抜け出せない辛酸風味の魅惑沼地〜『国際プロレス外伝』おすすめポイント10コ〜 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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恒例企画「プロレス本を読んで感じたおすすめポイント10コ」シリーズ。今回が61回目です。このシリーズはライターの池田園子さんが以前、「旅とプロレス 小倉でしてきた活動10コ」という記事を書かれていまして、池田さんがこの記事の書き方の参考にしたのがはあちゅうさんの「旅で私がした10のことシリーズ」という記事。つまり、このシリーズはサンプリングのサンプリング。私がおすすめプロレス本を読んで感じたおすすめポイント10コをご紹介したいと思います。


さて今回、皆さんにご紹介するプロレス本はこちらです。






旗揚げ前夜からパイオニア戦志まで――『実録・国際プロレス』、『東京12チャンネル時代の国際プロレス』に続く「第3団体」盛衰録第3弾!

内容紹介
 プロレス専門誌『Gスピリッツ』に掲載された国際プロレス関連のインタビュー、対談、評伝を加筆修正し、本書のための書き下ろし記事(ミスター珍の評伝)も加えた、ディープかつマニアックなアーカイブ集。1966年に団体が設立された経緯から、1981年の崩壊劇、さらに日本初のインディー団体となる1989年のパイオニア戦志旗揚げまでについて、貴重な証言および写真とともに約500ページもの大ボリュームで振り返る。

目次 
吉原功 
マティ鈴木
グレート草津 
サンダー杉山 
マイティ井上 
ヤス・フジイ 
大剛鉄之助 
追悼‐ビル・ロビンソン(門馬忠雄×清水勉) 
ミスター珍
 鶴見五郎×大位山勝三 
木村宏(ラッシャー木村次男)
 田中元和(元東京12チャンネル『国際プロレスアワー』チーフディレクター)
 ジプシー・ジョー 
ミスター・ポーゴ 
マイティ井上×高杉正彦
 追悼‐阿修羅・原(鶴見五郎×高杉正彦) 
新間寿(元新日本プロレス営業本部長)
 アポロ菅原
 マッハ隼人 
高杉正彦



今回は2023年に辰巳出版さんから発売されましたGスピリッツ編の『国際プロレス外伝』を紹介させていただきます。


辰巳出版さんが手掛けた国際プロレスシリーズは本作で『実録・国際プロレス』と『東京12チャンネル時代の国際プロレス』に続いて3冊目。 


「アンダーグラウンド」(村上春樹)級プロレス巨編~「実録・国際プロレス」おすすめポイント10コ~ 




約500ページに渡るとんでもない厚みを誇るプロレス歴史本。はっきり言って、面白いを通り越してクレイジーだと思います(笑)

なぜ、そこまで40年以上前に潰れた団体を追いかけるのか。
なぜ、国際プロレスは未だにオールドファンの心に残り続けているのか。
なぜ、国際プロレスは、日本プロレス界のパイオニアと呼ばれているのか。
なぜ、国際プロレスは新日本プロレスや全日本プロレスに敗れて崩壊していくのか。


本当に不思議です。 
でも得体のしれない理由があるからこそ人は国際プロレスを語りたがるのかもしれません。


今回は『国際プロレス外伝』の中で特に個人的な気になったところをプレゼンしていきたいと思います!


よろしくお願い致します!


★1.ずっと気になっていたマティ鈴木のインタビュー
【証言/マティ鈴木

この本には、国際プロレス創立メンバーのひとりであるマティ鈴木さんのインタビューが掲載されています。これはかなり貴重です。

まずマティ鈴木さんについて強烈な印象がひとりありまして、私がプロレスファンになった1992年。親戚の叔父さんが録画していたビデオの中に全日本プロレス20執念記念特番があり、そこでジャイアント馬場さん、ジャンボ鶴田さん、三沢光晴さんの名勝負が取り上げられていました。

1974年12月2日 鹿児島県立体育館で行われたジャック・ブリスコvsジャイアント馬場のNWA世界ヘビー級選手権試合。悲願のNWA王者を目指す馬場さんが終盤に得意の河津落としを決めるも王者ブリスコがロープエスケープ。するとマットを叩いて悔しがるセコンドがいました。それがマティ鈴木さんでした。実況でも「悔しがる、マティ鈴木」と紹介されていました。最後、馬場さんが伝家の宝刀ランニング・ネックブリーカードロップで3カウントを取り、NWA王者となると真っ先に馬場さんにかけつけて喜びを爆発させていたのがマティさん。

