Sの幻想~彷徨える闘豹の不運~/佐野巧真【俺達のプロレスラーDX】 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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俺達のプロレスラーDX
第104回 Sの幻想~彷徨える闘豹の不運~/佐野巧真



佐野直喜、佐野友飛(ゆうひ)、佐野なおき、佐野巧真と次々とリングネームを変えてきたプロレスラー佐野巧真。
この様々な改名歴こそ、彼のレスラー遍歴そのものを現していた。
新日本プロレス、SWS、UWFインターナショナル、キングダム、髙田道場、プロレスリング・ノアをあらゆる団体(髙田道場は格闘技ジム)を渡り歩いた。


若手時代の佐野はこう呼ばれていた。

「藤波辰爾二世」

180cm 108kg(ジュニアヘビー級時代は100kg)の均整のとれた肉体と精悍なルックス、抜群のプロレスセンスと格闘センスと身体能力も併せ持ったスーパーテクニシャン。
それが佐野だった。
なのに…。
彼がその実力と見合った活躍が出来たのだろうかと言われればそうではない。

11年在籍していたプロレスリングノアでは彼はこのような異名を持っていた。

「不言実行の実力者」
「職人」

果たして彼は職人レスラーで終わってしまっていい男だったのだろうか?
職人レスラーはプロレスに必要不可欠なポジションだが、彼はその地位に甘んじていい男なのか?

君は知っているか?
彼が"空飛ぶ闘豹"と呼ばれたスター候補だったことを…。
今回は、プロレス界を彷徨った男のレスラー人生を追う。

佐野は1965年2月2日、北海道苫小牧市に生まれた。
本名は佐野直喜。
学生時代は柔道、野球に汗を流した。
高校卒業後の1983年3月に新日本プロレスに入門した。
同期には後に獣神サンダー・ライガーに変身する山田恵一がいた。

新日本入門から一年後の1984年3月3日、仲野信市戦でデビューを果たした。

佐野は新人時代から新日本首脳部に目をかけられ、武藤敬司、船木誠勝(当時は優治)と共にスター候補として将来を嘱望されていたという。
彼について獣神サンダー・ライガーはこう語っている。

「一言でいえばライバルだし、言い方は悪いですけど『コイツには負けたくない!』っていう相手ですよね。入門は佐野さんの方が三か月早いんですけど、デビュー日が同じで、学年も同学年で。単純にスパーリングやっても何をやっても抜群に強い人でした。さらに佐野さんはジャンプ力もあって、運動神経が抜群でした」

しかし、スターレスラーの登竜門ともいえる海外遠征に先に旅立ったのは佐野ではなく山田だった。
1986年に若手選手によるリーグ戦の第二回ヤングライオン杯を優勝し、イギリスへと渡った。

佐野は後輩レスラーにこう言っていたという。

「山田には絶対負けたくない!」

1987年4月、佐野はメキシコ遠征に旅立った。
同僚の畑浩和、元新日本の練習生で後にウルティモ・ドラゴンとなる浅井嘉浩とのトリオ「ラ・テルシア・オリエンタル(東洋の三人組)」として活躍する。

1989年1月に佐野は日本に帰国する。
帰国から三か月後の1989年4月21日東京ドームにて、新日本に一人のヒーローマスクマンが誕生する。

獣神ライガー(後に獣神サンダー・ライガーに改名)。
そう、佐野と同期の山田が変身したマスクマンだったのだ。
ライガーは変身してから一か月後に馳浩を破り、IWGPジュニアヘビー級王座に戴冠した。
またしても山田ことライガーに先を越された佐野はライガーのライバルとして立ちはだかった。
それはあの初代タイガーマスクに牙を剥いた"虎ハンター"小林邦昭の如く…。

