川越style「河越茶Rebornプロジェクト」河越茶・河越抹茶復活ストーリー | 「小江戸川越STYLE」

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「時が人を結ぶまち川越」
川越のヒト・コト・モノ、川越物語りメディア、小江戸川越STYLE。
川越の現場で様々なまちづくり活動にも従事しています。
「小江戸川越STYLE」代表:石川真

 

ようやく対面できた実物に、これがあの・・・と感慨深く思いました。

 

2014年新年、1月2日。

お正月の雰囲気に川越が包まれている中、

本川越駅近くにある蔵里広場でも、

屋台が多数出店して賑やかな一日となっていました。

 

その中でも、「おや?」と通る人の目を引くのぼりの文字がありました。

「河越茶」。

河越?川越じゃないの??

誰しもが引っかかる部分で、この文字で合ってるの?という言葉が聞こえてきます。

しかし、漂ってくる香ばしい香りに

屋台にすっと吸い込まれていく。。。


販売していたのは河越抹茶ラテとほうじ茶。

 

ほうじ茶の香りを楽しみながら、

よくぞ復活させてくれた。。。じんと来るものがありました。

この時、一緒に販売していたのが・・・

中院、喜多院近くにあるカフェ・アンティさんの抹茶ドーナツです。

河越茶を知っていますか??

古くて新しい、新しくて古い、

知る人ぞ知る川越のお茶、河越茶です。

かつての川越は、お茶の名産地でした。

 

南北朝時代、武蔵河越は天下の茶所として

人々が名をあげる茶の名園五場(全国銘茶5場)の一つでした。

関東の有力武将も愛したこの地のお茶「河越茶(抹茶)」は、戦国時代になると、栽培していた寺院・武士が衰退すると共に姿を消していきました。

衰退した河越茶の系譜で蘇ったのが狭山茶。

両者は密接な関係にあります。


それから、およそ四百年・・・

銘茶と呼ばれたかつての河越茶にならい、旧河越領内茶園で丁寧に栽培された高品質の茶葉を厳選し
河越茶は新たな姿で現れました。。。

 

河越茶を今の時代に復活させたのが、NPO法人川越PLUSの二人。

彼らは、歴史を徹底的に辿り、探り、河越茶が当時いかに盛んであったかつきとめ、

 

「これなら今の川越で、新たな魅力になるはずだ」

 

そう確信して、河越茶を復活させようと動き始めました。


2012年「河越茶Rebornプロジェクト」と名付けられた彼らの活動は、

川越の深部に進むごとに、時に川越の新たな真実を導き出し、時に壁にぶち当たり、時に偶然の出会いに歓喜し、

人を巻き込み、広がり、少しずつ少しづつ過去と今の川越と結びつけていった。

 

2013年、彼らの想いは結実し、河越茶として具体的な形で復活。

そして河越抹茶は今、川越のお店で使われるようになってきました。

一つの例が、カフェ・アンティさんの抹茶ドーナツです。

そして、2014年。

今年は市民含め、多くの方に広まっていく予感がひしひしとしています。

それくらい、河越のお茶は魅力的だし、

川越の新たな魅力になるはずのもの。

 

いかにして、河越茶はこの世に復活したのか。

復活させた人たちがいること。

川越PLUSの二人が、ここに至るまでに経緯を

膨大な資料を交えてじっくりと聞かせてくれました。

 

河越茶の歴史、そして二人のこれまでの軌跡、リアルな声を交え、当時の写真を頂きながら、昔と今の息吹を感じてもらえればと思います。

二人が辿った道のりを、改めてここに辿ったドキュメントをお送りします。。。

 

『河越茶をこの時代に新しい姿で復活させたい。
その思いからこのプロジェクトは始まったんです。

 

そこで私たちはまず、「河越茶」について調査を開始しました』

 

 

☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*


『最初は、「河越茶Rebornプロジェクト」を見た友人から

 

「あれって誤記じゃないよね?」と質問されたんです。
「ん???」と思ったのですが、「かわごえ」は現在「川越」と表記されているから。

川越に育った私たちは河越氏という武士がいたので

潜在的に昔は「河越」だった!という認識作られています。

ただ、それを知らない人が見たら誤記に思ってしまうのか・・・

という発見がありました。

 

中世までは「河越」と表記され、

江戸時代頃から「川越」となり現在に至るようです』

 

河越、河越茶の深みに入っていきます。

 

 

『美しい桜で有名な中院。
その中院に「狭山茶発祥之地」という石碑があります。
川越が狭山茶発祥の地ということはかなり有名な茶所だったのではないか?

