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ごんたのつれづれ旅日記

このブログへようこそお出で下さいました。
バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

【主な乗り物:「関越高速バス」池袋-新潟線】

 

 

昭和60年頃の白昼のことだったと思う。
新目白通りで、白地に緑のストライプが目立つ新潟交通のバスとすれ違った。
背の高い堂々たるスーパーハイデッカーで、当時の我が国には珍しい3軸の車輪だった。
日産ディーゼル「スペースウィング」、P-DA67UEと呼ばれる形式で、米国の大陸横断バス「グレイハウンド」を彷彿とさせる迫力があったが、気になったのは、それだけではない。

今のバス、方向幕に「新潟」って書いてなかったか?──

僕が、バス旅の魅力にとり憑かれ始めた頃である。
当時の夜行高速バスの走行距離は500~600km程度、昼行高速バスは100~200km程度に過ぎなかった。
東京と名古屋を結んで300kmを超える国鉄「東名ハイウェイバス」が走っていたものの、あくまで、流動の大きな東海道メガロポリスだから成り立つ例外だと思っていた。
バスで遠くに行くのが、特別だった時代である。

300km以上もの距離がある東京と新潟を、夜行ならばともかく、真っ昼間に結ぶ高速バスなど、ある訳がない──

上越新幹線も走っているのだから、と、一笑に付して忘れてしまった。
 


ところが、それからも「新潟」もしくは「東京(池袋)」と行き先を掲げたバスを、時折り見かけるようになった。

マジで、東京と新潟を結ぶバスが走っているらしい──そう思うと、矢も盾もたまらなくなった。
所用で新潟県大和町を訪れた時に、米どころの平野を貫くハイウェイを疾走する3軸のバスを遠くに見やって、用事も忘れて旅情に駆られたこともある。

願いがかなったのは、昭和61年9月の土曜日だった。
電話予約を入れて、乗車券を購入した僕は、勇んで池袋駅東口の乗り場に向かった。
大学の授業を終えてから、15時00分発の便に乗るためである。

池袋と新潟を結ぶ「関越高速バス」は、昭和60年10月に関越自動車道全線が開通したことに伴い、同年12月に運行を開始した。
運行事業者は、西武バスと新潟交通、そして越後交通の3社である。
新幹線の半額に近い片道5000円という運賃が効を奏し、その後の全国的な長距離バスブームの火付け役と言われるほどの人気路線になったという。

 

 

池袋駅東口の高速バス乗り場は、道端に置かれた至って普通の停留所である。
今でこそ、各方面への長距離路線の時刻表が大きく掲げられ、昼夜を問わず様々な行先表示を掲げたバスがひっきりなしに出入りしているが、その頃は、新潟行きだけが停車するささやかな停留所に過ぎなかった。
左手に、百貨店と一体になった池袋駅ビルがそびえ立ち、手前のロータリーをぎっしりと車が埋め尽くしている。

当時の新潟行き「関越高速バス」は、サンシャインシティ・プリンスホテルが始発だったので、発車時刻ぎりぎりまで池袋駅前に姿を現さない。
もどかしい思いで道路に目を遣りながら待つうちに、前面の「新潟」という方向幕も誇らしげに、真っ白な塗装にレオマークが描かれた西武バスが乗り場に滑りこんできた。

車内は横4列の座席配置であるが、前後が9列に抑えられているからシートピッチが広く、ゆったりと前に足を投げ出すことができる。
隣席との間に肘掛けがあり、他のバスより横幅にゆとりがある。
通路側の席には横スライド装置も付いて、更に間隔を広げることも可能だった。

飛行機のようなマルチチャンネルステレオがついていて、イヤホンで音楽が楽しめる。
当時の長距離高速バスは、マルチチャンネルステレオが標準装備だったが、僕は、お気に入りの曲を集めた持参のカセットテープを聴くことが多く、ほとんど利用することがなかった。
他の高速バスは汎用のプラグがついた普通のヘッドホンが多かったが、関越高速バスのそれは、当時の航空機も採用していたプラスチック製のイヤホンで、盗難防止だったのであろうか、二股の太いプラグだったから、何となく使いにくかったという理由もある。

ただし、落語チャンネルがある場合は別である。
落語好きの僕は、幾つかの高速バス路線で落語を楽しみ、笑いをかみ殺すことに苦労した記憶があるが、「関越高速バス」には落語チャンネルは流れていなかった。

通路最後尾のトイレの脇には給湯器が備えられ、無料のコーヒースティックやティーパックが置かれている。
新潟までの5時間を、できるだけ退屈しないように配慮された設備が豊富に備わっていた。

 


