南部氏居城の盛岡城は、元々は不来方城といっていました。南部氏は、戦国期は、三日月の丸くなるまで、南部領と言った猛将南部晴政が築城した、三戸城に拠点をおき、領地拡大にいそしみました。しかし、晴政には、嫡子がなかなか生まれずにいて晴政のおじ、石川隆信が嫡子の信直を養子に迎えます。ですが、晴政に子供ができると信直が疎まれていきます。南部晴政は、武将としては、猛将ですが、領主としては乱暴なところもあり、家臣の中にも不満を抱く物がおりました。晴政には、晴継と言う息子がいましたが、病弱であったと言うわれています。晴政は、息子晴継を継がさせたい為に、信直派を粛清するようになり、信直は一時不利な立場になりましたが、1582年に、晴政が病死そのすぐ直後に晴継も病死しました。そして、養子だった信直が後継者に推され当主になりますが、家臣の中には、信直を当主と見なかったり、晴継の毒殺ではないかと疑う物いたそうです。信直は、そのような中、家臣をまとめていかなければならず。中央の覇者で、天下人の秀吉に通じて、南部氏の当主の立場と、所領安堵を訴えて行きました。秀吉の有名な小田原の陣に馳せ参じて所領安堵を許してもらいます。ですがそれでも、信直に従わない物がおりました。九戸城の城主の九戸政実です。九戸氏は、南部一族で、政実は晴政の代から武将で、信直のことをよく思っておらず、独立制を維持しようと、しました。秀吉の惣武事令も破り、秀吉は、南部氏の地に兵隊を派遣し信直もその戦に参戦して戦い功績をあげます。その後、信直は、秀吉の始めた、朝鮮攻めに参戦し秀吉の死後は、家康に接近し徳川につきます。関ヶ原の一年前に拠点を盛岡に写し盛岡城の築城をしますが、完成を待たずに、死亡しました。説には、秀吉の死後、野心をもった伊達政宗が南部に攻めて来る時に備える為に盛岡城に移ったそうです。