現状維持というイデオロギー/MIKAMI【俺達のプロレスラーDX】 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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俺達のプロレスラーDX
第148回 現状維持というイデオロギー/MIKAMI



2015年6月16日。
この日、インディー団体DDTプロレスリングは記者会見を開き、18年間団体に在籍していたMIKAMIが退団しフリーとし活動していくことを発表した。

「旗揚げからDDTでずっとやってきましたが、これからはフリーとして活動することになりました。一言でフリーと言っても、なかなかこの結論に到達するには時間もかかったし、いろんな考えが自分の中にありました。一つはプロレスの先輩が各地にいるので、いろんなところに出ていって、いろんな人と対戦したい。それからプロレスラーになりたい若者たちを育成ができないかなと思いまして。旗揚げからずっといたので、大きなことだと思うんですけど、先日高木さんもプロレス業界の中で大きなことをやったというのがあって、その中で少しお話をした時に『俺もこうなると思っていなかったけど、動いてみるのもおもしろいよ』と。もともとDDTを旗揚げするとなった時に、新しいことをやろうとした人だし、自分がその心意気に惚れて参加した経緯もあったので、高木さんは新しく何かをすることに前向きというか、寛容というか、応援してくれるところがあるので、それを聞いた時に自分も決意しました。自分のプロレス人生もそんなに何十年もやるわけではないので、競馬でいうと最後の直線のラストスパート。プレイヤーとしてもいろんな人とやりたいというのもあるし、何か若い人が自分の教えたことで育ってくれて、ゆくゆくは地元の島根といったプロレスがあまり盛んでないところから若い人たちがDDTに送り込めたら、プロレス人生としては充実しているなと思いました」

思えば1997年に旗揚げしたDDTは実に離合集散の激しい団体だった。
高木三四郎、野沢一茂(現・NOSAWA論外)、三上恭平(現・MIKAMI)の三人で旗揚げした弱小インディー団体だったが、野沢が早々に離脱し、その後もあらゆる選手達が現れはこのリングを離れていった。その中でもMIKAMIは実に18年をも間、DDTに在籍を続けた。
ただ、ここ数年は彼の存在感は薄くなっていたこともあり、メイン戦線からは後退していた。
そんなMIKAMIが一大決心してフリーに転向した。
この決断はDDTに在籍しているベテラン勢には大きな衝撃を与えた。
吹けば飛ぶような団体だったDDTは今はすさまじいスピードで新陳代謝の激しいステージへと進化し、キャリア10年以上のDDTレスラー達にとって、己の進路を見つめ直す一石となったという。

163cm 72kgという小さな肉体をカバーする運動神経の良さと自殺行為のようなダイブ、トレードマークのラダー(はしご)を駆使したハードコアスタイルでDDTのtトップレスラーとして長年活躍してきたMIKAMI。
今回は彼のレスラー人生を追う。

MIKAMIは1973年12月28日島根県浜田市に生まれた。
本名は三上恭平という。
プロレスが好きになったきっかけは初代タイガーマスクVS小林邦昭のライバル闘争を見て、虎ハンター・小林が好きになったことだった。それから彼はプロレスファンになった。
中学生になると器械体操で活躍し、後にハイフライヤーとなる下地を作り、高校に進学するとレスリング部に入部し、国体にも出場している。
国際武道大学に進学し、レスリングを続けるも彼はジャパニーズ・ルチャリブレを標榜していたユニバーサル・プロレスの入門テストに合格し、1993年1月に大学を休学し入門する。しかし、ユニバーサルはその後分裂し、同年に彼はザ・グレート・サスケが旗揚げしたみちのくプロレスに練習生として入団する。
彼の同期は"流星番長"星川尚浩だった。
当時のみちのくプロレスは若きスター達が蠢く勢いのあるプロレス団体だった。
サスケ、スペル・デルフィン、新崎人生、SATO(現・ディック東郷)、TAKAみちのく、テリー・ボーイ(現・MEN'Sテイオー)、獅龍(現・カズ・ハヤシ)、愚乱・浪花…。
若きスター達の躍動をMIKAMIはリングサイドで見つめてきた。
だが雑用に追われ練習にまともに打ち込めず挫折、みちのくプロレスを退団してしまう。
プロレスラーになる道を失った彼は業界から離れ、居酒屋で働く。
再びみちのくプロレスに戻るもまたも退団、ドロップアウトをし続けた。

