ロシア(ソ連)の日本侵略の歴史ー極悪非道なスターリンのソ連の日本人虐待・虐殺(その9) | 日本人の進路

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左翼全体主義(共産主義)国家化が進む日本。マスコミはどこを向いても左翼ばかり。これでは日本国民が洗脳されてしまうのはくやしいけどどうしようもない。ただあきらめてしまったら日本の明日はない。日本の中、露、朝への属国化が現実のものとなってくる。

ロシア(ソ連)の日本侵略の歴史ー極悪非道なスターリンのソ連の日本人虐待・虐殺(その9) 









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ロシア(ソ連)の日本侵略の歴史ー極悪非道なスターリンのソ連の日本人虐待・虐殺(その9)

 








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極悪非道なスターリンのソ連の日本人虐待・虐殺とソ連軍兵士の日本女性強姦(その9)

 ーーソ連軍兵士の強姦、殺戮、暴行、強奪

















国防無くして国家の存在無し!
国防をおろそかにする国は消滅するのみ!
 


国家の防衛を妨害する左翼は「国家反逆罪(外患誘致罪)で死刑」に処すのが国家存続のための正義である! 
















<軍歌>軍艦行進曲(軍艦マーチ)

https://www.youtube.com/watch?v=mTwUiUCO7l0















日本が誇る行進曲の名曲
https://www.youtube.com/watch?v=-OBL8vZ1leY














ブルーインパルス!!! 那覇特別バージョン飛行区分 那覇基地エアーフェスタ2013

https://www.youtube.com/watch?v=xh9r2EU1-ng














平成25年度自衛隊記念日 観閲式 部隊入場~巡閲~観閲行進準備
https://www.youtube.com/watch?v=IPgkjhXyI5k














2013 観閲式 女性自衛官大行進も

https://www.youtube.com/watch?v=6SDgRolNUiQ












[徒歩行進] 平成25年度自衛隊観閲式 陸軍分列行進曲 抜刀隊 自衛隊記念日 朝霞訓練場
https://www.youtube.com/watch?v=Rex7D2bmFgg

















大編隊!!! 那覇基地所属10機による航過飛行 那覇基地 エアーフェスタ2013

https://www.youtube.com/watch?v=azMvFkZdph0






















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(2)ソ連軍兵士の強姦、殺戮、暴行、強奪


ー戦後のソ連の日本人虐殺を強く非難する

2012年3月 Minade Mamoru Nowar


http://www7a.biglobe.ne.jp/~mhvpip/Stalin.html








 (続き) 






8.奉天(現在の瀋陽)における開拓団・婦女子の悲惨な状況




米国の戦史研究家、ウィリアム・ニンモ氏は著書『検証・シベリア抑留』
(加藤隆訳 時事通信社 91年3月発行)の第46頁で次のように述べている。

「1945年8月以降、満州の日本人たちは大多数が苛酷な状況下にあった。
まず厳しい寒さ、それにインフレ、交通の悪さ、病気などで生き残ることを
困難にし、1945年~46年冬の死亡率を高めた。

日本政府は、その冬だけで11万人の日本人が死亡したと推定していた。
翌年の冬はもっと増えるだろうと予想していた。
 


元満州の住民はこう語った。
「それは想像を絶するほどのひどさだった。最悪なのは、たくさんの人が
飢えと酷寒のため死んだことだ。おびただしい数の避難民がソ連との国境に
近い満州北部から流れ込んできて、奉天(=瀋陽)の学校や他の施設に
収容された。

冬の間中、毎日大勢の人が死んでいくのを見た。市内にはそれを埋める
場所もなかった。近くの、人が住んでいないあたりに、縦横6メートル、
深さ4メートルの大きな穴が掘られた。死体は低温のためすでに硬く凍って
いた。それを穴の中に投げ入れ、上から薄く土をかぶせた。」」
 


日本経済新聞(朝刊)2006年11月27日第39面は、旧満鉄職員の話として「終戦時、
情勢が安定していた撫順に、満州全土から数万の避難民が貨物列車でたどり着いた。

服をはぎ取られた女性は米などをいれる麻袋をまとい、幼児は餓死寸前。
感染症が流行し、一日に数十人単位で亡くなった。

学校の校庭に穴を掘って入れた。寒いうちは凍っているが、夏になると
解けるから廃油で焼く」との悲惨な話を報じている。
 









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瀋陽北部Shanyang










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陽南部Shanyang















9.葛根廟事件




武器を持たない無防備の約2,000人の日本人母子老人家庭避難民が奉天(瀋陽)への
避難途中、突然、警告なしに、ソ連軍戦車隊に襲撃され機銃掃射で惨殺された。
重傷を負った避難民は自殺した。生存者はわずか150人であった。
生き残った子供は遺棄孤児(=残留孤児)となった。
 






