今回も、前回記事に引き続き、「RANGE(レンジ) 知識の「幅」が最強の武器になる」の解説です。

 

「RANGE(レンジ) 知識の「幅」が最強の武器になる」レビュー~GRITとの対立軸」

「RANGE(レンジ)」レビュー②~「ゆっくり専門を決める」ことが、「成功のカギ?」

 

今回は、専門分野を遅く決めてから大成した人物の例として、画家のゴッホと、作家の夏目漱石の例について紹介したいと思います。ゴッホの例は、この本の中でも「RANGE」の事例の一つとして紹介されています。

 

  その少年の母親は、音楽と美術に造詣が深かった。だが、少年は母親とは違った。ある時、家で飼っているネコをスケッチしてみたが、あまりにも出来が悪かったので、自分で絵を破って二度と描こうとはしなかった。その代わりに、時々弟とビー玉をしたり、そり遊びをしたりしてオランダでの子ども時代を過ごした。そして、たいていの時間は何かを眺め て い た。

 

親が美術に造詣が深かったにも関わらず、特に何も教わらなかったという点は、母親がテニスコートだったにも関わらず、直接指導してもらうことのなかったフェデラーの例と似ていますね。

 

ただ、フェデラーは、様々なスポーツを楽しむ、活発で落ち着きのない子供だったそうですが、ゴッホの場合は、あまり活発ではなく、周囲をボーっと眺めながら過ごすことの多い少年だったようです。

 

少年は他人と一緒に暮らすのが好きではなく、15歳になる直前に学校を辞めてしまった。その後1年と4カ月は、ただ自然の中を長時間散歩する以外、ほとんど何もしなかった。それを永遠に続けるわけにはいかなかったが、他に何をすればいいのか、わからなかったのだ。幸いなことに、少年の叔父は画商として大成功を収めており、ナイトの称号を得たばかりだった。叔父は少年を大都市にある自分の画廊で働かせることにした。アートの制作には興味を示さなかった少年だが、売ることには気持ちをかき立てられた。自然の中で磨いてきた観察力を石版画や写真などに向け、甲虫を分類したようにアートを分類した。20歳になる頃には重要な顧客を相手にするようになり、海外にも営業に出かけた。両親には、自分はもう二度と仕事を探す必要がない、と自信満々に言ったが、実際は、そうはならなかった。
 

 

画商の仕事を辞めた後に、ゴッホは、寄宿学校の教員になったり、父親の伝手を頼って書店員になったり、学校に通ったり、牧師の真似事をして説教をしたりします。ある時には、正式な牧師となって大学への進学を目指しますが、ある牧師の説教により、経済革命によって一部の市民がとてつもない金持ちになり、一方で絶望的な貧困に陥った人たちがいるということを知り、大学を諦めて、神の言葉をもっと早く広めようと決め炭鉱の町に向かいます。

 

青年が到着した直後、爆発が連続して起こり、121人の炭鉱労働者が亡くなった。ガスが地上に流れ出し、まるで巨大なガスバーナーが地表近くに埋まっているかのように火柱が上がった。被害にあった地元の人たちは青年が人々を落ち着かせているのを見て、その献身ぶりに驚いた。だが同時に、人々は青年を奇妙だとも思い、子どもたちはその説教を聞かなかった。じきに、当座しのぎの牧師の仕事は終わり、27歳になった青年は意気消沈していた。画商として勢いよくスタートしてから10年たった今、青年には財産も、実績もなく、どこに向かうのかもわからなかった。

 

この時に、ゴッホは、弟に向けて、何をすればいいのか分からないという失望と、それでも何か事を成したいというワケのわからない情熱を胸に、次のような手紙を送ります。

 

  青年はその思いを、今や画商として一目置かれている弟への手紙に注ぎ込んだ。青年は自分を春のカゴの鳥にたとえた。何か大切なことをすべき時だと強く感じるのに、それが何なのか思い出せない。だから「頭をカゴに強くぶつけてみる。それでもカゴは変わらずそこにあるので、鳥は苦しんで頭がおかしくなってしまう」。人間も同じで、「常に自分自身のことを理解しているとは限らず、自分に何ができるのかわからないが、本能的に、何かの役に立てると感じる。(中略)僕は自分がすごく特別な存在になれるとわかっている。(中略)僕の中には何かがある。でも、いったいそれは何なのか」。

 

こうした手紙を弟に送った後に、ゴッホは、絵描きに専念することとなりますが、その後も迷走は続きます。

 

ほんの短い期間だけ、正式な訓練を受けようとしたことがある。画家だった義理のいとこによる水彩画の訓練だ。成年のウィキペディアのページの「教育」の項目には、このいとこの名前だけが挙がっている。しかし、青年は水彩画に必要な繊細なタッチに苦戦し、この師弟関係も一カ月で終わってしまった。画商の元上司は、芸術界で流行仕掛人のようになっていたが、青年の絵は売り物として展示する価値がないと断言した。元上司はこう言った。「一つ確かなことは、お前は芸術家じゃないってことだ」。そして、きっぱりと言い放った。「始めるのが遅すぎたな」

