2024/04/23 長崎新聞 

 旧満州(中国東北部)に戦後取り残され、1980年代以降に帰国した元残留日本人孤児らと交流するため、中国の民間団体「ハルビン市中国残留孤児養父母聯誼会」の胡暁慧名誉会長(80)ら5人が21日、長崎市を訪れた。県内で暮らす元残留孤児や帰国者2世と中国語で語り合った。

 聯誼会は残留孤児を育てた中国の養父母を支援し、帰国した元残留孤児や支援者らとも交流してきた。今回は、コロナ禍での見合わせを挟んで5年ぶりに来日。東京や長野、福岡などを巡り、長崎は初めての訪問となった。

 長崎大であった交流会には、いずれも80代の元残留孤児3人と60~70代の2世10人が参加し、帰国の経緯や近況について語った。2世の暮らしぶりについて、成人後に帰国した人は日本語がままならず、安定して働けなかったり、仕事に就けずに生活保護を受けたりしている現状を吐露。「県中国帰国者二世の会」を組織し、元残留孤児への国の支援策を2世にも適用することなどを求めていると説明した。

 胡名誉会長は長年、養父母や元残留孤児らの聞き取りを続けてきた。「多くの2世の証言が直接聞け、長崎での交流は貴重な機会になった」と話し、元残留孤児や2世に向けて「両国の平和と友好の『架け橋』的な存在」と励ました。

 交流を主催した帰国者3世の南誠・長崎大准教授(48)によると、元残留孤児や2世が体験を証言する機会は過去にもあったが、すべてを中国語でやりとりするケースはあまりなく「苦しい体験にもかかわらず、中国語で生き生きと語る姿が印象的だった」。中国では近年、残留孤児の歴史や証言を記録しようとする機運が高まっているという。「そうした動きが日本にも伝わり、関心が高まってほしい」と期待を寄せた。

(佐々木亮)
【写真説明】元残留孤児や2世に中国語で語りかける胡名誉会長(正面右)=長崎市文教町、長崎大

2024/04/23 信濃毎日新聞朝刊
弱き者、さらなる苦しみ 開拓団―被差別部落出身者や朝鮮族も 「満州に行けば差別解消」国を信じ

 手描きの地図を見せながら、戦時中に満州(現中国東北部)で暮らした開拓団時代の記憶を呼び起こす。そこには、出身地域別につくった集落だけでなく、日本の被差別部落から移り住んだという人たちがいる「朝日部落」や、朝鮮族の人たちでつくる「朝鮮部落」といった集落名もある。

 「満州でも差別はあったと思う。私たちだって、国がやったこととは言え、現地の人を追い出したのだもの」。昨年12月、下伊那郡阿智村の満蒙(まんもう)開拓平和記念館。同館で語り部をしている北村栄美さん(90)=岐阜県池田町=は、平和関連の展示を行う博物館の職員らの交流会で、約40人を前に静かに振り返った。

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 下伊那郡大鹿村出身。7歳だった1941(昭和16)年、下伊那などから満州に渡った大古洞(たいこどう)下伊那郷(ごう)開拓団に家族で参加した。ハルビンから東北東へ約200キロ、松花江支流の大古洞川の両岸に広がる大草原地帯に入植した。

 一家が暮らした集落「宮野田部落」から南東へ3キロほど離れたところに、朝日部落はあった。暴徒の侵入を防ぐため、他の集落は高い土塀で囲まれているのに、朝日部落だけ塀がない。丘の上の日が当たる場所だった。12戸の宮野田部落より規模は小さく、家屋の高さが低かった。

 被差別部落の出身者がいる―と、周囲の大人たちから聞いた。「そういう人がいるから、あそこに近寄ってはいけないんだって」。聞きかじった言葉を母ますゑさんにそのまま言ったことがある。「めったなことを言うもんじゃない」「針金で口を縫うぞ」。母は真っ赤になって怒った。「二度と言うまいと思った」。今でも思い出すとビリッと体がしびれる。母は、誰かを他の人より低く扱うことに対し毅然(きぜん)とした態度を通した。

 通った学校には、朝鮮族の子どもも数人いた。勉強ができて、日本の植民地支配によって強制されていた日本語を流ちょうに話した。開拓団の子どもたちに溶け込んでいたが、けんかになると、朝鮮の子が日本人の子に手を上げることは一切なかった。

 北村さんは、誰にも分け隔てなく接した母の影響で、朝鮮の子の家に遊びに行って靴の縫い方を教えてもらったり、朝日部落の家に行って子守をしたりした。「母の生き方に助けられた」。人と人が対等に出会えるよう導いてくれたことに今も感謝している。


