本能と野心の赴くままにリングを越境した異端児の狩猟/藤田和之【俺達のプロレスラーDX】 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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俺達のプロレスラーDX
第58回 本能と野心の赴くままにリングを越境した異端児の狩猟/藤田和之



「藤田は死んでも離さない」

このフレーズはかつてPRIDE GP2000一回戦での藤田和之VSハンス・ナイマンを専門誌で試合レポートを書いた馳浩が付けた見出しである。
この試合は新日本プロレスを退団し、総合格闘技に挑戦することになった藤田の初戦を恩師である馳がレポートするという趣向だった。

死んでも離さないというフレーズこそ、藤田という男の性格をよく分析している。
彼は狙った獲物やターゲットがあれば、命を懸けて食らいついていった。

「生死を賭けた闘いをする時に醸し出すオーラと言うか、極限までやるぞみたいな空気を彼は持っている」

かつて師匠であるアントニオ猪木は藤田をこのように評している。

今回は、新日本プロレス暗黒期の戦犯の一人というレッテルを張られても今なお、リングで咆哮を続ける野獣の物語である。

新日本プロレスが暗黒期を脱し、黄金時代を築こうとしている今だからこそ、藤田和之という男の足跡を知ってほしい。

藤田和之は1970年10月16日千葉県船橋市に生まれた。
少年時代はサッカーに熱中していた。
高校進学後、レスリングで才能を開花。
1988年にはインターハイ、全国高校選抜、国体の三冠王となる。
大学は日本大学に進学。
そこでもレスリングでは大学生レベルでは向かうところ敵なし。
フリースタイル90kg全日本大学選手権を4連覇を果たす。

大学卒業後、馳浩のスカウトにより、新日本プロレスレスリング部門「闘魂クラブ」に所属し、新日本の職員として働きながらオリンピックを目指した。
1993年&1995年に全日本選手権(フリースタイル)を優勝するも、1996年のアジア選手権で7位に終わり、オリンピックの夢は閉ざされた。

オリンピックの夢が叶わなかった藤田が選んだ道はプロレスだった。
1996年5月に新日本プロレスに入門を果たす。
1996年11月1日、レスリングの先輩・永田裕志戦でデビューを果たす。

ちなみに藤田の同期として汗水を流したのが、今や新日本のスーパースターとなった真壁刀義(当時 伸也)である。
エリート・藤田と雑草・真壁。
二人の扱いには開きがあった。

藤田は早くからアントニオ猪木に目を付けられ行動を共にする特待生。
真壁は一人で佐々木健介コーチの厳しい鍛錬を耐え続けた。
プッシュアップのフォームが少しでも違うだけで、殴られた。何度も殴られ鼻血が出た。言われた通り、そのフォームでプッシュアップをすれば、今度は別の先輩から殴られた。この理不尽な堂々巡りというしごきを真壁は食らい続けた。
全て練習メニューをこなし、ちゃんとやっているのにも関わらず「出ていけ!」と罵声を食らい、何もかも訳がわからなくなった。

当時参戦していたリック・スタイナーからは本気で真壁を心配してくれた。
橋本真也はそのひどすぎる仕打ちに一喝し、その場を収めたことがあったという。
後に真壁は佐々木健介に対して殺意を抱いていたということを打ち明けている。

普通の感覚からすれば、一部の先輩によるしごきという名のいじめだった。

「俺に限って言えば、辞めさせるための練習だった。挨拶をしても誰も俺になんて返してくれなかった。」

それでも山本小鉄氏からの激励を受けて覚悟を決めた真壁は「俺が強くなって、いじめたやつらを黙らせればいいんだ!」と開き直り、より一層練習に没頭する。
そうするといつの間にか真壁に対するいじめはなくなり、実力で黙らせて見せたのだ。

一方の藤田にも苦悩があった。
プロレスへの転向については永田裕志はこう語っている。

「プロ入りして一番苦労するのは後ろ受け身の習得なんだけど、同期の中で上達が早いと言われていた俺でも3ヶ月かかった。それを藤田は1ヶ月で覚えてしまった。だから藤田が入ってきた時に、『いつかこいつに追い抜かれても、しょうがないだろうな』となんとなく思った」

またアントニオ猪木が当時プロレス転向を果たした元柔道世界王者・小川直也のスパーリングパートナーに藤田を抜擢したため、猪木、コーチ役の佐山聡、小川らと行動を共にする機会が増える。