 

(中院にある石碑)

また、
なぜ狭山茶発祥の地と言われるようになったのか?
いつ川越に茶が伝来したのか?
どんな人が河越茶を飲んでいたのか?
など・・・様々な興味がわいてきました。

 

ネット検索で川越市上戸に「鈴木園」という茶園があることを知り、
私たちは真相を探るべく、アポなしで行ってみたんです』

 

 

『「話を聞くぞ!!」と意気込んで行ってみたものの・・・
まず立派な門に怖気づきました。

これは入っていいものなのか・・・どうなのか・・・
でも、「ここまで来た!」と気を取り直して、中へ。

 

入り口で勇気を振絞り、「すいませーん!!」と言うと

奥から女性(鈴木さんの奥様でした)の声で「はーい」と言う返事が!

 

そして、NPO法人で河越茶について調べているというお話をしたところ・・・
鈴木さんは工場でお茶の袋詰め作業中とのことでした。

 

また、出直そうとしたところ鈴木さんの奥様から

「せっかくだし中を見ていきますか?」

と言って頂き、工場の中を案内してもらいました。
工場の中はお茶の芳ばしい香、歴史を感じる木箱など・・・圧倒されました。

鈴木さんとはお話できませんでしたが、川越でお茶が生産されていることを肌で感じ、

また改めて訪問することにしました』


その後、鈴木さんと会う事ができた二人は、

鈴木さんから貴重な話しを伺うことができた。


『河越茶は平安時代から活躍した武将・河越氏とつながりがあるということを知りました。
鈴木さんの茶園から100mくらいのところに河越館跡があり、
鈴木さんのご自宅が大手門だったという調査結果もあるとのこと。
歴史の妄想が膨みました。

 


河越館跡からは天目茶碗、茶入れなどが発掘されているので、
800年くらい前から鈴木さんの茶園のあたりでお茶が飲まれていた可能性が高い・・・
河越茶を知るために河越氏との関連も探っていく必要があるかな・・・と、

ネット検索で見つけた「鈴木園」さんでしたが、

なんと鈴木さんは川越茶業組合の会長であると判明したんです。


「以前、河越茶を復活させようとしたこともある!」と驚きのお話もありました。
“河越茶”と“茶”の魅力を再確認した一日でした』

 


『私たちが次に向かったのは川越市立図書館です。
「狭山茶業史」などお茶について書かれている本を読んだり、
ネットで河越茶を検索したりしながら調べてみました。
小学生の自由研究みたいだな・・・と。

 

その中で集めた情報で、


・南北朝時代の1340年頃に書かれた「異制庭訓往来」(いせいていきんおうらい)の中で
「宇治・伊勢・駿河などとともに武蔵河越の茶は天下の茶所として
人々が名をあげる産地」と称され、関東唯一の茶場だった。
・江戸時代中期に書かれた「除睡鈔」(じょすいしょう)で
「武蔵河越が後世銘茶の産地となった」と記述がある。
・河越茶があった時代のお茶は香料とともに、
貴人、高僧の間に於ける最も優雅にして高貴な贈答品だった、ことなどを知りました』


歴史って難しい・・・
河越茶の伝来を調べながら実感する二人。

上記以外にも「狭山茶業史」、「茶の歴史」などの本や博物館の資料、
河越茶の歴史が記載されたチラシなどを参考に、

進めば進むほど、迷宮に迷い込むようにいろんな説に出会っていった。

 