 

青年は33歳になろうとする頃、美術学校に入学し、10歳ほど若い生徒と机を並べたが、それもわずか数週間しか続かなかった。デッサンのコンテストで、審査員は無情にも青年に「10歳の子どもが入る初心者クラスに移ったらどうか」と勧めた。

 

このように、周囲から散々酷評されても、ゴッホの絵に向ける情熱は尽きることはなかったようです。

 

その職歴と同じように、青年の芸術への情熱もあちこち移り変わった。ある時は、真の芸術家はリアルな肖像画だけ描くと感じ、肖像画がうまく描けないと、翌日には真の芸術家は風景画だけを描くと考えた。またある時にはリアリズムを、ある時には純粋な表現を追求した。ある週には、芸術は信仰心を表すための媒体となり、次の週にはそのような考え方は純粋な創作の邪魔となった。ある年には、真の芸術家は黒とグレーの影だけで構成されると考え、そのあとには、鮮やかな色彩こそが芸術家にとって真に重要なものだとした。移り変わる度に完全に惚れ込み、そのあとはまた完全に、すばやく手を引いた。(中略)

 

青年は次から次へと実験を続け、言葉を度々翻して、絵に太陽の光を取り込む試みを激しく非難したかと思えば、まさにそのためにキャンバスをそとに持ち出したりした。また、深い黒にとりつかれて色のない作品を描いたかと思えば、やがてそれを永遠に葬り去って、鮮やかな色彩を用いるようになった。この方向転換は徹底していて、夜の空を描く時にも黒を使わなくなったほどだ、色彩について何かが学べるかもしれないと考えて、青年はピアノのレッスンも受けるようになった。

 

このような様々な変遷を経て、人生の終盤にゴッホは、新しい芸術を生み出すこととなります。

 

残り僅かな人生で、青年はあちこちに移り住み、芸術的な変遷も重ねた。青年はついに完璧なデッサンという目標を投げ捨て、また、以前に不可能だと考えていたが、マスターできなかったすべてのスタイルを投げ捨てた。青年は新しい芸術を生み出した。(中略)

窓から眺めた夜を描いた『星月夜』や。失敗を続けながらも新しいスタイルで描かれた青年のたくさんの絵は、新たな芸術の時代の幕を開け、美と芸術の新しい概念を生み出した。生涯最後の2年間に、実験的に数時間で急いで描かれた青年の絵は、文化的にも金額的にも、世界に存在するものの中で最も価値が高いものとなっている。

この本の中で、ゴッホが弟に送った手紙の内容が紹介されていますが、このゴッホの手紙と似たようなことを夏目漱石は、「私の個人主義」という講演の中で語っています。夏目漱石も、大学卒業後に、教師になったり、イギリスに留学してノイローゼになったりと、色々な苦労をしているのですね。

 

私はそんなあやふやな態度で世の中へ出てとうとう教師になったというより教師にされてしまったのです。幸に語学の方は怪しいにせよ、どうかこうかお茶を濁して行かれるから、その日その日はまあ無事に済んでいましたが、腹の中は常に空虚でした。空虚ならいっそ思い切りがよかったかも知れませんが、何だか不愉快な煮え切らない漠然たるものが、至る所に潜んでいるようで堪らないのです。しかも一方では自分の職業としている教師というものに少しの興味ももち得ないのです。教育者であるという素因の私に欠乏している事は始めから知っていましたが、ただ教場で英語を教える事がすでに面倒なのだから仕方がありません。私は始終中腰で隙があったら、自分の本領へ飛び移ろう飛び移ろうとのみ思っていたのですが、さてその本領というのがあるようで、無いようで、どこを向いても、思い切ってやっと飛び移れないのです。


 私はこの世に生れた以上何かしなければならん、といって何をして好いか少しも見当がつかない。私はちょうど霧の中に閉じ込められた孤独の人間のように立ち竦んでしまったのです。そうしてどこからか一筋の日光が射さして来ないかしらんという希望よりも、こちらから探照灯を用いてたった一条ひとすじで好いから先まで明らかに見たいという気がしました。ところが不幸にしてどちらの方角を眺めてもぼんやりしているのです。ぼうっとしているのです。あたかも嚢の中に詰つめられて出る事のできない人のような気持がするのです。私は私の手にただ一本の錐きりさえあればどこか一カ所突き破って見せるのだがと、焦燥り抜いたのですが、あいにくその錐は人から与えられる事もなく、また自分で発見する訳にも行かず、ただ腹の底ではこの先自分はどうなるだろうと思って、人知れず陰欝な日を送ったのであります。

 

私の個人主義 夏目漱石

 

夏目漱石は、このように、煩悶する時期を乗り越えて、これこそが自分の進むべき道だ!と確信できるような何かを見つけるように奨励しています。

 

