喪服のまま失礼いたします。縁起悪くてすみません。

 

 

 

「浩ちゃん、父ちゃん死んじゃったよ」

 

日曜日、ラグビーの練習のために目覚ましを早めにかけておいたのですが、午前5時の母からの電話で起されました。

 

ここ10年ほど、業界の先輩や同世代の友人の親の訃報を聞くことが多くなり、「自分たちもそういう年代になったのだ」という自覚はありました。午前5時の母親からの連絡はつまりそういうことだ、という覚悟もあり「今は病院にいる、すぐに中村日赤に来て」という言葉に家を飛び出しました。

 

 

病院との手続き、自宅で亡くなったので警察の検死に2時間くらい、その後親戚への連絡、葬儀会社、お坊様とのアポ取り、などなどすぐに夜が明け、通夜は当日夜、葬儀は翌日日曜日、火葬は港区の茶屋斎場と決まり、父の遺体は中村日赤を出ていつも本を読んでいる中村区のデニーズの隣の愛昇殿へ。



それから、先ほどまで、上記に記したスケジュールを疲れる間もなく、淡々とこなしていきました。

 

 

 

 

父は自分の母親を誇りに思っていました。

 

父方の先祖は源頼朝の奥州合戦に参戦して武功を挙げた芳賀一族です、秀吉の時代に没落し、関ケ原へは参戦していませんが、江戸時代末期には名古屋城17代城主、徳川慶勝に仕え、お馬番の筆頭を務めていたようです、その孫が僕のおばあちゃんで、当時は珍しかった女学校を出ている才女でした。(芳賀家は現在も名古屋市中川区で鉄工所を営んでいます)

 

そのおばあちゃんを西尾に住んでたおじいちゃんが見初め父を含む4人の子を儲けます。

 

おじいちゃんは持ち前のバイタリティで次々と斬新なアイデアを繰り出し「戦後の日本女性は頭髪にパーマネントをし、西洋人のような明るい色の毛染めが流行する」と先見性を発揮、盟友の朋友商会(現:ホーユー)水野金平氏らと共に名古屋発で女性を綺麗にする理美容業界に身を投じ一時は全国的な成功を収めますが、その情の厚さから簡単に人を信用してカネ目当てに寄ってくる悪い人によく騙されていたようです。

 

裕福な家庭に産まれながらそんなおじいちゃんを見て父は真逆の堅実な人生を歩みます。(そんな父を見て僕は一周回っておじいちゃんのような自由奔放な人生を選択します(笑))

 

 

父は中村高校サッカー部、釣り好き、大学は某理系です(諸説あります)頭のいいひとでした。(自分とは全て真逆です)

 

殴られたのは一度、高校3年生のとき、友人からかかってくる大切な電話打ち合わせを忘れて遊んでいて同級生みんなに迷惑をかけたときでした。

「人様に迷惑をかけるような男になるな」という考えを強く持っていました。

 

 

 

自身は人様に迷惑をかけないよう77歳で運転免許を返納、商売を辞めてからも町内会長(「ちょーにゃーきゃーちょー」と発音します)など地域貢献もしていましたがここ5年は「終活」に熱心で自分の荷物の整理と先祖代々のお宝?(CONTAXのカメラや象牙の麻雀パイなどどう見てもガラクタですが)が見つかる度にお前に受け継ぐから取りに来いと呼び出されました。

 

 

昭和40年代の中村区は自宅にお風呂のない家庭も多く、徒歩5分圏内に銭湯が5~6件はありました。銭湯は大人たち、また小学生の社交の場でもありました。(僕は今でもスーパー銭湯が大好きです)

 

ある日、銭湯に行こうとすると父が「もう銭湯に行く必要はない、家の風呂に入れ」とすごい自慢げに狭い自宅に無理やり作った風呂を見せていました。

 

 

晩年「自宅の風呂に入るのがなによりの楽しみ」と語り、そのせいで何度か病院に運ばれました。その自慢の風呂で死んだのですからある意味本望だったのかもしれません。

 

 

先週土曜日はウチの子の誕生日で朝から「孫の顔が見たい」と何度も言ったらしく、僕と息子と夕方に訪ねると「また来いよ~」と孫に話していました。随分覇気がないので大丈夫か?と聞くと「おう」とだけ応えました。それが僕との最後の会話になりました。その10時間後にはこの世にいないわけですから、人生とはわからないものですね。

 

 

夏ごろ父と姉と一緒に墓参りに行き、中村家のお墓を丁寧に掃除しました。10月には「俺は9月に死ぬはずだったのにおかしいな?」とよくわからないことを口にしていました。

 

 