窓が大きく明るい車内は、ほぼ満席に近い盛況だった。
新幹線と平行する昼行高速バスでも、充分な需要があることを証明した「関越高速バス」の功績は、大きいと言わざるを得ない。
遮二無二、速さと効率だけを追求するのではなく、多様な価値観や選択肢が求められるようになった時代の変遷を反映していたのかもしれない。

僕は、前から8列目の通路側の座席を指定されていたけれども、発車した後に、こっそりと、空席になっている右側最後部の座席に移動した。
初めて走る新潟までの車窓を、窓際で存分に堪能したいという、子供のような欲求には勝てなかった。



池袋駅東口を発車したバスが走る明治通りは、高台を切り込んで左に孤を描く下り坂になる。
昭和8年に造られたアーチ橋である千登世橋をくぐって目白通りと交差すると、左から都電荒川線が寄り添ってくる。
桜並木が美しい神田川を渡って、新目白通りに右折するまでは、殷賑な池袋の繁華街とは対照的に、しっとり潤った風情がある。

新目白通りは、オフィスビルやコンビニエンスストア、ファミリーレストランなどが並ぶ、乾いた都市景観の道であるが、山手通り、環状7号線、環状8号線と、都心の外周を回る道路と交差しながら走るのは、カウントダウンのようで、旅の序曲として悪くない。

ぎっしりとひしめく車の波を掻き分けるように、下落合駅と練馬駅で乗客を拾いながら、練馬ICまで30分以上を費やすので、もどかしくないと言えば嘘になる。
もちろん、その所要時間は、バスのダイヤに折り込み済みのはずである。
そもそも、少しばかりの渋滞にやきもきするくらいならば、新潟まで、新幹線の2倍以上もかかるバスなど選ばなければいい。

当時、関越自動車道は、東京から伸びる高速道路として唯一、他の高速道路と連絡していなかった。
紆余曲折を経て、大泉JCTで外環自動車道が関越道に接続するのは平成6年、圏央道が鶴ヶ島JCTで接続するのは平成8年のことである。

僕は、渋滞よりも、乗車停留所に停まるたびに、この席に乗客が来ないかどうか、そればかりが気になっている。
自分勝手な願望とはわかっているものの、最後の乗車停留所である練馬駅で誰も乗って来なかった時には、心から安堵した。
いつでも元の席に戻れるよう履きっぱなしだった靴を脱ぎ、足をフットレストに投げ出して、リクライニングを倒す。
後ろには乗務員の仮眠用のベッドがあるだけで、気兼ねする相手はいない。
新潟まで、この席で過ごせるのかと思うと、無性に嬉しくなった。

 

 

関越道に駆け上がると、それまでの、遅々とした走りの鬱憤を晴らすように、バスはぐいぐいと速度を上げた。
最初は、広大な関東平野を貫く平坦な区間である。
田園や低い丘陵の合間に、集落や工場が点在するだけの、変わり映えのない車窓がしばらく続く。
 

上里SAで10分間の休憩となった。
残暑が厳しく、日差しの強さと蒸し暑さに、じっとりと汗がにじむ。

「うわあ、なによ、この暑さ!信じらんない」
「東京よりひどくない?」

と、バスから降りた2人連れの女性が、悲鳴を上げた。
車内は心地良く冷房が効いていただけに、落差が激しい。

北関東の街が、日本の最高気温の記録を更新し始めるのは、この頃からだったように記憶している。
観測史上の最高気温のランキング10位以内に、埼玉県の熊谷と越谷、群馬県の上里見と館林が、1990年代以降になって、名前を連ねるようになったのである。

 


上里SAを出てすぐ、利根川の支流である神流川を渡って埼玉県から群馬県に入ると、ごつごつと奇怪な形状の岩山が連なって、青空に食いこんでいるのが遠望される。
左手に妙義山、正面に榛名山、右手は赤城山である。
関東平野の北西の輪郭を形づくる山なみを目にすれば、関東平野もいよいよどん詰まりが近づいてきた、という気分になる。

前橋を過ぎると、利根川に沿った長い上り勾配が始まる。
いつしか、凹凸の激しい山襞が迫り、バスはぐんぐん高度を上げながら、目が眩みそうな高い橋梁で、深く刻まれた谷間を渡っていく。
振り返れば、幾重にも折り重なる裾野の向こうに、関東平野が霞んで見えた。

 


