プロレスを変革した我武者羅主義/ダイナマイト・キッド【俺達のプロレスラーDX】 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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俺達のプロレスラーDX
第103回 プロレスを変革した我武者羅主義/ダイナマイト・キッド





「俺、思うけど、今の日本のプロレスのベースを作ったのは天龍(源一郎)さんとダイナマイト・キッド。ダイナマイトがトップロープからスープレックスやドロップキックをやる独自のスタイルを創ったのと、天龍さんのスタイルがベース。特に1990年代はあの二人が完璧にベースになっていますよ。考えたらそうでしょ?ライガーさんのスタイルは明らかにダイナマイトの影響を受けてるし、それを見てさらに影響を受けた選手がたくさんいるわけだから」

こう語るのはプロレスリング・ノアの小川良成。
小川の考察は一理ある。
天龍源一郎とダイナマイト・キッドの共通項はやはり"全力ファイト"ではないだろうか。

思いっ切り攻めて、相手の攻撃を思いっきり受け止める。
それをどんな会場でもどんな相手でも関係なくやり遂げるのが彼らの流儀だった。

1987年、全日本プロレスで勃発した天龍革命は、プロレス史に残るイデオロギー・ルネッサンスだった。
しかし、天龍革命が起こる何年の前からキッドは全力ファイトを続けてきた。
天龍がどんな会場でも全力ファイトの精神は、キッドの真骨頂であった。

爆弾小僧、爆弾貴公子、カミソリファイター、ブリティッシュ・ブルドッグと呼ばれたプロレスラー。
ダイナマイト・キッド、彼こそプロレスを変えた男だった。

ダイナマイト・キッドは1958年12月5日、イギリス・ランカシャー州ゴルボーンで生まれた。
本名はトム・ビリントン。
子供の時からあらゆるスポーツに精通していたキッド。
行商人だった父は週末になるとキッドをレスリングの練習に通わせた。

そこで出会ったのが元プロレスラーのテッド・ベトレー。
14歳で彼の師事を受け、トレーニングを続けた。
カール・ゴッチ、ビル・ロビンソン、ビリー・ジョイスといった伝説のシューター達を輩出した"蛇の穴"ビリー・ライレー・ジムにも出稽古に赴いた。
そこではプロレスの源流とも言われる「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」を習得した。

1975年、17歳でプロデビューを果たしたキッド。(15歳でデビューしたという説もある)
当初は173cm 75kg(後に98kgまで増加)という小柄な肉体だったキッドだが、天才的レスリングセンスで頭角を現す。
イギリスの重鎮ビッグダディというレスラーが名付けたリングネーム、それがダイナマイト・キッドだった。

1977年4月、マンチェスターでジム・ブリークスを破り、18歳の若さで英国ライト級王者となった。
また後に初代ブラック・タイガーとして日本で活躍するマーク・ロコと抗争を繰り広げる。

「イギリスのレスリング・ビジネスは君達が考えているよりもずっとひどくてさ。それだけやってたんじゃ、とても生活にはならないほど最低なのさ。イギリスという国はどんより曇っていて、未来がなくて、退屈なところさ。考えてみろよ、あのビートルズだってローリング・ストーンズだって、イギリスを捨てちまったじゃないか」

イギリスで人気者になったキッドをスカウトしたのがカナダ人レスラーのブルース・ハート。
彼の父はスチュー・ハート、兄弟もプロレスラーというレスリング・ファミリー。
彼らがカナダ・カルガリーでプロモートしていた団体がスタンピード・レスリングだった。
スタンピード・レスリングにブルースはキッドを呼びたかったのだ。
この時代のスタンピード・レスリングは大型選手、荒々しいヒール選手が多かった。
だが、それを変革したのはキッドだった。

