三大築城の名手の一人であり、筆者の大好きな武将である藤堂高虎の居城今治城に見参。今治港の近くに立つ城で、瀬戸内の海のすぐそばにある御城です。元々今治の地は、日本最大の海賊?村上水軍の根拠地で、能島、因島、向島の繋がる土地でした。伊予戦国大名、河野氏も水軍の出身で、伊予は水軍のメッカといった地域です。平安期にさかのぼると、藤原純友が有名です。今治城の由来は、藤堂高虎が、近江浅井氏に足軽として仕えて、その後浅井氏滅亡後、何度も主を変えて、豊臣秀吉の弟秀長に仕えて、才覚を現し、秀長没後、一度出家するが、その兄秀吉に才覚を惜しまれ、再び仕えて、また、秀吉死後、関ヶ原の戦いでは、家康に、いち早くつき、余多の武将の調略を駆使して、東軍の勝利をもたらして、家康から今治12万石を加増されて、今治城を築きます。今治城自体の普請は、こちらも、筆者の好きな猛将、渡辺了が普請を努めました。了も、元々は、高虎と同郷の近江の出身で、猛将では、あるが主を何度も代えていました。関ヶ原直前は、近江出身の増田長盛に仕えていましたが、西軍に付いた為に改易になり、浪人になった所を藤堂高虎に才覚を惜しまれ、破格のほうろくで召し抱えられますが、高虎とは、性格が会わず、大阪の陣の後、出奔します。その後藤堂高虎から、奉公構を出されて、どこにも仕えられなくなります。私は、高虎と了が似すぎた、為に、高虎が扱いずらかったのではと推測します。両者、戦国の男で変節の強い男です。