久保田城にやって来ました。城跡しか残っておらず綺麗な公園になっておりました。公園には佐竹義尭の像がありましたが意外でした。私は、一番最初に入った佐竹義宣の像が立ってると思いましたがさいごの藩主義尭でした。佐竹義尭は、相馬氏から養子に入った人で藩主着任後男鹿半島にロシア船が帯びあかしていて、藩内では困っていたなか、義尭は、ロシア船に薪を求めたことで有名です。久保田藩内では、攘夷論が強い中、開国志向で藩内に西洋の風を入れたり、財政悪化の為に質素倹約に励みました。江戸時代の中期あたりから、久保田藩の財政は悪化していて、鉱山の減少や藩の飢饉に立ち向かってました。