そんなMIKAMIは1996年10月17日にインディー団体PWCで野沢一茂戦でようやくプロデビューした。1997年にPWCにいた高木三四郎に誘われてDDTプロレスの旗揚げに参加することになった。デビュー当時のMIKAMIは強さに自信のあるスーパー宇宙パワーや仮面シューター・スーパーライダーという高き壁に挑み、ボコボコにされていた。
虫けらに扱われてきた彼が一皮剥けたのは2000年の事である。

プエルトリコに遠征することになったMIKAMIはメキシコのミステル・アギラを破り、IWAライトヘビー級王座を獲得したのだ。日本に帰国後はリングネームを三上恭平からMIKAMIに改名、生意気な天狗キャラクターに変貌を遂げ、あらゆるバリエーションから入るク〜ルボ〜イ(MIKAMIの場合はスクールボーイをこのように表記する)でDDTのトップ戦線に躍り出た。
親指と小指を立てたハンドサインを自らの鼻に向ける独特のポーズと「世界を獲ったMIKAMI様の必殺のスク〜ルボ〜イ!」という決め台詞、自ら友達やパートナーと公言するラダー(はしご)がMIKAMIのトレードマークとなった。

また当時WWEで活躍していたジェフ・ハーディーにあやかり、コスチュームもシースルーのシャツに黒のロングパンツに変更、ジェフの得意技であるスワントーン・ボム、あのレイ・ミステリオが多用する619の原型となったミッキー・ブーメラン、450°スプラッシュ、ラダー最上段からのスワントーンボム【この技はヴォルカニック・ボムという)といった空中殺法を駆使し、日本インディー界屈指のハイフライヤーとなった。
2002年1月にスーパー宇宙パワーを破り、第8代KOD無差別級王者となった。
キックボクサーのタノムサク鳥羽とのコンビ「スーサイド・ボーイズ」は何度もKODタッグ王座を獲得し、DDTを代表するタッグチームとなった。
ちなみのこの頃の活躍に目をつけていたのが新日本プロレスの獣神サンダー・ライガー。
彼のプロレスはメジャー団体にも届くようになった。

2005年から軽量級の選手達を集めたDDT内ブランド「Cruiser's Game 」を立ち上げ、DDTが運営するスポーツバー「ドロップキック」の店長にもなった。

一見、充実したレスラー人生を送っているように見えるMIKAMI。
だが時代はMIKAMIにどこか冷たかった。
確かにトップレスラーの一角を担っていたかもしれないが、団体を越え業界全体に届くようなレスラーになったのかと言われてたら、それは違った。
別に衰えているわけではないが、だからと言って目新しいものがあるわけではない。
彼が頭角を現していったスタイルを良くも悪くも現状維持している状態なのだ。
進化するわけでも退化するわけでもなく、そこには人間味もあまり感じにくい無機質でシステマティックにプロレスとしているという印象さえ受けてしまうこともあった。

「現状維持では後退するだけである」

かのウォルト・ディズニーが残した名言があるように、現状維持というのはあまりポジティブな意味で使われない場合も多い。

そんな中でMIKAMIはファンの声に対して、周囲の評価に対して、敢えてなのかどうかわからないが鈍感だったように思える。

「周囲の評価は気になるが、俺はスタンスは変えない」

俺は俺ということを貫きつつ、どこか周囲の評価が内心気になるというが彼の心境だったのだろうか。

そのことに気がついていた人もいたかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
MIKAMIはこのままでいいと思う人もいるかもしれない。
だが、プレイヤーサイドからMIKAMIについてこんな発言が飛び出したことがあった。

「もう少しプロレスを勉強したほうがいい。試合をしていて昔も今も成長を感じない。だから悔しいしもどかしい」

このようにMIKAMIをある種、酷評したのはレスリングマスター・ディック東郷だった。
MIKAMIにとっては東郷はユニバーサル、みちのく時代からの先輩だ。
この東郷の発言はMIKAMIというレスラースタイルの本質をついていたような気がする。

東郷の指摘から数年後、MIKAMIの現状維持なレスラースタイルが問われる事態が発生する。

2014年7月20日の後楽園大会でMIKAMIは松永智充と組んで、GENTARO&ヤス・ウラノと対戦した。だが、試合はヤスのヘッドロックにMIKAMIがギブアップしてしまう。この数ヵ月、負け続け不甲斐なかったMIKAMIは試合後、そそくさとリングを去ろうとする。
だが、対戦相手の一人のGEMTAROがブチ切れた。

