理想と現実の狭間で~三沢光晴のアナザーストーリー/2代目タイガーマスク【俺達のプロレスラーDX】 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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俺達のプロレスラーDX
第156回 理想と現実の狭間で~三沢光晴のアナザーストーリー~/2代目タイガーマスク



1981年4月23日、衝撃のプロレスラーがデビューした。初代タイガーマスク。コーナーポストに立ち、見たこともないスピードで繰り広げる華麗なファイトは“四次元殺法”と言われ、子供から女性までを魅了した。だがそのマスクの下で、当の本人だけが葛藤を抱えていた。裏方たちの思惑、アントニオ猪木の言葉、そして史上屈指の身体能力と言われた天才・佐山聡の苦悩。仮面の下に隠された素顔のヒーロー伝説に迫る…。
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2016年10月5日、NHKBSプレミアムで放映されたドキュメンタリー番組「アナザーストーリーズ」の初代タイガーマスク特集はプロレスファンだけでなくかつてプロレスに熱狂した中高年の視聴者を中心に反響を呼んだ素晴らしい番組だった。
初代タイガーを巡り、当事者だけでなくあらゆる者達の人生と野望と夢が凝縮されていた黄金の虎伝説は今後も語り継がれていくことだろう。

だが、2代目以降のタイガーマスク達は伝説として語り継がれていったのだろうか?

答えは、残念ながら否である。

2代目以降の虎戦士達は初代の輝かしい威光にもがき苦しみ、初代以上のインパクトを残すことはできなかった。特に初代タイガーが去ってから一年後の1984年8月に全日本プロレスでデビューした2代目タイガーマスクは初代の呪縛と周囲の期待に苦しんでいた。2代目タイガーマスクの正体は当時デビュー3年の若手レスラーだった三沢光晴だった。

初代タイガーが活躍した期間が1981年4月から1983年8月の2年4ヵ月。
対する2代目タイガーは苦しみながらも1984年7月から1990年5月の5年10か月の間、虎の仮面を被り続けた。

今回、俺達のプロレスラーDXで2代目タイガーマスクを取り上げる二つのきっかけがあった。
1つ目のきっかけは私は以前、三沢光晴のレスラー人生を追った長期連載を綴ったことがある。

 「緑の虎は死して神話を遺す 平成のプロレス王・俺達の三沢光晴物語」

この連載で実は2代目タイガー時代をあまり深く掘らなかったのだ。
いつか改めて2代目タイガーを取り上げたいという想いをずっと抱いていた。
そんなある日、2代目タイガーが出場した地方大会のタッグマッチの映像を見る機会があった。

そこで2代目タイガーは対戦相手に場外の鉄柵に振られた際にフェンスに飛び乗ってトぺ・レベルサ(背面アタック)で切り返すムーブを披露していた。
こんなムーブはどのレスラーも披露したことがないはずだ。
そんな離れ業を四半世紀以上前の日本プロレス界で2代目タイガーは披露していたのだ。

私達はもしかしたら、2代目タイガーを初代タイガーの凄さを引きずっていて色眼鏡で観ていたのかもしれない。
三沢光晴はレジェンドレスラーだ。
でも本当は2代目タイガーも初代に負けないほど凄い伝説を陰ながら残してきたレスラーだったのではないだろうか。

そう思うと2代目タイガーを取り上げたいという気持ちが強くなってきた。

2つ目のきっかけは2016年10月からテレビ朝日系列でアニメ「タイガーマスクW」が放映されている。また新日本プロレスにもタイガーマスクWというレスラーがデビューしている。黄金の虎への需要が高まってきている状況下で二代目タイガーを掘り起こしてみたい。