1978年4月にカルガリーに渡ったキッドは日本で言うところのレスリング技術とスピードと飛び技を競うジュニアヘビー級(現地ではミッドヘビー級)戦線を確立して見せた。
同年7月には英連邦ミッドヘビー級王座を獲得。
また後にWWEのスーパースターとなるブレット・ハートと抗争では名勝負を連発し、キッドの地位は不動のものとなった。

ブルース・ハート
「あんなに小さな体なのに躍動感だけで我々のテリトリーを変革し、さらに日本のリングでも大きな影響を与えたのだからすごい」

ブレット・ハート
「相手がベテランでも若手でもキッドは全てに本領を発揮し、好試合を見せた。それが彼の最も優れた才能だと思う」

スタンピード・レスリングの父であるスチュー・ハートはキッドのプロレスを見てこう語ったという。

「こういうものを生まれて初めてみたよ」

低空飛行の高速ブレーン・バスター、トップロープからの正面飛びミサイルキック、倒れこみ式と長距離飛行の二パターンがある得意技のダイビング・ヘッドバット、説得力満点のツームストン・パイルドライバー、トップロープからの命知らずの雪崩式ブレーンバスター(サイドスープレックスも使っていたときもあった)、エプロンから場外へのブレーンバスター、そしてまるでピンボールが跳ねるような豪快な受け身。
全てがキッドのオリジナルだった。
キッドの活躍に触発されるようにイギリス・マンチェスターからいとこのデイビーボーイ・スミスがチャンスを求めてやってきた。
カルガリーでキッドが躍動する姿をリングサイドでいつも見つめている一人の少年が座っていたという。
その少年は若き日のクリス・ベノワである。
クリス少年はキッドに会った際にこう言ったという。

「僕はあなたのようになりたくて今身体を鍛えています」

キッドはクリス少年を励ましたという。
クリス少年がペガサス・キッドと名乗って日本で大暴れするのはそれから10年先のことである。
二人のキッドの邂逅がここにあった。

キッドが初来日したのが1979年7月、国際プロレスのリングだった。
実はキッドは国際プロレスの吉原功代表に手紙を書いて、日本行きを頼んだという。
そこで当時の国際プロレスのスーパールーキーであるWWUジュニアヘビー級王者の阿修羅・原とダブルタイトルマッチを行った。

国際プロレスの活躍が新日本プロレスの耳に入ったのか、キッドはカルガリーでの藤波辰爾(当時は辰巳)と好勝負を展開し、新日本へ戦場を移行した。

藤波辰爾
「あの頃のダイナマイト・キッドは細いんですよね。だけどやたらと元気がいいんです。動きがいいだけでなくて、一発一発の蹴りやパンチにしてもヘビー級並の破壊力があった。とにかくじっとしていなくて動いている。試合が終わった後は『とにかく疲れた』という印象が強かった」

1981年4月23日、蔵前国技館。
この日、日本プロレス界に伝説のスーパーヒーローが誕生した。
初代タイガーマスク。

初代タイガーマスクとしてのデビュー戦は、1981年4月23日、蔵前国技館におけるダイナマイト・キッド戦。数々のオリジナルムーブとフィニッシュのジャーマンスープレックス・ホールドでデビュー戦にして人気をさらった。新日本プロレス伝統のストロングスタイルをベースに、全米プロ空手流の打撃技と武者修行先で培ったルチャリブレ(メキシコ式プロレス)の空中殺法とを織り交ぜた革新的なレスリングスタイルは、全国的に空前のタイガーマスクブームを巻き起こした。
(wikipediaより/初代タイガーマスク)

初代タイガーのデビュー戦の相手を務めたのがキッドだった。
しかし、初代タイガーはデビュー戦で闘って感じたのはキッドの凄さだった。
その後もタイガーとキッドは数々の名勝負を展開した。
タイガーにとってキッドは難敵中の難敵だった