以上はただ私の経験だけをざっとお話ししたのでありますけれども、そのお話しを致した意味は全くあなたがたのご参考になりはしまいかという老婆心からなのであります。あなたがたはこれからみんな学校を去って、世の中へお出かけになる。それにはまだ大分時間のかかる方もございましょうし、またはおっつけ実社界に活動なさる方もあるでしょうが、いずれも私の一度経過した煩悶(たとい種類は違っても)を繰返しがちなものじゃなかろうかと推察されるのです。私のようにどこか突き抜けたくっても突き抜ける訳にも行かず、何か掴みたくっても薬缶頭を掴むようにつるつるして焦燥れったくなったりする人が多分あるだろうと思うのです。もしあなたがたのうちですでに自力で切り開いた道を持っている方は例外であり、また他の後に従って、それで満足して、在来の古い道を進んで行く人も悪いとはけっして申しませんが、(自己に安心と自信がしっかり附随しているならば、)しかしもしそうでないとしたならば、どうしても、一つ自分の鶴嘴で掘り当てるところまで進んで行かなくってはいけないでしょう。いけないというのは、もし掘りあてる事ができなかったなら、その人は生涯不愉快で、始終中腰になって世の中にまごまごしていなければならないからです。私のこの点を力説するのは全くそのためで、何も私を模範になさいという意味ではけっしてないのです。私のようなつまらないものでも、自分で自分が道をつけつつ進み得たという自覚があれば、あなた方から見てその道がいかに下らないにせよ、それはあなたがたの批評と観察で、私には寸毫の損害がないのです。私自身はそれで満足するつもりであります。しかし私自身がそれがため、自信と安心をもっているからといって、同じ径路があなたがたの模範になるとはけっして思ってはいないのですから、誤解してはいけません。


 それはとにかく、私の経験したような煩悶があなたがたの場合にもしばしば起るに違いないと私は鑑定しているのですが、どうでしょうか。もしそうだとすると、何かに打ち当るまで行くという事は、学問をする人、教育を受ける人が、生涯の仕事としても、あるいは十年二十年の仕事としても、必要じゃないでしょうか。ああここにおれの進むべき道があった! ようやく掘り当てた! こういう感投詞を心の底から叫び出される時、あなたがたは始めて心を安んずる事ができるのでしょう。容易に打ち壊されない自信が、その叫び声とともにむくむく首を擡げて来るのではありませんか。すでにその域に達している方も多数のうちにはあるかも知れませんが、もし途中で霧か靄のために懊悩していられる方があるならば、どんな犠牲を払っても、ああここだという掘当てるところまで行ったらよろしかろうと思うのです。必ずしも国家のためばかりだからというのではありません。またあなた方のご家族のために申し上げる次第でもありません。あなたがた自身の幸福のために、それが絶対に必要じゃないかと思うから申上げるのです。もし私の通ったような道を通り過ぎた後なら致し方もないが、もしどこかにこだわりがあるなら、それを踏潰すまで進まなければ駄目ですよ。――もっとも進んだってどう進んで好いか解らないのだから、何かにぶつかる所まで行くよりほかに仕方がないのです。私は忠告がましい事をあなたがたに強いる気はまるでありませんが、それが将来あなたがたの幸福の一つになるかも知れないと思うと黙っていられなくなるのです。腹の中の煮え切らない、徹底しない、ああでもありこうでもあるというような海鼠のような精神を抱いてぼんやりしていては、自分が不愉快ではないか知らんと思うからいうのです。不愉快でないとおっしゃればそれまでです、またそんな不愉快は通り越ているとおっしゃれば、それも結構であります。願くは通り越してありたいと私は祈るのであります。しかしこの私は学校を出て三十以上まで通り越せなかったのです。その苦痛は無論鈍痛ではありましたが、年々歳々感ずる痛みには相違なかったのであります。だからもし私のような病気に罹った人が、もしこの中にあるならば、どうぞ勇猛にお進みにならん事を希望してやまないのです。もしそこまで行ければ、ここにおれの尻を落ちつける場所があったのだという事実をご発見になって、生涯の安心と自信を握る事ができるようになると思うから申し上げるのです。

 

今回、引用ばかりになってしまいましたが、こんな感じで・・・。

 

次回以降は、こうした偉人の事例ばかりでなく、もう少し一般の人々にとってこの「RANGE(レンジ)」という本をどう読み、どう解釈すべきかということについて書いてみたいと思います。

 

ロンドン・ビジネス・スクールの管理経営学教授リンダ・グラットン氏は、著書「ライフ・シフト 100年時代の人生戦略」の中で、長い人生の中で、複数のキャリアを経験するマルチステージというキャリア計画についての考えを提唱していますが、人々の寿命が延びると同時に、変化が加速する現代社会の中で、人生の多様性を確保する「RANGE(レンジ)」の考え方は、ますます重要性を増していくのではないかと思っています。