2015/08/23 中日新聞

 敗戦直後、旧ソ連の管理下に置かれた中国・大連から引き揚げた体験を持つ岐阜市の情報システム開発会社会長、辻正さん(86)は、九月に岐阜県日本中国友好協会などが開くイベントで中国にちなんだ能「楊貴妃」を披露する。父が命を落とす過酷な状況の中、手を差し伸べてくれた中国人への感謝を胸に、日中友好の願いを込めて舞う。(岐阜報道部・木下大資)
 辻さんは小学生だった一九三九(昭和十四)年、食品会社に勤務する父の卯三郎さんの転勤で、当時日本の租借地だった遼東半島南部の旅順へ一家七人で渡った。「内地に比べると食料も豊富。百人ほどの部下の中国人従業員にかわいがられ、恵まれた生活だった」と振り返る。
 だが四五年八月、ソ連が満州(中国東北部)に侵攻すると状況は暗転する。日本の関東軍は民間人を守る力もなく崩壊。ソ連兵や中国人による略奪、暴行が横行した。終戦後、ソ連の軍政が敷かれた旅順・大連地区に住んでいた日本人は四六年末まで引き揚げもできずにとどめ置かれ、着物などの所持品を売りながら命をつないだ。
 辻さんはソ連軍の指示の下、大連港に出入りする船舶を修理するドックや、漁網を作る工場で働いた。港で荷物を運ぶ力仕事に従事した卯三郎さんは病に倒れ、満足な医療も受けられず四六年九月に亡くなった。
 「このままソ連になってしまうのか」。先が見通せない中でロシア語を覚え、中国人らと同じ職場で働いた。以前の支配関係は逆転し、日本人が迫害される立場になったが、中には苦労を見かねて食料を分けてくれる中国人も。「一人の人間として付き合えば、庶民はどこの国も同じ」と思うようになった。
 引き揚げ船に乗り、裸一貫で故郷の岐阜にたどり着いたのは四七年二月。十八歳の時だった。「狭い日本に割り込ませてもらって申し訳ない」。そんな気持ちになったのを今でも思い出す。
 戦後はタイプライターの会社を立ち上げる一方で、三十代から謡曲を学んだ辻さん。十年ほど前からは舞にも取り組み、九月五日に岐阜市の長良川国際会議場で開かれる「日中友好文化のつどい」では三年ぶりの能舞台に臨む。「昨日のことも忘れる年だが」と笑いながら、四十五分ほどの舞台のせりふを暗記し、舞の稽古に励んでいる。
 尖閣問題などで日中関係が悪化しても、「民間の付き合いは別。絶対に戦争をやっちゃいけない」との思いは揺らがない。「残留孤児を育ててもらい、日本はどれだけ中国人の世話になったか。最後の力を振り絞り、友好の気持ちを伝えたい」と意欲を燃やす。
 (メモ)
 旅順・大連地区 1945年2月のヤルタ会談での合意で、ソ連は対日参戦する見返りに日本が押さえていた旅順、大連などの権益を受け継ぐとされ、軍を駐留させた。抑留問題に詳しい成蹊大の富田武名誉教授によると、旅順・大連地区では22万8910人の民間人が抑留され、46年12月に始まった引き揚げで兵士を含む22万5954人が帰還した。