材木町善福寺と豪姫・富利姫伝説 | 市民が見つける金沢再発見

材木町善福寺と豪姫・富利姫伝説

【梅の橋→浅野川大橋間・材木町】
善福寺は、文安2年(1445) 蓮康僧都により大桑に開創されたと言われています。 
慶長6年(1601)現在の大桑町より藩の一向宗対策のため現在地橋場町(旧材木町)に移転させられました。宝暦の大火(1759)で類焼し、寛政5年(1793)本堂を土蔵造りで再建。
現存の土蔵造り御堂としては全国最大級規模で、市の指定文化財に指定されています。


市民が見つける金沢再発見-土蔵お寺
(土蔵造りの善福寺)

藩政期、善福寺は東方(真宗大谷派)の金沢三ヶ寺と称され、専光寺(本町)・瑞泉寺(白菊町)と並び東方(真宗大谷派)の「触頭(ふれがしら)」。加賀藩では、有力寺院を宗派地域別に「触頭」という役職に任命し寺院僧侶の取締に当らせています。


市民が見つける金沢再発見-土蔵お寺3
(善福寺の塀)

豪姫の二女“富利姫(ふりひめ)”伝説
関が原の戦いに敗れた宇喜多秀家の正室豪姫が実家前田家に帰ってから生まれたという「富利姫」が善福寺住職に再嫁された話があります。豪姫は二男一女というのが定説ですが、ここでは二男二女ということになります。

言い伝えによると、「富利姫」は金沢で生まれ、豪姫の兄2代藩主前田利長公の養女となり、4歳の時、伏見宮貞清親王に嫁ぎ、後に邦尚親王をもうけたが、50歳を過ぎて貞清親王が死別して金沢に帰ります。


市民が見つける金沢再発見-大蓮寺西門
(野町広小路の大蓮寺西門の豪姫石彫)


市民が見つける金沢再発見-豪姫野田山
(野田山の豪姫お墓の説明板)


明暦2年(1678)3代藩主前田利常公の計らいで、利常公が亡くなる前年、東方(真宗大谷派)善福寺(旧材木町)の7代住職重勝に再嫁して粧田100石を賜ります。


延宝6年(1678)9月16日に没したと伝えられています。法名は先勝院釈授栄。


ノンフィクション作家だった新保千代子さんの「虚仮の一念」
2004年にお亡くなりになった室生犀星の研究家で石川県近代文学館の名誉館長だった新保千代子さんが「カラー加賀能登路の魅力」の中で、「加賀藩史料」にも記録がなく、また、錚々たる歴史学者の善福寺の住職ですら自分のお寺に残る豪姫に関する記録を余り重視していない客観状勢にあって「富利姫」のことについて調べ歩いた記述があります。


市民が見つける金沢再発見-黒門
(豪姫住居跡(黒門前緑地))

新保千代子さんの根拠は、お寺に残る資料と日置謙氏が編集した加賀藩の歴史辞典「加能郷土辞彙」に書かれていることによるものです。

彼女は「まあ素人だから、あんな信の置き難い資料に食いつく」という陰口を感じながら、「富利姫」の実在を証明するため、裏づけを探しに土砂降りの中、犀川の上流の旧大桑地区に行き、善福寺の墓所で悪戦苦闘ともいえる慣れない努力をなさっていることが書かれています。

自ら「虚仮の一念」といって邁進している姿から執念というか負けん気というか、それにもまして郷土に対する強い思いが伝わってきました。


墓所で「富利姫」の塚を見つけ、さらに「今なお歴史と謎の生きている町、金沢の魅力でなくて何であろう。」と歴史都市の奥深さと不思議を綴っています。


市民が見つける金沢再発見-灯篭

キリシタン灯篭
戦いに敗れた宇喜多秀家の正室豪姫は金沢に帰り、高山右近との関わりからキリスト教徒であったといわれています。
娘の「富利姫」が善福寺住職に再嫁されたことと関係があるのだろうか、棹の下部に浮き彫りされた像がマリア様だという灯篭が、善福寺の庭に一基あると聞きました。


参考文献:「カラー加賀能登路の魅力」文新保千代子 写真柴田秋介 淡交社 昭和53年6月30日他