江戸時代に最も栄えた。日本海の海運の北前船の終点蝦夷松前を支配してた松前氏の居城松前城。元々松前氏は、蠣崎氏と言う名前で若狭武田氏の流れを組む家で若狭武田氏の当主武田信賢の子武田信広が若狭から移住したと言うわれています。蠣崎氏は、室町後期は、出羽の国の名門安東氏の支配化にありました。ですが戦国期に安東氏一門の内部分裂により、蠣崎氏は安東氏からの蝦夷の独立に成功します。また蝦夷支配のころからアイヌとの戦争や交流が盛んでした。その後蠣崎6代当主蠣崎慶広は、秀吉の政権期に上落し蝦夷の支配の安堵をしてもらい、ここに蠣崎氏の蝦夷支配が始まります。江戸幕府の時代に入っても蠣崎氏は蝦夷の国を安堵されます。蠣崎慶広は江戸幕府初代将軍の徳川家康に臣従する証に蝦夷の地図を献上しアイヌの交渉窓口を任されます。またこの頃に自国の領地がアイヌ語でマトマエといいそれが松前になり蠣崎から松前の姓に改名して松前慶広になり以後子孫は、松前氏と名乗ることになります。松前藩は、江戸初期はアイヌとの交流が自由に行われていたが、次第に幕府の命により厳しく取り締まり出すようになった。江戸後期にロシア人がアイヌを通じて幕府に通行を求めて来ており危機感を覚えた幕府は松前氏から蝦夷の土地を借り上げて、その分、武蔵の国に5千石といくつかの特例を認めていた為に松前藩の財政は非常によく、またりょうみんも、北前船の影響で裕福であった。この当時に蠣崎の一門の家老で画家として有名な蠣崎波響が出ている。次第にロシアが日本海起きに現れるようになり、対ロシア艦隊と北方警備の為に幕府は、松前藩に城建設を12代藩主松前崇広に命じた。崇広は外様ながら江戸幕府の老中になった人物で、洋学に長けた人物であった。松前城は建設は、当時使っていた、福山館を改築した居城であった。設計した人物は、市川一学と言う人物で、兵学者で洋学にも精通しており、縄張りは洋式技術を取り入れた。最新の城になった。この松前城が江戸時代最後に立てられたになる。幕末に入り、開国により箱館が中心となり、松前藩の北方警備の命が解かれることになる。松前藩は、一万石格の大名であったが非常に裕福で、家老の収入源だけで5万石あったと言うわれてます。それだけ貿易などが盛んだったと言うことでしょう。