・京都の高僧明恵上人が「武蔵河越(川越)」の地に植栽したのが始まりとされている。
・河越荘が新日吉神社に寄進され、河越荘内に新日吉山王宮が勧請された時に、
比叡山麓の茶園から茶の木が荘内に入ってきた。
・河越荘を支配者していた河越重頼氏の子孫が鎌倉幕府に重用され、
鎌倉における飲茶の流行が河越荘内に入ってきた。
・天台宗の興隆と合わせて天台教義が関東に伝わり、
これに伴って叡山の飲茶の流行が主として関東の天台宗寺院に入ってきた。     
・最澄の高弟円仁が武蔵河越(川越)に無量寺(喜多院の前身)を草創した。
最澄が唐より茶の実を持ち帰り近江坂本に播いた(『西宮記』)とすれば、
その高弟円仁が無量寺を創設するにあたり
茶の実を河越(川越)にもたらし、河越茶の基を開いた。

 

『どの説も真実なのかもしれないし・・・
作られた話なのかもしれなし・・・
まだまだあるのかもしれないし・・・
歴史は本当に難しい・・・
だから、調べる甲斐がある!!と前向きに考えました』

 

 

『一番街にある服部民俗資料館の服部館長から
入間市博物館が「お茶の博物館」だという話を伺い行ってみたんです。

 

最寄駅は西武池袋線の入間市駅。
そこからタクシーで15分くらいでした。

 

その博物館で我々は驚愕の事実を知りました。
河越茶の伝来で京都の高僧明恵上人が、
関東に下向したという記録がないというのです。

 

博物館の説明員の方と話をしているときに・・・

 

説明員の方「じゃあ、河越茶ってどうやって入ってきたか知ってる?」

 

川越PLUS「いろんな説があるみたいですけど、明恵上人という人が植えたんですよね」

 

説明員の方:「・・・・(苦笑)」

 

明恵上人が河越(川越)に茶を植えたという史実はない・・・
また明恵上人は当時の超スーパースターで
河越に来ていれば史料に残っているはずだが、まったくないとのことでした。

他の地域にも明恵上人が茶を植えたのが始まりと伝わっている場所があるようです。

 

驚愕の事実を知り、博物館の出口で肩を落としていると・・・
突然、後ろから「残念だったね、明恵上人」と言われました。
その人は入間市博物館の館長。
館長に励まされ、入間市博物館を後にしました』

 

この話は都市伝説的な感じなのか・・・
明恵上人が河越に茶を植えた。。。?
信じるか・・・信じないか・・・

 

河越茶の追跡、さらに迷宮に入り込みます。


歴史を辿りつつ、河越茶を広めようと動いていた彼らの活動は、

一つの実に結びつきます。

2013年4月27日。

小江戸蔵里で「河越茶」の販売を開始しました。


NPO法人川越PLUSが定義する「河越茶」は、
かつて河越・川越と呼ばれた土地、

埼玉県西部地区(川越、狭山、所沢など)で生産され、高品質な茶葉を使用したもの。
パッケージは蔵造りの黒漆喰をイメージした黒を基調としています。



2012年10月から動き出したこのプロジェクト。

『今後も様々な仕掛けを考え、

河越茶が浸透していくように決意を新たにしました』

 

その後も、河越茶の追跡は続きます。

 


『河越茶をさかのぼると12世紀頃に活躍した河越氏と
近い関係があったと考えられているそうです。

 

室町時代の書物には、
「館の前庭に茶を植えるように」といった意味の記述が残っているらしいです。

 

河越氏の館と言えば・・・
上戸小学校の横に河越館跡が残っています。
あの近くの茶園??
一番始めに訪問した鈴木園さんの近く。
鈴木さんから「うちの家のあたりが大手門だったらしい」という話も聞いていたので
いろいろものが結びついてくる感じがしました。

 

河越氏の館跡からは茶碗や茶臼が出土していることから
ここでお茶が飲まれていた事は間違いさそう!と思いました』



「河越館跡史跡公園イメージキャラクター 河越茶太郎氏」。

 

川越市上戸にある「河越館跡」を発掘をしたときに出土した石臼があります。

 

一見なんてことない石臼なんですが・・・
今のところ14世紀頃の石臼(抹茶を作る際に使われたと考えられている)が、
様々な茶道具などと出土するのは武蔵国では河越館が唯一!

 

古くから川越と抹茶の深い繋がりを感じることができる出土品だなと思います。
河越の武将たちも、

 

自分たちで抹茶を碾いてくつろぎの時間を過ごしていたのかも・・・?

