聖書が教える勝利者への道…Kenのブログ

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『勝利者』とは、この世の成功概念をはるかに超越した、この世の価値観に一切束縛されない、真の自由なる存在であり、天国へ入ることを許された者たちである。世でもてはやされる「成功者」の概念を遥かに超越した、「神の著書」聖書に基づく『勝利者』への道を共に歩もう。

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 ”アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。それと同じことです。ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。”

 新約聖書 ガラテヤ人への手紙 3章 6-7節」

 

 今回はガラテヤ人への手紙(ガラテヤ書)の3章から。旧約聖書の創世記に登場する「信仰の祖」アブラハムを取り上げて、それに見習って「信仰」に生きることが大切であると説いている一節です。

 

 さて、ガラテヤ教会の人々は異端者(ガラテヤ書2章では「にせ兄弟」と表現)によっておかしな教えを持ち込まれて、宗教的(かつ世俗的)な教えに逆戻りさせられそうになっていた、というのは前回に説明しました。ところで、「宗教」と「信仰」の違いについては私の記事において今まで何度かふれてきました。やや極端な表現になるかもしれませんが、誤解を恐れずに書けばその定義は以下のようになります。

 

「信仰」=神との愛に基づいた信頼関係を築いたうえで神の義の道を歩んで永遠の神の御国(天国)に至ること。→神からくる教え

 

「宗教」=人間の自己中心的な欲望を満たすために都合の良い偶像や教祖を造り上げてそれを崇めて関係を結び欲望の道を歩んで永遠の滅び(地獄)に至ること。→人間からくる教え

 

 ですから使徒パウロはガラテヤ教会の人々に「宗教」ではなく「信仰」に立ち返って下さい、と指導するために、信仰の元祖であり理想像であるアブラハムを敢えて引き合いに出して諭したわけです。

 

 アブラハムは理想の信仰者として旧約聖書に記録されています。その所以は、彼が神から「ユダヤ民族の始祖となり、その子孫は星の数ほどに増えて、やがてユダヤ民族の王国が築かれて繁栄の絶頂を迎えるであろう。」という神からの約束を信頼し、神の命令に忠実に従って生き抜いた結果、まさにイスラエルの歴史がそのとおりに展開して実現した(いわゆる「預言が成就した」)、という歴史的事実によって裏付けされるものです。その有名な試練と信仰の逸話について参考までにご紹介しておきます。

 

 アブラハムはサラという女性と結婚していましたが、彼女はいわゆる不妊症であったため、子宝に恵まれませんでした。アブラハムが神に願い続けたところ、神は彼らに一人息子を与えると約束しました。しかし既にお互いに100歳くらいの相当の高齢であり、医学的な常識では子供はできないと考えられました。しかし神は約束どおりイサクという息子を与えました。

 

 ”主(神)は、約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに主はサラになさった。サラはみごもり、そして神がアブラハムに言われたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。アブラハムは、自分に生まれた子、サラが自分に産んだ子をイサクと名づけた。”

 旧約聖書 創世記 21章 1-3節

 

 ところがあるとき、神はなんと息子イサクをある山の上において生贄(いけにえ)として捧げなさい、とアブラハムに命令しました。せっかく授かった大切な一人息子を、今度はその命を犠牲として神に差し出せというのです。人間的な常識に照らせば受け入れがたい命令です。しかし、「信仰の人」アブラハムはそれに素直に従って、イサクを山中に連れ出して、生贄の準備を開始しました。

 

 ”神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。”

 旧約聖書 創世記 22章 2-3節

 

 こうしてイサクを火で焼いて生贄として捧げようと、アブラハムがイサクに刀を振り下ろそうとしたその瞬間、神の御使いが天から降りてきてアブラハムの動きを制しました。寸前でイサクの命が救われたのです。そして神は、自分の大切な一人息子を生贄として差し出すことさえ惜しまなかったアブラハムの神に対する「信頼=信仰」を認めました。

 

 ”御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」”

 旧約聖書 創世記 22章 12節

 

 ちなみにここでの「自分のひとり子さえ惜しまなかった」というところは、後の世に誕生する「神のひとり子」イエス・キリストが全人類の罪に対する犠牲の生贄として十字架によって死を遂げたこと、すなわち「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。新約聖書 ヨハネの福音書 3章 16節」のひな型(=預言)になっているというのは知る人ぞ知るところです。

 

 アブラハムとイサクの一件は非常に極端な事例と思われるかもしれませんが、しかし神への信仰とは突き詰めればそのようなものであるということを説いています。全てを神に信頼して委ねた上で、神からの最大限の祝福と恵みを期待する。アブラハムにとってはイサクから始まる子々孫々の繁栄であり、私たちにとっては滅びを招く悪しき慣習やしがらみの奴隷からの解放と神の安息の元での自由、さらには永遠の命の約束ということになります。

 

 実際にはそう簡単ではありませんが、信仰の心を与えられた者ならばアブラハムの信仰心をお手本とすべし、というのが聖書的な諭しです。もし目指す方向と目標の到達点(ビジョン)が「信仰」に立脚するものでないとすれば、たちまち人間の教えである「宗教」、あるいは律法主義(行いによって正しいと認められようとする思想、古代のユダヤ教が典型)になびいていくしかなくなり、ガラテヤ教会の人々と同じ失敗に陥ってしまうことになります。そもそも人間とは元来が宗教的に陥りやすい(何かに依存したり自分より大きな存在に寄り添わずにはいられない)生き物であるがためそうなるのです。唯一本物の神への信仰が必要な所以です。

 

 パウロを通じて神が私たちに伝えたいことは、「人間の教え(=宗教)」あるいは「行いによって己の正しさを証すること(=律法主義)」によっては、人はけっして良い器になることはないし(聖書的な意味での)成功もないし魂が救われることもない、ということです。それは紀元前の時代のイスラエルにおける旧約聖書の数々の失敗と滅びの悲劇の記録からも知ることができます。信仰の心の大切さを、新約聖書の時代におけるガラテヤ教会の失敗事例からも改めて学ぶことができるわけです。聖書をとおして信仰心を養うことができる人こそ幸いなのです。

 

 皆さまに聖書によって神への信仰の心が与えられますようお祈り申し上げます。