神の栄光であるキリスト ◇ 説教  (石田 学牧師)         2020年12月20日 | なぜぼくらはおいていかれたの 

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◇ 説教  (石田 学牧師)         2020年12月20


神の栄光であるキリスト


 

栄光。

皆さんはこの言葉で、

いったい何を思い浮かべるでしょうか。

成功、勝利、達成でしょうか。

この世でなにがしかの頂点に立ち、

人々からの称賛や栄誉を受ける、

そのような晴れがましい有様を、

わたしたちは思い浮かべることでしょう。

実際、栄光という言葉は、

戦争で勝利を収めた王や皇帝や将軍の、

凱旋行列と結び付けられてきました。

いまでも、たとえば、

オリンピック競技で優勝した選手が、

人々の称賛を受けて、

栄光に包まれて表彰台に立ちます。

栄光をもたらすのは、

勝利であり凱旋であり、

征服であり君臨であり、

支配、栄誉、富、権力。

それが大多数の人々の思い描く、

栄光の姿です。

わたしたちはきょう、

詩編96編を交読しました。

この詩人は高らかに、

神の栄光をたたえて歌います。

 

  新しい歌を主に向かって歌え。

  主に向かって歌い、

  御名をたたえよ。

  国々に主の栄光を語り伝えよ。

  大いなる主、

  大いに賛美される主。

  御前には栄光と輝きがあり

  聖所には力と光輝がある。

  諸国の民よ、こぞって主に帰せよ。

  栄光と力を主に帰せよ。

 

なんと晴れがましく高らかな賛歌、

神の栄光を称える賛美であることでしょうか。

この詩編だけを読むと、

わたしたちはおそらく、

大きな勘違いをすることになります。

神があたかも全世界に君臨し、

世界の大国、列強、強大な諸民族を、

すべて服従させて、

その上に君臨しているかのような勘違い。

イスラエルの民は、

神のその支配をこの世界で担う、

栄光の代行者であるかのような勘違いを。

いいえ、そうではありません。

事実はまったく異なります。

イスラエルの民が諸国に君臨したことは、

歴史上ほぼなかったと言えます。

神の栄光を身に帯びて世界を従えることは、

実際にはありませんでした。

この詩人が歌うのは、

過去の事実ではなく、

現在の事実でもなく、

未来の望みです。

イスラエルの民はいつの時代も

苦難と嘆きの民でした。

どんなに苛酷な体験を重ねて来たか、

その事実は詩編96編の二つ前、

詩編94編を見れば明らかです。

94編の詩人はこう歌うのです。

 

  主よ、報復の神として

  報復の神として顕現し

  全地の裁き手として立ち上がり

  誇る者を罰してください。

  主よ、逆らう者はいつまで、

  逆らう者はいつまで、

  勝ち誇るのでしょうか。

  主よ、彼らはあなたの民を砕き

  あなたの嗣業を苦しめています。

  やもめや寄留の民を殺し

  みなしごを虐殺します。

 