ここまで、もつれ合う糸のように並走してきた三国街道・国道17号線とは、月夜野で袂を分かつ。
三国街道は、江戸時代から続く難所、三国峠に向かっていく。

ジャン・ギャバン主演の名作を日本でリメイクした映画「道」で、仲代達矢と若山富三郎扮するトラック運転手が、三国峠でスリップして転落事故を起こす場面を思い出した。
大学生の時にレンタルビデオで観たこの作品は、当時の僕にとって、ひたすら退屈なだけであった。
でも、それから30年が経過し、主人公の年齢に近づくと、ふと、もう1度観たくなることがある。
時の流れの作用とは、不思議なものだと思う。

 


関越道は、三国峠の東方にそびえる谷川連峰に、果敢に挑んでいく。
並行する国道291号線は、明治時代に開通した最初の国道として知られ、地図上では谷川連峰を貫いているものの、大量の積雪と相次ぐ雪崩や崖崩れにより、数年で放棄されてしまったという歴史を持つ。
殆んど道の態を成していない点線国道として有名だ。

 

 

荒々しい山塊が視界を遮り、霞が風に千切られながらふわふわと漂っている。

いつの間にか空も雲に覆われて、見るからに寒々とした光景に変わった。

「関越トンネル 10km先」という標識が現れた。
これほど手前から予告されているトンネルなど、他にあるのだろうか。
これからの山越えが、この高速道路の白眉であることを主張しているかのようである。
 

「危険物積載車両はここで出よ」との標識が見える。
チェーンをはずすための、広大なスペースが用意されているパーキングエリアもある。
事故や火災などの緊急時に備えた、本線上の信号機が、否応なく緊張感を高める。
 


前方に、ぽっかりと楕円形に口を開けたトンネルが現れた。
全長1万926mの関越トンネルだ。
 

8年の工期をかけて昭和60年10月に開通した、日本最長の道路トンネルである。
当時は、片側1車線だけの対面通行だった。
上りトンネルが開通し、片側2車線に広がったのは、6年後の平成3年10月のことである。

 


乗用車ならばそれ程でもないけれど、巨大なバスの窓から眺めると、高速道路であっても道幅がギリギリに感じられることがある。
路肩が少なく圧迫感のあるトンネル内では、尚更のことだった。
簡易的な分離帯で仕切られただけの反対車線を、対向車がびゅんびゅん飛ばしてくる。
高速で走るバスの巨体が左右にぶれることがないよう、ハンドルを握り続ける運転手の緊張感を、ふっと思いやった。

トンネルの中ほどに群馬県と新潟県の県境があり、壁に太い線が引かれている。
時折、ゴーッと重々しい音が響く。
大量の空気が動く音だ。
トンネルの換気のため、水上側から3738m地点に谷川地下換気所が、そして湯沢へ残り2968m地点に万太郎地下換気所が設けられている。

 


「お茶をどうぞ」

交替運転手が、長いトンネルの無聊を慰めるかのように、プラスチック製のコップを配り、ポットからお茶を注ぎながら、にこやかに客席を回り始めた。
映画のビデオも放映されている。
10分近くも暗闇の中を走り続けて、不意に明るく視界が開けた時には、眩しさに目がくらむような感じがした。

瀟洒なホテルが並ぶ湯沢町は、周囲を山に囲まれた高原の町である。
ここから越後平野に出るまで、あちこちの山林を切り開いてスキー場が造成されている。
冬ともなればスキー客が押しかけて、朝晩の関越道を車が埋め尽くす。

 

数年後の冬に「関越高速バス」の上り便に乗車した時、そのような渋滞に巻き込まれて、池袋への到着が4時間ほど遅れたことがあった。
スキー帰りの車が集中し、加えて事故が発生したために、滞った車の列が全く動く気配を見せなかった。
関越トンネルに入ってから放映を始めた映画が、トンネルを出る前に終わってしまった時には、さすがにうんざりした。

 


関越道の渋滞は、冬の風物詩だった。

平成の初頭に、フジテレビが深夜に放送していた「上品ドライバー」という不定期番組がある。
自動車に関する文化、技術、問題などを題材にしたコメディドラマであったが、その中で、渋滞を取り上げた回が忘れがたい。
渋滞に巻き込まれてイライラした恋人に、

「渋滞なんだからしょうがねえじゃんかよ」

と口にしてフラれてしまう武田真治扮する青年が、西岡徳馬演じる「上品ドライバー」にたしなめられる。
「上品ドライバー」の知人には、渋滞の最中に車内でゲームに興じて楽しむ「お楽しみ男」や、徹底的に抜け道を調べ上げて渋滞を避ける「裏道男」、少しでも流れている車線へ変更していく「ミズスマシ男」などの変人が揃っていて、渋滞と言えど、無為無策に過ごしていてはいけないと諭されるのだ。
僕などは、マイカーで渋滞にハマれば妻としりとりを始めたりするから、「お楽しみ男」の部類である。



 

