチを行ってきましたが、このNWF戦がものすごくスイングしてました。アンドレもノリノリでしたから。猪木さんがローリングクラッチホールドや逆さ押さえ込みをやったり、アンドレのカナディアンバックブリーカーを猪木さんが切り返したりとか。猪木さんとアンドレが信頼関係があるので、いい試合が多いんですけど、特に名古屋のNWF戦は素晴らしかったです。

──今思えば猪木さんとアンドレは10年くらいライバル関係だったんですよね。

マハローさん そうなんですよ。猪木さんはアンドレによって輝きますし、アンドレも猪木さんによって輝く。お互いが高める存在だったと思います。アンドレは新日本の対戦相手で心を許したのは恐らく猪木さんとスタン・ハンセンくらいかもしれませんね。他の新日本のレスラーにアンドレは心を許してなかったように思います。

──そうだったんですね。

マハローさん アンドレもダイナマイト・キッドもそうですが、全日本に行くと丸くなってましたね。新日本の場合はミスター高橋さんが外国人レスラーに色々と焚きつけていて、「本気でお客さんを殴っていい」「色紙をもらったら書かないで破れ」とかを言っていて、それを外国人レスラーは実行していたようです。

──ガイド役が吹き込んだ情報を外国人レスラーが則ってやっていたわけですね。

マハローさん 「猪木さん以外はみんな敵」という教えが新日本の外国人レスラーにはあったようです。新間寿さんはレスラーじゃないので、18時30分に興行スタートなら18時になると控室に入れてもらえなかったのでレスラーを焚きつけることはなくて、ミスター高橋さんがレスラーを焚きつけていたようです。

──だから高橋さんは色々な裏話をネタにしてプロレス本を書けるんですね(笑)。では2試合目をお願いいたします。

マハローさん ジャンボ鶴田VSキム・ドク(全日本/1978年9月13日・愛知県体育館/UNヘビー級選手権試合)です。

──中井祐樹さんがベストバウトに選出していた試合ですね!

マハローさん そうなんですね。この試合の前に戸口(キム・ドク)さんの頭に生卵が当てられて、新調したガウンが卵だらけになったんですけど、それでもめげずに鶴田さんと真っ向勝負をした名勝負で、互いに互いの攻撃を受け切った激闘でした。後に戸口さんに話を聞く機会がありまして、「鶴田戦は前日から燃えていたよ」と言ってました。戸口さんは直接話すとプロレスのことを丁寧に教えてくれるので、僕は好きな人です。

──鶴田さんはインサイドワークを使った試合が好きな印象があって、その鶴田さんの土俵で闘えた日本人レスラーはやはりキム・ドクさんだったように思います。

マハローさん おっしゃる通りです。戸口さんは未だに「ジャンボが一番」と言いますから。

──ドクさんは後に新日本に移籍するまで、「全日本第三の男」として活躍されますが、あのまま全日本に残り続ける世界線が見たかったですね。

マハローさん そうですね。天龍源一郎さんが出てこれなかったかもしれません。

──それはあり得ます。ちなみに中井さんは鶴田VSドクを大絶賛されてましたよ。

マハローさん  そうなんですね。これは別の話ですが、中井さんがおっしゃっていることかどうかは不明です。柳澤健さんの『1984年のUWF』(文藝春秋)の中で中井さんが「中学の時のプロレスごっこでキャメルクラッチをかけたけど、ギブアップを取れなかった。それがプロレスを見切った原因」という内容を言ったと書かれていて、それを鈴木秀樹選手に言ったんですよ。

──おおお!それは回答が気になります。

マハローさん 鈴木選手は鼻で笑って、「キャメルクラッチは岡林裕二がギブアップを奪っているし、座り方によっては凄いギブアップを取れる技なのに、なんで素人のアイツに分かるんだ。中井さんも怒っているんじゃないの⁈」と。

──中井さんの中にも柳澤さんの本にはいくつかの疑問があるかもしれませんよ。

マハローさん そうですよ。中井さんのプロレス愛は鈴木選手からもジャストさんのインタビューからも分かっていたので、そういうことを言うわけないと思いますよ。柳澤さんはプロレスをビジネスの道具として扱って文章を書かれている人じゃないですか。Facebook上で関わったことがありましたけど、「プロレスを好きですよ」と柳澤さんは言うけど、プロレスを愛してはいない。「私は知ってますよ。プロレスはショースポーツで、総合格闘技PRIDEやRIZNは真剣勝負ですよ」というスタンスがどうかと思いますよ。だから中井さんはキャメルクラッチのエピソードはしたかもしれませんけど、それを「プロレスは八百長」という論調に持っていったのが柳澤さんなんですよ。

