古代奈良時代の国府の多賀城は、長年東北の国府として、建てられた城です。元々は、秋田城(現秋田県)に国府を置いており、そこから、胆沢城(岩手県)に移り、そこから多賀城の地に拠点を移しました。秋田城と、胆沢城は最初は、秋田冊、胆沢冊と言うわれていましたが、多賀城から、本格的な城と呼ばれるようになります。最初に多賀城に入ったのは、大野東人と言う人物で、東人は、聖武天皇時代の武人で、有名な、藤原四兄弟の三男宇合の息子の藤原広嗣が、九州で反乱お越した時に、聖武天皇の命令で、広嗣討伐の大将として、九州に渡り功績を挙げた将軍です。東人は、東北に陸奥按擦使兼鎮守府将軍として、多賀の地に拠点を定め多賀城を築きます。まだその当時は、多賀城も多賀冊と言うれていて規模が小さい物でした。東人の次に入るのが、藤原恵美朝狩と言う人物で、朝狩は、あの歴史の教科書に出てくる恵美押勝の乱で有名な、藤原仲麻呂(恵美押勝)の息子です。朝狩は、着任早々に多賀城を改築し規模増大し東北重要拠点として、多賀城を造り上げます。その後平安京の時代には、西の大宰府、東の多賀城として、東北の一大拠点として認識されるようになりました。その後は、鎌倉時代後期まで、多賀城は栄えますが、建武の新政時に、多賀城に陸奥将軍府が置かれましたが、南北朝の動乱の時に多賀城陥落して、将軍府の中心人物だった。伊達行朝によって霊山に移されると共に多賀城は終焉を迎えます。多賀城には、古代時代からの政庁跡などが色濃く残されていました。