ここでは、横手城に縁の人物で、本多上野介正純を挙げたいと思います。本多正純は、家康に友とまで言うわれれ、創世期の家康を知謀で支えた、本多正信の長男として産まれます。正純は、幼少期から父に似て、優秀で知謀に優れたことから家康に気に入られていました。1603年に、家康が幕府を開き、家康は将軍職を息子の秀忠に譲り、駿府に移ります。家康は、秀忠の政治の補佐役に筆頭老中に父正信を置き、駿府には、息子の正純が随行し家康を支えることになります。正純は、駿府にいる家康の懐刀として、活動的に父正信と連絡しあいながら徳川政権に貢献しますが、本多親子が政治を専制してると、二代将軍秀忠は、良く思わず、加えて本多親子とは天敵の大久保忠隣が秀忠の守役であったこともあり、正純と秀忠の亀裂がしょうじてきます。1613年に、大久保長安事件で、大久保長安に親しかった大名が取り潰されていく中、本多親子は、天敵であった大久保忠隣が大久保長安と親しかったことを挙げて、家康に告げ口し、忠隣を失脚に成功し、以後は、本多親子が政権を握ることになります。秀忠は、自分の守役であった忠隣を失脚させ、自分のことをたた告げ口する本多親子に怒りがあったと思われますが、家康の信頼の厚い為に手が出せませでした。1616年に大坂の陣の終戦一年後に、家康が泣くなり同じ年に、父正信が泣くなりました。秀忠が二代将軍として政権を担うようになると、正純は、老中筆頭(後に宿老)政権に参加していきますが、その頃から、正純の先代からの権勢に不満を持つ物が表れてさらに、家康の遺言で宇都宮15万石を加増されると、反本多派から更なる怨みを買うようになります。正純は自身の才能に鼻をかけることがあり、生前の父正信からも注意を受けることが多々ありました。又、正信は、政権に担うと権勢を持ち怨まれることが多くあるため、3万石以上の加増を受けては、ならないと正純言っていました。そして、1622年に、有名な秀忠暗殺を企てた疑いで、宇都宮15万石を改易され横手幽閉されます。有名な宇都宮釣り天井事件です。これは、反本多派で秀忠の政権で、力をつけた土井利勝の陰謀だっと言うわれてます。又秀忠自身も、正純のことを良く思っていない為に失脚に力を貸したのかも知れませんね。正純は、佐竹氏の預りとして、横手に流されますが、最初は、佐竹氏厚い保護を受けましたが、これが、幕府の耳に入り失跡すると、厳しい監視を受けて、屋敷から出れないようになります。こうして、14年間、幽閉生活を続け、赦免なきまま、横手で73才で泣くなります。それに先駆け、正純と一生に幽閉されてた、息子の正勝は、35才で、正純より先に泣くなります。徳川政権初期の政治機構を造り上げた一族が改易で真っ先になくなってしまうとは、悲しい物です。又秀忠、家光期に、誰か正純の赦免を言うものは、いなかったのかと、筆者は思います。