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葛根廟・烏蘭浩特(ウランホト)・白城一帯






8月14日、満州北西部の興安(=烏蘭浩特(ウランホト)市)から避難途中の
日本人母子老人家庭避難民、約2,000人が、同市郊外の葛根廟一帯で、
ソ連軍の戦車隊に襲われ、銃撃で多数虐殺され、さらに負傷者の多くが自殺し、
生存者はわずか150名といわれるのが葛根廟事件である。

西日本新聞の『シリーズ・戦後60年』の『葛根廟(かっこんびょう)事件』は、
生き残って残留孤児となった川内光雄氏の、「一晩中、母の遺体の横で
泣き明かしました。親を失って子供たちはみな一晩中泣いていました。
負傷した多くの人たちが手りゅう弾や短刀で自決(自殺)していきました」
との悲惨な証言を載せている。
 










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NASA衛星画像







参考資料:読売新聞大阪社会部編
『新聞記者が語りつぐ戦争⑤「葛根廟」』新風書房 1992年8月発行

 1988年8月、日中出版から出版された,
森留美子著『母よ、友よ広野で眠れ-葛根廟事件の真相』の
第108頁~第114頁で、当時、斥候として現場に居合わせ、
惨状を目にした管忠行氏は次のように語っている。

 「視界の中に、興安街から白城子に通ずる鉄道と併行している道路の上に、
黒い点の長い列が見えてきた。日本人避難民の集団が、細く長い列をつくって
現れてきた。ちょうど盆地のような地形の中に、異様な、草原に浮かぶ駆逐艦の
ような廟があり、いま、日本人避難民の長蛇の列は、草原を東西にして、せまい
盆地の中央部にさしかかったのである。
 


 ちょうどその時、我々三人のいちばん近いところにいた戦車が銃を一発うった。
それを合図に、反対側にいた戦車が動き出した。そこは日本人避難民の長蛇の
列の最後尾のあたりである。長い縦列を後ろから襲う隊形である。14台の戦車が
斜面を下りながら銃撃を始めたのである。

 【あっ?!・・・・・・・】といったきり、三人共声が出ない。

 このような無装備集団に、戦車群が襲いかかるなど、考えてもいなかった。

 戦車は無線で連絡し合っているのであろう。順繰りに、日本人避難民の列を
めがけて、稜線を下り、反転してまた登り、下りながら銃撃している。

 我々三人のいる所から200メートル近くまで上がってきて方向転換をし、また
銃撃しながら下りていく。
 


 戦車群の位置は太陽を背にして、日本人避難民の列を横から襲っているので
ある。避難民からは戦車が見えにくいようである。その殺戮の場を、我々三人は
東南方向から太陽を斜めに背にしている。だから眼下に展開されている虐殺の
全貌がはっきり見える。

 止まった戦車の天蓋からソ連兵が数人出てきた。機関銃の三角の銃火光が
続けざまに見えた。死にきれずにいる日本人避難民に対して、なおも仮借のない
トドメの銃撃なのであろう。非戦闘員の日本人避難民に銃撃を加え、
その上キャタピラで死体を圧し潰し、悪魔のように戦車群は去っていった。」 












10.ソ連と北朝鮮が日本人の帰国を禁止・妨害-
  北朝鮮の日本徹底敵視は金日成から始まったもの









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資料:太平洋戦争研究会著『図説 満州帝国』 河出書房新社1996年7月発行 第106頁









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満州及び北朝鮮における日本人避難図

資料出所・防衛庁防衛研修所戦史室編『戦史叢書 関東軍(2) 関特演・
終戦時の対ソ戦』第410頁 (株)朝雲新聞社 昭和49年6月発行


1945年8月の日ソ戦争(ソ連の対日参戦)終了後、満州・北朝鮮を占領した
極悪非道なスターリンのソ連軍は日本人民間人の日本への帰国を禁止した。

極悪非道なスターリンのソ連軍は、北朝鮮占領後、満州(中国東北部)と北朝鮮との
国境の町・丹東市から韓国のソウルまでの鉄道の利用を日本人民間人に認めなかった。

極悪非道なスターリンのソ連軍は、日本人民間人の保護は徹頭徹尾行わなかった。
逆に日本人民間人に対してほしいままに
強姦(レイプ)、殺戮、奴隷狩り、暴行、略奪を行った。
 


この極悪非道なスターリンのソ連軍の【人道に反する】行為が、
戦闘中及び戦闘終結後の満州・北朝鮮において、
1945年~1946年に、生活手段・生活環境を失った
日本人民間人が25万人以上死亡した原因である。

特に開拓団の母子老人家庭避難民は地獄さながらの状況に置かれ悲惨であった。
冬期間は飢餓、伝染病、栄養失調、極寒、絶望感で死者の出ない日はなかった。

開拓団の母子家庭の多くの乳幼児が満州あるいは避難先の北朝鮮に遺棄された。
かれらは遺棄孤児(=残留孤児)として二重三重の苛酷な運命を背負わされ、
苦難の道を歩まなければならなかった。
 