年長者との行動を共にする機会が増えると当然、不満も出てくる。
それらの愚痴を言う相手は同期の真壁だった。
真壁もまた藤田に愚痴をこぼしていた。
立場は違えど同期の二人は本当に仲が良かったという。
ちなみに藤田は真壁を「真壁さん」、真壁は藤田を「藤田くん」と呼ぶそうである。

小川のコーチの佐山からはその身体能力から化け物と絶賛されていた。

182cm 115kg
プロレスラーになるまでプロテインを飲んだことがなかったという先天的な驚異の肉体を持っていた。

そういえば数々の格闘家とも交流があり、トレーナーとしても活躍する和田良覚レフェリーも藤田の身体能力を絶賛する。

体重はスーパーヘビー級の100kg以上もあるにも関わらず、上半身の力だけでロープをすいすいと登り、ダッシュも驚くくらいに速い。その身体能力は、和田氏が接してきたアスリートのなかでも抜きん出ているという。

またその性格は豪放磊落なもので、ある意味肝が据わっていた。

現場監督である長州力のバスでの指定席を堂々と座ったり、合同合宿に遅刻した藤田に激怒した長州から「座れ!」と言われたら、イスやあぐらで座るという大胆不敵な行動をしていたという。

ある意味プロレスラーやファイターになるために生まれてきた性格の持ち主かも知れない。

当時の新日本プロレスはメインイベンターだらけのスーパースター集団。
まだキャリア2~3年の藤田にはそこに割り込むだけには実力以上の付加価値が必要だった。
藤田の眠れる実力は新人時代から一目置かれていた。
ドン・フライとの試合は好勝負となり、底知れぬ怪物性を発揮していた。
プロレス下手と言われながらも、武骨でゴツゴツとしたスタイルでなんとか適応しようとしていた。
しかし、それを開放するために順番待ちをしているようでは俺は全盛期を過ぎているかもしれない。
もうすぐ30歳になろうとしている。
もしかしたらプロレスに向いていないのではと悩んだりもした。
もう待てなかった。

藤田が総合格闘技団体リングスの関係者と会談したのは1999年11月のこと。
そこでリングス代表・前田日明と後日、会談し、藤田のリングス入りが内定する。
2000年1月の契約切れを待って移籍することになるはずだった。

しかし、そこに待ったをかけた男がいた。
アントニオ猪木だった。

新日本の藤波辰爾社長からこの事態を聞いた猪木は藤田をレストランでの食事に誘い、このように言った。

「お前、俺を敵に回すつもりか?」

藤田は「とんでもありません」と言った。

猪木は藤田に笑いながらこう言った。

「団体に縛られることなくPRIDEに上がる方法がある。俺が責任を取って仲介するから」

藤田は猪木のリングスよりもいい条件や待遇に心が揺らぎ即決したい気持ちだったが、誠実に対応してくれた前田に筋を通さなければならない。
藤田は前田と直接会って謝罪し、猪木の元でお世話になることを告げた。
入団直前に選手からのドタキャンである。
怒ってもいい状況にも関わらず、前田は藤田にエールを送った。

「自分でそう決めたなら、それでいいじゃないか。頑張れよ!俺も応援しているからな」

藤田は2000年1月のキモ戦を最後に新日本を退団し、猪木事務所所属となった。
そして、1月から開幕する総合格闘技トーナメントPRIDE GP2000に参加することが発表された。

藤田が新日本を辞めるとき、現場監督の長州力は猪木・藤波政権下において蚊帳の外で、すべて事後報告だった。

長州は藤田にこう言ったという。

「藤田、PRIDEに行っても利用されるだけだぞ」

藤田は長州に大胆にこう言いかえした。

「長州さん、それは新日本にいても同じじゃないですか」

藤田は分かっていた。
猪木にとっても長州にとっても自分は金のなる木なのだ。
利用されるくらいなら、あわよくば自分が利用してのし上がればいいのではないのか。
そう考えて藤田は猪木について行ったのかもしれない。
野獣は実は頭が切れるのである。

藤田が新日本道場を訪れ、退寮する日。
藤田は長州、永田、福田雅一(故人)らに別れの挨拶のために訪れていた。
そして、唯一の同期の真壁とも最後の挨拶をするために…。

藤田と真壁のやり取りを見て、なぜかもらい泣きをしている男がいた。
当時デビューしたばかりで現在は新日本のエースである棚橋弘至である。

藤田の総合格闘技デビュー戦は1月30日の東京ドーム。
PRIDE GP2000トーナメント一回戦。
キャッチコピーは「猪木イズム最後の継承者」
いつも間にか闘魂まで背負っていた。
相手はリングスのトップファイターとして活躍したオランダの喧嘩屋ハンス・ナイマン。
藤田はナイマンの打撃に合わせて得意のタックルでテイクダウンを奪い、最後はケサ固めでタップアウトを奪った。
勝利の瞬間、藤田は野獣の如く激しく咆哮した。