 満州には敗戦当時の45年、約216万人の朝鮮人がいた。155万人ほどだった内地からの日本人を大きく上回る。植民地支配によって満州へ移住せざるを得なかった人も多い。また、新天地での暮らしに一筋の光を見た被差別部落の人たちもいた。「満州に行けば差別がなくなる」とする評論が、国の力で差別解消を目指す運動の機関誌に載り、入植をあおった。

 そうした人たちも、他の開拓団員と同様に対ソ連防衛や食糧増産の役割を担った。日本がつくった傀儡(かいらい)国家「満州国」は、差別や抑圧から逃れたいという人たちの思いも利用して維持されたのか―。

 「より弱い立場の人が苦しめられるのが戦争。繰り返してはいけない」。北村さんは、当時の様子を記した地図をそっと手でなぞった。


 満州国へ渡った被差別部落の人たちを巡る証言や資料は、全国的にもほとんど残されていない。日本の植民地だった朝鮮から大勢が移ったことも、あまり顧みられてこなかった。国家の歴史の主流ではない存在として私たちは見過ごしてきたのではないか。第4部は、それらを掘り起こし、いまに生かす動きを見る。

 

2024/04/22 信濃毎日新聞朝刊 

 山盛りの水ギョーザから湯気が上がる。切り絵や真っ赤なちょうちんで彩られた会場で、大人たちは中国語でおしゃべりに花を咲かせ、子どもたちが日本語でじゃれ合う。「おじいちゃん」と呼ばれた男性は、駆け寄ってきた子どもを抱き寄せて優しくほほ笑んだ。

 2月11日に広島市内で開かれた「春節を祝う会」。「お互いに助け合い、中日友好の架け橋を築きましょう」。主催者としてあいさつをした劉計林(67)は、「広島市中国帰国者の会」の事務局を担う。ビールを片手にテーブルを回り、仲間たちと乾杯を重ねた。

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 中国・河北省の農家に生まれた。成績は良かったが、コネがなく高校に進学できなかった。村の教師になったが「外に出たい」と、16歳で北京へ。貿易関係の職を得た。

 1986年、29歳で大阪赴任を命じられ、初めて海を渡った。日本語習得への意欲が湧き、留学を決意。いったん帰国して職場を説得した。2年の約束で「日本に残るつもりなんてなかった」。

 2度目の大阪。今度は人生を大きく変える出会いが待っていた。友人から紹介された井上栄子(60)と93年に結婚。日本で家庭を築いた。

 妻の父、慶忠(けいちゅう)は太平洋戦争後に旧満州(中国東北部)に残され、中国人の家庭で育った「残留孤児」だった。戦争末期、ソ連軍が旧満州に侵攻。混乱の中、開拓移民として入植していた日本人は逃げ惑い、多くの家族が生き別れた。

 開拓団を乗せた2台のトラック。襲いかかる中国人。生き残った自分ともう一人の誰か―。「当時、4歳か5歳」だった慶忠の記憶はおぼろげだ。家族を殺され、自分の本当の誕生日や出生地、名前も分からない。

 72年の日中国交正常化後、訪日調査で肉親を捜したが、手がかりはゼロ。身元未判明のまま86年に家族で帰国し、広島市の公営住宅に入った。

 日本語を話せず、中国の習慣になじんだ慶忠に祖国は冷たかった。仕事に就けず、生活保護で暮らすしかなかった。「日本に温かく迎えてもらえない。どうしてなのか理解できない」。そんな慶忠のそばに移り住み、窮状に衝撃を受けた劉。仕事の合間に勉強し、帰国者を訪ねて話を聞いた。


 2002年以降、国の支援が不十分だとして残留孤児らによる国家賠償訴訟が全国15地裁に波及。帰国した残留孤児の9割ほどに当たる約2200人が参加した。広島の原告団に加わった慶忠を支えようと、劉は裁判資料を読み込んだ。戦後、日本政府による「戦時死亡宣告」で孤児らの戸籍が消され、帰国の道が閉ざされたことも知った。

 原告敗訴が続いたが、一方で多くの裁判所は国の施策や対応が不十分だったことを認めた。新たな支援策を盛り込んだ法改正が実現、慶忠も満額の年金と支援給付金を受け取れるようになった。

 国の補助金で日本語教室などを開ける制度もできた。教室を運営しようと、劉は11年に支援者らとNPO法人をつくった。

 歯がゆい思いを何度もした。役所の担当者は制度も経緯も学んでいない。幹部に残留孤児を知っているかと問うと「聞いたことはある」。社会の認識の低さを実感した。

 被爆の惨禍から復興し「平和都市」をうたう広島市。だが、帰国者が多く住む公営住宅に「中国へ帰れ」と落書きをされたこともある。劉の目には「同じ戦争被害なのに、原爆の被害以外には耳を傾けない」と映る。