この熱血セコンドの姿が当時12歳の私の脳裏にずっと残っていました。あれから31年。マティ鈴木さんのインタビューで、彼がどのようなレスラー人生を歩んだのか知ることができました。

実はマティさんは、馬場さんやアントニオ猪木さんよりも先に日本プロレスに゙入門してデビューしていたのですが、実家の事情で一度プロレスから離れて4年後に戦列に復帰したという苦労人だったのです。

マティさんは国際プロレス時代には日本人レスラー育成を担当していました。その中で国際プロレス創世記に組んでいた吉原功代表と外国人レスラー招聘担当のヒロ・マツダさんがなぜ決裂したのかという理由について明確に答えているのです。

「結局、ボタンの掛け違いというかなぁ。マツダさんは日本に『エディ・グラハム(アメリカ・フロリダ地区のプロモーター)』・カンパニーの日本支社を創りたかっただけなんです。一方、吉原さんの側からすると、グラハムには義理も何もない。国際プロレスは日本の会社であって、フロリダの会社の支社ではない。(中略)マツダさんはフロリダのレスラーだけを呼んだ。それはブッキングが簡単で、しかもグラハムの顔が立つからなんですが、もっと大事なことはリング上のマツダさんをカッコ良く見せてくれたからです」

これぞ、魑魅魍魎のプロレス界ならではのエピソードですね。

マティさんが国際プロレスを辞めたのは、吉原さんと仲違いしたわけではなく、アメリカでプロレスをやりたいという夢を叶えるためでした。

そこからアメリカ各地を転戦して、1973年に全日本プロレスに助っ人として参戦することになります。だから馬場さんのNWA戦は助っ人としての立ち位置であそこまでのパッションをセコンドとして出していたということなんですね。これも驚きました。

そしてマティさんは若手時代の鶴田さんの指南役をしていたというのも知りませんでした。プロレスは掘れば掘るほど、まだまだ知らないことが多いです。
 
マティさんは40歳で引退し、アメリカで実業家として成功しています。ウール製品の大手企業『ペンドルトン』では役員待遇で雇用されたり、未だに現役のビジネスマンとして活躍されています。

マティさんだけでレビュー1本分書けるほど濃密なインタビューでした。





★2.なぜグレート草津は団体の嫌われ者になってしまったのか?
【評伝/TBS時代のグレート草津】

国際プロレス創設から崩壊まで所属として過ごした唯一のレスラー…それがグレート草津さん。プロレス考古学に造詣が深い小泉悦次さんによる草津さんの評伝。これが面白い。恐らく『国際プロレス外伝』でしか成立しないかもしれない草津さんの評伝。

「ラグビー日本一」を経験したラガーマンだった草津さんが日本プロレスに入門してプロレスラーとしてデビュー。国際プロレス旗揚げに参加。アメリカやカナダでの武者修行を経て凱旋。そこからリングの内外から国際プロレスを支えるレスラーとして活躍。営業本部長や現場責任者といった役職にもついていた。

そんな草津さんがプロレスラーとして一番期待されていたTBS時代について小泉さんが切り込んでいます。

草津さんといえば、1968年1月3日・日大講堂で行われたルー・テーズとのTWWA世界ヘビー級戦(60分3本勝負)。「20世紀最強プロレスラー」「鉄人」と呼ばれたテーズのバックドロップを食らって1本目を取られた草津さんが、2本目になってもフラフラになって起き上がれ図にTKO負けを喫した曰く付きの試合。草津はキャリア3年の25歳。TBSと国際プロレスはプロレス中継のニュースターとして草津をプッシュしたかったのかもしれないが、目論見は脆くも崩れました。

草津さんの評伝は面白い。あとアニマル浜口さん以外は皆さん草津さんに関してはネガティブなことしか言わないんですよ。

「酒癖が悪い」
「酒を飲んでなくても横柄」
「プロレスなんてどうでもいいと思っている」

東京12チャンネルでは新体制の国際プロレス設立を考えていて、現場監督だった草津さんを外そうとしていたということなので、やはりスタッフからの評判も悪かったのかもしれません。