──柳澤さんはプロレスは好きなんでしょうけど、書くとなると商業的になるかもですね。商業的になるのは構わないんですけど、問題は商業の仕方にあると思います。

マハローさん そうなんですよ。柳澤さんは「プロレスはショー」という書き方をします。アメリカではカミングアウトしていたり、ミスター高橋さんの暴露本の影響もありますが、
「お前に何が分かるのか?」と。だから中井さんのキャメルクラッチの下りは凄く柳澤さんに対して強い憤りを感じました。中井さんは純粋にプロレスを愛しているに、それを湾曲して伝える人がいるから厄介なんです。

──柳澤さんは最初から仮説があって、そこに導くために関係者にインタビューをして自身の仮説を正当化するんです。

マハローさん 結論ありきなんですよ。 柳澤さんの作品はノンフィクションのように見せているけど、実はフィクションなんですよ。

──俗にいう「柳澤史観」ですね。

マハローさん 鈴木選手も「フィクションでしょうね」と言ってましたよ(笑)。


プロレスは上書きの世界である


──ありがとうございます。では3試合目をお願いいたします。

マハローさん  船木誠勝VS鈴木秀樹(ZERO1/2015年3月1日・後楽園ホール)です。この試合で興行の空気が全部変わったんですよ。入場テーマ曲が流れない中で船木選手と鈴木選手が入場してきたんですよ、この試合目当てで会場に足を運んだプロレスファンは多くて、緊張感が半端なくて。クラシカルで果たし合いのような試合で、最後は鈴木選手がダブルアームスープレックスで勝利したんですけど、本当に21世紀の名勝負でした。

──あの試合は船木選手のいいところが全部出ていたんですよ。

マハローさん  そうなんですよ。実は小泉悦次さんと一緒に見に行って、小泉さんが「よかった!」と絶賛してました。ノアでの再戦(2022年3月24日・後楽園ホール)は船木選手が勝つんですけど、「なんでここで鈴木選手は負けるのだろう」と思いました。鈴木選手は「弱いから負けたんです」とコメントしたそうです。船木選手の老獪さと懐の大きさや深さが勝因なのかなと思います。

──これは以前、鈴木選手に聞いたことがあったのですが、再戦で船木選手の掌底が偶発的に右目に入ったようで、一瞬目が見えなくなったらしくて、そこからパニックになってくっつきに行っていて、そこからアンクルホールドを取られているんです。だから色々な意味を込めて「弱いから負けた」とおっしゃったのかなと思います。

マハローさん  そうだったんですね。ジャストさん、プロレスって上書きの世界だと思うんですよ。昭和、平成、令和と時代が変わって、その情報を更新していくことが楽しんですけど、それが「懐かしかったね」と終わってしますともったいないじゃないですか。情報を上書きしていって、新たな事実とか裏話とか出てきて、より深みが出てくる不思議なジャンルがプロレスなんですよ。

──その上書き作業の繰り返しがプロレスをより好きになったり、深く掘り下げる意欲に繋がるんですよね。

マハローさん その通りです!


今後について


──ありがとうございます。ではマハローさんの今後についてお聞かせください。

マハローさん ジャストさんにインタビューされたので、また新たな展開もあるのかなと思いますね。YouTubeでライブ配信をやってますけど、ジャストさんにインタビューされたことによって、僕の活動が広がっていくのかなと思います。

──ありがとうございます。

マハローさん プロレスのYouTube動画で伸びているのはムック本の写しとか暴露系が多いんですよ。でもそうじゃないプロレスの見方や考え方を継続的に発信していきたいですね。   


マハローさんにとってプロレスとは? 


──ありがとうございます。では最後の質問です。あなたにとってプロレスとは何ですか?

マハローさん プロレスは…人生になっちゃいますね。1971の師走に新宿の小田急百貨店で、「日本プロレス博覧会」という催し物があったんです。そのイベントで百貨店の屋上にリングを設置してサイン会をやっていて、ジャイアント馬場さん、吉村道明さん、坂口征二さん、大木金太郎さんがいらっしゃってサインをいただきました。そこで最後に大木さんのサインをもらった時に当時小学校2年生だった僕の頭を撫でながら「大人になってもプロレスを見続けてくれよ」と声をかけてくれたんです。大木さんの言葉が今も心に残っていて、プロレスを見続けている部分もあります。

──素晴らしいです!これでインタビューは以上です。マハローさん、長時間お付き合いいただきありがとうございました。今後のご活躍とご健康を心よりお祈り申し上げます。

マハローさん こちらこそありがとうございました。

(「私とプロレス マハロー・カタヤマさんの場合」完/第3回終了)