藤田は総合格闘技に挑戦した理由としてこのようなことを語ったことがある。

「面白いなって思うと、後先考えずに飛び付いちゃうんですよ。そもそも誰かに頼まれたわけではなく、自分が好きでやっていることですから。ゲーム感覚なんですよね。だって、ゲームって、スリルがあって、リスクがあるからこそ楽しいじゃないですか」

ちなみにこの試合は先輩の永田裕志やケンドー・カシンを筆頭に新日本の関係者も観戦に訪れている。
真壁は後輩たちを伴って観戦しにいった。

「藤田くんが最初にPRIDEでハンス・ナイマンとやったとき、寮生全員で東京ドームまで応援に行ったね。あのときはのちに総合に行く柴田もいたし、亡くなった福田(雅一)くんもいたし。みんなで『よし、いけーっつ!』って応援して、最後、袈裟固めでギブアップ取って『うわー!』ってみんなで喜んでさ。他人の勝利で、あんなに嬉しかったのは、あとにもさきにもあの時だけだね」

藤田は5月のPRIDE GP2000決勝大会で優勝候補のマーク・ケアーを破り、第3位という成績を収めた。
その後、ケン・シャムロック、ギルバート・アイブルをPRIDEのリングで破り、ヘビー級格闘技界日本最強の男と呼ばれるようになる。

しかし、藤田にとってはそれはあくまでも格闘技界でのステータスを高めたということに過ぎない。

「こうやってPRIDEで結果を出しても、俺が新日本に戻れば結局、中西学の下なんです!」

野獣は新日本プロレスが生んだ異端児だった。
名を成すために総合格闘技という別世界のリングに渡り成功を果たした。
プロレスリングからMMAというリングに越境していった男は、やがてプロレスのリングに帰ってくる。
アントニオ猪木が送り込んだ新日本潰しの刺客として…

2001年4月の新日本・大阪ドーム大会。
猪木から託された初代IWGPベルトを携えた藤田は王者スコット・ノートンを破り、第29代IWGPヘビー級王座を奪取。デビューから4年5ヶ月の飛び級での戴冠だった。

しかし、ベルトを取ってから藤田はプレッシャーを感じ、悩んでしまうようになる。
どうやらこの男は誰かの挑戦を受けるというより、何者かに挑むというスタンスが性に合っているのかもしれない。

「プロレスと総合格闘技も闘いは一緒」と猪木は言うが、プロレスと総合格闘技は別競技だ。分かりやすく例えるとテニスとバドミントンぐらい全然違うものだ。当時、プロレスラーが総合格闘技のリングに立ち、敗れる選手が多かったのは本来、致し方ないことである。そもそも競技が違えば競ったり争ったりするものが違う。ある程度の準備期間や対策を練らないといけないのである。
総合格闘技で敗れたプロレスラーが弱いのではなく、挑戦し敗れたプロレスラーがそのルールに適応できなかったと表現した方がいいのかもしれない。
それでも「プロレスは最強である」という幻想を背負い彼らは別競技の戦場に次々と足を踏み入れた。
それが当時の時代の流れだった。
今思えば、総合ルールに適応した藤田はやはり怪物である。

しかし、そんな藤田でもプロレスと総合格闘技の両立というのは至難の業であり、無謀である。

「あれだけベルトに執着していたのに、正直いって参りましたよ。獲らなきゃよかったなって(笑)。俺の意思に関係なく常に新日本を背負わなければならないんですよ。」

それでも藤田は5月のPRIDEで高山善廣、6月の永田裕志とのIWGP戦と名勝負を展開した。特に永田戦は猪木が絶賛し、その年のプロレス大賞のベストバウトに選出されている。

「もう何も一切考えないでやるしかないですね」

野獣の次なる標的はなんと立ち技格闘技K-1だった。
猪木軍とK-1の異種格闘技戦(MMAルール)の大将として藤田は参戦した。
相手はK-1GP準優勝の経験のある”ターミネーター”ミルコ・クロコップ。
試合は一瞬で決まる。
藤田のタックルに合わせて、ミルコがヒザ蹴りで襲撃し藤田の瞼をカットさせた。藤田はそれでもテイクダウンを奪い、サイドポジションを取るも、ドクターストップ。
39秒の決着。
この試合が両選手の運命を分けることになる。
ミルコは総合格闘技の才能を開花させ、世界トップクラスのMMAファイターにまで成長していく。
そして、藤田には苦難の道が待っていた。