「オメエ、どういうつもりだ? こんな惨敗してこれでいいのか? オマエ、もっと強かったじゃねぇか。何でなんだよ。なんだこのザマは! こんなの見たくねぇよ! オマエ、もしかしてやる気がねぇのか? やる気ねえのか? もうやりたくねえのか!? 俺はあまり言いたくねぇけど、脳梗塞から戻ってきたんだぞ。もうやる気満々だぞ。まだそんなに言葉はしゃべれないけど、俺はこのプロレスをやってすごい幸せなんだぞ。オマエ、なんだよ!」

するとGENTAROのパートナーであるヤス・ウラノはMIKAMIをさらに突き放した。

「GENTAROさん、あなた間違ってます。あなたが辛い状況から戻ってきたもの凄い努力、それは本当です。でもあなたが気にかけるべき相手はこんな人じゃない。確かに昔は輝いていたかもしれない! あなたが体を壊して復帰するまでの間、DDTは若手も努力して、みんなドンドンあがってきたんです。でもこの人はあの頃から何も変わってないです。MIKAMIさん、教えてください。あの時より成長しているんですか? あの時よりも上にいると思っているんですか? ただ何の努力もしないで衰えているだけでしょ。あなたがすべきことはこんなどうでもいい人間を気にかけることじゃない」

GENTAROとウラノの発言がベテランのMIKAMIに重くのしかかる。

その一か月後の2014年8月17日の両国国技館大会でGENTAROと組んで、ヤス・ウラノ&彰人と対戦したMIKAMIはとっておきの奥の手であるディープ"M"インパクト(630スプラッシュ)でウラノを破って見せた。

試合後にMIKAMIはこう語った。

「今日の試合で最後大技を出したことで、オマエらにこの覚悟があんのかっていう。それ見せたかったんだよ。俺もすごい覚悟いるんだけど、それを出すことで見せたかったんだよ。俺ら確かに40だし。年長だよ! でも、だからなんだっつうんだよ。年齢関係ねぇから! どこの世界に40歳であの技やるヤツがいるんだっつうんだよ!死ぬ気でやってんだからな!」

それは雄弁ではない男による心の叫びだったのかもしれない。

「テレビ中継含めていろんなスター選手を観てきたんですけど、会場に足を運んだりして憧れたのはMIKAMIさんでしたね。やっぱり俺もMIKAMIさんも身長がそんなに大きくなかったんで、"そういう人でも、ほかのレスラーより突出したものがあればチャンピオンにまでなれるんだ"っていうのを実感したんですよ」

こウ語るのは日本インディー界の実力者として多方面で活躍する木高イサミだ。
これはイサミだけでなく、体格や何かしらのハンデやコンプレックスを抱えている者達にとってMIKAMIという存在は実は希望の灯だったかもしれない。
そう考えてみると長年、現状維持というスタイルも悪くはないかもしれない。

以前、紹介した東郷の発言を基準に考えるとMIKAMIというレスラーは成長もなく、現状に甘んじているような感じがするし、私自身そう考えていた時期もあった。
だが、その考えを改めるきっかけとなったのがプロレスライターの小佐野景浩氏が指摘した三沢光晴と川田利明のプロレス観の違いだった。

「三沢からすれば"川田は手を抜く。同じことをしかやらない"となって。川田からすれば地方で難しいことをやっても意味がない。テレビでやってることをやればいい。高度な攻防はお客さんはわからないと」

つまりこういうことだ。
毎回、同じことをするのをよしとしなかったのが三沢で、多くの人達にも分かるように毎回同じことをすればいいと考えたのは川田だったというわけである。
タイプは違えど、二人ともプロレスの名人だ。
天と地、水と油に違うプロレス観だが、これは東郷とMIKAMIにも当てはまる。
恐らく、東郷は現状に甘んじず、進化や成長をしていくことに注力してきたスタイルなのだ。
一方のMIKAMIは名刺代わりになった己のスタイルを変えないでやり続けることに注力してきた。
互いの注力すべきベクトルや方向性が違ったのだ。
どちらが正しいとか間違っているとかでは語れないほどイデオロギーが違うのだ。
現状維持というイデオロギーをMIKAMIは選んだのだ。

ではなぜ、MIKAMIは現状維持というスタンスになっていったのだろうか?