初代タイガーマスク
「ダイナマイト・キッドがいなければタイガーマスクがこれほどフィーバーしたのはどうかを考えると彼は必要不可欠な人間。本当の勇者だし、あんな凄いプロレスをするやつは見たことないです。自分は若手やファンに『タイガーマスクのプロレスを見るな、ダイナマイト・キッドのプロレスを見なさい』というんです。ダイナマイトのファイトが、互いのファイトが凄い展開をしたとき、魂が燃え上がった姿をみんなに見てわかってもらいたいんです。僕はダイナマイトのバックドロップを喰らって一時的に言語障害になって、首や足も痛めた。それでも悔いはないんです」

ブレット・ハート
「タイガーマスクとダイナマイト・キッドの動きはいつも違っていて、それが常に化学反応を起こしたように斬新で信じられない動きを呼び起こしていた」

またキッドは来日するたびにコスチュームや髪型を変えるファッションセンスもあった。
短髪や坊主頭、オールバック、長髪、ショートタイツ、ロングタイツ、ダブルショルダーのロングタイツ…。
どれもキッドがまとえばかっこよく見えた。
それもキッドの魅力だった。
鍛え抜かれた肉体、不屈の闘争本能、何かを訴えかける強い目、スピード&パワーで魅了する試合内容、ランカシャーレスリングに近代的なスタイルを融合させた独創的プロレス、どこまでクール、決して笑わない男。
いつしかキッドの人気は日本で爆発していった。

ちなみに新日本参戦時にキッドは星野勘太郎と喧嘩マッチを繰り広げている。
1982年1月、姫路大会のことである。
これについてキッドは自著『PURE DYNAMITE ダイナマイト・キッド自伝』の中でこう記している。

「新日本で思い出すレスラーの1人に160cmそこそこの小柄だが、常に自分をリング上で主張したがる星野勘太郎というレスラーがいた。ある日俺との戦いでも注目を浴びたいらしく、それはそれはいろいろと仕掛けてきた。『そこらでもう十分だろう』と思った俺は反撃開始。だがヤツはそれが気に入らないと思ったらしく、俺をコーナーに追い詰めると『クソ!この野郎』とばかりに『グロヴィット』をかけてきやがった。グロヴィットとはウィガン(イギリスの地名)古来の技であるフロント・フェイスロックのことで、がっちり決まればすぐに落ちてしまう技だ。ヤツがグロヴィットのかけ方をカール・ゴッチから伝授されたのは間違いない。確かにあの技はガッチリと極めてきたのは見事だが残念だった、と。短期間であったがビリー・ライレージム(蛇の穴)で修行を積んだ時、俺はそのはずし方を習得していたのだ。その時、俺はヤツの左ヒジに右手を伸ばし、1点集中でグイっと引っ張ってやった。するとあやうく切れてしまうほど、ヤソの指関節は悲鳴をあげた。翌日星野の手には包帯が巻かれていた」

キッドは元々酒は飲まなかったというが、周囲の影響を受け徐々にビールを飲むようになった。それが元でカルガリーでは度が過ぎるイタズラ小僧へと変貌を遂げる。
人懐っこくて、純粋で、真面目な人間だったキッド。
だが酒、肉体を大きくするために手を染めたステロイドや薬物、それに伴う周囲への暴行やイタズラ…。
ステロイドの影響で怒りっぽくなり、性格は荒々しくなっていった。
彼はリングでもリング外でも"爆弾"だった。
そして、その全力ファイトの代償は大きく、肉体はボロボロだった。

「パイルドライバーやスープレックスを毎日受けているうちに体の痛みは常に消えることがない状態になっていた。それは試合によるものだけでなく、ステロイドの影響もあった。25歳になった頃から背中に耐えられないような痛みが抱えるようになる。脇腹、腎臓、全身がとにかく痛い。しかし、ハイリスクな技の使用を辞めようとは思わなかった。客がそれを見に金を払ってきている以上やめるわけにはいかないんだ」