12月31日のK-1軍VS猪木軍の全面対抗戦に出場することになっていた藤田はタイでトレーニングを積んでいた。しかし、その地で右足アキレス腱断裂という大怪我を負う。
これは試合どころではない、選手生命にもかかわる怪我である。

藤田は大晦日の試合をキャンセルし、IWGP王座を返上した。

2002年7月に復帰した藤田は大晦日にミルコとの再戦に挑むも、敗戦。
2003年6月、藤田に最強の相手が用意される。

エメリヤーエンコ・ヒョードル。
当時PRIDEヘビー級王者になったばかりのロシアン・ラスト・エンペラー。
後に60億分の一の男、人類最強の男とも呼ばれる伝説の格闘家。

藤田は最強の相手であるヒョードルとの試合に賭けていた。
ヒョードル対策としてボクシング特訓を重ね、試合ではその成果が現れ、右フックでヒョードルをダウン寸前にまでふらつかせ、テイクダウンを奪う。最後はチョークスリーパーに沈むも、後世振り返ってみても総合格闘技で日本人で最もヒョードルを追い込んだ格闘家として藤田は名を刻まれた。

しかし、ここからが藤田、いや猪木事務所のスタンスが迷走していく。
K-1とPRIDEの仲違いにより、格闘技界の勢力分布図は変わり、藤田自身もそれに翻弄されていった。

新日本に戻り、IWGP王座に再び輝いたこともあったが、あの佐々木健介との防衛戦で藤田は不可解なフォール負けを喫し、ファンから非難を浴びた。
新日本プロレス暗黒期の象徴ともいえる試合をしてしまったのである。
また決まっていたビッグマッチを事務所とのトラブルもあり、キャンセルしたこともあった。

総合格闘技との兼ね合いでリングに上がるのはビッグマッチ中心、かつ殆ど巡業には参加しないこと、技をあまり受けない格闘技スタイルに一部プロレス関係者やファンからのバッシングもあった。

いつも間にか野獣は孤独になっていった。
自分が非難されて、それで済むのならそれでいいとさえ思った。
あの頃について藤田はこう振り返る。

「暗黒時代と言われますけど、実際僕がそういうベルトを巻いたりして新日本をグジャグジャに混乱させたのかもしれない。オファーを受けて自分なりに仕事を一生懸命やった結果だと思うんです。その頃の選手達はみんな苦しんだと思いますよ。僕も僕なりに、その当時トップに置かれた責任を感じていたし、苦しいこともいっぱいありました。」

猪木事務所から藤田は独立し、2006年にPRIDEに復帰した。
しかし、その一年後,PRIDEは崩壊。
2008年に戦極に参戦するも、今度はファイトマネー未払い裁判に巻き込まれる。

格闘技界の暗部とバブルが崩壊していく様を藤田は目撃した。

もう人間不信だった。
人とは連絡を取らないようにしていた。
2008年に建築した千葉の自宅に家族と平穏な暮らしをするようになった。
家では家事手伝いとトレーニングに励んだ。
草刈り、芝刈り、スズメバチ退治、タヌキや猪がいる自然の中で男は野性と蓄え、充電していた。

復帰は突然だった。
2011年8月のIGF両国大会。
アントニオ猪木が立ち上げたプロレス団体IGFのメインイベントの代役オファーが来たのである。
藤田にはあらゆるジャンルのファイターがプロレスという舞台で暴れているカオスなIGFという団体の未知数な部分に賭けてみることを直感で決めて参戦する。
2012年7月にはジェロム・レ・バンナを破り、IGF王座を獲得する。

そして、IGFには藤田が長年意識をしていたあの男が主戦場にしていた。

"暴走王"小川直也
新日本、PRIDE、ハッスル、ゼロワンなどを暴れまわったリングの問題児。
この二人の対決は2002年辺りに総合ルールで待望論があったのだが、実現せず時は流れ
た。
小川はあの橋本真也戦の威光を財産にして今もリングに上がり、お茶を濁している。

藤田はあの1999.1.4の橋本VS小川戦の一部始終を見ている。
小川の凶行に「俺がどんなことをしてでもあいつとやってやる!」と怒りを現していたという。

あれから小川はキャリアは積んでいるにも関わらず、そのファイトスタイルは”しょっぱい”と評されるほどプロレスが下手である。
藤田は誰もあまり試合をしたがらないあの男と試合をして、「小川直也」という幻想を消し去り、IGF改革することが自分の役目ではないのかと決意する。

