遠藤一彦 | ☆大 辞 典☆

遠藤一彦

遠藤 一彦(えんどう かずひこ、1955年4月19日 - )は、福島県出身のプロ野球解説者。元プロ野球選手(投手)。→


来歴・人物
現役時代は、しなやかなフォームから繰り出される快速球とフォークボールを武器に、2年連続最多勝・6年連続2桁勝利を含む通算134勝を上げるなど、横浜大洋ホエールズのエースとして活躍した。

しかし、1987年10月の試合で走塁中にアキレス腱を断裂してしまう。その際にも、責任感からかその場でうずくまることもなく片足けんけんで三塁へ向かう姿は、ファンの感動と涙を誘った。アキレス腱断裂の影響で、1988年には連続2桁勝利が途切れ不本意な成績に終わった。

ケガから復帰した1990年には、当時の須藤監督の依頼でクローザーに転向して見事カムバック。晩年は大洋の守護神として働いた。最後は、佐々木主浩に守護神の座を譲る形で引退を表明。最後となった1992年のシーズンは途中からローテーションに復帰して先発し、3勝2敗の成績をおさめたが、「ホエールズと共に去るのも絵になるかと」と言い残して引退した(翌1993年から、球団名を横浜ベイスターズに改称することが決定していた)。

現役時代・引退後を通じてファンからは「大遠藤様」などと呼ばれ、ホエールズ低迷期を支えた大エースとしてファンの評価は高い。その後は横浜の投手コーチを歴任。現在は球団に籍を置きながらtvk、J SPORTS(2008年よりTBSニュースバード)の野球解説者を務めている。なお、現東京ヤクルトスワローズの遠藤政隆投手はいとこにあたる。   


略歴
出身地-福島県石川郡浅川町
高校は学法石川高校、大学は東海大学に在学。原辰徳は東海大の後輩にあたり、在学中はともにプレーもしている。
1977年 秋のドラフト会議で大洋から3位指名を受け入団。背番号は二年目より引退まで24。入団時は38番。
1978年 ルーキーイヤーのこの年、シーズン終盤に一軍に昇格しプロ初勝利を挙げるが、別当薫監督の育成方針により殆ど二軍生活だった。なお、監督からは春先に、下手投げへの変更命令が出ていたが、二軍投手コーチだった堀本律雄の「自分の納得するフォームで投げろ、上から聞かれても下手投げで投げていると答えろ」の強い指示の元、本格派投手としての一歩を踏み出す。
1979年 前半戦は先発、後半戦はクローザーとして12勝12敗8Sの成績を挙げるも、中日ドラゴンズの藤沢公也に新人王を奪われる。この年、オールスター初出場。
1980年 開幕からほぼシーズンを通してリリーフに専念。
1981年 斉藤明夫と入れ替わる形で先発投手に復帰。
1983年 18勝9敗3S、186奪三振、防御率2.87の成績で、ベストナイン、最多勝、奪三振王、最多完投、沢村賞を獲得。
1984年 17勝17敗、208奪三振の成績で、最多勝、奪三振王を記録するものの、最多敗、被本塁打王も併せて記録。
1987年 10月3日の対巨人戦の5回表、走塁中に右足アキレス腱を断裂。
1988年 手術・リハビリを経て1軍復帰するが、5勝12敗で防御率4.76と復調せず。
1990年 10年ぶりにクローザー再転向。6勝6敗21Sの成績を挙げ、カムバック賞受賞。
1992年 横浜大洋ホエールズの終幕とともに現役引退。
1993年 TBSの解説者に就任。
1997年 横浜ベイスターズの2軍(現:湘南シーレックス)投手コーチに就任。
2000年 横浜ベイスターズ1軍投手コーチに就任。
2003年 横浜ベイスターズのコーチを退任(引き続き球団に籍を置く)。
2004年 TBS解説者に復帰。
2006年 TBS専属を外れ、tvk解説者に就任。JSPORTS解説者も兼務。
2008年 横浜戦の放送局変更によりJSPORTS解説者からTBSニュースバード解説者に変更。


タイトル・表彰
沢村賞 1983年
最多勝 1983年、1984年
最多奪三振 1983年、1984年、1986年 ※当時はタイトルではない
最優秀投手 1983年
ベストナイン 1983年
カムバック賞 1990年
オールスターゲーム出場 5回(1979年、1984年~1986年、1990年) 


