こんにちは。お久しぶりです。

ブロ友さんたちにはご無沙汰してしまい、本当に申し訳ありません。インスタも今年は全く開けず、お邪魔することもできなくて、ごめんなさい。
そして、こんな不定期なブログにもかかわらず、定期的に訪れて下さる方々には感謝の気持ちでいっぱいです。

今回は手作りネタでなく、少しばかり重い近況報告となります。


まずは昨年のことから。前記事にあるように、1月に母が亡くなり、1人暮らしになってしまった父を支えながら(支えてるつもりでいたけど、支えられているのは私であったことを今年思い知る)母の遺品の整理を頑張ってました。
実家は我が家から車で40分弱くらい。週に2回は行くようにしてました。
我が家には夫の両親がいますが、糖尿病のじいちゃん(義父)が、前立腺がんであることが初夏に判明。90歳を越えていることもあり、家で訪問看護を受け続けることにしました。かなり進んでいると言われたけど、本人は全く自覚症状がないのことが救いでした。
しかし、秋に庭で転倒し大腿骨骨折。高齢なため、なかなか歩けるようにならず、長期入院となります。
そして、年末、実家の父が交通事故にあいました。お昼に近所のスーパーに買い物に歩いて行く途中、青信号横断中、よそ見運転のトラックにはねられました。だけど、この時はしっかり意識があったのです。夜、警察から電話があったとき、足の震えがとまらなかったです。
それから毎日病院に通いましたが、実家の父も89歳。足をやられたので見動きできず、日に日に弱って一週間後には、事故にあったことも、なぜ自分が今ここにいるのか、ここはどこなのかがわからなくなりました。誤嚥性肺炎や、ポリープによる出血、貧血、元旦から口からの飲食禁止になり、鼻からのチューブ、肺から水を抜いたり、人工呼吸器つけたり、点滴、体中管だらけ。歩けるようにならなくても、生きてさえいてくれたらと毎日車で泣きながら病院に行く日々。双子は高校受験だったのに、家事を手伝い、私を支え、よく頑張ってくれました。
唯一ばあちゃん(義母)は元気だったのに、正月2日に部屋で転倒しこれまた骨折で入院。
3箇所離れた病院通いは精神的にかなりつらかった。

父は苦しみながら4月に亡くなりました。重篤状態になり、何度夜中に病院から電話がかかってきたことか。最期まで私のことはわかってました。家に帰りたい、水が飲みたい。何度も言われたのに叶えてあげることができなかった。最後の一週間は病院側からすすめられ、私も泊まりながら付き添いました。母は突然逝ってしまったから、父は最期は一人にしないで手をつないで逝かせてあげたかったしね。コロナで非常事態の中でしたが、私はそれどころではなかった。双子が志望校に合格してくれたのがせめてもの光でした。
卒業式、入学手続き、葬儀、四十九日。今となっては、あまり記憶がないほど慌ただしい毎日。
それからも、日に日に悲しみが深く、だけど、やらなくちゃいけないことがたくさんあり。
実家もなんとか売却まで漕ぎつけました。来月やっと刑事裁判。どんな判決が出ても父は戻らないので、納得なんてできない。検事さんと話してもどうしても涙が出てくる。示談は弁護士さんにお願いし、これから。遺族が納得できる死に方なんて、そもそもないのだろうけど、毎日考えない日はないです。あの時の治療法の選択はあれでよかったのか、違う方法ならもっと生きていられたのではないか、もしくは違う方法により、苦しまず逝くことができたのではないか。考えても仕方ないけどね、ふとした瞬間に涙が出てくる。なんだか心がからっぽになっちゃったよね。

義父は病院はなんとか退院できたけど、こんな状態で私も看ることができず、今はショーステイを利用してもらってます。義母は退院して、今は年相応に元気です。

私がいつまでも落ち込んでいたらだめだよね。前を向かないとだよね。実家がなくなるって寂しいね。帰る場所があるって幸せなことだったな。もっと親孝行できたらよかったのに。

思いっきり暗い内容になっちゃった。
だけど、これから私が復活するために書いておきたかった。

次回からは明るくいくよ。全てが片付くまで、まだしばらく時間かかるから落ち着かない日々だけど、少しずつ手作りもしよう。

もかちゃんはいつも不安定な私のそばで寄り添ってくれて、どれだけ支えられたかわからない。改めて存在の大きさに気がつく。



あたりまえの毎日なんてないね。あのときの
何気ない会話や笑い声が、宝物になる日がくる。そんなことを改めて感じた1年でした。


最後まで、読んでいただき、ありがとうございました。