異界行

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オカルト歴ン10年の著者が、過去に行ってきたミステリースポットの調査内容を報告します。

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前回の多胡碑に続いて、上野三碑シリーズ第二弾、今回は「山上碑」と「金井沢碑」を紹介します。

 

<山上碑>

山上碑は飛鳥時代の681年に建てられたもので、完全な形で残っているものとしては日本最古の石碑です。自然石をあまり加工しないで使っており、朝鮮半島の新羅の石碑(6世紀)に類似しています。
碑文には、放光寺[ほうこうじ]の長利[ちょうり]という名の僧が母のために石碑を建てたことと、長利の母方、父方双方の系譜が記されています。長利の母である黒売刀自[くろめとじ]は、ヤマト政権の直轄地である佐野三家[さののみやけ](屯倉[みやけ])の管理者であった健守命[たけもりのみこと]の子孫で、父である大児臣[おおごのおみ]は、赤城山南麓の豪族とみられる新川臣[にっかわのおみ]の子孫です。(高崎市の公式HPより)

 

多胡碑は過去にも訪れたことがあったが、山上碑は今回が初めて。一応、カーナビには施設登録されているので、それを頼りに車を走らせる。

…しかし、本当にこの道で良いのか?と思わせるルートばかりで、対向車が来たら完全にアウトな道幅だったり、マップ上だと道が通じているのに実際は行き止まりだったり、その行き止まりを回避すると以前来た道に戻ってしまったりと、完全に迷子状態。同じ場所を何度もグルグル回った。異界に迷い込んだ感覚である。

著者は霊感ゼロなのだが、さすがに来訪を拒否されているような感覚を覚えた。霊的な「何か」に妨害されているような??

しかし、何をどうやったか記憶に無いのだが、いつの間にか先ほどまでのループを脱し、ナビを見るとどうやら本来のルートに乗ったようだ。典型的な田舎の集落の川沿いの細い道を走り続けると、左手に駐車場の看板が見えてきた。

近年は世界遺産登録を目指していることだし、今は案内板も多く迷うことはないだろう。駐車場に関しては、この時からきちんと用意されていて、そこそこの台数が置ける形になっている。しかし、この時は著者の車一台だけだったが。

そして、駐車場から徒歩で少し道を戻ると、登り口を発見した。

このような石段を延々と登って行く。

石段手前にこのような案内板があった。

もともと山上碑は「山上碑及び古墳」という史跡名であり、その古墳内部に馬頭観音を祀るお堂があって、礼所として人々が巡礼していたようだが、今はお堂は無いらしい。この石段も本来は礼所への参道だったとのこと。

石段を登り切ると古墳がある。石段の辺りから周囲には誰一人おらず、どこか不気味な感じがする。

その隣に、多胡碑と同様の建物があった。石碑保護に関しては、この頃からしっかり整備されているようだ。

同じく、ボタンを押すと内部に照明が灯って石碑が浮かび上がる。

<碑文>

辛巳歳集月[しんし(かのとみ)としじゅうがつ]三日に記す。佐野三家[さののみやけ]を定め賜える健守命[たけもりのみこと]の孫の黒売刀自[くろめとじ]、此れ新川臣[にっかわのおみ]の児の斯多々弥足尼[したたみのすくね]の孫の大児臣[おおごのおみ]に娶[とつ]ぎて生める児の長利僧[ちょうりのほうし]が、母の為に記し定むる文也。 放光寺[ほうこうじ]僧

・現代語訳

辛巳年(天武天皇十年=西暦六八一年)十月三日に記す
佐野屯倉をお定めになった健守命の子孫の黒売刀自。これが、新川臣の子の斯多々弥足尼の子孫である大児臣に嫁いで生まれた子である(わたくし)長利僧が母(黒売刀自)の為に記し定めた文である。放光寺の僧。

 

これについてwikiを見ると、

山ノ上碑は墓誌であり、隣接する山ノ上古墳の墓誌であると考えられている。その内容から放光寺の僧侶・長利(ちょうり)が母の黒売刀自(くろめとじ)のために墓を建てたことがわかる。墓誌としても日本最古である。「放光寺」は佐野の地にあると考えられてきたが、最近の発掘調査により、前橋市の山王廃寺の可能性が高くなった。
刻まれている文のほとんどが、長利母子の系譜を述べており、古系譜の史料としても貴重である。
山ノ上碑に刻まれている「佐野三家」は金井沢碑の「三家」(ミヤケ、屯倉)であると考えられてきた。しかし、周辺の発掘調査により、史料上知られていないミヤケの存在が確実視されてきたため、「佐野三家」と「三家」は同一でないという可能性も出てきた。

とある。

つまり、古墳の墓誌と埋葬者の系譜が書かれている。

こちらは西暦では681年であり、多胡碑の711年より古く、墓誌としては日本最古であり、日本語の語順で漢字を並べたものとしても最古級である。

都で言えば、奈良時代以前、しかも藤原京より古い時代のものである。そういった時代の遺物が、遠く離れた群馬の山中にあるのが何とも興味深い。また、碑文の作成者である長利は放光寺の僧侶であることから、この時代にすでに仏教が広く伝播していたことが窺える。ちょうど、古墳時代が終焉し、寺院の時代への移行期であろう。

 

