私は、じゃこ天がとても大好きで特に宇和島のじゃこ天格別です。その宇和島のじゃこ天には、意外にも歴史があり、宇和島藩の初代藩主伊達秀宗公がもたらし物でした。そんな伊達秀宗公を紹介したいと思います。伊達秀宗は、1591年に奥州の雄伊達政宗の長男として誕生しました。秀宗は、側室との子供でしたが、政宗には、当時正室とのあいだに子供がおらず。秀宗を世継として育てだれます。とはいえ、当時の政宗は、秀吉の政権下に属しており。世継の秀宗も秀吉に人質として秀吉の元におりました。幼きころの秀宗は優秀で家臣からも人気がありました。政宗は秀吉の時代に秀次事件などさまざまな時に改易の危機にたたされるたびに自分は、出家して兵五郎(当時の秀宗)に家督譲ると言うきしょうもん提出してました。そんな秀宗も秀吉の元で元服して秀頼の小姓になります。この秀宗は、相当秀吉に気にいられ、秀吉の猶子になります。秀吉の猶子に人は、他に宇喜多秀家、八条宮、秀宗と、言った人達で、養子は、多けれど、猶子は、少なくて、その中に入ることは、気にいられた証拠だと思います。また秀頼の小姓時代は、生母淀殿にも気にいられ、秀宗の家督相続は、安泰と思われました。しかし、1599年に秀吉が死去、翌年関ヶ原で西軍の敗退で、豊臣政権に衰退の陰りが見え徳川家康が対等し徳川幕府ができて政治権力がひっくり帰ってしました。これは秀宗にとってもかなり厳しい状況に立たされることになります。それでも秀宗は徳川四天王のひとり井伊直政の娘を正室にしましたが結局、政宗は、正室の子供でまだ若い次男忠宗を秀忠に拝謁させ、正式な世継になってしまいます。きっと秀宗は、秀吉の猶子なので、何かと都合が悪いと言う政宗の考えでしょう。ここで紹介しておきますが戦国時代には、正室の長男が嫡男となって家督を次ぐのが一般的ですが伊達家は、例外で、あまり決まりはなかったみたいです。その例が伊達政宗の父親の輝宗です。彼は、次男で、同じ母親で兄に親隆と言う人がいましたが彼は、母親の実家岩城家に養子に行かされ、岩城親隆となります。普通は、逆ですね。こういった背景から決まりは、なかったのでしょう。また家督を継げなかった秀宗に更においうちがかかります。急に政宗に、何のゆかりもない四国の伊予宇和島に飛ばされます。公式では、加増ですが、実際は、邪魔物を四国に飛ばさしたにしか見えない物でした。秀宗は相当政宗を恨んだようで、それが後に和霊騒動と発展し宇和島藩と仙台藩の確執をうみます。とはいえ実際には、秀宗は四国には、なかなか苦労し故郷仙台が恋しかったようで、故郷を忍んで職人に作らせたのが、じゃこ天ですね。秀宗公実に美味しく物を作ってくれました。感謝です。以上悲劇の貴公子、伊達秀宗の紹介でした。