ひさびさのコラム。

 

最近新しく事務のお仕事を始めたこともあり、わからないことがたくさんでいろいろ悩んでいたんです。

そんな中、週三回の勤務の合間、平日のお休みに草むしりにいそしんでみました。

 

面白いもので、仕事の悩みはほかの仕事で薄らいでいくんですね…

 

仏教では「今」瞬間を大事にすることで、ほかの時間帯の苦を滅するというテクニックを使います。

 

無常ということで、心の中も外の世界も、気分も状況も、刻一刻と変わっている…変化しているということ。

 

外界に合わせて気分もゆらぐのではなくて、自分から心を観察することによってゆらぎによる苦を減らせるという内容。

 

草むしり、珈琲を入れる、イラストを描く、展示企画を練る、こどもと手をつないで散歩する・・・いろんな仕事があります。

あるいは食事でよく咀嚼する、掃除する、手を洗う、歯を磨くなど、日常生活も自分を整えるための大事な仕事。

 

お給料をもらう仕事はヘビーなものが多いですが、そのことでくよくよしすぎてもほかの時間がもったいない。

 

ということで草むしり。

 

草むしりしていても思考は回っていて、面白いこと考えていたのでコラムにしようと思ったのでした。

 

草むしりしていて思うのは、イネ科のやつは本当にたちが悪い。

これでもかってくらい繁殖するんです。

そして油断してると家の周りが雑草だらけに・・・

砂利を敷いていてもそこに生えてくるんだから、ちょっと感動すら覚えたんです。

 

そこでよく考えてみたらば、イネ科というのはそもそも米の祖先ではないかということ。

人間の手によって、交配による品種改良を何百年あるいは何千年と続けてきた結果、すばらしい穀物へと雑草は変化してくれたわけです。

気候の変化にも強く、大きく穂が実ったり、あるいは寒さ…あるいは病気に強かったり。

 

焦ってできる過程ではないわけです。

雑草が安全な穀物になるまでは。

遺伝子組み換えとか急いでやっちゃう過程も人間の浅はかさであるちゃあるんですが。

安全性が疑問です。

 

でも、急がなくても、気の遠くなるような時間をこつこつ先人たちが研究して、ちゃんといまおいしいご飯になってる。

 

ということはですよ、昔の人々って、どこか輪廻とか祈りとか、子供たちに対する未来への希望とかが「いつかは必ずかなう」って確信して生きていたような気がするのです。

 

それは仏教でいう執着なのかもしれない・・・と考えてみたりもしましたが、やっぱ違うかもということも考えたり。

 

「自分は今世ではこんなもんだろうな、来世とか来来世とか、こどものこどものこどもとかが飢えも苦しみもない世界をそのうち構築しているんだろうな。じゃあね」

 

そんなことを考えながら死んでいく。

 

今世に執着しない。

 

だからって手を抜くんじゃなくて、ほほえみの中で死んでくわけです。

確実な未来を夢見て。

なんか、そういう人たちの願いの延長上に今自分の命があるような感覚になったり。

 

過去の人々の夢を感じながら、イネ科の雑草と格闘したのでありました。

 

各方面の、ご先祖様方に感謝です。。。

 

 

☆まるっ☆