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異界行

オカルト歴ン10年の著者が、過去に行ってきたミステリースポットの調査内容を報告します。

しばらくぶりの更新となってしまいました。相変わらず生活が成り立たない状態で、もうブログどころではないのだけど、それでも時折アクセス解析を見るとそれなりの数が見られているので、見てくださる方のためにも、更新は続けようと思います。

 

今回は、前回の記事で少し触れた「上野三碑(こうずけさんぴ)」を紹介したいと思います。

近年、これを世界遺産に登録しようという動きがあり、それなりに整備がされているようですが、著者が調査に行ったのは2013年10月17日であり、昔から整備されている多胡碑以外はかなり苦労した記憶があります。

 

<上野三碑とは>

日本列島東部の古代上野国[こうずけのくに](現在の群馬県[ぐんまけん])に存在する三つの石碑「上野三碑[こうずけさんぴ]」は、日本に18例しか現存しない古代(7~11世紀)の石碑のなかで最古の石碑群であり、大切に守られてきました。
それらは、山上碑[やまのうえひ](681年)、多胡碑[たごひ](711年頃)、金井沢碑[かないざわひ](726年)と呼ばれています。三碑の記録形態は、上野国に住み着いた朝鮮半島からの渡来人がもたらしたもので、かれらとの密接な交流の中で、当時の都(飛鳥、奈良)から遠く離れた地元の人々によって文字で刻まれたものです。山上碑は日本語の語順で漢字を並べた最古級の歴史資料です。多胡碑は、18世紀以来、中国の「書」の手本となってきました。金井沢碑は、この地での仏教の広がりを刻んでいます。これらの三碑は、東アジアにおける文化交流の実像を示す極めて重要な歴史資料です。
三碑に刻まれた内容は、中国を起源とする政治制度、漢字文化、インドを起源とする仏教が、ユーラシア東端の地である日本に到達しただけでなく、さらに遠く離れた東部の上野国に多数の渡来人の移動とともに伝来し、地元の人々に受容され、広まっていったことを証明しています。
このように三碑は、歴史的、文化的、社会的、政治的に、「世界の記憶」にふさわしい希有な価値を有するものです。(高崎市の公式HPより)

 

<多胡碑>

まずは、一番有名な多胡碑から紹介。群馬県民必須競技「上毛かるた」にも、「昔を語る 多胡の古碑」という札になっている。

多胡碑(たごひ)は、群馬県高崎市吉井町池字御門にある古碑(金石文)であり、国の特別史跡に指定されている。山ノ上碑、金井沢碑とともに「上野三碑」と総称される。また、書道史の上から、日本三古碑の一つとされる。建碑は、その内容から8世紀後半とされる。

碑身、笠石、台石からなり、材質は花崗岩質砂岩で、牛伏砂岩と呼ばれ、近隣で産出される。地元では多胡石、天引石などとも呼ばれている。碑身は高さ125cm、幅60cmの四角柱で前面に6行80文字の楷書が丸底彫り(薬研彫りとされてきたが、近年丸底彫りであることが判明した)で刻まれている。笠石は高さ25cm、軒幅88cmの方形造りである。台石にのせられた碑身は下部が四角錐状になっており「國」の字が刻まれていると言われるが、現在はコンクリートにより固定されているため確認できない。(wikiより)

 

多胡碑は記念館が併設されており、一帯は「吉井いしぶみの里公園」となっている。

ずっと以前に訪れた時、この記念館も入ってみたが、多胡碑の歴史的な資料よりも書道史上の価値に関する資料が多かった記憶がある。

保護のため、このような建物の内部に石碑はある。

建物のガラス越しに石碑を見る形になるが、ガラス横にボタンがあり、押すと内部に照明が灯って、音声案内が流れ始める。

・碑文

弁官符上野國片罡郡緑野郡甘
良郡并三郡内三百戸郡成給羊
成多胡郡和銅四年三月九日甲寅
宣左中弁正五位下多治比真人
太政官二品穂積親王左太臣正二
位石上尊右太臣正二位藤原尊

・現代語訳

弁官局からの命令である。上野国の片岡郡・緑野郡・甘良郡の三郡の中から三百戸を分けて新しい郡を作り、羊に支配を任せる。郡の名前は多胡郡とせよ。これは和銅4年3月9日甲寅(711年4月1日)に宣べられた。左中弁・正五位下多治比真人。
知太政官事・二品穂積親王、左大臣・正二位石上麻呂、右大臣・正二位藤原不比等。

