伊予松山城は、1602年に加藤嘉明が城山の地に築きます。加藤嘉明は、豊臣秀吉の古参の家来で、賤ヶ岳七本槍の一人の武将です。加藤と言う姓と言うことから、加藤清正が有名で、嘉明は、地味に見えますが、加藤嘉明は、知勇兼備の将で、嘉明の最大の功績は、朝鮮の役です。嘉明は、松山の前の領地は、淡路の国の志知城の主で、淡路水軍を統率する命令を秀吉から受けてました。嘉明は、淡路水軍をまとめあげ、朝鮮の李舜臣率いる水軍と対戦して、倒しました。嘉明は、日常から冷静沈着で、沈勇の士として、有名です。その功績により、伊予正木10万石を与えられます。その正木の地から、松山の地に移して、松山城築城をします。秀吉死後関ヶ原の戦いでは、家康につき、東軍勝利後、領地安堵されます。その後、松山城の完成をみずに、嘉明は、会津40万石に移封され、嘉明死後、加藤氏は、改役されます。後談ですが、移封の件は、家康の外様大名廃す政策に、嘉明がはまったと言うわれています。会津移封の推薦者が、伊予の領主時代から、仲の悪かった藤堂高虎なのが、腑に落ちません。嘉明ほどの実力者を幕府が、恐れたかも知れません。