教科書から消えたもの 鎖国性悪説 | こはにわ歴史堂のブログ

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朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

もちろん、「鎖国」という言葉は教科書から消えていません。

かんたんに言うと

「日本は鎖国をしていた」という内容から「鎖国という名の外交をしていた」という内容に現在では変わっている、ということです。
ですから、高校の教科書などでは

「いわゆる鎖国」

という、なんとも含みのある表現に変わっている記述がみられるようになった、ということです。

いま、ちょうど中学生の授業で、江戸時代の鎖国の話をしているところなのですが、わたしの最初の授業は、「鎖国」のイメージと誤解を解くところから始めます。

かつては鎖国、というのは、日本の近代化を阻害してきたものである、という説明が中心でした。

・朱印船という許可された船だけが貿易できる。
・キリスト教を禁止する。
・外国船の来航地を平戸と長崎に制限する。
・スペイン船の来航を禁止する。
・老中の許可を得た船だけが貿易できる。
・日本人の海外渡航・帰国を禁止する。
・ポルトガル船の来航を禁止する。

「許可された~」「制限する」「禁止する」などなど、しだいに「閉じられていく…」という話が中心でした。
誤解のないように申し上げますと、このプロセスは現在でも大切なことで必ず教えます。
が、話はこれだけで終わらず、むしろ、「鎖国」という「開かれた」貿易体制の話が中心となりました。

「四つの口」

ということを説明します。

長崎の出島ではオランダと。
対馬では朝鮮と。
薩摩では琉球と。
蝦夷地ではアイヌと。

そして昔は、オランダ人などは、出島に「閉じ込められて」異国人と民間人が接触できないようにしていた、などなどの話が付加されて「閉鎖的な」体制を深く印象付ける説明がなされていました。

しかし、実際は、オランダ人は京都への観光旅行を認められていましたし、「天下の台所」大坂では、「舶来物」として西洋雑貨が取り扱われて販売もされていました。
異人と交流している庶民の「浮世絵」も多数残っていて、あんがいと「解放的な」交流がおこなわれていたことがわかっています。

幕末モノのドラマや小説などで主人公たちに

「日本の夜明けは近いぜよっ」

というセリフを吐かせているために、ついつい鎖国の江戸時代は「夜」で「開国」が夜明けであるかのような印象を読者や視聴者に抱かせがちですが、幕末の志士などは、幕府が政治をしていて自分たち及び自分たちの藩が政治に参加させてもらえていないから「夜」だと思っていたのであって、ほんとうに「日本の将来を憂いていた」人物の数はきわめて少なかったと思いますよ。

昔は、「鎖国によって日本の近代化は遅れた」と評していましたが、現在の歴史学でそんなことを言うと間違いなくバカ扱いされます。

鎖国をしていたおかげで日本は近代化に成功しました。

鎖国はいわば「保護貿易体制」です。
実際、鎖国前は、日本は生糸を輸入していましたが、開国後、生糸は日本の代表的な輸出品となっています。
鎖国という名の保護貿易体制によって、日本は世界に通用する輸出品を育成することに成功しており、実際、開国後、アメリカと日本の貿易は、日本の貿易黒字でスタートしました。

「閉じられた国」ではなかった。
「世界に通用する文化・産品を育成できた。」

という「鎖国」という評価がなされるようになり、鎖国性悪説は教科書から姿を消すことになったのです。