ジュンノスケの本棚
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『ディープ・パープル』




 「海が見たいの」と彼女が言った。
 日曜の午後、ぼくは彼女を乗せた車を駆って、五号線を小樽に向かうコースではなく、わざと二百三十号線、石山通と言われる国道を中山峠経由で海に向かった。
 二人がまだ若かったころに離れるのが惜しくって、わざと遠回りしたコースだ。
 わざと遠回りする気持ちを察したのだろうか。彼女はひとつ鼻を鳴らして笑った。
 本格的な冬も近い峠道に、少し早目に履き換えたスタッドレスタイヤが、バタバタという音を響かせる。
 峠の茶屋の裏手のスキー場には、シーズン初めのスキーヤーの人影が見えた。
 ぼくは彼女に、「滑ってみるか」と聞いてみる。彼女はしばらく、遠くに見えるゲレンデを黙視したが、微笑みながら首を横に振ったのが横目で窺えた。

 二人が連れ添って、そう長い年月が経っているわけじゃないが、かといって決して短い付き合いではない。
 特に浮気とか、そう言う事をした覚えもない。お互いの価値観と言ってよいのだろうか。彼女の幸せに必要なものと、ぼくが用意してあげたかった幸せの尺度が違った。そして二人の間の溝が埋まらなくなった。きっと、そういうことだ。
 実際、ぼくは良い夫になりたくって自分で言うのもなんだが遅くまで一生懸命に仕事を頑張っていたと思う。
 だけど、きっとそれはぼくらの間の中では、正しい事を間違った方法で実践しようとしてたんだ。実際ぼくも、あまりまだ分かっていないんだ。残念だけど。

 会話の無い夫婦であった事はない。少し思慮は足りなかった。そんな気がする。
 ステアリングを握り考え込んでる横で時折、電波がつながるカーラジオから流れる音楽に彼女はリズムをとる。
 なんでCDをかけなかったかなと独りごちてみる。曲がりくねった峠道では、CDを交換する作業はひどく手間取りそうだ。だけど、隣で窓流れる風景を楽しんでいる彼女に声をかけるのは、いささか憚られた。

 峠を下り喜茂別から小樽に向かう。途中の定山渓から朝里を抜けるより、一時間以上の遠回りだ。初冬の山道の紅葉はすべて落ちて、少しだけかぶった雪が水墨画のようなコントラストをかもし出していた。アップダウンの続く道を走り続けるとようやく道の向こうに、海が見え隠れしてくる。気温の低さが、海の色を紺碧の蒼さを彩っているようだった。
 国道五号線を十字に横切って乗り付けた小樽築港は、盛夏のような賑わいが無い。
 外国船籍のタンカーや漁船、シーズンを過ぎ持ち主の寄りつかなくなったクルーザーやヨットが停留されていた。
 彼女は車から出ると大きな伸びをして、息を吸い込む。
 ぼくは軽く、「お疲れさん」と声をかけて、ポケットから取り出したセブンスターに火を付ける。大きく吸い込んだ紫煙は、ぼくの肺をめぐりゆっくりと吐き出された。

 「あのね……」海を眺めていた彼女は不意に、ぼくに話しかける。
 ぼくは何となく彼女の様子から感じるものがあり、「あぁ……」と一言返し続きを促す。
 小樽天狗山の向こうから差し込み始めた夕日の赤が、深い海の蒼に混ざり始める。
 少し身構えたぼくを見て、彼女はすっと力を抜いたように見えた。
 「うぅん。いいの……」彼女は再び海を眺める。
 夕日を背中に感じながら、海の向こうの夜空は深い藍色に染まっていく。
 ぼくは今、このときの光景をきっと忘れないんだろうなと感じた。


                                                                      (了)










『ディープ・パープル』 作詞:ちあき哲也  作曲:五十嵐浩晃

それは誰のせいでもなくて  あなたが男で
きっと誰のせいでもなくて  わたしが女で

特別ここでなくていいけれど  たそがれに
船をたたんだ  海のそばがいいの
ともかく辿り着いた  ホテルには人影も
あまりまばらで  せめて夜がくれば
知らず知らず さめていった日々に  まだ気付けずに
ひとり安らぎに  満ちた歌を歌うでしょう  あなたは

それは誰のせいでもなくて  あなたが男で
きっと誰のせいでもなくて  わたしが女で

どうして  むくわれないものが好き
つく傷はいつもひと色  そしてこんな旅を
明日から何を頼り  生きるのか
そんな事、今ははるかに  海のそばがいいの


それは誰のせいでもなくて  あなたが男で
きっと誰のせいでもなくて  わたしが女で  女で