 

当時の武士は唐物(中国製)を好み、
鎌倉を介して東アジアの陶器などが運ばれていったそうです。

 

河越館跡の発掘では、
天目茶碗・茶臼の他にも茶壺・茶入れ・風炉などが茶道具が出土しています。

 

 

1984年12月6日に国指定史跡となった「河越館跡」。
河越館は入間川の水上交通と東山道武蔵路による
陸上交通の接点に位置し、戦略上重要な地点であったとされています。

 

 

 

南北朝時代に成立した「庭訓往来」という書物の中にある
「御館造作の事」によると・・・
館を構成する要素の一つとして

 

「前栽の茶園」という記述があり、館の前庭には茶を植えるべき!と

されていたそうです。

 

明治9年に作られた「茶場後碑」。


『平安時代末期頃より河越(川越)は

秩父平氏の流れを汲む河越氏が支配していました。

 

河越氏は武蔵国留守所総検校職を務めるなど
関東の有力武将として名を馳せましたが、
武蔵平一揆の乱(1368年)で敗北し、歴史の舞台から姿を消しました。

 

その河越氏が支配していた土地は、

かつて『河越荘』と呼ばれていました。

 

『支配する土地』と聞くと、現在の川越市のように
『ここからここまでが川越!』と考えてしまいがちですが、
中世の河越荘は散在的であり、現在の川越市以外に、
狭山市・坂戸市・鶴ヶ島市・日高市などの一部も、
河越氏が治めていました。

 

河越荘の地名は、33箇所確認できるので
『河越33郷』ともいわれています』

 

河越とお茶。

この二つのキーワードには

近現代に、この地でお茶を普及させようと命を懸けた人物がいます。


明治時代、生糸とともに輸出の中心であった茶が
手もみであるために量産できないことを知り、
47歳から製茶機械の研究に取り組んだ人が川越にいました。

 

医学を学び、川越市小仙波で開業した
高林謙三氏(埼玉県日高市出身)です。
(1832(天保3)年5月25日-1901(明治34)年4月1日)

 

医師として川越藩主の侍医までになった高林謙三氏が
新しい研究を始めた背景には、
重労働の茶づくりを改善したいという想いと生産コスト低く抑え、
当時生糸とともに輸出の中心であった日本茶を輸出して
国益を増大させたいという想いもあったといいます。

 

高林謙三氏は私財を投じ川越に林野を購入、
開墾して茶園経営を始め、製茶機械の研究に心血を注ぎました。

1884(明治17)年に『焙茶器械』、
翌年に『生茶葉蒸器械』と『製茶摩擦器械』、
その後も『改良扇風器械』、『茶葉揉捻器械』、
そして『茶葉粗揉機』を完成させ、
6つの専売特許を得ました。

 

日本茶業の発展に大きく貢献しましたが、晩年は病に倒れたり、火事で家を失ったりするなど決して平坦ではなかったそうです。

現在は喜多院の閻魔堂墓地に葬られています。

川越市立博物館には高林謙三氏の写真や特許を取得した器械が展示されています。

 

河越には、昔から時代を超えてこの地でお茶を発展、広めようと尽力した人がいたこと。


『スーパースターであったと伝えられている

明恵上人(1173年~1232年)が高山寺で茶の栽培を始めた栂尾茶を第一の茶として、
山城の仁和寺・醍醐・宇治、大和・伊勢・駿河などに並び
武蔵の河越茶があったと伝えられています。


その中で河越茶(狭山茶)は
今も昔も日本で最も北限の茶産地です。


茶の木は温暖な場所に生育する樹木で寒さを苦手としているため、
品種改良を行って寒さに強い茶の木を作ったり、
寒い気候で採れる茶の葉を生かした茶を作ったりと
工夫を続けながら栽培が行われています。


恐らく数百年前に茶の木がこの地に伝わってから
たくさんの創意工夫があり、現在もお茶が作られているのだと
調べながら感じました』

 


そして、蔵里に続いて河越抹茶を使用を始めてくれたのが、時の鐘近くにあるライトニングカフェさん。
『河越抹茶ラテ』はまろやかな味で美味しいです♪
『河越抹茶豆腐ティラミス』もあります。

 