それでも草津さんは国際プロレスを支えた重鎮であることは変わりないのです。






★3.国際プロレスの正統派外国人エース
【対談/追悼 ビル・ロビンソン 門馬忠雄☓清水勉】

国際プロレスは、これまで日本プロレス界に外国人が来日する主流ルートだった北米から、ヨーロッパのルートを開拓してきた。これは歴史的に大きな功績です。

その中でヨーロッパヘビー級王者として来日した「人間風車」ビル・ロビンソンは、そのテクニックでファンを魅了し、国際プロレスの正統派外国人エースとなりました。

ロビンソンについて、国際プロレスのテレビ中継で解説を務めたプロレス評論家・門馬忠雄さんと、ファンとしてロビンソンの試合を見届けてきた元週刊ゴング編集長・清水勉さんが対談したのが「追悼 ビル・ロビンソン」です。

ここで私が読んでいて印象に残った両者のコメントを紹介します。

「(ロビンソンは)3段階くらいのリズムがあって、それを奏でるように試合するんだよね。とにかく試合の組み立て方が巧い。あのワンハンド・バックブリーカーを初めて見た時も衝撃だったなあ。あれは持ち上げるタイミングもあるけど、相当パワーがないとあの体勢からあの高さまで持ち上がらないよ。ロビンソンは技術だけじゃなくて、力もあるし、あの柔らかい筋肉、身体のサイズもレスラーとして理想的だよね」(門馬さん)

「ロビンソンが来て、テクニシャンの概念が大きく変わったと思います。それにロビンソンの試合には、『見せる要素』が多分に含まれていましたよね」(清水さん)


★4.息子が語る素顔のラッシャー木村
【木村宏(ラッシャー木村次男)】

この『国際プロレス外伝』における最大の目玉はラッシャー木村さんの次男・木村宏さんのインタビュー。

実は宏さんは木村さんの実の子ではありません。木村さんが、ヨーロッパ遠征中に後に嫁となる純子さんと出会い、結婚。純子さんには2人の連れ子がいたのですが、木村さんが2人を引き取ったのです。

あと驚きの事実ですが、宏さんは木村さんと出会う前からプロレスファンで、木村さんの金網デスマッチを見ていて、その武骨なファイトスタイルが好きだったそうです。だから木村さんの試合について宏さんが語ると、木村さんが「何でそんなことまで知っているんだ!?」と驚いていたといいます。

国際プロレスのエース時代から亡くなるまで、木村んの人生を見届けてきた宏さんのインタビューは必見!!感動しましたよ。木村さんの素顔ってそこまで知られてなかったので色々と衝撃でした。

個人的には国際プロレスよりもノアの話が印象的で、ものすごくドラマなんですよ。やっぱり僕は三沢光晴さんが好きになりましたね。そして息子の宏さんも三沢さんが好きだった。そういえば脳内出血で倒れて引退する時に、専務の大八木さんが宏さんにこう言ったのです。

「木村さんはツイてますよ。全日本で倒れていたら、クビですよ。三沢が社長だから、ウチで木村さんを一生面倒見ようと言ってますよ」 

そしてノアは最後まで木村さんの面倒を見た。『プロレス地獄変』では描かれていないもうひとつのノアのえぴ



★5.放浪の殺し屋と呼ばれたジプシー
【証言/ジプシー・ジョー】

「放浪の殺し屋」ジプシー・ジョーは東京12チャンネル時代の国際プロレスを支えた外国人ヒールレスラー。イスで殴られても効かないタフネス、金網最上段からのダイビングニードロップ、血の気の多い喧嘩ファイト…今でいうところのハードコアスタイルを先駆けた存在がジプシー・ジョーというプロレスラーの凄さだと思います。またリングを降りれば、マスコミやファンとフレンドリーに接したこともあり愛された悪役レスラーでした。 

当時77歳のジョーがレスラー人生を振り返るインタビューが読みます!これもまた面白い!

印象に残ったジョーの2つの言葉をここで紹介します。  

「『ダイナミックに見せることができない技なら、最初からやるな』というのが俺の持論だよ。小説と同じだ。『面白いストーリーが書けないなら、本を書くな』ということだ」
「どんな職業でもそうだと思うが、小説家は文章を書くのが好きなんだろうし、医者だったら人を治すことに生き甲斐を感じるだろう。自分の場合は、それがレスリングなんだ」