赤のスパッツをコスチュームとし、空駆けるダイヤモンド・チータと実況で呼ばれていた佐野は初代タイガーばりのローリング・ソバットやタイガー・スープレックス、華麗に相手の突進をかわすサマーソルト(サルト・モルタル)、メキシコ仕込みのトぺ・スイシーダやロメロ・スペシャル、跳躍力と威力があるミサイルキックでジュニアヘビー級の人気選手となった。
1989年8月にライガーを破り、IWGPジュニアヘビー級王者にもなった。
またライガーとの抗争は名勝負数え歌となった。

あまりにも過激で壮絶な試合展開に新日本のベテラン選手はこう言ったという。

「あそこまでやるのか?お前ら、いつか死ぬぞ…」

左肩を負傷しているもののプロテクターを付けて強行出場したライガー。
ライガーの精神的に揺さぶるためにマスクを引きちぎり、流血させた佐野。
どうしても互いにあいつにだけは負けたくなかった。
その一念が名勝負として昇華していった。

しかし、佐野はここで思わぬ決断をしている。
1990年4月に佐野は新日本を退団したのだ。
その後、アメリカやメキシコ遠征で試合をこなして帰国後に彼は同年8月、メガネスーパーがオーナーの新団体SWSに入団した。
天龍源一郎、谷津嘉章、ジョージ高野、高野俊二、ザ・グレート・カブキといった日本のスター選手が次々と参加していった企業プロレスの先駆けとなった団体である。
このまま新日本に残っていればもっとスターダムにのし上がっていた可能性が高かった彼が何故、新日本を辞めて、SWSを選んだのか?
佐野はこう語る。

「最初はジョージ高野さんから『若松さん(将軍KYワカマツ/SWS創立に動いたキーパーソンの一人)が話をしたがっている』という話を聞いたと思います。そのあと、若松さんと会って話しました。僕はお金よりも、UWFの選手と一緒にやるという話に魅力を感じたんです。僕は新日本でジュニアヘビー級でやらせてもらって、それ以前のヤングライオン時代にUWFの選手達が新日本に戻ってきた。その頃は前田日明さん、髙田延彦さんとよく一緒に練習していたんです。でも彼らとのカードは一度も組まれなかったんです。あの人達が新日本を去っていってときも、僕は誘われなかったし、自分からUWFに行くと言える立場ではなかった。だからジュニアヘビー級で試合をしながらも、『UWFの人達と闘いたい』という気持ちはずっと持っていました。当初はまだ第二次UWFは解散していなかったので、そのまま存続させるようなプランだったと思います。ただ移籍してもみて、『あれ?』って思いました。自分が望んでいた試合がここでできるのか。でも初めて試合をする選手が多かったので、新鮮味がありました。でも、『UWFの人達が来るんじゃなかったの?』とは思いました」

ちなみに佐野がSWSに移籍した件についてライバルのライガーは「佐野さんをSWSに取られた!」という悔しい気持ちでいっぱいだったという。

この頃から佐野はレガースを着用するようになった。
UWFと闘いたいという想いは別の形で実現することになる。

1991年1月に第二次UWFは解散し、三派に分裂する。
その一派である藤原組とSWSが業務提携することになった。
藤原組には代表の藤原喜明、船木誠勝、鈴木みのるといった強さを追い求めた男達がいた。

SWSと藤原組が絡んだ試合はなかなかスイングしなかった。
アポロ菅原と鈴木みのるとの試合は不穏試合にもなった。
しかし、佐野は藤原組のスタイルに飛び込んでいった。
船木や鈴木との激闘を繰り広げ、佐野はその実力を満天下に示して見せた。
彼にとってこの機会を待っていたのだ。

「藤原組ができて『やりたい試合ができるチャンスがあるかも』と思いました。元々そういう気持ちがあったから、藤原組の大会にも参戦するようになったんです」

SWSは佐野に若きスターとして期待をかけた。
ベテラン選手が多いSWSの中で佐野の存在は希望という名の光だった。
1991年5月からは「佐野直喜"真向七番勝負"」が組まれ3勝4敗で負け越すも、先輩のザ・グレート・カブキやジョージ高野を破る金星をあげるなど成長の跡をみせた。
佐野にとって全日本や新日本、国際などあらゆるバックボーンのプロレスラーが入り混じったSWSでの試合はどう感じていたのだろうか?