その想いが強くなった。

今だからこそ、2代目タイガーマスクを考察したいのだ。

全日本プロレスに出現した黄金の虎は関係者達にとっては希望の光であり、子供達の夢を乗せたアイドルのような存在だった。

その誕生背景には初代タイガー誕生と同じく、魑魅魍魎で野望と理想に満ちた思惑が交差していた。

これは2代目タイガーマスクを巡る三沢光晴のアナザーストーリーである。
運命の分岐点は初代タイガーマスクが引退した1983年から一年後の1984年に訪れる。

実は人気絶頂期に引退した初代タイガーマスク(佐山聡)を全日本プロレスのジャイアント馬場はタイガーマスクの原作者・梶原一騎氏と組んで、獲得に乗り出したことがあった。
当時の佐山のマネージャーを務めていたS氏と馬場が接近。
佐山タイガーのための企画「ジュニアヘビー級版チャンピオン・カーニバル」も立ち上げる予定だったという。
あの馬場が佐山に1億円~2億円を破格の金額を提示したとも言われている。
だが、初代タイガーこと佐山は馬場のオファーを断り、前田日明率いる格闘プロレスUWFに参加する道を選んだ。

馬場が佐山を入団させようとした意図は女性や子供ファンの新規獲得だったのだろう。
当時の全日本で女性や子供ファンのアイドル的存在だったファンクスはテリーの引退等があり、その人気が陰りが見えていた。また"仮面貴族"ミル・マスカラスもメキシコの英雄でトップレスラーなので、常時参戦する訳ではなかった。自前でアイドルレスラーを抱えておきたかったのかもしれない。

また、当時の全日本で馬場は会長に退き、社長には親会社の日本テレビから出向してきた松根光雄氏が就任していた。当時の全日本プロレス中継は土曜夕方(17時30分から18時25分)に放映されていたが、中継枠をゴールデンタイムに復帰させるための起爆剤の一つが他局(テレビ朝日)で毎週金曜20時に25%の視聴率を獲得していたタイガーマスクだった。

佐山聡を獲得できなかった馬場は自前のレスラーでタイガーマスクを誕生させることになった。
馬場の頭の中にはある一人のレスラーが思い浮かんでいた。

当時の2代目タイガーマスク誕生の背景について、プロレスライターの小佐野景浩氏はこう語る。

「馬場さんは本当は佐山タイガーを全日本に上げようとしたけど、ギャラが高いと。そのときに全日本と提携していたジャパンプロレスの大塚(直樹)さんが"梶原(一騎)先生と交渉はできますよ。タイガーマスクの中身に入る選手はいますか?"と。そこで馬場さんの頭に浮かんだのは三沢光晴だった」

三沢光晴は当時キャリア3年弱の若手レスラーで1984年3月に越中詩郎と共にメキシコ遠征に旅立っていた。
そんな時に三沢の元に馬場から一本の電話がかかってきた。

馬場 「三沢、トップロープに立てるか?」
三沢 「立てます」
馬場 「すぐに帰って来い」

それは遠征からわずか4か月後の帰国命令だった。
三沢と共にメキシコ遠征に出ていた越中はその時をこう振り返る。

「日本を出る前は2人とも前座をやっていたわけですよ。それがメキシコに来たら毎週アレナ・メヒコで2万人の前でメインイベントに出られるんだから、夢みたいでしたよ。そんな中である日、夜中に帰ってきたら馬場さんから連絡があって、"三沢を日本に帰せ"って言われたんですよ。"航空券を送るから、メキシコのオフィスに話しておけ"って僕に言うんですよ。それは馬場さんの仕事じゃないですかって。しかも急な話で、三沢はその数字後にすぐに帰らなきゃいけなかった。ホントは彼も挨拶したい人がいたんですよ。仲良くなったレスラーもいたし、お世話になった人もいたのに、そういう人達に挨拶もできずに、すぐ帰らなきゃいけなかった。それで慌ただしく、三沢を空港まで送ってね」

ちなみに2代目タイガーマスクの候補には越中のほかに、川田利明も上がっていたという。
"東洋の神秘"ザ・グレート・カブキは2代目タイガー誕生の経緯についてこう語る。

