最近もはや完全に保守嫌いになっているのですが、以前私がツイートした。

 

「保守派の懐古趣味やら過去礼賛は単なる妄想だろ!!」

 

的なツイートに対して、『脱思想の下請け』というブログを書いているhiroyasuさんが、3回に渡ってリプライの内容となる記事を書いてくれました。


エリートの思い上がり

カツトシさんへのツィートにリプレイした内容を私のブログで3回に分けて紹介しました。
https://twitter.com/hironori24/status/1099414772624220161
https://twitter.com/hironori24/status/1099919615981871104
https://twitter.com/hironori24/status/1100471417986965504

 

 一応、私なりの理解で内容をまとめると・・・

 

①現在の人権意識の水準からすると過去の教育的指導は単なる虐待

②保守派の美化する家族的経営は、保守派が考えるほどには徹底してなかったし、何か思想や伝統に基づいて出来た制度でもなく、たまたま偶然一時的にできた慣習

③産業革命初期の保守派はブルジョア既得権であり、保守派が称えるロバート・オーウェンなどは当時としてはかなり異端で革新的思想の持ち主だった

 

ということです。まあ、さらに要約するなら、「保守派は過去も保守思想も美化しすぎ」ということになります。

 

 ちなみに、オーウェンが活躍した産業革命初期の時代は、多くの労働者に極めて過酷な労働を強いており、労働者の多くは身体が変形し、労働者階級はまともな人生を送ることなど到底不可能でした。その後労働者を保護する様々な法律が出来るのですが、例えばフランス革命なども当時の農民の生活環境は極めて劣悪な状況にあり、仮に多くの知識人教養人がフランス革命を否定し、その否定の論理に一定の妥当性が存在したとしてもなお、「では、そのような劣悪な環境に置かれていた農民は永遠に抑圧されていて良かったのか?」という問題は残ります。つまり、当時の知識人や教養人は既得権であり、「フランス革命の批判や否定は彼らの既得権の維持を正当化する文脈でなされた」という事実は押さえておくべきでしょう。

 

 で、最後に「昔の統治者や知識人は凄かった」的な言説についても疑義を呈したいのですが、その前に、私が先日読んだ『ふしぎなふしぎな子どもの物語 なぜ成長を描かなくなったのか? 』という本の内容に触れさせてください。

 

 実は、この本の中にも「昔の○○は凄かった」的な言説が取り上げられており、なおかつそれが端的に否定されています。では、その「昔の○○は凄かった」の内容が何であるか?といえば、それは・・・

 

「昔の大人は凄かった!!」

 

です。

 

 この本では、大人と子供の違いを大きく「経済力」と「情報量」に分け、さらに後者の「情報量」を「体験・経験」と「知識」の二つに分類し、すでに大人と子供の知識の差異は極めて小さくなったとしたうえで次のように結論します。

 

 だから、子どもは変わってしまった、子どもがわからなくなった、そして、近頃の大人は大人らしさを失ってだらしなくなったなどと嘆いたり、 怒ったり、果ては、昔に戻ろうという言説などは、あまり意味がありません。もし×年前(お好きな時代でかまいません)の大人が大人 らしく見えていたとしても、それは単に情報量の差によって、そう振る舞って見せることがまだできた時代だった、というだけのことなのですから。

 

 まあ、この文章を紹介して私が何を言いたかったのかといえば、要は大人の「大人らしさ」とか、子供の「子供らしさ」というのは、それぞれ「子供との差異」と「大人との差異」によって規定されていたんですね。つまり、大人は子供との経済力と情報量の圧倒的な差異(あるいは少なくともそのような差異があるという認識)によって子供に対して大人らしく振舞えたということです。

 

 で、まあなんとなく昔の統治者や知識人が凄かったという神話も一部はこのような情報格差に由来するのではないか?と。

 

 実は、以前中川淳一郎さんが張本勲氏の「ワシらの頃のプロ野球はレベルが高かった」論を批判して、「全体的なレベルが低かった時代に一部の突出した選手が非常に優れた成績を残していたために、昔の選手は偉大だったかのような錯覚を起こしたのではないか?」という仮説を立てています。

 

『張本勲さんが醸し出す「ワシらの頃のプロ野球はレベルが高かった」説はホントかよ、と思ったのだった』

 

 で、これと似たような話をすれば、例えば識字率や初等中等教育の普及、IQテストの結果等々あらゆる面で一般的な知的能力の平均値が近年まで上昇し続けたことが証明されています(現在はおおよそ頭打ち?)。その中でも、一部の突出した知識人や教養人が存在したのは明らかですから、状況的には張本氏の現役時代のプロ野球と似たような状況であると考えられます。つまり、多くの凡庸な一般人と一部の突出した知性を持った知識人や教養人という構図です。このような状況の中で、昔の知識人や教養人が過大評価されているという可能性は十分に考えられる。

 

 また、統治者に関して言えば、先の話を持ち出すと明らかに民衆は抑圧や貧困に苦しんでいた(少なくとも現在を比較すれば)。にもかかわらず、古い時代の統治者が現在の政治家よりも優れた統治能力を発揮して貴族的な振る舞いを出来ていたと考えられるのは、民衆との間に情報や制度的格差が存在したからではないか?と。

 

 つまり、現在のようなほとんどの情報へのアクセスがフラットな状況では、一般民衆が政治家について情報的に対等な立場から批判することが可能なワケです。なおかつ投票という行為を通じて実際に政治家を引きずりおろす具体的な手段を有している。

 

 それに対して、古い時代には、そもそも政治家や統治者に対して一般民衆は情報へのアクセスに制約があるため、フラットな立場からの批判は不可能であり、さらに民主主義以前の時代になれば統治者に対抗するには革命や暴動といったかなり極端な手段に訴える必要があった。

 

 このような事情を考慮するなら、古い時代の統治者が過度に偉大に思えたり、安定した統治能力を発揮していたと考えてしまうのも無理はありません。ただし、おそらくそのような違いのうちほとんどは単なる状況や制度の差異の問題であり、特権的な権力や情報へのアクセスを許されたエリートが民衆を統治していただけの可能性あり。また、言うまでもなくそのような権力の安定は、被統治者たる一般民衆への抑圧のもとに成り立っているいうことは考慮すべきでしょう。

 

 まとめると、おそらく過去には現在には存在し得ない圧倒的な制度的格差が存在し、またそのような圧倒的な格差が一部のエリートへの情報や権力の集中を促し、そのような状況で生み出された過去の偉人は、それぞれの時代において極めて突出した知性や統治能力を発揮するために、現代人の視点からみると実際以上の偉大の能力の持ち主であるかのように映るのではないか?ということです。

 

 もちろん、現実に存在した過去の偉人の優れた能力の全てを、このような制度的格差と心理的バイアスのみから説明しきることは不可能であるとは思いますが、それでも過去の偉人の能力や業績を適切に評価するためにも、このような制度的格差とその格差や時代状況の差異から生じる心理的バイアスは認識しておくではないかと思います。

 

 

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