「全日本の選手とは違いはあるんでしょうが、違和感はなかったです。タイプが違うだけで、やっていることは一緒ですから。僕が若手だったころに越中詩郎さんが全日本から新日本に来たじゃないですか。やっぱり最初は、新日本の人達は『全日本の選手ってどのくらいできるのだろう?』という目で見るんですよ。でも、越中さんはプロレスが上手でスタミナもありました。だから、全日本出身の人達に偏見を持つことはなかったです。皆さん受け身もしっかりしていて、上手でした。こっちがやった分もちゃんと返してきますし、試合をしていて楽しかったですよ」

佐野は1991年9月から始まった初代SWSジュニアヘビー級王座を巡るSWS代表者決定リーグ戦を全勝で勝ち上がり、12月の東京ドーム大会ではWWE(当時WWF)代表のリック・マーテルを破り、初代SWSジュニアヘビー級王者となった。
この頃の佐野はUWFスタイルにも対応できる格闘センスと華麗なプロレスセンスを見事に両立させていた。
個人的にはSWS時代が佐野の全盛期であり、理想形だったのではないかと考えている。

1992年6月、SWSは団体内のゴタゴタが発生し、解散することになった。
天龍はWAR、ケンドー・ナガサキはNOW、谷津嘉章は後にSPWF、ジョージ高野&高野俊二はPWCを旗揚げしていった。
(ちなみに高野兄弟は当初はNOWに参加していたが、すぐに離脱している。また谷津はSWSでの内紛の責任を取って引退し、翌年に復帰し新団体を立ち上げた)

しかし、佐野が選んだ道は全く異なるものだった。
佐野にとってSWS崩壊はスター街道から外れることを意味していたので、大局的に考えると痛かった。
SWSでスターになれなかったのがその後のレスラー人生を暗示していたのかもしれない。

SWS崩壊後、彼が選んだのはUWFインターナショナル(Uインター)。
何故彼はUインターを選んだのか?

「僕は宮戸優光(Uインターの幹部)と仲が良かったんです。新日本にUWFの選手が上がっていた時期に、前田さんと一緒に宮戸も練習にきていたんです。一緒に飲みに行ったこともありました。藤原組の選手とは試合をやったという気持ちもあって、刺激的な試合を求めていたんです」

そこで佐野は宮戸ではなく髙田に相談してUインター入りを決意する。
ちなみに佐野はアポなしで新日本の会場にも観戦に来ていた。
それは佐野は話題つくりだったと語っている。
ただライガーと試合をしたいという気持ちはあったという。

佐野はUインターでその実力を発揮する。
UWFスタイルにも対応し、その中でプロレスセンスも発揮する佐野にしかできない技量を見せつけた。
髙田延彦戦、安生洋二戦、田村潔司戦と次々と好勝負を展開する。

この佐野と新人時代に対戦した髙山善廣は顔面へのハイキックを食らい病院送りにされたことがあるという。
髙山は語る。

「実際、顔面を砕かれて入院した。そういうのはもう、トラウマになってるね。だからノアになって佐野さんとシングルやったときも、いつもの俺じゃない自分がいたね。気持ちではビビッてないつもりなんだけど、体がビビッていた」

後年、髙山が「佐野最強説」を唱えることになったのは新人時代のトラウマが原因だったのかもしれない。

1995年10月9日、東京ドーム。
プロレス史に残る歴史的団体対抗戦である「新日本 VS Uインター」が行われた伝説の興業。
佐野はライガーと対戦した。
ライガーのプロレスへの誘いと当初は拒否するも、佐野はトぺ・スイシーダ、タイガー・スープレックスホールドで応えて勝利する。
試合後、ライガーは敗れたにも関わらず、リング上の恋人ともいえる佐野との再会を喜んでいた。
ライガーは試合後にこのように語った。