ジプシー・ジョーは見た目は荒くれ者そのものですが、コメントが妙にインテリジェントで、詩人なんですよね。




★6.極悪魔王がまだミスター・セキだった時代
【証言/ミスター・ポーゴ】

これはあまり私は知らなかったのですが、「極悪魔王」として恐れられていたミスター・ポーゴさんが国際プロレスに上がっていた時期があったそうです。

ポーゴさんが新日本プロレスを解雇され、アメリカ・ハワイに渡り、そこからアメリカ各地を転戦。1976年に国際プロレスに参戦することになります。

ミスター・セキは1978年にミスター・ポーゴに変身。このポーゴは本当はトーゴーだったのだが、プロモーターのテリー・ファンクが間違ってポーゴと誤記して新聞広告欄に掲載したことにより、ミスター・ポーゴというリングネームが定着してしまったそうです。

実は国際プロレスに逆上陸で参戦していたポーゴさんですが、そこまでメインストリームに絡んでこなったことには色々な事情もあるようです。当時のポーゴさんは日本よりアメリカを主戦場にしていたこともあり、そこの駆け引きという部分もあったのかもしれません。



★7.「和製チャールズ・ブロンソン」は国際プロレス次代のエース候補だった
【対談/追悼 阿修羅・原 鶴見五郎☓高杉正彦】

国際プロレスにとって元ラグビー日本代表である阿修羅・原さんの存在は、団体の未来を支える次代のエース候補でした。ただ、エースになる前に団体が崩壊してしまうという悲劇が待っていました。

原さんを影からコーチしていた鶴見五郎さんと、同僚レスラーで団体の事情通・高杉正彦さんが対談して、2015年に逝去された阿修羅・原を偲びました。二人とも当時つけていた日記を持参して、編集部サイドで用意した資料と照らしながら、国際プロレス次代の阿修羅・原さんについて検証しています。
 
個人的にはめちゃめちゃしびれたのが、1979年4月15日・会津田島町体育館で行われた上田馬之助&マサ斎藤&ジプシー・ジョー(とんでもない悪役レスラートリオ!!)VSラッシャー木村&稲妻二郎&阿修羅・原について。

「そこでマサさんが原をオモチャにしたんだよ。肚の技をまったく受けないで、ボロクソに痛めつけてさ。(中略)それを見ていた(アニマル)浜口さんが怒ってね。次の長野(4月19日・長野市体育館)の6人タッグでもマサさんがまた原に同じようにやったから、パートナーだった浜口さんがキレてさ。かなり揉めたよね」(鶴見さん)
「その翌日の富山(4月20日・富山市体育館)だったかな?マサさんと浜口さんのシングルがあったんだよ。今度は浜口さんがマサさんの技を受けなかったんだ。(中略)試合後にマサさんが『ふざけるな!』って控室に殴り込んできたんだよ。そうしたら、(ミスター)ヒトさんが来て、マサさんの首っ玉を掴んで壁に押しつけたんだ。『悪いのはお前だ!』ってね。ヒトさんの周囲のガイジンはみんなカルガリー関連だから、マサさんは手出しできなかったよ。(中略)(マサさんは)所属選手じゃないから関係ないと言われればそうなんだけど、原の売り出しなんてまったくヨソ事みたいな感じなんだよな。でも、カルガリーで一緒に強化キャンプを張ったり、ハノーバーで同居生活をしていたヒトさんは原を可愛がっていたから」(鶴見さん)


この対談の締めもまたいい!

「本人は『あと身長が5センチあれば…』なんていつも言っていたけど、あと3年早く原さんが国際に入ってきていたら時代は変わったかもしれないですね」(高杉さん)
「上の人たちの中でも、吉原社長だけは国際の未来をしっかり見据えていたのに…。原を団体を背負えるエースに育て上げるには時間と金が足りなすぎたよ」(鶴見さん)

阿修羅・原さんが国際プロレスのエースになる未来線、見たかったですね!



★8.「はぐれ国際軍団」を作った新日本の過激な仕掛け人
【証言/新間寿(元新日本プロレス営業本部長)】

元新日本プロレス営業本部長の「過激な仕掛け人」新間寿さんは、団体崩壊後にラッシャー木村さん、アニマル浜口さん、寺西勇さんの元国際プロレスの選手による「はぐれ国際軍団」を結成させ、アントニオ猪木さんと壮絶な抗争を展開させています。

そんな新間さんから見た国際プロレスとは?