<山ノ上古墳>

山ノ上碑の東側にある、直径15m程の典型的な山寄せの円墳である。埴輪・葺石は確認されておらず、古墳としては終末期古墳に属するものとみられる。
主体部は凝灰岩の切石積み横穴式石室で、南に開口している。全長7.4m、玄室長2.68m、幅1.75m、高さ1.66m。(wikiより)

石室内部には特に何も無かったと記憶するが、今の公式HPには「山上古墳の切石積みの石室」として下の仏像の写真が貼られている。

案内板にあった馬頭観音であろうか?懐中電灯でも持っていれば見えたかもしれず、あるいは今は整備されて照明等があるのかもしれない。

そして、石碑の建物の背後には以下のような祠もあった。

 

ちなみに、この山上碑及び古墳は高崎市山名町にある。

この地には、地元では有名な「山名八幡宮」がある。

帰り道に立ち寄ってみたが、なかなか興味深い神社であったので、また別の機会に紹介したい。

 

日は傾いてきたが、まだ夕暮れにはならないので、そのまま次の「金井沢碑」を目指す。

こちらは分かりやすい場所にあって、ナビの案内通りに着いた。

<金井沢碑>

神亀3年(726年)2月29日建碑。
高さ110cm、幅70cm、厚さ65cmの輝石安山岩に9行112文字が刻まれている[2]。
台石にはめこまれ、文はその表面に陰刻される。書体は古い隷書体の特徴が見られる。
江戸時代の中ごろに出土し、かつては小川のほとりで付近の農家の洗濯板として使用されていたという。
その内容は、上野国群馬郡下賛(下佐野)郷高田里の三家(ミヤケ、屯倉)の子孫が、七世父母、現在の父母等のために天地に誓願して作る旨が記され、祖先の菩提と父母の安穏を仏に祈願している。ここから、郷里制の施行と奈良時代における民間への仏教信仰の浸透を知ることができる。(wikiより)

 

駐車場から沢(金井沢?)沿いに道があり、そこを歩いて行く。こちらも人気は無かったが、道沿いの畑で農作業をしている様子が見られた。そして、石碑はこちらも先の二つと同様に建物内にあった。

<碑文>

上野国[こうずけのくに]群馬郡[くるまのこおり]下賛郷[しもさぬごう]高田里[たかだのさと]の三家子□が、七世[しちせい]父母と現在父母の為に、現在侍[はべ]る家刀自[いえとじ]の他田君目頬刀自[おさだのきみめづらとじ]、又児[こ]の加那刀自[かなとじ]、孫の物部君午足[もののべのきみうまたり]、次に※刀自[ひづめとじ]、次に若※刀自[わかひづめとじ]の合せて六口、又知識を結びし所の人、三家毛人[みやけのえみし]、次に知万呂、鍛師[かぬち]の礒部君身麻呂[いそべのきみみまろ]の合せて三口、是の如く知識を結び而[しこう]して天地に誓願し仕え奉[たてまつ]る石文[いしぶみ]
神亀[じんき]三年丙寅[へいいん(ひのえとら)]二月二十九日

・現代語訳

上野国群馬郡下賛郷高田里に住む三家子□が(発願して)、祖先および父母の為に、ただいま家刀自(主婦)の立場にある他田君目頬刀自、その子の加那刀自、孫の物部君午足、次の※刀自、その子の若※刀自の合わせて六人、また既に仏の教えで結ばれた人たちである三家毛人、次の知万呂、鍛師の礒部君身麻呂の合わせて三人が、このように仏の教えによって(我が家と一族の繁栄を願って)お祈り申し上げる石文である。
神亀三年(七二六年)丙寅二月二十九日

 

先ほどの山上碑と同じ「三家」が出てくることから、山上碑を建てた豪族の子孫であると考えられるが、wikiによると

金井沢碑に刻まれる「三家」は山ノ上碑に刻まれる「佐野三家」であると考えられてきたが、最近の発掘調査により史料上知られていないミヤケの存在が確実視されているため、「三家」が「佐野三家」とは別のミヤケである可能性もある。

とある。どうも、古代群馬の豪族事情は複雑であったようだ。

公式HPと現地の案内板には、このような系譜が書かれている。

ここに「物部君」つまり物部氏の名が見られる。先の多胡碑の羊太夫について、「蘇我氏に滅ぼされた物部守屋滅亡(587年)に連座し、上野国に流された中臣羽鳥連の末裔であるとしている」とあるが、物部氏は古くから群馬の地に来ていたようだ。羊太夫は「秦氏」であった可能性が高く、ここでも日本の神道の根幹を握る秦氏と物部氏の複雑な関係があったと見える。

また、以前の記事「黒瀧山不動寺と先代旧事本紀大成経」でも、先代旧事本紀大成経の出処としての群馬の物部氏について触れているので、参照されたい。

 

さて、二回に渡って「上野三碑」を紹介してきたが、公式HPの言葉を借りて以下にまとめたいと思う。

「三碑に刻まれた内容は、中国を起源とする政治制度、漢字文化、インドを起源とする仏教が、ユーラシア東端の地である日本に到達しただけでなく、さらに遠く離れた東部の上野国に多数の渡来人の移動とともに伝来し、地元の人々に受容され、広まっていったことを証明しています。」

いずれ世界遺産に登録される日は来るのだろうか?また現在、それに向けてどこまで整備がされたかを確認するためにも、再訪してみたいところである。