「もっと視野を広げて世界の佐野になってほしい。UWFでのプロレス人生は偽りだと思う。試合には負けたが、あの人のプロレス人生には勝てたんじゃないか」

佐野は1996年3月に佐野友飛(ゆうひ)に改名する。
武藤敬司、天龍源一郎とのいい試合を残すも、同年12月にUインターは経営難によって解散する。
佐野はUインターの仲間達と共に新団体「キングダム」の旗揚げメンバーとなる。
キングダムとはわかりやすく言うとオープンフィンガーグローブを着用したUWFスタイルだった。
しかし、キングダムもなかなかうまくいかなかった。
佐野は髙田延彦や桜庭和志が新しく立ち上げた格闘技ジム「髙田道場」所属となった。

佐野の主戦場はプロレスから総合格闘技の世界へと移行していった。
創世記のPRIDEに参戦し、グレイシー柔術と対戦した。
しかし、そこで佐野が輝くことはなかった。
1998年から2000年にかけて佐野は総合格闘技を四戦行い、全敗で終わった。
いくら格闘センスのある佐野でも総合格闘技の世界は畑違いだった。

1999年5月に佐野は「佐野なおき」へとまたも改名する。
だがこの改名以後、佐野はプロレスの世界に戻るようになった。
格闘探偵団バトラーツを中心に参戦し、インディペンデントワールド世界ジュニアヘビー級王座を獲得する。

佐野にはある想いが芽生えるようになった。

「もう一度プロレスの世界で勝負してみたい」

2001年1月に髙田道場を退団し、三沢光晴率いる団体プロレスリング・ノアに移籍する。
またノア移籍を機に、三度目の改名をすることになり、佐野巧真(たくま)というリングネームとなった。
何故、彼はノアを選んだのか?
これはSWSやUインターに移籍した動機に同じような気がする。

「今まで闘ったことがない選手と対戦したい」

全日本プロレスの流れを継いだノアには佐野が絡んだことがないレスラーがたくさんいた。
そう考えてみると佐野は自分の欲求に対して正直な男だ。
数々の団体を渡り歩いたのはこの欲求に正直な生き方が原因だったのかもしれない。

ノアで佐野は職人レスラーとして活躍する。
だがなかなかチャンスは回ってこなかった。
2003年11月にシングルマッチで秋山準を破り実績を作った佐野は2004年1月25日、当時の絶対王者・小橋建太が保持するGHCヘビー級王座に挑戦した。佐野は場外へのダイビング・フットスタンプ、タイガー・スープレックス&ドラゴン・スープレックス、桜庭和志直伝のゆりかもめ、ノア参戦以後の必殺技にしているノーザンライト・ボム、内臓をえぐるローリング・ソバットで追い込むも敗れた。

佐野は試合を主張をせずに目の前の試合をこなしていく。
その日々が一年、二年と続いていった。
いつしかローリング・ソバットは内臓だけでなく顔面をえぐる危険技に進化していった。
2007年4月には三沢光晴が保持するGHC王座に挑戦するも敗戦した。

そんなノアファンや関係者、Uインター時代の同僚・髙山善廣の証言により、こんな都市伝説が生まれるようになった。

「佐野さんを本気にさせたら殺される」
「佐野巧真最強説」

ノアファンや関係者の間では「佐野最強説」なる物が囁かれていた時期があります。理由はかつて新日本プロレスで獣神サンダー・ライガー選手の最大の宿敵として立ちはだかった後、SWS移籍を得てUWFインターナショナル、キングダム、高田道場を転々としながらU系スタイルも統合させ、ノアにフリーランスとして継続参戦した後、正式にノア所属となりました。このキャリアの豊富さと打・投・極を兼ね備えたスタイルから、「本気を出させたら佐野選手に敵う者は誰もいないのではないか?」と言う推測が立てられ、「佐野最強説」が生まれたのです。(http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1493717824