「初代タイガーマスクがやめた時に梶原一騎から馬場さんに二代目の話が来て、俺に"お前、誰がいいと思う?"と言うから"三沢じゃないですか?"って言ったんだよ。三沢はその頃メキシコに行ってたんだけど、馬場さんの頭の中にも三沢があったから、"そうだよな、俺もそう思う"って、すぐ電話してね。「バカヤロウ、お前タイガーマスクになるんだぞ」って馬場さんが言ったら「何でもやります!」って(笑)。馬場さんはね、三沢が若い時に彼を養子にしようと考えてたことがあったんだよ。まあそれぐらい、馬場さんからも好かれてたよ」

帰国した三沢は全日本プロレスの社長室で馬場から虎の仮面を渡された。
その時の心境を三沢はこう語っている。

「客の顰蹙を買うだろうなと思いましたよ。2代目というのはちょっと…というのがありましたね。佐山さんがキックをやっていたから、お前もやれって言われたんだけど…。それは違うじゃねぇか(笑)。こうしなきゃいけないと言われたら、何を基準にそういうことを言うのって訊き返したくなるじゃないですか。タイガーマスクの場合、"初代がそうだったからだ"ということになるんですよ。これは納得できない。"入場時にトップロープに立たなくてはいけない"ってことまで契約書に入っていたらしいんですよ。全日本と原作者が交わした契約なんでしょうね」

帰国した三沢は2代目タイガーマスクになるための特訓を積むことになる。
馬場と梶原一騎立会いの下で空手・士道館で合宿し、打撃を習得した。

「なんでこんなところで泊り込まないといけないのか?」

三沢にとっては苦痛でしかなかった。
ちなみに打撃に関してはトレーニングパートナーの川田利明の方が習得が早かったという。初代タイガーが得意にしていたローリング・ソバットはマスターできず、代わりに後に2代目タイガーが多用したのがスピンキックだった。

「俺はそんなもん漫画を基準にすればいいじゃねぇかって思ってましたね。漫画のタイガーマスクは蹴りなんかやらねぇじゃねぇか。俺、漫画は割と好きでしたから」

1984年7月31日、東京・蔵前国技館大会に姿を現した2代目タイガーマスク。
空手特訓後にはアメリカに渡り、マーシャルアーツの特訓も積んだと言われている三沢は、息抜きとけじめをつけるためにメキシコに渡っている。
その時の事を越中は語る。

「俺も突然来たからビックリしたんだけど、"区切りをつけずに日本に帰っちゃったから、みんなに挨拶するために来ました"って言うんだよね。"会社に言ったのか?"って聞いたら、"自腹で来ました"っていうしね。俺から見ると活き活きした顔してないんだよ。なんか重圧に押しつぶされそうになってる感じで、彼自身、日本から逃げたいような気持ちで来たんじゃないかな。だから"俺は大丈夫だけど、お前こそ大丈夫なのか?"って」

三沢は虎仮面という呪縛に苦しんでいた。
だが、団体の命運をかけたプロジェクトは動き出している。
引くことはできなかった。

1984年8月26日田園コロシアムでデビューした2代目タイガーマスク。
対戦相手はメキシコの悪役レスラーであるラ・フィエラ。
このフィエラは三沢がメキシコ遠征時にタッグマッチでよく対戦していたという。

試合前から「三沢」コール、あるいは「佐山」コールといった容赦ないヤジが発生する。
子供ファンはタイガーマスクの出現に喜んだ。
だが、コアなプロレスファンは2代目タイガーの正体が三沢であることを悟り、受け入れていなかった。
またデビュー1か月前に「週刊ゴング」での表紙写真があまりにも正体がバレバレだったことも痛かった。

「『ゴング』が表紙でスクープしたんですけど。2代目タイガーって、馬場さん、大塚さん、『ゴング』の編集顧問だった竹内(宏介)さんの合作ですから。で、表紙のタイガーは初代タイガーのマスクを被ってたんです。まだマスクがないからそれを三沢に被せたんですけど、サイズが合ってないから、ぶっ太い眉毛でどう見ても三沢なんですよ(笑)」
【Dropkick“四天王プロレス”の光と影――三沢光晴■小佐野景浩のプロレス歴史発見】

