旅が最後になりました。最後の城は、伊達政宗の家老で有名な片倉十郎の居城白石城です。白石城は、鎌倉時代にできた城で最初は、地元の豪族の刈田氏の居城でした。刈田氏は伊達氏との交流がさかんで、刈田氏の6代当主の秀長から白石氏と名を変えました。又秀長には、跡次がおらず、伊達氏の四代当主の政依から、養子を迎えて、刈田白石氏を存続させます。戦国期はいって、伊達14代当主の伊達種宗の頃に、伊達氏の支配化に入ります。刈田白石氏ので有名な人は、伊達輝宗、政宗の側近として、活約した白石宗実が有名です。その後、白石城は、支配者コロコロと変わり、江戸時代に入ってから、仙台67万石の伊達氏の支配化に収まりました。白石城仙台藩の家老で、政宗の幼き頃から片腕として支えた。片倉小十郎景綱が一万4千石で入城します。片倉小十郎は、政宗の軍師として、数々の戦で功績挙げて行きました。また幼き頃は、政宗の小姓として仕えていた頃は政宗が疱瘡で右目が失明してしまいました。政宗はそれ以来、右目にコンプレックスに感じていて、それを見た父輝宗が政宗の右目を切り取れる物はおるか、小姓たちに言います。皆が何もできない中、小十郎が前にでて小刀で政宗の右目切り取った逸話が有ります。政宗は、それ以来小十郎を右目のように大切にします。又、小十郎も、政宗に絶対の忠義を尽くします。政宗が小田原の陣で秀吉に降伏した時に、遅れて参陣したために秀吉の不快を飼います。それを小十郎の案で何とか回避しますが、それを見た秀吉が、小十郎を自分の直臣に迎えたいと言い小十郎に10万石と言う破格の待遇で、小十郎を誘いますが小十郎は、政宗に対する恩があると言い拒否します。それを聞いた政宗は、たいそう喜び終世、小十郎の忠義を大切にしました。江戸幕府が出来て以来一国一城令と言う法が出来て仙台藩も、仙台城以外は、廃城にしなければ行けませんが、白石城だけは、廃城にしたくないと、幕府に強引に訴えました。そして、その白石城には、小十郎が入ります。きっっと今までの忠義に政宗が報いたかも知れませんね。その後白石城は、片倉氏がずっと守り続けていきます。