周囲はキッドに薬物を止めるように説得したが、キッドはこう言ってステロイドを打ち続けたという。

「俺は50歳で死んでもいいんだ。今最高のものをリングで提供するためにはステロイドは必要なんだ」

最終的にはキッドは筋肉増強のために競走馬用のステロイドにまで手を伸ばしたと言われている。

「1984年頃のステロイド摂取量は深刻なものとなっていた。毎日、最低6ccのテストステロンを両方の尻に半分ずつ打ちし、これが原因で気分がひどくなることもあった。そして俺の体重は81キロから111キロにまで増えていった。日本へ行く時、俺は常にステロイドを携帯していた。名前は出せないが、俺の手からステロイドを受け取ったレスラーもいた」

プロレスのために薬物に手を染めた彼はステロイドの虜になってしまっていた。

初代タイガーが突如引退し、新日本ジュニア戦線の主役は団体側が押したいザ・コブラではなく、キッドであり、タイガーのライバルだった小林邦昭だった。
1984年2月、キッドはザ・コブラ、デイビーボーイ・スミスとの三つ巴戦を制して、タイガーが返上した空位のWWFジュニアヘビー級王者となった。この時、場内にはキッドを讃える歓声と「キッド」コールに包まれた。
キッドはいとこのデイビーボーイとのコンビで活動していく。
またアメリカ本土にも進出し、NWAパシフィック・ノースウエストヘビー級王座を獲得している。

1984年11月、キッドはデイビーボーイとともに全日本プロレスに移籍する。
また二人が新日本と共に主戦場にしていたスタンピード・レスリングはWWEが買収したことにより、1985年にWWE(当時WWF)に移籍する。

「プロレスラーというより人間は、ひとつのステップを踏んだら、必ずその次のステップを駆け上がるように努力しないといけない」

キッドのサクセスストーリーは遂に世界最高峰団体に辿り着いた。
キッドとデイビーボーイは"ブリティッシュ・ブルドッグス"というタッグチームで大活躍し、1986年4月にはWWE世界タッグ王座を獲得する。だが、その後椎間板を負傷し、病院に緊急搬送され6時間の大手術を受けた。
医者からはこの時、引退勧告を受けている。

実はこのキッカケが自分ではないのかと長年責めている男がいた。
誰あろうパートナーのデイビーボーイだった。
それは1984年2月での三つ巴戦での出来事。
彼の息子で現在、日本で活躍しているデイビーボーイ・スミスJrはこう語っている。

「親父と蔵前での三つ巴戦の試合をよく見たよ。親父が場外へキッドを投げた時にキッドはエプロンで腰を強打した。それが原因で障害が残ってしまったのかもしれない。あの日、腰を負傷したんだと思う。それに気づかずに試合を続けてしまってコブラ戦に勝利し優勝した。何年後かにリングで椎間板を痛めた時に医者はそれ以前から腰を負傷していたと言った。親父はキッドのケガは自分のせいだと後悔していたよ」

1988年、キッドはWWEを退団しカルガリーに戻った。
ちなみにこの頃、ハート一家の末っ子であるオーエン・ハートは「キッドは余りにも体はボロボロで試合は無理かもしれない」と語っていた。

それでもキッドはリングに帰ってきた。
1989年にデイビーボーイと共に全日本プロレスに復帰を果たす。
後楽園ホールでのマレンコ兄弟との名勝負。
日本武道館で、テリー・ゴディをショルダータックルで倒したそのファイティングスピリット。
カンナム・エクスプレス、ザ・ファンタスティックスとのタッグ抗争。
あらゆるメモリーを残しながらも、キッドの肉体は衰えていった。
ステロイドを辞めたことに影響もあるのかもしれない、肉体はかなり萎んでいた。
デイビーボーイはWWEに復帰し、仲違いをした。

だが、気持ちだけは誰にも負けたくなかった。
ヘッドバットを一発だけでなく、相手が根を上げるまで、歓声が起こるまで止めないど根性。
ステロイドの影響で心臓肥大という診断を下った。