 15年に複数の団体が統合し「帰国者の会」ができた。会員約170人のうち残留孤児は約30人。孤立しないようにと二胡や太極拳の教室を公民館で開く。春節など中国の伝統行事も欠かさない。

 高齢になった孤児たちは、劉にとって「親のような存在」だ。日本語教室の講師を引き受け、黒板の前に立つ。時間が許せば、病院の受診に付き添い通訳を買って出る。

 「お墓は諦めた」。劉が顔を曇らせる。墓のない帰国者が入る共同墓地を造ろうと、10年ほど前から市に支援を要望してきた。長野県など全国各地に既にある。視察し、説明資料も作ったが、市は「土地も金もない」。

 義父は誕生日を祝うことさえできない。中国では「日本人」、日本では「中国人」として差別される帰国者。国策が生んだ被害は今も続く。「死ぬ時、何のために生きたのかと思うんじゃないか。だとしたら、悔しい」
 義父たちが「帰国してよかったと思えるように」と駆け回ってきたが、その言葉を彼らの口から聞いたことはまだない。

 歴史を正しく伝え、今を知る。それなくして平和は訪れない。揺らぐ日中関係の中で痛感する。

 残留孤児たちが祖国を選んだように、中国に帰る日が来るかもしれない。でも今は「みんなを放っておけない」と思う。「それが僕の人生だから」
   (敬称略、文・小作真世、写真・今里彰利)

2024/04/22 信濃毎日新聞朝刊 

 佐久市岩村田の岩村田公園にある「満州開拓団慰霊碑」などの前で21日、戦没者慰霊祭が行われた。戦争で親族を亡くした岩村田地区の住民でつくる「岩村田地区遺族会」などが主催。地元区長や市遺族会、御代田町遺族会、立科町遺族会などから26人が集まり、平和への願いを新たにした。

 この日は戦没者を祭る「招魂社」横の社務所と「満州開拓団慰霊碑」、「忠霊碑」の前で神事が行われた。招魂社は近年老朽化が進んでいるため、神事は社務所で行っている。招魂社の管理は岩村田地区遺族会が担っているが、会員の減少や高齢化で難しくなっているという。

 同遺族会の富川俊子会長(80)は「長野県は特に熱心に満蒙(まんもう)開拓を進めて、たくさんの人が犠牲になった。満州で亡くなった方も、帰ってきた人たちも悲惨な思いをした」と説明。「慰霊祭は続けていくことに意義があると思う。世界情勢が不安定な今こそ、平和を維持するため、活動を続けたい」と話した。

2024/04/21 熊本日日新聞朝刊
 中国の養父母支援団体来熊 再会に笑顔「来年も会いたい」

 中国で旧満州(中国東北部)の日本人残留孤児の養父母を支援してきたハルビン市の民間団体「ハルビン養父母連絡会」などの一行7人が19日、熊本市北区武蔵ケ丘の元孤児の庄山紘宇[こうう]さん(86)を訪ね、近況などを語り合って交流した。

          ▽                   ▽
 庄山さんは1938年に和水町で生まれた。41年、教員だった父が赴任した満州に母と渡った。ソ連が対日参戦した45年8月から状況が悪化。同年冬、寒さの厳しい避難生活で母を亡くし、庄山さんは孤児となって中国人夫婦に引き取られた。庄山さんはその日から「郭鳳祥[かくほうしょう]」の中国名で養父母に育てられた。

 85年、日本政府による中国残留孤児の訪日調査に参加し、自身のルーツが和水町にあることが判明。87年に47歳で家族6人と日本に帰国した。熊本県内で日本語学校の寮の管理人、公民館の中国語講座の講師、農業などに従事してきた。

 ハルビン養父母連絡会の会員らはこれまでも日本の元残留孤児を訪ねており、庄山さんも久しぶりに訪問を受けた。満州での苦労や帰国後の境遇を振り返り、近況を伝えた。今回の訪問には九州の元孤児らでつくる「中国帰国者九州連合会」の副会長、川添緋砂子[ひさこ]さん(88)=福岡市=も参加。川添さんは特技である切り絵の作品を庄山さんらに贈った。

 庄山さんは「連絡会の胡暁慧[こぎょうけい]名誉会長とは7年ぶりの再会。顔を見ることができてうれしい。来年も会いたい」と笑顔で語った。

 訪問団の一人、大連外国語大の崔学森[さいがくしん]教授(49)は「高齢の参加者も多く、全員が熊本まで来ることは難しかったが、庄山さんに会えてよかった」と話した。

 ハルビン養父母連絡会の一行は今回の訪日で、東京や長野、福岡、長崎など各都県も巡った。(遠山和泉)