以前、経済評論家の三橋貴明さんが『日本のグランドデザイン』という著書の中で、「大衆知識社会」という言葉を使っていた。

 

この本の出版は2010年、まだインターネットという技術に対して明るい楽観論が支配的だった時代だ。世界的に見て、非常に平均的に高水準である日本の知的能力をさらに底上げすることで、あらゆる人々に知的エリート並みの知的水準を求めることで、世界に類例のない社会構造を作り上げようという構想である。

 

また、当時は、インターネットに対して楽観的な見方が支配していた時代でもあり、同時にこの本自体が自民党の公認を得て参院選に出馬していた三橋さんの公約集という側面も有していたため、あえて楽観的で希望の持てるような内容で書かれていたことも考慮に入れる必要があるだろう。

 

その後、アメリカで『社会はなぜ左と右にわかれるのか』などといった書籍が流行し、フィルターバブルやエコーチェンバー現象という言葉により、インターネットは必ずしも人々の認識や視野を広げるツールとなるとは限らず、むしろ、偏った情報ばかりを取り入れることで視野の狭い偏狭な認識の持つ主を増やすのに一役買っているという可能性が指摘され、それまでの楽観主義からの反動のように悲観的な見方が支配的になった。

 

適菜収さんはネトウヨや偏狭的な左翼主義者や陰謀論者を「濃縮されたバカ」と呼んだがまさに言い得て妙である。

 

とはいえ、まあさしたる確証はないのだけど、現在はある種の過渡期と考えることも出来るのではないかということを書いてみたい。

 

まず第一にある種の確証バイアスや、認知や知識の偏りといったものは、人間の脳にもともと備わっている弱点であり、必ずしもインターネットという新しい技術が招いた新しい問題というわけではない。実際に、ネトウヨやらパヨクやら呼ばれている層は案外高齢者が多く、若い世代ではそこまで分断されているようにも見える(これは単に若者の政治的関心が低いというだけの可能性もあるが)。

 

それから、なんだかんだでインターネットが様々な学びを容易にしているのも事実だ。最近では、オリエンタルラジオの中田敦彦氏が配信しているYouTube大学などというコンテンツもあるが、その他、ブログやTwitter、オーディオブックサービス、kindleなどの電子書籍等々、新しい技術は確実に学びを容易にし、そのコストを引き下げている。

 

 

もちろん、KAZUなんとかチャンネルやらホラの門ニュースやら、明らかに有害な差別主義的デマコンテンツなどが多いのも事実だが、一方で、インターネットが多くの人々の学びの敷居を下げており、また学びたいという意欲の持ち主に低コストで効率的な学習が可能なツールやコンテンツを数多く用意しているのも事実なのである。

 

また、ブログやTwitter、YouTubeなどの情報発信ツールは、個人的な学びをアウトプットしたり、意見を交換する議論やコミュニケーションの場ともなるため、継続的な学習を持続するためのモチベーションを保ちやすくもなる。

 

こう考えれば、やはり問題はインターネットという技術やその構造ではなく、やはりそれを扱う人間次第なのかな?と。

 

まあ、なんだかあまり考えがまとまらないまま色々なことをバーッと書いてしまったのだけども、現在の一見社会が分断され、希望がないように見える状況というのも一種の過渡期なのかな、というのが個人的な感想(というか希望的観測?)なのである。

 

今後、気が向けば、このような大衆知識社会を達成するための条件や、その障害などについても書いてみたいと思う。

 

 

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