1978年に国際と新日本が業務提携をして、団体対抗戦に発展していきます。実は、阿修羅・原さんとWWU世界ジュニアヘビー級王座を賭けて対戦したの「ユーゴの鷹」ミレ・ツルノは新間さんがブッキングしたそうです。外国人レスラーのブッキングも新日本が協力していたのは意外でした。
 
そして国際プロレスが崩壊後に、新日本との全面対抗戦が組まれようとしていましたが、国際サイドで不参加を表明する人間が続出したことにより、実現しませんでした。彼らが不参加を表明した理由のひとつは「木村、浜口、寺西だけがその後も新日本に継続して上がる契約を水面下で交わしていた」ということでした。なぜ、新日本はこの3人を選んだのか?

それは新間さんのインタビューで確認してください!


★9.アポロ菅原のレスラー人生
【証言/アポロ菅原】

この『国際プロレス外伝』では、アポロ菅原さんのインタビューが読めます。これも貴重です!

菅原さんが歩んださすらいのレスラー人生。国際プロレスでデビューしてから、全日本、TPG(たけしプロレス軍団)、パイオニア戦志、新日本、SWS、NOW、東京プロレス…。

個人的にはSWSで勃発した当時藤原組の鈴木みのる選手との不穏試合。この本ではかつてGスピリッツでの行った鈴木選手のインタビューとリンクして掲載することで、あの不穏試合の真実について迫っています。ここら辺りの公平性をもたせる編集は評価したいと思います。




★10.国際プロレスの後継団体・パイオニア戦志とは?
【証言/高杉正彦】

1981年、国際プロレスが崩壊。それから8年後の1989年にたった3人でプロレス団体を旗揚げ。それが「元祖インディー団体」パイオニア戦志です。

剛竜馬さん、アポロ菅原さん、高杉正彦さん。いずれも国際プロレス出身で、全日本プロレスから契約解除された苦い経験を持っていました。

業界きってのプロレスマニアである高杉さんのインタビューは国際プロレスの事情通と呼ばれているのがよくわかるほど、ディープな内容でした。

この本で高杉さんは2つの対談企画にも登場していて貴重な証言者として活躍しています。


『国際プロレス外伝』は国際プロレスという40年以上前に崩壊した団体をマニアック視点とディープな切り口で構成されています。

まえがきには国際プロレスの歴史を見事に凝縮させた2つの名文がある。


「国際プロレスの道程を振り返ると、『一難去ってまた一難』という言葉が思い浮かぶ。日本プロレスからの妨害を受けつつ所属レスラーは僅か4人という弱小体制で旗揚げし、資金不足や選手の離脱といった問題を常に抱えながら何とか運営を続け、そんな状況下でマッチメークも迷走を繰り返した。1970年代には全日本プロレスと新日本プロレスの2大メジャーに翻弄され、若手レスラーもなかなか育たず、最後は様々な思惑が入り混じって乱離拡散という結末。しかも、夢も希望もないような話が頻出するのはこの団体のお約束(?)であり、こういた苦難の上に今の日本のプロレス界は成り立っているのだ
「年号が令和になった今、42年前に消滅した団体に関する500ページ弱の書籍が刊行されるという事実は、どういうことなのか。それはいまだに薄れることのない昭和のプロレスに対する興味、そして昭和のレスラーが持つ強烈な求心力の裏返しである。抗うことなかれ。時代がいくら移り変わろうと、こんな面白い世界から抜け出す必要はない」


確かに昭和プロレスは未だに語り継がれる大切なレガシーだ。だが、昭和プロレスだからという理由で国際プロレスが語り継がれてきたのかというと少し違います。


日本プロレス界においての国際プロレスの功績は計り知れません。

レスラーとの契約書の作成、巡業バスの導入、日本人マスクマンデビュー、日本人同士の世界タイトルマッチ、金網デスマッチ、外国人留学生の受け入れ、日本初の選手テーマ曲の導入…
国際プロレスは現在の日本プロレス界の基盤となっているあらゆる事例のパイオニアでした。

だが、団体設立から崩壊まで「一難去ってまた一難」であり、自転車操業で運営されていた国際プロレス。

全日本と新日本のメジャー団体の後塵を拝する苦難も味わってきました。

だが国際のパイオニア精神から生まれたアイデアと、味わい深い男たちが奏でたリング上のブルースがオールドファンの心を離さないできたのではないでしょうか。

「やめられない止まらない」「一度ハマったら抜け出せない」作用がある辛酸風味の魅惑沼地…それが国際プロレス。

これから時代を超えても、令和から年号が変わっても、国際プロレスの魅力にハマる者たちは後を絶たないと…。


皆さん、チェックのほどよろしくお願いします!!