歴史列伝第三段は日本編、豊臣、徳川時代を生きた。沈勇の士加藤嘉明を挙げたいと思います。私自身も、好きな武将の一人です。
加藤嘉明は、秀吉の長浜時代からの小飼で、加藤清正、福島正則、石田三成らと同じ世代、最初は、秀吉の養子秀勝の小姓として、仕えていました。出身は、尾張では、なく三河の国で、父親は、加藤教明と言い家康に仕えてた見たいだが、三河一向一揆で、一向一揆がわにつき、負けて、放浪してました。嘉明も、放浪して近江にたどり着き、馬の行商を手伝っていた所、秀吉家臣、加藤景泰に見い出され、秀吉に推挙されました。有名なのは、播磨攻めの初陣、若き嘉明は、秀勝の陣を離れ勝手に秀吉の陣に入り初陣を果たしたそうです。またその時、秀勝も初陣だったらしく、主君秀勝を差し置いて、初陣を果たしたこと、秀吉の正室、おねの方(後の北政所)に厳しく叱責され、追放されそうになりそうな所、そう嘉明の豪気を秀吉は、買い秀吉の直臣として、300石で、仕えるそうです。その後、秀吉のそばで各地を転戦、15才で、三木城の合戦首を上げたりしたそうです。そうこうしてるうちに、1582年信長が、本能寺で、明智光秀に殺され、秀吉に転機、中国から、大返し、山崎、光秀を打ち破り、織田政権、発言力が高まり、嘉明にも、有名になる、秀吉の宿敵、柴田勝家との戦い、賤ヶ岳の合戦が起こります。ここで嘉明は、活躍をし3000石までに出世し世に言う賤ヶ岳七本槍の一人として名を残します。ですが、これは、嘉明の名将としての、序章に過ぎないのです。その後、嘉明は、小牧の合戦、雑賀攻め、に従軍し四国攻め、では、小早川隆景の与力になり、転戦しその活躍によって淡路の国で1万石の大名に出世します。その後、嘉明は、淡路水軍を監督し、九州征伐、小田原攻めに従軍し活躍し徐々に名将として、名を上げて行きます。
加藤嘉明最大活躍戦は、朝鮮征伐、文録の役でしょう。嘉明は、淡路水軍を率いて水軍大将として朝鮮に渡り数多くの海戦を繰り返し朝鮮の名将李舜臣指揮の朝鮮水軍と互角に戦います。閉山島の海戦では、脇坂安治が苦戦するなか、敵兵を圧倒し見事勝利を収め、秀吉からも感状をもらい、朝鮮でも、加藤嘉明の名が知れ渡ります。その後、伊予の国で、6万石の加増になります。次の慶長の役では、漆川梁海戦では、元均相手に大勝利を収め、蔚山城の戦いでは、籠城で苦しんでいた加藤清正を救援勝利を収めました。数々戦を制す嘉明の名将としての凄さがわかります。そのころ明朝の大軍が押し押せてきて、順天城を撤退するかしないかで、もめていて、小西行長らが撤退を出張するなか、嘉明が攻勢すべきと出張しその言葉に秀吉は、賞賛し10万石に加増を約束されます。。またこの頃かから、主戦派、と撤退派に不仲が関ヶ原につながります。ですがその次の年秀吉崩御、10万石加増、はなくなり朝鮮から撤退します。秀吉崩御後、嘉明や、加藤清正、福島正則武断派、石田三成、小西行長文治派に亀裂が走り、そこに、徳川家康が入って来ます。嘉明達武断派は、家康に従っていたので、会津征伐に参戦、石田三成と関ヶ原の戦いで勝利し10万石の加増されました。また朝鮮戦争からの不仲で、領地が横の藤堂高虎と20万石で並び達ます。関ヶ原の終わり後は、徳川に属し、家康からの許可を得て、居城の伊予正木城を改築しあの松山城を完成してみせます。名将ながら築城技術も高いそうです。その後数々の築城普請に、参加し、大坂の陣は、秀吉の元普代と言うことで、江戸城留守を任されたそうです。その後徳川の時代が続くなか、豊臣恩顧の大名が改易されて行き嘉明にも危ない危機せまる中も徳川幕府に隙を見せず、持ち前の冷静さを見せついには、会津43万石の大大名に出世します。他の大名が潰れていくなか凄いですね。会津で泣くなります。69才だったそうです。嘉明は、猛将ながら常に家臣思いで、真の勇士はとは責任感が強く律儀人間である。が持論で、力が弱くても、団結と連携さいすれば、どんな強敵にも立ち向かえると言いってそうです。嘉明に派手がないが、この沈勇な志が嘉明を出世に導いたと思います。以上、沈勇の士加藤嘉明を紹介します。僕の好き武将な為、力が入りました。