そんな中で三沢の心境は…。

「予想通りですね。大顰蹙ですよ。俺もそれはわかっているよ。みんな、俺が三沢だってわかってんだから、わざわざ口に出して言うなよな(笑)」

だが、2代目タイガーこと三沢はそんなヤジに屈するほどのレスラーではなかった。試合が進むにつれて、ヤジはなくなっていった。初代タイガーの動きを取り入れながら、独自のムーブを見せつけた。

場外にいる相手に飛ぶと見せかけて、ロープを背にして前方回転してからの後方回転するムーブ、スペイン語で尻餅を意味するセントーンはメキシコ・ルチャリブレ仕込み。
また終盤で見せたウルトラ・タイガー・ドロップと名付けられたトぺ・コンヒーロはまだ日本で誰も披露したことがない大技だった。ちなみに初公開時のトぺコンはノータッチ式だったので、通常のロープを摑んでのトぺコンよりもさらに難易度が高いものだった。
フィニッシュとなったのはタイガー・スープレックス'84は同じダブル・チキンウイングでも佐山が使うものとグリップが違う。佐山の場合は相手の背中(肩甲骨の辺り)に手の平を当てた状態で投げるが、三沢光晴は自らの両手をクラッチして投げる形をとっていた。

ちなみに対戦相手のラ・フィエラが披露した屈伸式のダイビング・ボディ・プレスは後に2代目タイガー時代の三沢がより屈伸と滞空時間を長くすることで威力をアップさせる形にアレンジし、長年愛用し続けた。この技は1990年代にアメリカでフロッグ・スプラッシュを呼ばれ、エディ・ゲレロやロブ・ヴァン・ダムが得意にしていた。現在は日本プロレス界のエース棚橋弘至がハイフライフローという技名でこの技をフィニッシュホールドにしている。

そう考えてみると、初代タイガーのデビュー戦はあまりにも衝撃的で一種のプロレス革命記念日だったともいえるが、2代目タイガーのデビュー戦も初代とは違った意味で革命記念日だったと言えるかもしれない。

デビュー戦後、2代目タイガーは主にメキシコの選手を相手に試合を続け、連戦連勝を重ねていた。そんな2代目タイガーの前に立ちはだかったのは初代タイガーのライバルだった"虎ハンター"小林邦昭だった。2代目タイガーは小林との抗争で初のフォール負けを喫した。
また小林を破り、NWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王者となり、初のタイトルを獲得する。だが、小林にとってタイガーとは佐山聡であり、2代目タイガーとの抗争はあくまでも別物と捉えていた。

また小林と同じく初代タイガーのライバルだったダイナマイト・キッドとも2代目タイガーはシングルやタッグで対戦している。
キッドは2代目タイガーをこう評している。

「全日本は三沢光晴という若手レスラーにタイガーマスクのギミックを使わせて、佐山が新日本にもたらしたのと同じブームを期待した。だが『三沢タイガー』と『佐山タイガー』をどう比較しようにも、それはできないことだ。誤解しないで欲しいが、三沢は優れたレスラーだ。しかし、ハッキリ言えば彼は身長も体重も重かったのでタイガーマスクには向かなかった。しかも、佐山ほどの俊敏さもなかったのだ。スピンキック、サマーソルト、ムーンサルト・・・彼はどんな技でもできたが、佐山の跡を継ぐことはできなかった。だが、これだけは確かだ。三沢はハード・ワーカーだ。俺と三沢タイガーはシングルマッチで激突したこともあった。ファンがそのカードを望んでいたのは確かだったが、闘った当の本人としては佐山とファイトした時ほどの興奮を味わうことはまったくなかった」

三沢の先輩で飲み友達だったという天龍源一郎はこう語る。

「あの頃はね、タイガーマスクの名前が重すぎたね。それなりにソツなくこなせるんだけど、やっぱり初代の佐山聡と比較されてしまう。三沢も初代を越えようという意識が強くて墓穴を掘ったり、自分で自分を雁字搦めにしている部分がありましたよ。馬場さんは三沢光晴にも期待していたし、タイガーマスクにも期待していたから、2つのプレッシャーがかかっていたと思うよ」