こうして決まった2012年12月31日の藤田VS小川。
しかし、試合は不完全燃焼に終わり、藤田の圧勝に終わる。
小川は藤田に橋本戦のように仕掛けたというが、その攻撃は迫力に欠け、とても仕掛けたようには見えず、藤田に見透かされてしまった。

藤田は小川にも、総帥である猪木にも激怒した。
最初から、猪木が小川をプロテクトしていたんだろうと!
そしてそれを小川は最初から知っていたから、出てきたんだろうと!
藤田からすると猪木と小川はグルになっている。猪木とすれば藤田には結果といううさ晴らしだけさせる。小川はそれなりの仕事をして、その分のギャラだけ稼ぐという魂胆だろうと。

「ふざけるな!冗談じゃねーよ!」

藤田の怒りは当然だった。

「なんだ、これ。なぁ、何これ。どうせ絵書いてるの、会長だろ、これ? なんだ、あれ。ひとつもレスリングできねぇじゃねぇかよ、おまえ。やる気なんかねぇじゃん、アイツ。なんだよ、おまえ。下らねぇ。いつまで下らねぇことやってんだよ。平和だ、平和だぬかしてよ。アッチにもコッチにも火つけてよ、戦争始まったら平和だって? 都合よくねぇか。一番の戦争の原因はアントニオ猪木、アンタじゃねぇか。ふざけんじゃねぇよって! (涙を流しながら)人、バカにしやがって。知るかIGFなんて。くだらねぇ、こんなことやって。だから成長もねぇんだよ。悔しくて涙出てくるわ。下らねぇ、何がアントニオ猪木だ、バカ! 小川と2人で一生やってろ、このヤロー!」

一時はIGF撤退も示唆した藤田だったが、2015年6月現在もIGFを主戦場にしている。
今年でデビュー19年が経つ。
そういえば藤田にはまだ叶っていないある約束があるという。
それは同期である真壁とのシングルマッチである。

2009年G1CLIMAXを優勝した真壁は藤田との対戦を希望した。

「ライバルは強いて言うなら唯一の同期である藤田和之くん。最初の半年は口も利かなかったけど、そのうち一緒に酒を飲んだり、愚痴を言ったり。今は違う道だけど、『こんだけのもん見せてるぞ、この野郎』と。藤田くんも第一線でやってるし、いつも見ている。数え切れないくらいシングルやったけど、全部イカれてる。絶対に借り返さなきゃいけねえ。どっちのリングでも面白い」

そして藤田もまた真壁に対して強い思いがある。

「本当に耐えて耐えて、言葉にできない扱いを受けて勝ち取った優勝。これまでの誰よりも価値がある。約束は覚えています。もし戦うときはどこのリングでも構いません。ただもう少し時間を下さい。真壁さんの優勝と肩を並べられる男になったときは、一挑戦者として名乗りを上げさせてもらいます」

もし、藤田と真壁がシングルマッチで対戦することになれば、藤田はリング上の政治など余計なことを考えずに、無我夢中にプロレスをしてほしいと願う。

真壁なら藤田のプロレスを受け止めるはずである。

何故か!?

かつて真壁はこんなことを語ったことがある。
「相手の攻撃をすかさず受けきって、受けきって、最後に勝つのがプロレスラーなんだよ。」

藤田と真壁の想いがリングで交差する日が来るのだろうか!?

ちなみに今の新日本プロレスについて藤田は冷静に分析している。

「あの暗黒時代があったから、今の新日本があると思うんです。そうじゃない、違うプロレスを目指そうって。新日本の会社のオーナーやトップ、フロントが代わって、マッチメイクも代わって、みんな選手達も頑張って、今の新日本プロレスを作り上げることができたと思う。何か別世界ですよね。僕がいた新日本とはまったく違う世界になっている。エンターテイメントとして素晴らしい世界を作ったんだなと思います。新日本が新しいスタイルのプロレスをエンターテイメントの世界の中でひとつのジャンルとして作り上げたんだなと思うんです。ただチャレンジしたいという気持ちでは観ていませんね。」

リングを越境することで飛び級を果たし出世した藤田和之。
しかし、その一方で大人の醜い世界や政治、怪我などの苦難も多く味わった。
彼は野獣と呼ばれているが、本質的にはハンター(狩人)である。
何かしらの目的や大きな標的に向かっていく、仕留めに行くときこそ、藤田が一番輝くのである。

「俺は人生の未熟者です。だから未熟者に引退はありませんよ。」

このように語る男の本能と野心に満ちた狩猟は終わらない。
今度の標的となる対象は誰なのだろうか?