おはようございます。
横浜ホリスティック治療室の院長 国田康二と申します。
西新宿の ”新宿ねぎし”という 牛タン屋でバイトしながら、夜はカイロプラクティックの専門学校に通う生活を始め、
大学の同級生達とも、会社で同期入社した人達とも違う、自分で選んで入った世界。
大学を卒業した時は、そこまで真剣に就職に対して考えていなかったので、当然と言えば当然の早期の退職だったのだと思います。
約3年のサラリーマン。
今とは世の中の意識も違い、安定した仕事を選ぶことの方が、あたり前だった時代に、わざわざ自分から困難と思える方向に行った。
だけど、希望に満ち溢れていました。
逆に、会社にそのままいたと思うと、ゾッとします…
やりたくない仕事に時間を費やすことに、我慢の限界でしたから・・・
会社を辞め、何が一番変わったかというと…
毎朝、晴れ晴れとした気持ちでいられたことです!
今日は何をしようかな
会社員時代には、感じる事がなかった感覚です(笑)
なんの不安もないと言ったら、ウソになりますが、
この気持ちで毎朝迎えられること。
この後も、今の仕事を始めてからも、このような気持ちで毎朝むかえることが、一番の変化でした。
この1日の始まりをどういう気持ちで迎えられるか?
とても大切だということも、この時に知りました。
当時、会社の寮が小平市にあり、そのまま西武新宿線の次の駅の花小金井駅にワンルームを借りて、そこから再出発しました!
新宿にも縁があって、通っていた空手の道場も、高田馬場駅の近くにあり、
大学時代のバイトも西新宿。(当時は、ファーストフードのお店、ベッカーズというお店でバイトしていました。今もあるのかな?)
エネルギッシュだった新宿という街。バイトが終わってオールで朝まで飲みに行ったり、カラオケをしたり。
バイト先にはいろんな人がいて、特に、昼間に飲食などでバイトしている人達の多くは、自分のやりたいことを仕事にしようとしている人も多く、
自分の夢を追いかけている人たちにも、刺激をうけました!
👆 大熱唱!!(笑)
👆懐かしい~ 西武新宿線の黄色い電車
当初、会社を辞めた時は、スポーツトレーナーのような仕事をイメージしていましたが、
色々調べると、当時(1995年、平成7年)は、日本ではまだスポーツトレーナーだけで生計を立てている人は、ほんの一部で、まずは、手に職をつけないといけないと思い、手技を身につける為に、カイロプラクティックを選びました。
(このカイロの専門学校の前に、一度スポーツトレーナーの専門学校にも行きましたが、自分のイメージしているものとは異なっていたので、途中で辞めました)
カイロプラクティックの具体的な方法も知らない状態でしたが、空手の先輩の話を聞いて、興味が湧きました!
このカイロの専門学校で、初めて西洋医学とは異なる方法が世の中にあり、”自然治癒力”というものが、
誰にでも備わっていて、それを生かすことが、有効であるという話を聞き、それで人の体が良くなるならその方が良いと思いました。
これが、最初の西洋医療以外に触れた時でした。
カイロの専門学校は、夜学だったこともあって、
・昼間、会社勤めをしている方でカイロプラクティックを仕事にしようと考えている方
・柔道整復師(接骨院に働いている、又は経営している方)、
・定年退職した方が、定年後の仕事としてカイロプラクティックをしようとしている方
など、今までの学校とは違う、年齢層の幅が広い学校といった感じでした。
これも、今思えばよかったのだと思います。
いろんな人の考え、意見を聞く機会が増え、
いろんな環境でいろんな経験をした人の話を聴けました。
でも、やはり、一番強烈な方は、この専門学校の学長でもあり、カイロプラクティック業界のパイオニア的な存在であった、塩川先生でした
その強烈な個性とは・・・
そのエピソードは・・・
次回へ続く…
下記のようなオンライン講座もしております👇
毎週土曜日 オンライン朝活 老後の元気をつくるセルフケア・ストレッチ朝活
本来の自分の体を取り戻すエクササイズ→ 【オンライン】 本来の自分に戻るコアエクササイズ
いつも不安や怒り… など感情の乱れがある方は→ 【オンライン】 かんたん!感情セルフケア講座