筆者は、満州・北朝鮮において日本人民間人が蒙ったこの惨禍を
スターリンの惨禍と名付けて、中学・高校の歴史教科書に記載して
後世に伝えることが、亡くなられた犠牲者の方々の慰霊であると思う。

ソ連軍が38度線を越える列車の運転を止めたため、日本人避難民は徒歩で38度線を
越えて、地獄の北朝鮮から、南朝鮮の米軍占領地域に逃げ込んだ。
 










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瀋陽-丹東(旧称:安東)-ピョンヤン(旧称:平壌)-ソウル(旧称:京城)間の
敗戦直後(1945年8月)の鉄道路線図








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北朝鮮から南朝鮮への日本人避難民の徒歩避難ルート







参考資料:藤原てい著 『流れる星は生きている』 中央公論社 1984年8月発行
第6頁 避難経路図






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第210頁~第231頁より抜粋引用
川を渡る苦しみ

大きな山を遠く迂回している山道には大きな石が多かった。
私の裸足の足は昨日から腫れ上っている。
足の裏が破れて血が出ていることは知っていたが、
ずきんずきんする痛みをこらえて一晩寝て起きると、
今日は化膿したのかもしれない、
奥の方がうずくように痛むのだった。
 


石ころ道をあえぎあえぎ登りつめた峠から見下ろす眼下には、
幾条かの銀色に輝く川の流れが進路を直角にさえぎっていた。
一家四人の前には広い川が行手をさえぎっていた。

先に行く人の渡るのをじっと見ていると、
一番深い処が私の胸ぐらいであった。
中心近くは水の流れが激しくて、
渡ってゆく人の姿勢が高くなり急に低くなったりする。

(3人の子供を1人も失うことなく)私はついに河を乗りきった。
途中で飲んだ水が妙に渋くて胃の中にいつまでも溜まっていた。
 


川で濡れても陽で乾くのは早い。
乾いた頃にはまた次の川が前に横たわっていた。
幾つ川を越えたか覚えていない。
大きい河、小さい川、深い川、浅い川。

初めは人の跡を見て渡ったが、みんなから遅れると、
渡る前にまず流れの早さと深さを測らねばならなかった。
やっとしっかりした棒を探し出すと、これだけが命と頼んで川に挑戦した。

日が西に傾くと、水面からの反射のために、
川の真ん中で、くらくらっとして安定を失いかけたことが何度もあった。
 


最後の川にはずっと下流に橋がかかっていた。
私はこの水勢では流されると思ったから、
随分下流まで河岸を歩いて行った。
半分腐りかけた橋であった。

いっそのこと、橋が落ちて四人が一緒に死ねるなら
その方が私たちにとって幸福かもしれない。

ぐらぐら揺れる橋を渡ると、荒れはてた畑が野原のように淋しく、
人家らしいものは全然なかった。
ただ橋の付近にむかし人家のあったしるしのいしずえだけがころていた。
 


日本人の群に合流すると私は土手の上につんのめってしまった。
呼吸をするのさえ困難である。頭がしびれるように痛くて、
意識がぽうっとした。私が貧血を起して倒れていても、
誰も言葉をかけてくれるものはなかった。

胸が針に刺されたように痛いので、眼を開けると、
私の破れはてたうす緑のブラウスを通して野薔薇が乳の下を傷つけていた。
 


アメリカ軍に救助される
眼を覚ました。
テントからは朝日が洩れていた。
人間らしい姿になろうとして立ち上ると、
釘を踏んだように足の裏が痛かった。

D・D・Tの消毒、予防注射、
これらに立ち会うため歩く痛さは針の上を歩くようであった。

このテント村にはすばらしく完備した医療施設があった。
 


医療施設で、医師は私の足の裏を見て、「ううん」とうなった。
「これはひどい、よく歩いたものですね」

医師は私を手術台に寝かせて、ピンセットでまず肉の中に入っている
石の摘出を始めた。小石をピンセットにはさんでは、
金属の容器に捨てるごとにカチンカチンと音がした。

だんだん奥の方にピンセットが入っていくとね
焼火箸で刺されるように痛かった。
ベッドにしがみついて我慢していたが、
ついに痛さのために脳貧血を起こしてしまった。
 


私の足の裏は完全に掘り返され、
血液にどす黒く光っている発掘物が、金属容器の底にかたまっていた。

両方の足首を包帯してから
「ひどい足でしたね」と医師は汗をふいていた。
「当分歩いちゃいけませんよ」

診療所と私のテントとは100メートルも離れていた。
この道を這って毎日通うのであった。

そのみじめな自分の姿を人に見せるのが恥ずかしかった。
診療所ばかりではない。便所にも、水貰いにも、おむつの洗濯にも
這って行かねばならなかった。
 


関連資料:藤原てい著 『絆(きずな)』 読売新聞社 1993年10月発行

参考資料:
読売新聞(夕刊)2006年11月24日第22面より転載
この記事は読売新聞社の許諾を得て転載しています。
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。 



 (省略)







(続く)
 






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