一方で、2代目タイガーの存在、長州力率いるジャパン・プロレスといった起爆剤の効果もあった全日本プロレス中継は1985年10月にゴールデンタイム(19:00~19:54)復帰を果たしている。
小林との抗争に区切りをつけたタイガーは1986年3月にタイトルを返上し、ヘビー級転向を果たした。

「初代が戦闘機なら、2代目は重爆撃機」

原作者の梶原一騎氏が評したように2代目タイガーは185cmと身長に恵まれていたため、ヘビー級転向は必然の選択だった。
三沢には虎仮面という呪縛に苦しみながらも、2代目タイガーとしてのオリジナリティー確立を目指していた。

「タイガーマスクとしてリングに上がっている以上、三沢光晴の志すプロレスを前面に打ち出していくわけにはいけない。タイガーマスク時代、このジレンマに私は悩まされたものだ。マンネリ化が進むとプロレスは衰退する、こうした問題意識をその頃から持っていた私は、ファンが望む空中技をふんだんに取り入れつつも、2代目タイガーマスクとしての個性の確立を目指すようになった。ジュニアのチャンピオンを返上し、クラスをヘビー級に上げたのもそのためである。2代目タイガーマスクというポジションに甘んじて自分のプロレスをすべて捨ててしまっていたなら、きっと今の私はなかっただろう」
【理想主義者 三沢光晴 著/ネコ・パブリッシング】

だがヘビー級に転向した2代目タイガーはスーパーヘビー級の猛者達の高い壁が立ちはだかり、全日本マットでなかなか浮上することはできなかった。
いくらヒーローとはいえ、中身はプロレスキャリア5年弱の若武者である。

大のプロレスファンで漫画『キン肉マン』の作者である嶋田隆司氏はこう語る。

「初めて三沢を見た時、彼は前座出場の若手レスラーだったんです。後にタイガーマスクとなって登場した時の事は、今でもよく覚えています。ただヘビー級に転向した後、彼の姿を見る度に"なんか窮屈そうだ"と、そんな気がしていました。それがはっきりとわかったのが日本武道館で行われた全日本対ジャパン・プロレスの6対6全面対抗戦です。長州力との対戦で、長州優位の一方的な展開でした。タイガーが上手く技を出せていなかったんです。三沢は無理に初代タイガーの動きに近づけようとする感じが、所々で垣間見えるんですよ。自分本来の、つまり三沢のスタイルが出せていない、不完全燃焼だと思いました。けれど、今にして思えば、最後まで技を受け切っていましたね。正面からきちんと受けている。だからこそ、僕には長州のラリアットが鮮やかに決まって負けた印象が強く残っているんだと思います」

当時の2代目タイガーを見届けていた全日本プロレス・リングアナで後に三沢と共にプロレスリング・ノア旗揚げに携わった仲田龍氏はこう語る。

「タイガーになるのはいい面もあったけど、ずっとできないだろうなと思いました。新幹線の中とかはかわいそうでしたね、覆面をつけていなきゃいけないから。ジュニアではもうキツイし、当時の外国人のメンバーがスタン・ハンセン、ブルーザー・ブロディ、テリー・ゴディとかですもんね。そうなるとヘビーに行ってもつらいし。タイガーマスクでやっていると限界があるのかな思いました」

1986年の世界最強タッグ決定リーグ戦に初出場した2代目タイガーは御大・ジャイアント馬場とコンビを結成し、着実にステップアップしていった。
その中で2代目タイガーにとって試練となったのが1986年からスタートした猛虎七番勝負。
谷津嘉章、フランク・ランカスター、リック・フレアー、阿修羅・原、天龍源一郎、テッド・デビアス、ジャンボ鶴田とヘビー級の強豪相手にシングルマッチを闘うこの企画で2代目タイガーは3勝4敗に終わった。
だが、この猛虎七番勝負は2代目タイガーにとって転機になった。
天龍と鶴田との一騎打ちで2代目タイガーはその眠っている潜在能力を発揮していったのだ。

