2012/06/18 中日新聞
 90歳温か「残留孤児の父」 南区の男性 「過去の話ではない」

 名古屋市南部に暮らす中国残留孤児から「日本のお父さん」と呼ばれている男性がいる。南区北頭町の神原義勝さん(90)は「名古屋南部地区中国帰国者支援友の会」を発足させ、二十五年にわたって住居や職探しを支えたり、日本語教室も続けたり。「新たな帰国者は減っても、過去の話ではない」と卒寿の今も活動する。(相坂穣)
 「彼は大学生です」「私の名前は」。南区の南生涯学習センターに毎週金曜の夜、片言の日本語が響く。友の会が一九九〇年から残留孤児向けに開いている「みなみ文化日本語教室」。生徒に個別指導する仲間をじっと見守る。卒寿となり、足腰が衰えて数メートルを歩くのにも苦労しても必ず顔を出す。最近は十五人の生徒の大半が孤児とは無関係の東南アジアや南米出身の労働者になったが「活動の原点の教室は閉じない」と話す。
 そこへ、中国語なまりの日本語が教室に響いた。「お父さん、元気?」。近くの市営住宅に住む神原愛香さん(70)と夫の喜著さん(74)が訪ねてきた。愛香さんは戦前に中国に移住した日本人の子どもで三歳で中国人の養父母に預けられた。八七年に帰国したが肉親が判明せず、身元引受人になったのが義勝さん。愛香さんは「義勝さんは日本のお父さんだから」と、神原姓を名乗ることにした。
 義勝さんは二十一歳で中国に出征。中国兵をあやめた過去があった。復員して三十年勤務した公共職業安定所を退職後、国の身元引受人募集を知った。
 町工場や公営住宅が多い地域には、残留孤児の転入が続いた。すぐには日本語は話せず、日本国籍も取れない。義勝さんは日本語教室を開講。住宅を借りる際の保証人となり、職安時代の人脈を生かして就職を世話した。
 「素性がはっきりしない人を家に入れて大丈夫か」。当初、妻や子は不安がったが、残留孤児と交流をするうちに理解してくれた。
 「お父さんがいなかったら、家族が壊れていた」と喜著さん。来日前は大学職員で安定した収入があり、愛香さんと離れて中国にとどまろうとしたが、義勝さんから南区の自動車部品工場を紹介され、六十代後半まで勤めた。
 南区には現在、四十五家族が定住。孤児の多くは七十歳前後で日本語も上達したが、孫世代が結婚適齢期となり、中国から嫁や婿を迎える。全国では日本の学校になじめない子弟の非行も目立つ。
 「中国で身に付けた習慣や考え方はすぐには変わらない。でも日本に溶け込もうと願う人の方が多いはず。命ある限り、支えたい」
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 安定と自立 地域の力必要
 中国残留孤児は、終戦直前のソ連参戦による混乱で、肉親と生き別れになるなどして現地に残された日本人のうち、中国に取り残されたおおむね当時13歳以下の子ども。2817人が認定を受けた。厚生労働省が孤児や家族対象に2009~10年に実施した全国調査では平均年齢が71.6歳。定住先は愛知県が5.2%で、24.7%の東京、10.3%の大阪、7.7%の神奈川に次いで4番目。
 国は孤児本人に老齢基礎年金の満額を支給する一方、子や孫への支援は薄い。厚労省の担当者は「家族に日本語を学んで安定した仕事を見つけて自立してもらう上で地域のボランティアの活躍が欠かせない」と話す。