Hawaii誕生説
かなりの幅はありますが、5世紀~7世紀頃ポリネシア人が ハワイ諸島に移住してきたところから ハワイの歴史は始まります


最初のポリネシア人
ハワイに入ったのがこの頃。移民としてやってきたそうです。
そして、10世紀~12世紀頃に今度は”タヒチ”から大規模な移民があったとのこと。

その後各島々で首長(村長サンみたいなもの?)が現れて17世紀頃はその首長さんを 筆頭に部族間の争いが盛んになったんだって。
ちなみにワイキキを首都に定めたのはオアフ島の首長=マイリクカヒさん

でもまだまだこの頃は歴史上では ”ハワイ”という国は存在していないそう
なぜかというと、ハワイには文字を書くという文化がなかったから・・・
この頃は伝言ゲームのように、口から耳へ・・・の 伝達方法の他に「フラ」での表現等で 歴史を次の人たちに伝えていたそうです。


というわけで、ハワイの歴史が書面上始まったのは クック船長が サンドイッチ諸島を見つけた1778年からとなっているそうです。
その後1795年  カメハメハ大王が ハワイ王国を築きハワイの歴史が始まるというわけです。
このカメハメハ大王が生まれた年も定かではないらしく (文字としての文献が残っていないので)
「カメハメハ生誕の夜、突然長い尾を引く明るい星が空に現れた」
という口承伝説の中から
ハレー彗星がハワイに接近した1758年が有力視されたとのこと。


そして、8代100年にわたって続くハワイ王国の歴史が始まるわけです。



歴代のハワイの王様


カメハメハ1世 (1795-1819)

実在の人物に関わらず、彼には神話的な話もたくさんあって 「ナハの石(現在ハワイ島ヒロの市立図書館前にある巨石)を 持ち上げた者は天下を制する」と代々言い伝えられてきた。
この「石」をカメハメハ1世は15歳の時にいともたやすく持ち上げた・・ など、人々の間で教祖?的な存在であったといえる。


ハワイのカリスマ的存在?の彼は植民地化を望む 多くの外国人からも一目置かれており、彼の存命中は 無茶なことをしなかったと言われている。


カメハメハ2世 (1819-1824)


カメハメハ1世の長男。
この頃はまだ一夫多妻制度だったが この2世はもっとも地位の高い「聖婚」で結ばれた ケオプラニの子供。
この頃来航した宣教師団の影響でそれまでのハワイで行われていた 「カプ=タブー」が廃止され代わりにキリスト教が推奨される風潮に なりはじめる。


この頃ボストンから初のキリスト教宣教師がハワイに降り立ち、 2世の妻カアフマヌの保護を受け、
ハワイ古来の神々の崇拝やフラをみだらであるという理由で迫害した。
そしてハワイ固有の文化をことごとく否定し西洋化を推し進め、最後にはフラを法律で禁止までしてしまう。


カメハメハ3世 (1825-1854)


2世が急死した際に10歳で即位したこのカメハメハ3世。
この3世、なぜかハオレ=白人の側近を従えて近代国家を好んで 推奨した。
教育や政治をも精力的に取り入れ、「ハワイ民族」の風潮からは 次第に遠ざかる結果をもたらせた。

中国からの初の移民を受け入れる初のハワイ憲法発布。


また、この3世によって、王朝関係以外の 一般庶民・外国人にも土地を所有する権利を もつことを許される=グレートマヘレ

多くのハワイアンは「土地を持つ」ということを理解することができなかった。
そのために多くの外国人の地主が誕生することになる。


カメハメハ4世 (1854-1863)


3世の行った近代化現象の煽りを受け、次第に王朝の決定権は 弱くなり王権はなくなり始めた。
また、諸外国からの往来と共に運ばれてきた疫病にハワイ人口は 減少の一途をたどり、40万人ほどの人口がほんの100年で5万人に 減少したとされている。

ハワイの人口減少が極めて深刻に・・・ ハワイ人の疫病に弱い体質が災いした。


カメハメハ5世 (1863-1872)


カメハメハ4世の兄。
この5世も4世と同じくアメリカ人嫌い。
そして3世が精力的に行った 近代国家を崩すべく憲法を廃止したり英国との交際を親密にしたため、 ハワイ内のハオレからは反感を受けていました。
不思議なことに4世、5世とも在位9年めにして他界しています・・・


たった1万ドルでニイハウ島を ロビンソン一家に売却してしまいました。
今でもこの、ニイハウ島には 許可なくしてはハワイ市長でさえ、 島に足を踏み入れることはできません。


ルナリロ王 (1873-1874)


結局、5世は後継者を残さず他界してしまったのでカメハメハ王朝は 事実上途絶えてしまったわけです。

でも、王朝は王朝・・・

王様抜きにして事を進めることはできないので 議会にて選定したのがこのルナリロ王。
また、この王様も体が大変弱く在位1年足らずで結核に犯され なくなってしまいました・・・。

始めての選挙選出方法を使い即位した王様 彼はとても慈悲深く、「優しい王様」と慕われてきた。
インターナショナルマーケットプレイス内に簡素な別荘を持ち、贅沢を好まなかった王は ここで多くの時間を過ごしたと言われている。


カラカウア王 (1874-1891)


カメハメハ4世の妃であったエマ王妃とのヒートアップした選挙戦を演じ 王の座を射止めたのがこのカラカウア王。

カメハメハ世代の親英家ぶりとは打って変わってこのカラカウアは 新米家でした。

そしてさとうきび等のプランテーション産業が盛んになり、 その影響もあってますますアメリカ人勢力は強くなりました。
アメリカ人勢力が強くなったせいで王朝の権力は弱まり、 カラカウア王の晩年の頃には政治的権力は無に等しくなりました。


フラを復興。

日本訪問。(明治政府が迎える初の外国元首)

ルナリロ王とは対照的にとても贅沢を好む カラカウア王「メリーモナーク=陽気な王様」と呼ばれ 親しまれ大変社交的であった。

彼の別荘はキングスビレッジが建つ一帯。

そして彼の死後カピオラニ女王(彼の妻)に残されたが彼女はその多くを寄贈し、 病院・小児科設立に尽力した。


リリウオカラニ女王 (1891-93)


カラカウア王の没後、後継者として指名されていた 妹のリリウオカラニが53歳で王位に就きます。
王朝の再建を強く訴え、新憲法を強制的に施工したことからハオレ実業家たちからの非難に合い、
イオラニ宮殿へ幽閉されてしまいます。

そしてついにハワイ王朝は終止符を打ってしまうのです。

彼女は文化的な貢献度はずば抜けており、あのハワイアンソングで 有名な「アロハオエ」を作詞・作曲をも手がけました。


ハオレたちはさとうきびなどをアメリカに輸出するのにアメリカの領土になれば輸入税を払わなくても済むという理由でアメリカへの併合を主張し、リリウオカラニを脅し退位させてしまいました。

王に即位されてからわずか2年のできごとでした。