菓子屋横丁の玉力製菓さんでも、河越抹茶をたっぷり使用した飴を発売が開始。
「河越抹茶 飴」。


去年の冬には、菓子屋横丁にあるパン屋さん
「川越ベーカリー 楽楽」さんで、小江戸シュトーレンの販売も行いました。


小江戸蔵里の明治蔵内にある『Kura Cafe』さんで
河越抹茶を楽しむことができます。

 

川越PLUSの二人は、丁寧にお店の方に河越茶を語り、

 

これを復活させたこと、新たな川越の魅力にしたいということ、

熱い夢を語っていきました。

話しを聞いたお店の方は、「川越の新たな魅力として、ぜひ使いましょう!」と

積極的に応援してくれるところが多い。

お店の熱さも感じることができた、と二人は話します。


二人の話しを聞き、河越茶は「川越市内」の産茶を意味しているわけではなく、
河越氏の勢力圏である

 

狭山野の古茶園もひっくるめての総称だったと、理解しました。

 

河越茶Rebornプロジェクトで「河越茶」は、
「かつて河越(川越)と呼ばれたことのある地で作られた茶」と定義しています。

 

そして「かつて河越(川越)と呼ばれたことのある地」を
「旧河越(川越)領」と呼び活動しています。

 

彼らの活動の輪はだんだん大きくなり、

 

街中で「河越茶」ののぼりを目にする機会も増えてきました。

2014年に広く浸透するのでは、と期待しています♪

 

なにより、河越のお茶は美味しい!

 

河越茶を復活させるために、もともとは

 

 

河越(川越)と呼ばれた地の茶畑を一軒一軒訪ね、

プロジェクトへの参加を呼びかけていくことから始まったものでした。

 

『どこの農家さんも、河越茶復活の話しにはとても興味持ってもらえました』

 

 

 

 

『河越茶(抹茶)」は甘く濃厚な旨味とコク、独特な香りが特徴です。

 


日々、茶の職人たちが江戸時代から代々受け継がれてきた伝統技術と
独自の栽培技術を駆使し最高の茶葉を追求し続けています。

 

大規模な茶の産地としては北限に位置するここ武蔵野では
厳しい気候ゆえに年二回しか茶を摘みません。
収穫回数が少ない分、茶葉が時間をかけじっくり成長するため
旨味と栄養が凝縮され肉厚な茶葉となり味に深みを生み出すんです』


茶の品種改良は

明治時代より本格的に取り組みが始まったと言われています。
ここ武蔵野でも気候条件や立地条件に合った茶の木にするため、
長い年月をかけ品種改良を重てきました。


茶の職人達が特に力を入れているのが「土」作りです。
長年の経験のもと栄養度の高い土を作り上げます。
河越(川越)茶が栽培されている武蔵野大地は水はけが良く
茶の栽培に適しています。また降水量が多く
「上湿下乾」であるため上質の茶が育ちます。

 

 

その茶葉を、抹茶にするのは、

 

川越PLUSの想いに共感してくれた、関東唯一の抹茶工場である
「狭山碾茶工房 明日香」。

ここで河越抹茶は作られています。


明日香は15年の試作期間を経て、
平成18年に最新鋭の設備を導入し新設されました。
平成21年度には埼玉県より優れた技術・生産品や周辺環境への配慮などの点で
他の模範となる「彩の国工場」に指定されました。

 

明日香の特徴は茶葉の栽培から製茶までを
一貫して行っていることです。
そのため安定して高品質の抹茶を生産することができる。

 

 

 

南北朝時代、武蔵河越は天下の茶所として

 

 

人々が名をあげる茶の名園五場(全国銘茶5場)の一つだった。

関東の有力武将も愛したこの地のお茶「河越茶(抹茶)」は、

戦国時代になると、栽培していた寺院・武士が衰退すると共に姿を消していった。

 

 

時を超えて、復活、発展させようとしてきた男たちの姿。

 

 

鈴木園の鈴木さんや高林謙三さんの姿。

そして今、川越PLUSの二人。

 

今度こそ、今だからこそ、きっと広まっていくはず。

 

話を聞いていて確信しました。。。!

 

 

☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*


 

河越茶Rebornプロジェクト、

 

最初から今に至るまでの経緯をじっくりと聞きました。

聞けば聞くほど、川越の新たな魅力になるはず、と感じます。

 

河越茶が、どう広がっていくのか、これからの展開に期待です。