どれほど苛酷な体験をしてきたか、

その記憶がどれほど鮮明かを、

詩編94編はわたしたちに物語ります。

エジプトで奴隷民族として、

四百年に亘って支配され、

出エジプトで解放されてからも、

約束の地と信じたカナンで、

多くの苦難と危機の時代を過ごし、

王国を立てて繁栄したのは、

ごく短い期間に過ぎず、

それからの王国の歴史は、

常に存続の危機にさらされる、

苦難の歴史でした。

国家が征服され滅亡してからは、

いっそう苦難の時代が続きました。

詩編96編は、それからわずか、

二つ後の詩編です。

詩編を読み進む読者は、

94編の嘆きと苦しみの詩編を読んで、

すぐ後に96編の栄光の詩編を読みます。

詩編96編の詩人が歌うのは、

まったく非現実的な希望です。

神の民として自分たちが世界に君臨し、

世界の征服者、支配者になることを願い、

祈り求める歌ではありません。

むしろ、不当な暴力と支配に苦しめられ、

正義も公平も奪われた人々の、

嘆きと悲しみ、苦難の中での祈りであり、

公平さ、正しい裁き、真実の実現を、

切に祈り求め、

望み見てうたう歌です。

イスラエルの民は受難と嘆きの民でした。

「主は来られる、地を裁き、

諸国の民を裁くために」。

これは神が栄光に輝いて世界に君臨する、

そんなことの実現を称える歌ではなく、

自分たちが神の栄光の代行者として、

世界を支配することを願い求める、

そのような歌でもありません。

また同時に、

苦しめられてきた来た人々が、

今度こそ自分が苦しめる側に立ちたい、

そんな願望を歌うものでもありません。

もし自分たちが受けた、

不当で暴虐な支配を、

こんどは自分たちが支配者になって、

報復したいと願うとしたら、

こんどは自分たちの方が、

不当な支配者として人々から恨まれ、

憎しみを向けられることになるでしょう。

聖書が歌う神の栄光は、

神が人々を征服し支配して、

絶対服従を要求して、

人々を抑圧し苦しめることではありません。

神の栄光とはなにか。

それは、苦しむ者・嘆く者を救うこと、

小さな者を愛し弱い者を憐れむこと。

それが神の栄光です。

神の救いは、

苦しめられている人々の立場を逆転して、

苦しめる者の側に変えることではありません。

それは救いとはまったく異なります。

人を苦しめる究極の悪とはなにか。

神は人々を何から救うのか。

聖書はその答えを明確に語ります。

人を苦しめる究極の悪は、

人の罪なのだと。

この世界には、暴虐、不公正、

無慈悲、冷酷、貪欲、悪意が満ち、

そのことのゆえにこの世界は、

神が最初に「すべてはよい」と言われた、

そのような世界とは大きく隔たっています。

人の罪がそれら悪を生み出すからです。

人の罪がどれほど、

神の創造の世界を歪め、傷つけ、

闇の支配を世界に持ち込んでいることか。

わたしたちが世界の現実を見れば、

すぐにわかることです。

神がご自分の創造した世界を愛し、

世界が虚無に飲み込まれ、

闇に引き戻されないようにするため、

どのような方法を取られたのでしょうか。

人の罪が世界の破滅を生み出すことを、

神はどのような手段によって、

打ち破ろうとなさったのでしょうか。

悪の元凶である人間を滅ぼすことによって?

いいえ!

創造世界を破壊する人の罪を除くため、

神は人の罪をあがない、赦し、

罪の支配から解き放って救うために、

神は、神の独り子、永遠の言を、

人として生まれさせて、

世に遣わされました。

それが世界を救い、

わたしたちを救い出す、

神の究極の手段でした。

ヨハネ福音書は神のその決断を、

世に告げ知らせて言います。

 

  言が肉となって、

  わたしたちの間に宿られた。

 

神の御子が人となって世に来られた。

これこそ、神が世界を見捨てず、

世を愛し、わたしたちを愛し、

わたしたちの罪を赦して、

神の子として受け入れてくださることの、

究極の証です。

わたしたちの救いの望みは、

人となって世に来られたキリストにあります。

キリストが世に来られたこと、

十字架で命を捨てるまでに、

わたしたちを愛してくださったこと、

御子キリストの犠牲によって、

神がわたしたちの罪を赦し、

わたしたちを子としてくださったこと、

天の国籍を与えてくださっていること、

永遠の命の望みが与えられていることを、

わたしたちは信じます。

そしてそれが神の栄光であることを、

わたしたちは信じます。

神の御子が人となり、

イエス・キリストとして世に来られたこと、

それが神の栄光であり、

キリストが世の罪をあがなうため、

十字架の苦しみを受けられたこと、

それが神の栄光であり、

キリストがよみがえらされ、

今も天においてわたしたちを愛し、

聖霊によってわたしたちを

天のキリストと結び合わせてくださること、

それが神の栄光であり、

わたしたちが罪を赦されて、

神の民として感謝を抱いて生きること、

それが、神の栄光です。

わたしたちは神の栄光を表して、

この世を旅しています。

キリストと結ばれ、

天に国籍を持つ神の民として、

感謝し賛美を捧げながら、

天の御国を目指して世を旅する、

その生きる姿こそが、

わたしたちにできる、

神の栄光の表し方です。

 

 



(以上)