わたしラグビーとか全くよくわかんないんだけど、本当に勇気と元気をもらえますね、すごいなぁ。



台風とかいっぱいきて、ああ、もうほんとなんなんだよ、、って泣きたい気持ちの人、ほんともう絶望してるひと、たくさんだね。



自然の力の前では人間なんて無力だなぁ、ってわたしもニュースみながらおもいます。





でもこのまえのラグビーの試合のさいごに、あの笑わない選手の人が、 


「台風の被害に遭われた方々を、ラグビーで元気にしたいと思った」って言ったとき



ああ、だからあんなに日本は強かったんだ!って勝手に、おもったのです。





まえこの記事←にも書いたんだけど、サッカーでもラグビーでも、スポーツが強い国ってなにかそこにそれをやんなきゃいけない強烈な「意味」があるんじゃないかなぁって、



お遊びでもプライドでも趣味でもなんでもなくて、「それをやる意味」をちゃんと持ってる選手がたくさんいるチームが、すごく強いんだなぁってあるときおもったの。




サッカーだとブラジルとかが超強いのは、「生きるため」にサッカーやってるからなんだ、って。



サッカーで、祖国にいる家族を養ってる。4人とか5人とかじゃない。30人くらいいる家族を、1人で、サッカー一本で、養ってる選手は、そう簡単に負けるわけいかないんだ。



だから、強いんだとおもう。




今回のラグビーには、勝たなきゃいけない「意味」がすんごく強烈に選手の皆さんが持っていたから、だから強いんだ!とおもったの。




日本を襲うたくさんの災害と、その被害に遭われた方々の存在。どうしてもそのひとたちのために、勝ちたい。




国民ほぼほぼ全員くらいの、まとまった願いと期待と





選手のみなさんのこれまでの血のにじみまくる努力に、そういうのが乗っかってるから、あんな試合が見れたんだ、と思うと本当に胸がぎゅうとなった。









そんでね、このラグビーの試合を見ながら、勉強も一緒だなぁっておもった話を今日は書くね。


特に先生たちや、お父さんお母さんたちに読んで欲しいなぁって思いながら、書いてるよ。







「勉強する意味」って、みなさん言語化できますか。





わたしは、ずっとわからなかった。




なんのために、あんな昔のこと暗記しなきゃなんないのか。



数学だって科学だって社会だって、よく知らなくても生きていけそうな気しかしなかった。



サインコサイン?はあ?わたしの人生に無関係だと言い切れる気持ちしかなかった。



だからわたしは、中学受験終わってすぐ勉強やめた。大学行く気もべつになかったし。









でも、坪田先生に出会って、「勉強する意味」を見つけた。




「けいおー行ったら、人生楽しくなりそうだ!」と心底ワクワクしたからだ。



「ここでわたしは人生変えるんだ。けいおーで、東京で、素敵な人にたくさん出会って最高に楽しい人生おくるんだ!」が、わたしの「勉強する意味」になった。



そんでいざけいおーに入って、また勉強する意味を見失った。



だから、また勉強するのやめちゃった。「大学でなに学ばれたんですか?」ときかれると、「たくさんの出会いと原体験による経験値をひたすらに積んでおりました」と答えるしかない。





でもいま、また勉強する意味を見つけて、わざわざまた高い学費払って大学院に通って学生やってるわけです。







つまり、勉強にもちゃんとそこに「意味」がないと、やってられねえってことなんです。






「あなたのために言ってるのよ。勉強しなさい!」



って言われても、



「うわーお母さん、わたしのために言ってくれてて超ありがてえええ!勉強しよ!٩( ᐛ )و 」



とは絶対、なんないんですよね。




でもね、お母さんたちもべつに意地悪で言ってるわけでも、ないってわかるんだよ。



皮肉なことに、勉強する意味って、わたしもそのうちの1人だけど、大人になって、社会に出てからやっとわかる人がほとんどだと思うんです。



やべーもっと勉強しとけばよかった、ってだいたいの大人が一度は思うことになる。



だから親御さんってあんなに必死でいうんだと思うの。そこには、愛しかない。自分よりももっと幸せな人生歩んでほしい、って思う気持ちもたくさんあるの、わかってる。



でも、その純粋な気持ちはなかなか子ども側には伝わらない。



だから、わたしなりに見つけた勉強する意味を、世の中の親御さんたちの代わりに、ちょっと言語化してみるね。











べつに、勉強って、「自分のため」にするもんじゃないと思う。






だって自分1人生きてく分には、よくわかんない数式や化学式も、昔の法律がどうだったかとか死んだ侍がどう戦ったかとか、そんな知識全然要らないよ。そんなん知らなくたって生きていける。



女の子はお金持ちの男捕まえて結婚して、養ってもらえれば生きていけるだろうし、(そもそも見初められるかどうかと見捨てられないかどうかは別として)



男だって、ちっこい畑もってじゃがいも作って一生じゃがいも食べてりゃ生きていけるだろうし。(それが楽しいかどうかは別として)






でもね、想像してほしい。



あなたにいつか、大好きな人ができて、子どもが生まれたとします。




人間の赤ちゃんは、なぜだか、何もできない状態で生まれてくる。



うんちもふけない。ごはんも自分で食べれない。服も着れないし歩けない。




周りの大人が全部、やってあげないと生きられない。(わたしはこれ、わざとだとおもってて、赤ちゃんは周りの大人を成長させるためにわざとああして生まれてきてるんだとおもってて、ほんとすげえなぁとおもってる)