もうプロレスをできるコンディションではなかった。

それでも肉体は限界を越えていても、ボロボロに壊れても、LSDをやって心臓停止になろうが、プロレスへの情熱と心だけは折れたくなかった。
それがダイナマイト・キッドという男だった。

1991年12月6日、日本武道館。
世界最強タッグリーグ戦最終戦のこの日。
試合直前に場内アナウンスが流れた。

「次の試合に登場するダイナマイト・キッドですが、この試合を最後に現役を引退することになりました」

場内は騒然。
「エーッ」というざわめきと悲しみが日本武道館を包む。
その中で「キッド」コールの雨が降り注ぐ。
キッドはその中でダイビング・ヘッドバットを決め勝利を収めた。
試合後、キッドは日本人選手達に胴上げをされてその栄誉を讃えられた。

その後、キッドは1993年7月に全日本で復帰。
また1996年3月にはみちのくプロレスのリングで初代タイガーこと佐山聡と再会を果たす。
サプライズゲストとして呼ばれたキッドはリング上にいるスーツ姿の佐山と両手でがっちりと握手を果たした。
1983年を最後に互いにすれ違った人生を送っていた二人の道がここで重なったのだ。
佐山は泣いていた。
そしてキッドも感慨に耽っているようだった。
その7か月後の同年10月、みちのくプロレス両国大会でキッドはドス・カラスと小林邦昭と組んで、初代タイガーマスク、ザ・グレート・サスケ、ミル・マスカラスと対戦する。しかし、キッドの肉体はさらに細くなっていた。
実はこのとき、左半身はマヒしている状態でリングに上がっていたという。

この試合を最後にキッドは二度とリングに上がることはなかった。
1997年に両足と腰に激痛が走った。
もうキッドは自力で立つこともできなくなった。
40歳を目前に彼は車イス生活を余儀なくされた。

リング上を全速力で駆け抜けたキッド。
その波乱万丈のレスラー人生は、私生活にも及ぶ。
カナダ人女性と結婚したキッドだったが、家庭内暴力を振るい、それが原因で離婚。
元夫人はショットガンを喉元につきつけられたと主張しているという。
1997年にイギリスで再婚したキッド。

前妻で誕生した娘ブロンウェイは父キッドについてこう語る。

「小さい頃の思い出としては日本から帰ってくると必ず珍しいお土産を持ってきてくれたこと。ハロー・キティやバック・パック、着物…。私に対しては声を荒げることはなかった。全ていい思い出として残っている。父が去った時のことはよく覚えていない。イギリスに戻るということだけだった。幼すぎて理解できなかった。10歳の時にイギリスにいって面談した。18歳になるまでコンタクトしていた。ただ18歳の時に父のやってきたことに疑問を持ちはじめた。『なぜ私達を置き去りにしたのか?』 それ以降はこちらからコンタクトをしなかった」

それでも二人はイギリスで再会した。
親子を仲介したのはなんとブレット・ハートだったという。ブレットはキッドのライバルでもあり、カルガリー、新日本やWWE時代のサーキット仲間だった。

「キッドは人生において出会った人との付き合いを遮断してしまった。しかし、彼女(キッドの娘)とはそうするべきではにと考え、会いに行くときは同行したんだ」

「ダイナマイト・キッドという人間を俺は誰よりも近くで見てきた。彼の体中についていた汚れを落として近くで見ると気持ちの優しい愛すべき人物だ。彼が著書でデイビーボーイや俺のことを色々書いてきたが、心の中では信頼してきた仲だった。それは俺達にしかわからない」

娘は語る。

「再会した時、互いにビールを飲んでテレビを見て父の車イスの横にいて肩に手をやって、手を取り合っていた。二人とも泣いてしまった。あそこで互いの感情は理解しあえたと思います」