「僕はもともと、早めにパッとやめようと思ったんです。その方がかっこいいだろうって。でも手術を受けてからはもっとやろうという気になりました、どこまでできるのかっていう挑戦ですよね。プロレスラーは一試合ごとに削られていくんです。それは大なり小なり避けられない。その残りがどれくらいあるのかっていうことであって、減り方をいかに少なくするかが今の自分のやっていくことだと思うんです」

2015年7月19日後楽園ホール大会。
この日、MIKAMIは木高イサミ、ゴージャス松野と組んで、KUDO&HARASHIMA&高木三四郎と対戦し、DDT所属ラストマッチを終えた。

試合後、彼はこんなコメントを残している。

「なんすかね、終わりましたね。終わってないですけどね。始まったんですけど、DDTとしては終わったなと。実感が正直沸かないんで、じわじわ来るんですかね。高木さんと久しぶりに試合で当たって、喝というか愛のムチみたいな感じで"こんなもんか!"みたいな。なかなかああいうことをしない人なんですよ、普段。たぶん俺だから…俺以外にあんなの見たことないというか。あの人はああいうところをちゃんと持ってるんですよ。久しぶりに魂で殴りあったというか。こんなもんかと言われたから、俺も"こんなもんじゃねえよ"って返したし、18年間の昔からの積み重ねがいろいろあって、高木さんとは試合のなかで30秒か1分かそこらしか殴り合わなかったですけど、終わってからいい顔してましたね、挨拶いったら。今日でひとまず…けっこうDDTは泣けと言わんばかりのことをしてくるんでね。別に辞めるわけじゃないと思いながらも、18年って長かったんだなと思って。ちょっとすぐには振り返られないですけど、ただDDTが年々大きくなっていって、どんどん成功してきて、自分はそのなかで…昔は俺は抜けたら絶対ダメな人間でしたけど、いい意味で、抜けてもみんながいるので。いってこい、みたいなね。送り出してくれるというか。試合終わったあとリング上で結構レスラー同士がしゃべることってリング上あるんですけど、けっこう長い時間会話をしましたね。リング上じゃないと会話できないと思ったんで。今までありがとうございました。今後もいろいろやってみます。日本全国動いて若い人たちとか、プロレスラーを目指している人たちを育成したいと言ったら"頑張れよ。攻めるといいよ"と。あの人はそういう人なので背中を押してくましたね、きょうリング上で。やっぱリング上でしゃべると本音が出るんでね。それは嬉しかったですね。事務所とかであらためてありがとうございましたとか、照れくさくて言えないんですよね」

こうしてMIKAMIはDDTを去った。

あれから一年(2016年現在)が経った。
MIKAMIはあらゆるリングに上がっている。
KAIENTAI DOJO、プロレスリングFREEDOMS、アパッチプロレス軍、美月凛音主催歌舞伎町プロレス、暗黒プロレス組織666、プロレスリング華☆激…。
あらゆるリングに上がり、時には大ベテランと対戦することでMIKAMIは新たな刺激を手にいれているという。
KAIENTAI DOJOではユニバーサル時代からの先輩であるTAKAみちのく、MEN'SテイオーらとTEAM69ROLLのメンバーとして活動してる。

MIKAMIはお世話になった先輩に並び立つと練習生時代のことを思い出しこう思うのだ。

「俺、この二人と一緒にいていいのか?」

現状維持というレスラースタイルは変えないが、フリーランスという立場を思う存分に利用して充実した日々を過ごすMIKAMIには二つの夢がある。

まだ一度もリングで遭遇していないユニバーサルやみちのく時代からの先輩・新崎人生との邂逅と新日本の獣神サンダー・ライガーとの一騎打ちだ。
特にライガーとは一度だけタッグを組んだことはあるが、まだシングルで対戦していない。
思えばのし上がっていこうと野心があった20代のMIKAMIをメジャー団体で唯一といっていいほど評価していたのがライガーだった。

「中学生の時にライガーさんのサイン会へいって、プロレスラーになりたいんですと伝えました。そのときに頑張れよって言ってくださって『ライガーさんの応援があったからこうしてプロレスラーになれました』と言ったら笑ってましたね。そういう物語があれば夢は実現する…それがプロレスのすごいところじゃないですか!」

現状維持というイデオロギーを確固たるアイデンティティーとして昇華するMIKAMI。
この男の本質をつかむには時間がかかるかもしれない。
それでも根強いファンがいることも事実。
MIKAMIの魅力に気がつけば、また新しいプロレスの見方にたどり着くのかもしれない。
進化ばかりが善ではないのだ。

もし50代、60代になって、MIKAMIが現状維持をし続けて,いつもの通りにスワントーン・ボムやスク~ルボ~イを決めて、「このMIKAMI様の世界を獲った必殺のスク~ルボ~イ!」と叫んでいたら…あまりにも素敵で痛快な話ではないだろうか。