周りの大人に、経済力や知識、生きる力がないと、こどもを守れないんだよね。




そして、これはわたしこどもいないから想像だけど、



親っていういきものは、我が子を、自分の命をかけてでも守りたいと思ったりするもんなんじゃないかなぁ、っておもう。





つまり、自分にいつか、命かけてでも守りたいものができたときに、それを守れる力の土台になるのが、「知識」で



その知識を得るためにするのが、「勉強」なんだと思う。






勉強って、自分のためにするんじゃない。





「だれかのために」するものなんだと思う。





小学校中学校高校では、その、生きるため、大切なものを守るための武器にもなる「知識」をつける


大学とか大学院では、その知識をもっと深めたり、その知識を自分なりにどうやって使うかの「スキル」を学ぶ




そんで社会に出たら、その知識とスキルをだれかのために使って、それに対して「ありがとう」っていわれて対価を払ってもらう。



それが、働くってことなんだとおもう。




「勉強する」は、暗記じゃない。テストのために覚えて、テストが終わったら忘れちゃうものなんて、知識とはいえない。




そのことを、お母さんやお父さんは、やっと気づいたんだと思うよ。



守りたいものができたから。




勉強は自分のためにするものじゃない。



「だれかのために」するものだ。




いつか、守りたいものができたとき、しっかり守れるように備えておくのが、勉強、つまり知識を蓄えておくってことだと思う。






そんな話をいつも、講演のなかでしています。





すると先日、佐賀県にある東明館中学校・高校でこんな生徒に出会いました。



この学校の理事長に、わたしの兄的存在で尊敬している荒井優さんが7月に就任されたので、在学生や受験生やその親御様にお話させていただきました。




講演が終わって、1時間ほど時間が空いたので理事長室のソファで寝ていたら(前日寝てなかったから仮眠)



優さんがひとりの男の子を連れて帰ってきた。




「さやかちゃん寝てるとおもったんだけど、どうしても会ってもらいたい子がいたから、ちょっとだけいいかな?」




その坊主頭の男の子(中学校三年生)は、わたしの講演を会場の真ん中ら辺で、ずっと背筋をピンと伸ばして前のめりになって聞いていた子で、何度か目があってたから覚えてた。




その子がね、わたしの前にちょっと震えながら座って、わたしの目を見てまっすぐ、こう言ったの。





「ずっと、なんで勉強してるのか、わからなかったんです。こんなの覚えてなにになるんだ、自分はなんのためにこんな一生懸命に勉強してるんだ、って、ずっともやもやして悩んでいました。でも今日さやかさんの話をきいて、やっと勉強する意味がわかりました。僕は今日、人生が変わりました。本当に涙が出るほど、嬉しかったんです。ありがとうございました。今日きて、ほんとによかった。」




後ろで優さんが、優しい眼差しでわたしを、みてた。





「さやかちゃんにね、きいてほしかったんだ。この子、僕の身体があくのを1時間以上もずっと、体育館の隅っこでじっと待っていてね、だれもいなくなったら僕のところに来て、さやかさんに感謝を伝えてください、と言ったの。僕は彼の行動に心動かされて、さやかちゃんに会わせたいとおもったんだよ。人の真剣な姿、心からの言葉は、周りの大人を動かすよ。君はまさに、それをいまやってるんだよ。」





わたしは(寝起きだったからなのか)頭がぼーっとしていて彼の言葉が夢みたく思えて、あんまり言葉が出てこなかった。






ただただ嬉しかった。



たまに、こういう子に出会う。たくさんの子たちが「今日の講演たのしかった!」「はじめて講演きいて寝なかった!」「わたしも慶應目指す!」とか色々言ってくれたりメールくれたりするんだけど、




彼は、講演の後、写真撮ってくださいサインくださいの輪の中には、いなかった。




本気の子は、顔見たらわかる。彼は何度も「今日、僕の人生が変わった」と何度も言った。わたしが坪田先生に会ったときに、似たような感じなんだろうな、と思って、嬉しかった。




優さんはいつも、「さやかちゃんと写真撮ってあげるよ」と学生に声をかけるんだけど、この日彼にだけは言わなかった。




「きみはね、今日は写真も撮らなくていいと思う。サインも貰わなくていいと思う。さやかちゃんはきみのことをずっと覚えてるはずだから。そのかわりきみはいつかまた、さやかちゃんに会いに行きなさい。いいね?いつ、どこで、どんな形で会えるか、楽しみだね」




というと、彼がはいと深く頷いた。







わたしはそのあと、優さんとラーメンを食べながら、ぼーっと色々考えた。


わたしたち大人は、こどもたちをなめちゃだめだとおもう。こどもたちは、大人が思っている以上に色々考えてる。意味や、目的を探してる。



薄っぺらい言葉なんかじゃ子どもたちの心は動かせない。そして彼らは、わたしたち大人を通して、社会とか、大人になるってなんなのかをじっと見てる。




全てにちゃんと意味がある。



ひとつひとつちゃんと、大人こそ、そこに向き合うべきなんだと思うのです。




次会うとき、彼はどんなになっているんだろう。べつにすごいスーパーマンになってなくてもいいから、自分なりに、あのまま、キラキラした目で生きていってほしいなぁと思いました。




後輩たちに、学んでばかりです。




優さん、素晴らしい学びの機会をいただき、ありがとうございました。精進します!



↑写真がないからラーメン屋を




ちなみに、このまえ出版されたわたしの初めての本のゲラ段階でこの話を書いたら、「勉強は自分のためにするものです。」と担当編集のおばちゃんにばっさりきられた。


そんな、拙著はこちらです↓
(このクソいけてないタイトルはわたしがつけたものではありません。)