佐野が「最強説」を証明することになったのは随分先の話である。
2010年1月の「グローバル・タッグリーグ戦」。
佐野は髙山とのUWFコンビで参戦し、見事に優勝した。
最後に試合を決めたのは佐野の顔面へのローリング・ソバットだった。
試合後、髙山はこう語った。

「一言だけ。佐野さん最強、かっけーっす!」

不言実行の実力者がようやくノアで獲得した初タイトルだった。
同年9月に齋藤彰俊&バイソン・スミスを破り、GHCタッグ王者となった。
だが、その後タイトルを失うとスポットライトを浴びることはなく、2012年1月に佐野はフリーとなった。
ノアは2008年頃から経営に苦しんでいた。
佐野のフリー契約はいわばリストラである。

2014年、佐野はデビュー30周年を迎えた。

「30年、自分で言うのもなんですけど、長かったような短かったような…。過ぎてしまえばあっという間なんですが、よく30年も同じことをやってこれたな、という思いですね」

同年3月に佐野はデビュー30周年記念試合を行った。
パートナーはライバル、リング上の恋人でもあるライガーだった。
言葉少ない佐野に代わり、試合後ライガーは熱弁をふるった。

「やはりリング上の佐野さんは素晴らしいわ。もっともっと試合をしてもらいたいと思うし。佐野さんがあるから今のライガーがあるし、そのライガーの前身も佐野直喜というレスラーがいたのでここまでやってこれた。それは仲良しこよしだからじゃねぇんだ。この男には負けたくねぇって気持ちで俺はここまでやってきた。すべて俺より上のものを持ってる。これは認めるよ。お世辞でもなんでもない。30周年だから祝うわけでもない。これは本音なんだよ。常に目標だったんだ。この男には負けたくないっていう目標だったんだ。だからこれからも佐野さんにはリングに上がってほしいし、佐野さんの戦いを見てまだこの男には負けないという気持ちを持たせてほしいです」

世界のレジェンドと呼ばれるライガーにここまで言わせる男、それが佐野である。
現在、佐野はフリーとしてマイペースであらゆるインディー団体に参戦している。最近ではゼロワンにも上がるようになった。
佐野は語る。

「どんなかたちであれリングに上がっていきたい」

佐野というレスラーについて考察していくと、彼には幻想のようなものが付きまとっていたのかもしれない。
いわば「Sの幻想」だ。
SとはSWSのS、ストロングスタイルのS、最強のSだ。
これらの幻想を長年抱かせたのが佐野だった。

ある者は新日本やSWS、Uインター時代のかっこいい"佐野直喜"に夢を見て、ある者はノアの職人レスラー"佐野巧真"に想いを馳せた。
佐野はファンに幻想や夢想を抱かせるだけの魅力を秘めたプロレスラーだったのではないだろうか。

プロレス界を彷徨い続けた闘豹。
彼は幻想の中で生きたプロレスラーだった。
何故、彼はトップレスラーになれなかったのか?
何故、彼はエースになれなかったのか?
何故、彼は真の意味でブレイクできなかったのか?
実力や才能だけではトップに立つことが出来ないのがプロレスの奥深さであり難しさである。
不運という一言で片付けるのは酷かもしれないが、その言葉が一番、彼のレスラー人生を象徴している。
トップに立つには運も見方にしなければならないのだ。

Sの幻想とは佐野巧真、佐野直喜のSでもある。

今年(2015年)、50歳を迎えた佐野。

トップに立てる技量や器量はあるのになれなかった不運の男はこれからもリングに立ち続ける。

佐野巧真の幻想は彼がリングを下りる時が来てもいつまでも残り続ける日本プロレス界の"世に奇妙な物語"なのかもしれない。