中学以降、一切医者にかからない、歯医者にも行かない。薬も一錠も飲んだこともない。

 

風呂で溺れて病院に運ばれても「帰る!医者は嫌いだ!病院は嫌だ!」と言ってチューブやらなんやら抜いて医者を呆れさせ帰ってしまいます。その際CTやら撮るのですが、内臓・脳とも全く異常なしの判定がでます。

 

歯も抜けたらそのまま、入れ歯もしない。左目も見えなくなっても医者に行かない。治療はしない。

 

 

自然の流れに逆らわず、樹木も人間も自然に朽ち果てることがこの世の摂理

 

とでも考えていたのか、本当にこの数週間は痩せて文字通り枯れていくようでした。

 

 

 

死に際の良し悪しは考え方だと思います。

 

 

父は長生きできたとしても子供や親せきに迷惑をかけることは絶対に認めないでしょう。ここには書きませんが息子にだけ分かることがあります。人生を閉じるにはいいタイミングだったのかもしれません、順番も含め、全ては考え方です。

 

去年だったら僕がマトモな判断も喪主もきちんと務められなかったでしょうし、そもそもコロナで葬儀自体が行われたかどうかもわかりません。きちんと終活して、人様に極力迷惑かけずにあっという間に死んでしまいました。父らしい潔い死に様です。

 

 

喪主・・・大変でした。家族葬とは言え、母と姉が会計的なことや総務的な連絡は全てこなしてくれました、中村家の女連、さすがです。

 

挨拶は通夜と葬儀と精進落とし(←初めて聞く単語がいっっぱいでてきます)司会者の方から見本原稿をいただきましたが、申し訳ないけれど、そんなものは必要なく、そこは僕もプレゼン屋のはしくれ、我ながら完璧にこなします。ついでにお礼状(?)の原稿も本業ですのできっちり校正させていただきました。

 

 

 

昨夜はホテルのような愛昇殿の部屋で棺の中の父と一晩二人で過ごしました。

 

死んだばかりだから出てくるかな?と思いましたが、明け方夢を見ました。父の臓器を提供する話が急遽出て、父にどうか?と尋ねるのですが父は首を横に振ります、僕が「もう死んだからいいじゃないか?」と聞いてもなぜか言葉は発せず、手首を思いきり振って拒否していました(笑)。

 

 

親戚があつまり、出棺前に順番に花を入れます。うちの子大活躍でした。

葬儀には父と一番仲の良かった姉方の孫も仕事を休んで東京から到着し、来れなかった初孫もリモート中継で参加、僕が途中スマホで葬儀中継しました。何はともあれ兄弟と2人の子供と3人の孫に送られることになり、どこか表情も幸せそうでした。父ちゃん良かったなあ。

 

名古屋人らしく最後はなんかの葉っぱでコーヒーを口に運びます。

 

 

その後港区の真新しい最新式の火葬場へ、90分後、まだ熱を帯びた骨になった父をみんなで拾いました。

 

「喉仏」の意味を始めて知りました。本当に喉の骨は仏がお祈りしている形なんですね。骨

 

で、愛昇殿に戻り、ナントカっていうお経を坊様が唱え、みんなでメシを食べて、この時にはすでに安堵からかいつもの親戚らしく楽しく笑い声も聞こえてきます。

 

 

その後、つい先ほどですが実家へ仮の祭壇を設置するため父が一昨日まで寝ていた部屋を大急ぎで整理、部屋には孫たちの写真がベタベタ貼ってあり、カーテンの後ろにも僕と、僕の子供と3人で撮った写真が数枚隠して貼ってありました。

 

明日から、親戚以外のご近所の来訪や、区役所への書類やら、四十九日に向けての準備やらでいろいろあるようですがひとまず休みます。人が死ぬということは大変なんだなあと思います。

 

 


 

 

 

子供と孫に見守られ、たくさんの花と折り紙に囲まれた父の姿は30年後の自分。

 

 

おじいちゃん84歳

 

父ちゃん82歳

 

 

俺もあと30年ばかし、さて、自分はどう生きるか?何を残せるのか?

 

 

 

最後に。

 

 

心を込めて折ったメッセージ付きの折り鶴に対して、「デブだ」「ヘタだ」「なんか違う」とかいう中村の親戚、そういうのやめてくれんかの?

 

 

 

 

 

 

 

乱筆・乱文・写真のタテヨコ修正、すみません。

そもそも縁起の悪い話ごめんなさい。ジュリーのお話やアイドルの楽しい話はまた書きます。

 

おやすみなさい。

 

 

 

 

2021年12月6日 中村博治の長男、中村浩一

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

お父さん、ありがとう、さようなら。