1987年6月1日に金沢で行われた猛虎七番勝負第5戦で2代目タイガーは天龍と対戦し、天龍は2代目タイガーの技を全部受け止めた上でパワーボムで勝利する。
天龍はこの試合についてこう語っている。

「"自分は自分なりのタイガーマスクでいいんだ!"って吹っ切れたんだと思いますよ。三沢が場外の俺に向かってコーナーポストからダイブして2人ともフェンスの外まで吹っ飛んだからね。あの時に"やりたいことをやれば、お客は支持してくれる"っていう感覚を持ったと思うんですよ」

1988年3月9日に横浜で行われた猛虎七番勝負最終戦で2代目タイガーは鶴田と対戦した。
2代目タイガーはこの試合でなんとスワンダイブ式ウルトラ・タイガー・ドロップという離れ業を敢行するなど、大健闘。終盤にはジャーマン・スープレックス・ホールドで追い込むも、最後は鶴田のバックドロップに沈んだ。

ヘビー級に転向し、1987年には鶴田と組んで、PWF世界タッグ王座も獲得した2代目タイガーこと三沢は1988年5月に結婚を発表。
そこでようやく2代目タイガーの正体が三沢であることが公表された。
当時、天龍革命で活性化していた全日本の中で、天龍同盟に一矢を報いるために、高野俊二、高木功、仲野信市、田上明といった新進気鋭のレスラー達を率いて決起軍を立ち上げた。
だが、決起軍は後に馬場から「決起していない」という鶴の一声で強制的に解散することになる。

タッグではヘビー級戦線で結果は出したものの、シングルではなかなか結果を出せなかった2代目タイガー。NWA世界王座やAWA世界王座に挑戦するも、結果も内容も残せず、彼はかつてのジャンボ鶴田のような"善戦"マンのような立ち位置に収まっていた。

どんな試合でも必ず空中殺法を魅せてきた2代目タイガーだったが、その肉体は悲鳴を上げていた。特に左ヒザの状態は悪化の一途をたどっていた。

「空中殺法は素顔のときから得意でしたから、飛ぶことには違和感がない。ただ、三沢光晴はケガをしていない状態で好んで飛んでいたわけです。タイガーマスクはケガをしていても飛ばなくてはならない。リングに登場すると、ロープの上に立たなくてはならない。俺はヒザをケガしていて足を折って登れない。でも、契約書にあるから、ロープに登らなくてはならない。片足を伸ばしたまま、片足だけで登ってましたね」

左ヒザの靭帯は切れ、関節は毎試合ごとに外れる始末。それを試合中に入れ直しながら2代目タイガーは闘っていた。
1989年3月8日の日本武道館大会を最後に2代目タイガーは手術に踏み切る。
左ヒザ前十字靭帯断裂のため、長期欠場に追い込まれる。
断裂した靭帯は太ももからの靭帯移植とボルトでなんとか左ヒザ靭帯は蘇った。

1990年1月にリングに復帰した2代目タイガーだったが欠場時からある想いがよぎるようになる。

「もうマスクを被り続けるのは厳しい」

2代目タイガーのファイトについてプロレスライターの小佐野景浩氏はこう語っている。

「タイガーは1986年にヘビー級に転向して、1987年に天龍同盟ができてからは、正規軍の一員としてジャンボのパートーナーになったんですよね。ジュニア時代もそうだけど、タイガーはトップの選手じゃなかったんですよ。正規軍のトップはジャンボや輪島。タイガーはその下なんです。そうなるとヒーローなのに強く見えないという(笑)。淡白だったと思う、ファイトが。からしても"この人、プロレスに冷めてるのかな"って思っちゃうような試合をしてた。パッションがない(笑)。三沢がタイガーマスクをイヤイヤやってるのかと思うくらい」