 

つまり、多胡郡が設置されたことを記念して建てられた碑である。

ここで、日本史の「国仕掛け」の黒幕として昨今一部で注目されている藤原不比等の名が出てくる。

もう一つ注目すべき点は「羊」の名である。これは、前回の記事で少し触れた「多胡羊太夫」のことだとする説が有力である。

 

<多胡羊太夫>
多胡羊太夫(たご ひつじだゆう)は、奈良時代天武天皇の時代(672年〜686年)に活躍したとされる上野国(群馬県)の伝説上の人物(豪族)。伝承では多胡郡の郡司だったとされる。 多胡碑によれば、「和銅4年に近隣3郡から300戸を切り取り「羊」なる者に与え多胡郡とした」と記載される「羊」なる者であるとされる。なお、多胡碑の原文は漢文であり「給羊」の句があることから発想された。人名説以外に方角説時刻説などがあるが、現在学説では人名説が有力である。(wikiより)

 

藤原不比等に関する考察として、多胡羊太夫は、蘇我氏に滅ぼされた物部守屋滅亡(587年)に連座し、上野国に流された中臣羽鳥連の末裔であるとしている。中臣羽鳥連は、その子、中臣菊連の娘が、貴種を求める上野国の地方豪族車持国子(男性)に嫁ぎ、その娘・与志古が天智天皇の采女に上がり、藤原鎌足に下賜され、藤原不比等が生まれたとしているため、多胡羊太夫の郡司就任には藤原氏の影響があったとする説もある。

 

国仕掛けの黒幕・藤原不比等が古代群馬と関係しているのは著者にしてみても意外だった。中には、羊太夫は藤原不比等本人であるとする説もある。

そもそも、多胡郡は渡来人の多い地域であり(「胡」という字は外国人を意味し、それが多かったから「多胡郡」という)、また付近からはキリスト教関連の遺物も発見されているということで、羊太夫については景教(ネストリウス派キリスト教)徒、あるいはユダヤ人原始キリスト教徒とする説もあるらしい。

著者がかねてから関心のある「日ユ同祖論」と関連して非常に興味深い。あるいは、羊太夫はあの「秦氏」かもしれない。

キリスト教関連の遺物については、不確かな情報ではあるが古い十字架が発見されたとか、多胡碑の近くで発見された古い銅板があるとされるが、問題はこの銅板に刻まれた文字で、それは「JNRI」である。

この「JNRI」とは、「Jesus Nazarenus Rex Iudaeorum」の頭文字、それはすなわち「ナザレのイエス・ユダヤの王」という意味である。

イエス・キリスト磔刑の際に、十字架に掲げられた罪状版である。

これはラテン語では「INRI」となり、「イナリ」と読める。これが全国の稲荷神社の語源であったとする説もある。つまり、稲荷神社=イエス・キリスト神社となる。この稲荷神社を全国に作ったのもまた秦氏である。

 

また、羊太夫については以下の伝説がある。

「昔、この地に羊太夫という者がいて、神通力を使う八束小脛(ヤツカコハギ。八束脛ともいう)という従者に名馬権田栗毛を引かせて、空を飛んで、都に日参していた。あるとき、羊太夫が昼寝をしている小脛の両脇を見ると羽が生えていたので、いたずら心から抜いてしまったが、以後小脛は空を飛べなくなってしまい、羊太夫は参内できなくなった。朝廷は、羊太夫が姿を見せなくなったので、謀反を企てていると考え、軍勢を派遣し、朝敵として羊太夫を討伐した。落城間近となった羊太夫は、金の蝶に化して飛び去ったが、池村で自殺した。八束小脛も金の蝶に化身し飛び去ったとされる。」

羊太夫は「都に日参していた」とあるから、群馬から奈良まで毎日往復していたということである。空を飛んだというこの伝説の意味するところは何だろうか?

 

羊太夫から思わぬ方向に話がそれたが、羊太夫は古代に銅を採掘した(「和同開珎」の元となった)秩父の和同遺跡との関連も伝えられる。偶然ではあるが、著者は今年の4月にこの和同遺跡の地にある秩父の銭神様こと「聖神社」に行って来たばかりである。

この聖神社については、またの機会に紹介したい。

 

ちなみに、「吉井いしぶみの里公園」内には古墳もあった。

 

さて、多胡碑からいろいろ話が飛んで思いのほか長くなってしまった。

他の「山上碑」「金井沢碑」については、また次回に続きたいと思う。(その二に続く)