星川京児さんが逝去されました。本当に残念です | 如月隼人のブログ

如月隼人のブログ

ブログの説明を入力します。

民族音楽を中心に音楽プロデューサーとして活躍されていた星川京児さんが亡くなりました。ずいぶんとお世話になり、人柄も存じ上げていただけに本当に残念です。

 

ここ数年は肝臓を悪くされて思うように活動できなかったようですが、お元気なころにはそれこそ世界中、僻地まで足を運んで、CD制作のための現地録音をされていました。

 

いわゆる「民族音楽」ですが、日本では戦前から紹介されていました。周辺地域ではありますが、台湾、韓国、中国、満州、それから東南アジアの音楽です。対外侵出政策にともなうもので、現地統括に利用できる資料集めの側面が極めて強く、一般の日本人が音楽として鑑賞したり評価する対象になっていたとは言い難い。

 

戦後になり、研究者として世界のさまざまな音楽を紹介して、まず注目されたのが小泉文夫氏です。星川さんは別の立場、音楽ビジネスの現場に身を置く者として、民族音楽の普及に貢献されました。例えば、キングレコードの「ワールド・ミュージック・ライブラリー」は、世界的にも極めて高く評価されている民族音楽のシリーズなのですが、星川さんと、キングレコードの井上剛さん(2011年没)のコンビがなければ、ここまで充実したとは、絶対に考えられません。

 

音楽ビジネスという点では、失礼ながら巨額のお金が動く分野とは言えません。しかしこの「ワールド・ミュージック・ライブラリー」は、世界のレコード会社業界の日本に対する評価を“つなぎとめる”役割も担っていました。

 

キングレコードの元常務から聞いた話ですが、J-POPなどが評価されるまで、日本のレコード会社は、欧米のレコード会社からは、かなり低く見られていたそうです。日本はポップスでもクラシックでも、外国で評価された音源を買い取って国内で売る。市場としては規模があるが、日本から外国に発信する音楽文化はないという認識だったそうです。

 

ところが、例えば世界のレコード会社が集うイベントで、キングレコードのブースには、欧米のレコード会社の社長や重役がやってきて挨拶する。その大きな理由が「ワールド・ミュージック・ライブラリー」だったといいます。欧米の会社が持っていない音源を世界に向けて発信している。そのことに敬意を表するためだったそうです。

 

ちなみに当時、キングレコードの民族音楽シリーズは、ラジオ・フランス傘下のレコード会社のオコラのシリーズと並んで、世界でも双璧とみなされていました。

 

星川さんは、日本のレコード会社、大きく言えば音楽産業に対する欧米の評価を獲得する仕事をしていたことになります。別に「世界と競う」というつもりでそうなったのではなく、「これは広めるべきだ」と信じて仕事をした結果、そうなったということです。

 

現地録音で何度か私がご一緒したのは、中国での現地旅行です。楽しい旅でした。星川さんは何よりも「その土地に生きる人の音楽」を愛する人でした。。

 

本日はさきほど、たまたま掲載したのですが、中国を歩くとそれなりに、物乞いに遭遇します。星川さんの反応は特異でしたね。ただ金をせびるだけの物乞いには見向きもしない。ところが、何か芸をしている(歌とか楽器を奏でるとか)人には、お金をキッチリ置いていく。

 

現地感覚で言えばちょっと多すぎる。私がそう言うと「いいの。芸を披露している以上、乞食でなくてミュージシャン。生活に困っているミュージシャン。ボクは、ミュージシャンにはできるな

ら、いい目を見てほしいと思っている」という説明でした。

 

おいしいものを愛し、酒を愛し、当意即妙のおしゃべりを愛する人でした。実際にはとてもデリケートな心の持ち主でしたが、自分のデリケートさを悟られるのが照れくさくて仕方なく、デリケートさを隠そうとするほどのデリケートな人でした。

 

私にとってはあこがれる先輩でしたね。そして、とても愉快な先輩でした。中国で、そして日本国内でも、楽しい思い出が山のようにあります。ほんの一端ですが、ずいぶん前に書いたブログでも、ご登場いただきました。

 

http://ameblo.jp/kisaragisearchina/entry-11302609957.html

 

ちなみに、このブログでは書きませんでしたが、スタジオの「金魚鉢」に入った時ミュージシャンの心の動きについても、いろいろと教えていただきました。デリケートな人だからこそ察知できた、ミュージシャンの心境でした。

 

とにかく、雑談をしていると2.5分に1度は腹の皮がよじれるほど笑ってしまう羽目になりました。笑うこと、笑わせること、ジョークが大好きな人でした。

 

私はずいぶん前から、音楽関係の仕事から遠のいてしまったので、お会いする機会がなくなっていました。金曜日夜に知人の方から、「急に調子が悪くなった。意識も混濁している。君に会いたいみたいだ。早めに行ってあげてくれないか。少しは意識を取り戻すかもしれない」といった電話をいただきました。

 

ということで、土曜日に入院先にお見舞いしました。その時は割と状態がよかったのでしょうか。私が来たと分かっていただけた。

 

相当にやつれているだろうなとは思っていました。病室に入れていただくと、やはりとてもやつれていた。

 

私も気をつけてはいたのですが、驚きと困惑が多少は表情に出てしまったようです。私の顔を見て、「写真は撮るなよっ」と言いました。その後は、やはり体力がなく、まとまった言葉を交わすことができませんでした。もっと居たかったのですが、体力を消耗させてもいけないと思い、早々に失礼しました。

 

私にかけてくださった、最後の言葉がジョークでした。星川さんらしいなあ。

 

まだ60代前半で、早すぎるとしか言いようがないのですが、実にすばらしい仕事をされました。それから、もうひとつ付け加えておきたいのですが、星川さんは公演活動にも深くかかわっていたのですが、録音による制作物については、その限界もよくわきまえた上で、仕事をしていました。できる限り本来の音楽の姿を再現しているが、どうしても違う部分は出てくると教えていただきました

 

持ち前のデリケートさと音楽的良心から、自分の仕事について常に反省しつつも、このような音楽を世に広めることには大きな意義があるとの信念の持ち主でした。

 

音楽に少しではありますがかかわったものとして、星川さんが亡くなったことは、本当に残念です。

 

ご冥福をお祈り申し上げます。