そんな三沢が虎の仮面に別れを告げたのは1990年5月14日のタッグマッチでの事。
前月に三沢の先輩である天龍が離脱、新団体SWSに移籍したり、風雲急を告げていた全日本に暗雲が立ち込めていた。
三沢はマスクに再三、つけ狙う谷津嘉章に反攻するために自らマスクに手をかけ、観客席に投げ入れた。この時、三沢のマスクに後ろから手をかけたのは奇しくも2代目タイガーマスクの候補となり、特訓パートナーを務め、三沢タイガーの弟分タイガーマスク2号になるプランが上がっていたパートナーの川田利明だった。
そして、場内にはあの2代目タイガーのデビュー戦とは異なり、まるで新たなヒーロー誕生を待ちわびるような「三沢」コールが起こっていた。

「タイガーマスクのキャラクターが強すぎてなかなか自分が出せないし、マスクマンのままではこれ以上、上を目指すことはできない。ヘビー級で天下を取ったレスラーにマスクマンはほとんどいない」

こうして、三沢は5年10か月の長期に及ぶ2代目タイガーマスク生活に別れを告げ、素顔に戻っていった。




「三沢光晴の名前を世の中に残したい」

このような内なる野望を秘めていた三沢はようやく己を解放する時が来たのである。
飛びたくないときにも飛ばなければいけなかった2代目タイガー時代とは異なり、素顔に戻った三沢は飛びたいとき飛ぶ自由を手に入れた。
その後の三沢光晴については多くの皆さんがご存じのとおり。
全日本プロレスのエースとなり、プロレス界の盟主となり、平成のプロレス王にまでのしあがていった。

ここからがポイントである。
その後の三沢とタイガーマスクとの関係を追っていく。

素顔に戻っても三沢はタイガー殺法を全面的に封印することはなかった。
タイガー・ドライバー、タイガー・スープレックス、ウルトラ・タイガー・ドロップ、スピンキック、フロッグ・スプラッシュは三沢光晴の大きな武器となった。
また1997年10月に両国国技館で開催された格闘技の祭典の目玉カードは4人の歴代タイガーが集結するタッグマッチだった。
三沢自身はそのオファーを断り、当時若手だった金丸義信を2代目タイガーに抜擢し、このタッグマッチは実現している。

プロレスリング・ノアを立ち上げた三沢は虎の仮面を脱いでから一度だけマスクマンとしてリングに上がっている。全選手が仮想して試合をする2002年のハロウィン大会で、三沢が選んだマスクは虎ではなく獅子のマスク。”LION(リオン)”というリングネーム、富士サファリパークのCMソングで登場した。
また2004年に"タイガー・エンペラー"という黄金ではなく白き虎仮面が誕生した。
正体は三沢の付き人を務めていた鈴木鼓太郎だった。
ちなみに鼓太郎はこの当時、素顔の鈴木鼓太郎、タイガー・エンペラー、ムシキング・テリーと三つの顔を使い分けていた。
これは三沢が可愛がっていたという鼓太郎の経験値を上げるための施策だったのだろう。


そして、三沢と初代タイガーマスクこと佐山聡との関係である。
なかなか接点がなかった二人が2008年12月4日、佐山が立ち上げたリアルジャパンのリングでタッグマッチで対戦した。
佐山は三沢との対戦についてこう語っている。

「いきなりポーンときたら反応できないのは当たり前なんですよ。でも、その時に資質が分かる。三沢君は当たった後に慌てることなく、ちゃんとリアクションが取れる。プロですよ。そのプロの技術っていうのはさすがですよ。反応できずにパニックになる人間と試合をやってもしょうがないですから。そういう意味では三沢君の受け身は素晴らしい。本当の受け身だと思います。予定調和ではなく、思いがけないところからきてもちゃんと反応できるのが三沢君。スタイルは全然違うかもしれないけど、いいプロレスラーの資質、条件をすべて満たしていましたね」

初代タイガーこと佐山は2代目タイガーこと三沢をどう感じていたのだろうか。

「彼はかつて2代目タイガーマスクとして僕のことを意識せざるを得なかったと思います。もし、反対だったら…もし三沢君が最初のタイガーマスクで僕が2代目だったら、僕が彼を意識せざるを得なかった。そうなったら僕はできないですよ。過去に僕の真似をさせられていたことはきつかったでしょうね…」