エピソード
大学時代は建築学を学んでおり、設計士になるのが夢だったという。そのためドラフト指名された当初は硬くプロ入りを拒否していた。しかし地元福島へ帰る電車の中でスカウトが粘り強く説得した結果、入団にこぎつけたという。「当時東北新幹線があったら遠藤は入団していなかっただろう」とはそのスカウトの弁である。
入団直後、当時の別当薫監督から不可解なサイドスロー転向を命じられ、ファームでフォーム改造に取り組んでいたが、当時の二軍投手コーチだった堀本律雄が転向を中止させ、別当には「フォーム改造中」とウソの報告を行ない、オーバースローのまま育て上げた。もし堀本がフォーム改造を中止させていなければ、のちの遠藤の活躍はありえなかったといわれる。
入団時はチーム名が大洋ホエールズから横浜大洋ホエールズへまさに変更した時であり、引退時は横浜大洋ホエールズから横浜ベイスターズへ変更を決めた時であった。つまり、遠藤の現役期間は『横浜大洋ホエールズ』の歴史と全く同じである。
当時絶好調だった巨人のウォーレン・クロマティは、安打を打つたび投手に向かって自分の頭をつつき、「お前らとは違うんだよ」とばかりに挑発していた。これに憤慨した遠藤は1986年、クロマティに対して決め球のフォークボールを投げると見せかけてストレートで三振にしとめ、ベンチに戻るクロマティに向かって得意げに頭をつついて見せた。この時、先にベンチに戻っていた捕手の若菜嘉晴も同じく頭をつついて見せている。その行為にクロマティは激怒。
遠藤の引退試合は消化試合での巨人戦であったが、最後の勇姿を見ようと詰め掛けたファンで横浜スタジアムは満員となる。最後にバッテリーを組んだ先発キャッチャーは、東海大時代からの後輩、市川和正であった。「ローソクの火が消える前ぽっと明るく…」と言う通り、2回を無失点、140km/hを超えるストレートとフォークで有終の美を飾った。引退セレモニーではチームのほとんどの選手が涙で引退を惜しみ、1年先輩の斉藤明夫とは、ともに号泣して抱き合った。なおこの試合は「横浜大洋ホエールズ」としての最後の試合でもあった。
同い年、そして同じ福島の生まれであった江川卓を学生時代から常にライバル視していた。「江川は初恋の人以上の存在」とは遠藤本人の弁である。そのものズバリ、著書に『江川は小次郎、俺が武蔵だ!』(1986年刊)を書いたほど。通算勝利数も、24歳でプロ入りし9年間でマウンドを去った江川が135勝、アキレス腱断裂などもあり遠藤が1つ及ばない134勝と運命的とも言うべき数字となった。
引退直後の1993年、竣工したばかりの横浜ランドマークタワーのテレビコマーシャル(三菱地所)に、その知的な風貌からスーツを纏ったビジネスマンの役で出演していた。また、『半熟卵』(1994年・フジテレビ系)、『愛とは決して後悔しないこと』(1996年・TBS系)とテレビドラマにも出演歴がある。
横浜2軍コーチ時代の1998年10月8日、1軍が阪神甲子園球場で38年ぶりのリーグ優勝を決めた。このとき遠藤は同じく2軍打撃コーチだった田代富雄とともに、横浜スタジアムで行われたパブリックビューイング(PV)に駆けつけた。優勝決定の瞬間を迎えると、感極まった遠藤は人目をはばからず号泣。隣の田代も涙目であった。PVの司会であった玉置宏がそれを見て、「遠藤が泣いております。田代も泣いております。」とアナウンスすると、集まったファンは不遇の時代をエース・四番として支えた両名に大歓声を送った。
やくみつるは歴代の大洋・横浜の投手の中でも遠藤を深く尊敬している。これは江川事件でアンチ巨人を公言していたものの応援するチームがなかった際、当時連載していた漫画誌の編集長に連れられて横浜スタジアムの試合を観戦した時、遠藤が巨人相手に好投したのがきっかけで大洋ファンになったからである。そのため遠藤の引退試合には友人達と「Endoh is our God.(遠藤は私達の神様だ)」と書かれたTシャツを着て観戦した。また遠藤が打席に立っている折に遠藤がアキレス腱に古傷を抱えているのを承知の上でホームスチールを敢行して成功させた高木豊に対して激怒。また遠藤の引退試合を高木が打率3割維持のため欠場したこともあり、以後公然と「アンチ高木」を唱えるようになった。



ビクトリー(1984年4月1日発売、メインボーカルは細川たかし)
原辰徳・岡田彰布・高橋慶彦・宇野勝・荒木大輔と共にコーラス参加。


現在の出演番組
ザ・プロ野球


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』  →


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