可笑しかったのは、渡辺裕之演じる「ミズスマシ男」に、武田真治が、

「そんな面倒なことをするくらいなら、路肩を走ってしまえばいいじゃないですか」

と言ったところ、渡辺裕之は怒り心頭の態で、

「何を言う!路肩を走ることなど、下の下だ!」

と怒鳴りつけ、最後は笑顔で、

「頑張れ!ファイト一発だ!」

と、彼が当時出演していた健康ドリンクのCMの台詞を吐いたことであった。

 


当時も関越道の渋滞は有名だったらしく、「上品ドライバー」は、それを「関越ジェーン」と呼んでいた。
彼は、「関越ジェーン」で親友を失った過去があるというのだが、何が起きたというのだろうか。
サザンオールスターズの桑田佳祐が製作・監督した映画「稲村ジェーン」のパロディであるが、渋滞を、20年に1度の大型台風によりもたらされる大波になぞらえた発想は、面白いと思う。

「上品ドライバー」のラストは、「関越ジェーンが来た!」という電話を受け、出演者全員が、それぞれハンドルを握って関越道に馳せ参じる場面だった。
新しい恋人を助手席に乗せた武田真治は、どのような作戦で「関越ジェーン」に挑んだのであろうか、少しばかり気になるところである。

 


「関越高速バス」の初乗りでは、幸い「関越ジェーン」に遭遇することもなく、バスは、湯沢、六日町、小出、小千谷、長岡北、栄、三条・燕、巻・潟東と、道路上やインターに設けられたバスストップに立ち寄って、少しずつ乗客を降ろしていく。

黄昏に彩られた八海山の麓を回りこむと、越後川口から、信濃川に寄り添うことになる。
「関越高速バス」の旅は、日本最大の流域面積を持つ利根川から、日本最長の信濃川に渡る旅でもあった。
息づまるような関越国境の山越えから解放されて、少しずつ周囲が開けていく気配が感じられる。

新潟平野に入る頃には、とっぷりと日が暮れた。
バスは、行く手の闇の中へ走り込んでいく。
新潟西ICで高速を降りると、打って変わって狭隘な街路をたどりながらのラスト・スパートとなった。

県庁前では、交差点の真ん中の三角地帯に、新潟交通軌道線の白山前駅の古びた駅舎が鎮座している。

街灯に照らされた緑色の電車の姿がチラリと見えた時、まだ、実際に降りた訳でもないのに、この街にはまた必ず来よう、と心に決めた。
バスが20時に新潟駅前に到着すれば、僕は、21時過ぎの上越新幹線でとんぼ返りしなければならなかったのである。

 

 

開業当初は昼夜1往復ずつだった「関越高速バス」の運行本数も、昭和62年に1日6往復、平成13年に1日8往復、そして平成18年4月から1日15往復に増便され、1時間に1本のバスが、329kmもの長距離を行き交うことになった。
池袋近辺に出かければ、「新潟」と行き先標示をつけたバスに出会う機会が増えた。
東京と新潟を結ぶ高速バスなどあり得ない、と懐疑的だった30年前を思えば、感無量である。

 

平成16年10月の中越地震で上越新幹線や関越道が不通になった時は、東北自動車道と磐越自動車道を経由する経路で、4日後から運行を再開している。
復旧して緊急交通路に指定された関越道で、特例として「関越高速バス」の運行が認められ、鉄道の代替任務を見事に果たしたことは記憶に新しい。
 
新潟と郡山を結ぶ高速バス路線も、東北新幹線と接続して関越間の輸送を担い、また越後湯沢駅と新潟駅の間で2ヶ月間に渡って不通となった上越新幹線の代替バスも、関越道を使って活躍している。
 
 

「関越高速バス」池袋-新潟線が登場すると、国鉄はその成功に刺激を受けたようで、翌年の昭和61年に、夜行快速列車「ムーンライト」の運転を開始する。
グリーン車の座席を流用した急行型車両を投入した破格の列車であるにも関わらず、普通運賃に500円ほどの指定席料金を加えれば乗車できる夜行列車の登場は、明らかに高速バスを意識していたと思う。
「関越高速バス」は、新幹線一本槍だった鉄道に、少なからざる波紋を投げかけたのである。

「ムーンライト○○」と名乗る夜行快速列車は、その後、各地に出現することになる。 

 


「関越高速バス」の設備も更新され、平成22年から26年にかけて、徐々に横3列独立シートに置き換えられた。
便利で豪華になってから、この路線に乗る機会には恵まれていない。

いつの日か、再び乗車して、関越道の変化に富んだ車窓に心をときめかした30年前の思い出に浸ってみたいと考えている。

 

 

 

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