私は、学校とか、大人とか、みんな嫌いだった。人を成績や見た目ばかりで判断して、私の話をちゃんときいてくれようとした大人は、母以外だれも、いませんでした。大人なんてみんな一緒だ、つまんなそうに働いて、こどもに命令ばかりして。わたしたちのこと、なにもわかってない。高校2年の夏まで、わたしはずっとそうやって周りのおとなをばかにして生きてきました。
でも、その夏、弟の代わりに行った塾の面談で、おもしろい大人に出会いました。「さやかちゃん、そのまつげはどうなってるの?」「これ?さっき授業中暇だったから一時間くらいマスカラ塗り続けて作ってんだよ」「へえ、それってかわいいの?俺ひじきにしか見えないんだけど」「はあ?ひじきじゃねえし!」その坪田先生っていう塾の先生は、私の話をちゃんときいてくれた、母以外の初めての大人でした。うれしかった。世の中には、こんなにおもしれえ大人がいるんだ!こんな大人になりたい、とそのとき、はじめて、本気で思いました。そして、さやかちゃんが慶應に行ったら本や映画になるくらいドラマチックだ!と坪田先生が目をキラキラにして嬉しそうにいうもんだから、私もまあ、櫻井翔くんみたいなイケメンがゴロゴロいるんならいってやってもいいよ、とにやにやしながら「慶應」を目指すことにその日、坪田先生と決めました。家に帰って母に「わたし慶應いくことにしたの!」というと、「すごいねさやちゃん、ワクワクすることみつかったんだね!おめでとう!!」と抱き合って喜んでくれました。
HiMikeをヒーミケと読んじゃうくらい、もう何年も勉強してなかったわたしは、小学校レベルのテキストから始めて、毎日15時間くらい勉強し続けた。すこしずつ実力がついてきたある日、坪田先生がこんなことを突然言い出した。「僕はね、君は本当に慶應に受かると思ってるよ。だけどさ、君が本当に慶應に受かったら、周りの人はなんていうと思う?」「みんなきっと喜んでくれるよ」「残念ながらね、きっとそうはならないよ。周りの人は君が受かったら、きっとこうやっていうだろう。さやかちゃん、もともと頭よかったんだね、って。じゃあさ、同じだけの努力をして同じだけの実力をつけて、君は慶應に受かるはずだったのに熱を出して慶應に落ちたとしよう。そしたら周りの人はなんていうと思う?ほら、どうせ無理っていったでしょう?ってきっと言うよ。つまり、君が思っている以上に人は、結果からしか判断してくれないんだということ。どれだけ下から、どれだけ頑張って君が這い上がってそこまで行ったのかは、みんな意外とみてくれないものなんだよ。でもね、何が一番重要か、何かを死ぬ気で頑張った経験こそが君の一生の宝になるんだよ。」わたしはこのとき、坪田先生はろくな友達がいないんだなあ、かわいそうな人だと思いました。でもいま、このとき先生が言ってくれた意味を日々、感じています。
わたしにあったのは、地頭じゃない。自己肯定感だ。そしてこの自己肯定感は、わたしの母が地道に育ててくれた、宝物だと思っています。わたしだったらできるっしょ!やってみなきゃわかんないっしょ!!と飛び込む勇気。やるかやらないか、さあどっち?といわれたときに、無理そうなことでもとびこめるかどうかが、もともとの偏差値よりも大きな分かれ道になることを、こどもたちの人生は、もともとの資質能力じゃなくて、環境で変わっていくんだということを、私は自分の人生に学んだんです。
これを、もっと多くの子どもたちに伝えたい。ビリギャルは受験の話じゃない。奇跡の話なんかでもない。家族や多くの人に支えられたお話なんです。さまざまな人間関係こそが、ドラマを生み出すんです。わたしだけの話じゃなくて、多くの方に起こりうるひとつのドラマに過ぎないのです。
あのとき、私の人生を「おもしろそうじゃね?」の一言で、こんなにも変えてくれた、坪田先生みたいに、次は私が、多くの子どもたちにとってそういう大人のひとりでありたい。こどもは、周りの大人をよく見てる。わたしはそれを、知ってるから。
ワクワクいきいき生きている、そういう大人が増えたらきっと「勉強しなさい」とこどもたちに100万回言うよりも、よっぽど英才教育になるはずだから。「人は、1人の例外もなく、いつかその人なりのヒーローになれる可能性を持っている」わたしはこれからも、このことを伝え続けていきたいです。