またデイビーボーイ・スミスJrはイギリスに遠征に行くときは必ずキッドに会いに行くという。
息子へのキッドの対応は優しくて親切だという。

「いつも俺には優しくていい人だよ。佐山さん(初代タイガーマスク)とは良きライバルだったと話しているから、俺が初めて新日本で来日した時、佐山さんの道場に練習にいったんだ。そしてキッドの住所を教えてあげたら、佐山さんは手紙を書いて送ったんだ。キッドはその手紙をすごく喜んていたよ」

「ダイナマイト・キッドの闘いのスタイルには影響を受けたし、世界中のプロレスファンに衝撃を与えたと思う。入場の時から常に戦闘モードで勝つために何でもする…そんな彼の魂を俺は受け継いでいると思うし、ファンや他のレスラーにも影響を与えたと思う。親父はよくキッドのことを話していたよ。二人はすごく仲良かったと思う。何があったのか真実は知らないが不幸にも喧嘩別れしてしまった。でも親父はキッドを最高のレスラーだと言っていたよ」

2013年11月に脳卒中で倒れたキッド。
記憶の一部が失われ、言葉をうまく話せなくなってしまった。
公の場に姿を現す機会は今後、訪れるかは定かではない。

あれはキッドが引退して一年後だっただろうか。
日本のインディーロックバンドが彼に捧げる歌を制作したという話を聞いたことがある。

タイトルは「ガムシャラ」。

ガムシャラを漢字では我武者羅と書く。
我武者羅とは向こう見ずにふるまうこと、後先を考えないで強引に事をなすことやそのさまという意味だ。
この我武者羅主義こそキッドの生き様なのではないだろうか。

キッドの盟友で、アメリカンプロレスの一時代を創ったスーパースターであるブレット・ハートはこう語る。

「俺はダイナマイト・キッドこそ史上最高のレスラーだと思っている」

明日のことも考えずにプロレスに捧げ、輝きを放った大英帝国のサムライ。
危険なファイトスタイルによって首、腰、背骨、椎間板は悲鳴を上げ、オーバーヒートを起こしていた。
この末路に至ったのはキッドならば致し方ないのではないだろうか。
太く生きた伝説のプロレスラーは近年、プロレスファンにこのようなメッセージを残している。

「身体のことは後悔していない。すべて自己責任だよ。みんなの幸せを願っている。自分のケアをしっかりしてくれ」

爆弾小僧ダイナマイト・キッド。
彼の全力ファイトはプロレスを変革し、多くのレスラーに影響を与え、尊敬される光となった。
その一方でステロイド、薬物、暴力、酒に溺れる闇を背負った。
創造主でありながら、破滅的に生きた男。

「今日最高のプロレスを見せられれば、明日なんていらない」

全力ファイトとは、我武者羅主義とは尋常ならない覚悟と度胸がないと踏み込めない領域なのかもしれない。

プロレス界を我武者羅に生きた男ダイナマイト・キッドの人生に明日などない。周りにどう言われても後悔などしていない。あるのは今というリアルな現実と燦然と輝く数多くの伝説なのだ。


【追記/2018年12月16日】

イギリス出身の元プロレスラー、ダイナマイト・キッドさんが亡くなったことが5日、分かった。60歳だった。イギリスの大手複数メディアが報じた。死因は不明だが、2013年には脳卒中を起こして倒れ、他にも心臓の病など複数の健康問題を抱えていた。イギリスのメディア「THE Sun」は現役時代の複数の写真を掲載し、60歳の誕生日を迎えた当日に亡くなったことを報じた。


 キッドさんはWWEの伝説のレスラーで、1980年代は日本のリングでも活躍。初代タイガーマスク藤波辰爾と名勝負を繰り広げ、日本のプロレスファンを熱狂させた。

 16年にはNHK・BSで放送された「タイガーマスク伝説~覆面に秘めた葛藤~」に出演したが、この時も闘病中だった。
ダイナマイト・キッドさん死去 初代タイガーマスクや藤波らと名勝負/デイリースポーツ2018年12月6日】

ダイナマイト・キッドさんのご冥福を心よりお祈りいたします。