宝石を着替えると、出逢う人も変わります
たった一つの宝石が、人生をかえるかも しれません。

広島の ジュエリーコーディネーター 
はやし かよ 
です

昨日は、月一回の異業種交流会WASHI(ワシ)の会でした

WASHIの会とは
W-わしら・私ら
A-アメブロなんかのSNSで
S-世界へ
H-広島から
I-イノベーションを起こそうや!

という基本理念をもった会です。
ブログを毎日更新するのは、かなり根性がいります。へこたれそうにもなります。でも、同じ境遇でがんばってる仲間がいると、刺戟になり、またがんばろーって励まされます。


そして、WAHIの会は、単なる懇親会(飲み会ともいう)ではなく、持ち回りでメンバーの一人が講師となって、自分のスキルをシェアする事をやっています。


とあるきっかけで、この会に加えてもらい、4年。個人事業主(経営者)が多い会の中で、サラリーマンの私が講師できることなんてナイっ て思ってましたが


今回、これまたひょんなきっかけで、講師をする事になりました

人前で話すことを得意としていない私が、自ら手を挙げるキモチになるなんて自分でもビックリです 

この変化も、WASHIの会に集まるピュアーな野心と向上心とホスピタリティーに溢れるメンバーの影響だと思います

さて、本日のお題は

誰も教えてくれなかった
「宝石の効果的な使い方」

10月の広島セミナーコンテストでお話した内容
・無難なモノは買わない
・賞味期間10年で使い切る
・処分する

に、、ちょこっと資料もお話も付け加えよう♫ と。
前日にプロフィール写真を眺めてたら(←ふるっ
 
色んな事が思い出されて、センチメンタルなキモチにひたってました。
仕事一辺倒だった父は、出張の度に母・私・妹にアクセサリーをお土産に買って帰ってくれたんだけど
↓   ↓   ↓
 
↑   ↑   ↑
あまりに渋い系(小中学生の子供には)だったので、それよりも、お菓子の方が気になって嬉しかったけど?(広島では、今でも手に入らない東京土産のベルンのミルフィーユ 40年来のロングヒットの商品です)
↓   ↓   ↓

 私は、父親が大好きだったんだ。(←あ、生きています)と改めて気づいたり、子供ながらに前述の不思議なアクセサリーが集まった宝石箱持ってた事を思い出したり。

家は転勤族で、3年置きに引っ越し。年齢が上がるごとに、引っ越し先で寂しく感じる出来事も大きくなったけど?お陰様で、一人ぼっちをほっとけない性格&初対面の人がヘーキな図太さも出来上がりました 

で、宝石の販売を始めた33歳の時。
超貧乏で、不幸(だと感じてた)のに、宝石を売る仕事とは皮肉だなーっと。その事は、ずーーーっと私のコンプレックスでした。
  
でも、今はそれがあったから、人とは違う宝石のすすめ方が出来ます。自分自身が、やっとやっとの思いで買い続けた宝石の効果は、対価以上にあると実感しているから、自信を持って仕事が出来ています。

だから

コンプレックスや想定外の出来事は、後から考えると成功につながっているんです。人生でつまずく事は、悪くない。

なーーんて、

50歳なんで、えらそーに言わせてもらいました

WASHIの会の周りを見渡すと?間違いなく最年長の私。
最年長での居場所は
視点の違う学びがたくさんある。
最年少での居場所も
また、しかり。

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あ、最後にも一つ言わせてね

女性は、なぜ宝石をつけるのか
それは、宝石力を味方にして、貴女自身が輝く事
だけでは、ないのです。
貴女が輝いて、周りの人を照らす存在である為に!なのです。

元始、女性は実に太陽であつた
(平塚 らいてう)

平塚らいてう 思想家 1886.2.10 - 1971.5.24 東京に生まれる。女性達の手になった日本初の文藝誌「青鞜」を主宰。 掲載作は、明治四十四年(1911)九月その創刊号にかかげた歴史的宣言であり、時にらいてうは二十六歳であった。大正五年(1916)二月号をもって終刊したが、女性の「人間」としての真の自由解放をうたいあげた真意は深く時流に生きて、太平洋戦争後も、らいてうは永く反戦平和婦人運動の先頭に起ち続けた。

最後になりましたが、
今回会場で使わせていただいた、カフェスプレッソシーボさん(→★★★
 
本が一杯の秘密隠れ家のような素敵な空間 おまけに、(いや、こっちがメインでした失礼 )店主の順子さんは切れ味の良い美人さん。プライベートでゆっくりこよっと。
ありがとうございます