虎仮面の呪縛に苦しんだ2代目タイガーマスク・三沢光晴の気持ちが一番よく理解できたのは初代タイガーマスク・佐山聡ではなかったのだろうか。

だからこそ思うのだ。
二人が一度だけでもリングで対峙できたのは、時代の要請であり、プロレスの神様からの二人へのプレゼントだったのではないのか。




2代目タイガーマスク誕生は全日本プロレスの命運をかけたプロジェクトだった。
子供達や女性達のアイドルレスラーになってほしい、初代タイガーを越えるムーブメントを形成してほしい、プロレス人気を絶大なものにしてほしい、全日本プロレスの未来を担うヒーローになってほしいというあらゆる者達が抱いたあらゆる理想や夢があった。
だが、その理想は、一人のレスラーを雁字搦めにする呪縛作用があった。
そこにあったのはなかなか理想通りに世の中うまくいかないという残酷であり当然のような現実だった。

理想と現実の狭間で苦しみもがきながらも三沢光晴は虎の仮面を被り、籠の中で翼を羽ばたかせ続けてきた。それが中学時代からプロレスラーになることを志し、プロレスに人生を捧げた男の生き様だった。

理想と現実を一番よく知る男・三沢光晴が、2000年に旗揚げしたプロレスリング・ノアがスローガンとしてかかげたのが「自由と信念」。
三沢が「自由と信念」についてこう語る。

「若手に自由を与えると言っているが、ひと昔まえでは考えられなかった傾向だ。なぜなら若手は派手な技をやってはならないという暗黙の掟があったからだ。(中略)若手の試合はオーソドックスな展開以外は観れなかった」
「現在では考えられないが、先輩より巧くやってしまうと気分を害してしまう、若い選手の試合で大技を出すとメイン・イベントが盛り上がらなくなってしまう、という実につまらない仮説に縛られていた時代もあったのだ。こうした古い体質を変えたいと考えていた私は、ノア設立とともに、この慣習をぶち壊した。ノアでは、基礎さえ学べば誰でも自由にプロレスができる。若手であっても大技をやればいい」
「若い選手の好きにやらせるには、大会全体の責任は私が取るという意味でもある。彼らが行き過ぎたときには私が手綱を締める、という自信があるからこそ、自由にやらせることができる。ただし、自由にはそれに伴うリスクも大きい。個人の責任感と努力があってこそ、自由な環境が維持できるのだ。(中略)プロレスのよい部分、ベーシックな部分を残しながら、新たなチャレンジをすることは平易ではなかった。こうした改革をやらなければプロレスは滅びると考えたからこそ、私はノアを作ったのだ。今もこの信念は変わらない。何もやらないよりも、やって後悔したほうが勉強になる。間違いは繰り返さなければいい」
【理想主義者 三沢光晴 著/ネコ・パブリッシング】

そして、三沢光晴は著書で次のような名言を残している。

「前向きな失敗は成功への過程である」


私は思うに、この「自由と信念」というスローガンは理想と現実の狭間で虎仮面という呪縛に苦しみながらも投げ出さずにやり続けた三沢のレスラー人生が反映させたものだったのではないかと…。

「俺のような想いは誰もしてほしくない。一人一人の自由と信念を尊重する。その重みと尊さと難しさを体感してほしい」

そんな三沢の想いがつまったスローガンだと考えてみると、プロレスリング・ノアのスローガンも、平成のプロレス王・三沢光晴を生み出したルーツは2代目タイガーマスク時代にあったのではないだろうか。

2代目タイガーマスクは三沢光晴の黒歴史ではない。
例え悲しき宿命だったとしても、例え苦闘の日々だったとしても、その歴史は"前向きな冒険的失敗"だった。

だが、失敗だと侮るなかれ。

前向きな失敗は成功への過程であることは虎の仮面を脱いだ三沢光晴が見事に証明してみせたのである。