先日、受講者の方から、「にぎやかな夏の名残を見ていると冬支度が間に合わないので、庭の花達を泣く泣く片付けています。」とメールをいただきました。富山も今日は大変寒く、現在8℃です。
まもなく到来する冬に向けて、少しずつ準備をはじめたいと思います。
今日は、講座でも取り上げられた、体罰の子どもに与える影響についてお伝えしたいと思います。
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体罰は、叩く、殴る、つねる、蹴るなど、身体に直接、苦痛を与える罰で、懲戒の目的で行われるものですが、憲法や教育基本法、子どもの権利条約の規定にも反するだけでなく、学校教育法の11条でも、はっきりと否定されています。
ところが、それにもかかわらず、家庭や学校で、いまだになくならないばかりか、積極的に肯定、あるいは、場合によっては必要、と考える人が少なくありません。
これは、なぜ体罰がいけないのか、ということについて、大人の認識が甘すぎるからではないかと思います。
体罰には、2つの要素があります。身体的な苦痛と、精神的な苦痛です。殴られることは、単に身体が痛いだけではなく、とてもみじめな気持ちに襲われます。要するに、人間として、存在を否定される感じ、大切に扱われていない感じ、犬猫と同じ扱い、奴隷と同じように貶められた気持ちになります。実は、こちらの苦痛のほうこそ、子どもに悪影響を与えます。そのうえ、体罰を受ける時には、たいてい、「おまえはなんてダメな奴なんだ!」「何度言ったら分かるんだ、このバカ!」というような言葉がついて回ります。これによって、子どもの自己評価は、一気に下がってしまいます。
百歩譲って、このような精神的な苦痛を与えない体罰ならば、まだましと言えるかもしれません。要するに、身体的な苦痛は与えるが、肯定的なメッセージの伝わる体罰です。例えば、「おまえは、こんなにいい奴なのに、どうしてこんなことをするんだ!」バーン!という感じでしょうか。
しかも、これは、体罰を加える側の自己満足でなく、子どもの側にしっかりと肯定的なメッセージが伝わらなければ、意味がありません。このように考えると、体罰で、よい効果を上げようとすることが、どれほど至難のことか分かられると思います。
ですから、ほとんどの場合、体罰は、子どもに悪影響を与えます。
2002年、アメリカで、体罰についての、大がかりな研究の成果が発表されました(Gershoff ET,2002)。調査は、全米の約36,000人を対象に、約60年前までさかのぼって体罰の影響を調べました。その結果、体罰を受けた子どもは、その時には、親の命令に従う、といった「効用」があるが、一方で、長期的には、
1.攻撃性が強くなる
2.反社会的行動に走る
3.精神疾患を発症する
などのさまざまなマイナス面が見られることが判明しました。
また、0~6歳の子どもを追跡調査した「大阪レポート」(服部祥子・原田正文『乳幼児の心身発達と環境―大阪レポートと精神医学的視点―』)でも、体罰を用いたしつけは、短期的に見ると有効に見えても、時間がたつにつれ、子どもの発達に悪影響を与えることが明らかになりました。体罰を用いて育てられた場合、特に言葉、社会性の発達に、はっきりと遅れが生じていました。
これらは、われわれの臨床経験とも、全く一致する結果です。
体罰が、その人の攻撃性、反社会性に強い影響を与えた、という事例は、枚挙にいとまがありません
ある殺人事件を起こした少年について、担当弁護士は、少年の根本的な問題は、「愛されている感情を持てなかった」ことにあると述べています。
少年の両親は、子どもを愛していないわけではありませんでしたが、長男として非常に期待し、厳しくしつけを行いました。父親からは、時々殴られており、母親からも、スパルタ教育と称して、体罰や厳しいしつけを受けていました。それは、虐待と言えるほどではありませんでしたが、極めて感受性が強かったこの少年にとっては、非常な恐怖であり、自分に対する厳しい拒絶と感じられたと言います。
少年の記憶では、週1、2回は、親に叩かれていたといい、親に叱られると、祖母に助けを求めていました。この少年にとって、唯一心が安らぐ相手が、祖母だったと言います。
少年は、「親といると神経がピリピリして気が引き締まるけど、おばあちゃんの前では、気がゆるんで気楽になれる」と述べています。学校や職場に行くと、神経がピリピリして引き締まる、しかし、母親の前に行くと、心が安らいで気楽になれる、というのが普通です。しかし、母親の前でも、神経がピリピリして引き締まる、とは、やはり尋常ではありません。おそらく、体罰や厳しいしつけの影響と思われます。
今までの人生を振り返って、唯一のよい思い出は、幼年時代、祖母の背に負われて目をつぶり温かさを全身で感覚していたこと、それだけであり、あとの人生で、よい思い出は一つもない、と語ったといいます。少年の極めて強い感受性、そこに加えられた、繰り返す体罰、厳しいしつけは、甘えを圧殺し、愛されていることを実感できなくさせました。そこから、自分の存在は無価値と感じ、他人も同様に無価値を考えるようになりました。こういったものが、祖母が死去して心の居場所を失った時に、他者への攻撃性として噴出し、動物虐待から、殺人事件に至った、と考えられるのです。
「ほとんどの加害者はかつて被害者であった」という言葉があります。
確かに、体罰をすると、犯罪に走る、とは必ずしも結びつけられないかもしれません。しかし体罰を繰り返し受けている子どもは、確実に、怒りを心の底に蓄積し、また自己評価が極端に下がります。そこから、非行や犯罪に走る子どもを、私たちは頻繁に見かけるのです。
少なくとも、攻撃的なテレビゲームの影響よりは、はるかに直接的な関係があることは疑いありません。それなのに、世の中では、テレビゲームの危険性ばかりが強調され、体罰の危険性が言われないのは、極めて不思議なことです。
常識的に考えても分かります。大人に対してなら、いくら教育的な目的であっても、暴力として違法とされるのに、どうして子どもへの暴力だけが、正当化されるのでしょうか。
もう一度、われわれは体罰の是非を問い直さねばならないのではないかと私は思います。
明橋 大二 『翼ひろげる子』(一万年堂出版、2003年)